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『烏ぞ有らんや 』
烏有・大地5598)&環和・基(6604)&(登場しない)


「暑い……」
 校舎と校舎の狭間から覗く空は、嫌になるほど青い。せめてもの救いは、ギラギラと照りつける真夏の太陽が、今は建物の影に隠れてしまっていることか。
 それでも容赦なく降り注ぐ透明な刃は、半袖のシャツから剥き出しの白い肌に切先を突きつける。
 そんな中、環和・基(かんなぎ・もとい)は汗で歪んだ視界を、眼鏡のフレームを押し上げる事で元に戻した。彼の怜悧に見える端正な顔立ちを際立たせているチタンフレームも、この時期になると不快な重みを当人に与えるのは避けられないようだ。
 パッドが触れる部分に滲む汗を拭う度に、今年こそはコンタクトにしようかという思いに駆られる――しかしそれが実行に移されないのも毎年のこと。
「……暑い」
 世間の『学生』と言われる肩書きを持つ面々には、『夏休み』という名の長期休暇が与えられる8月。だが高校生である彼には、その安らぎが訪れるのはもう少し先のこと。
 何度発しても状況が変わらない事は十分承知の上ながら、世の不条理を嘆くように『暑い』『暑い』を繰り返す。
 渦を巻くように鼓膜を震わすセミの声も、彼の苛立ちに一層の拍車をかける。
 セミが鳴き出すと、どうして余計に暑く感じるのだろう。その謎を解明できたら日本人にとってはノーベル賞ものかもしれない――なんて他愛のない事を、思わず真剣に考え込みそうになる。
 と、その瞬間。
 グラリと基の視界が傾いだ。

 ピクリ、と神経を刺激する何かがある。
 正確に言うならば、彼――烏有・大地(うゆう・だいち)の嗅覚にスイっと訴えかけるそれ。
 夏期講習とは名ばかりの、終業式以前と変わらぬ授業時間の僅かな狭間。いわゆる昼休みにのんびりとクラスメートと話し込んでいた大地は、その感覚にチラリと視線を動かす。
 あぁ、またどこかで倒れた。
 察知した事を声に出すことはせず、自然と動き出す体を優先する。
「悪い、俺ちょっと出てくるわ」
 飲んでいたオレンジジュースを吸引力最大で喉の奥へ搾り出し、空になったブリックパックを手首のスナップを効かせて投げる。
 綺麗な放物線を描いたそれは、横道に逸れることなくゴミ箱の中へ飛び込んだ。
「何? 送り狼?」
「だから、送り狼違うって」
 訳知り顔の級友に揶揄されて、大地は僅かに眉根を寄せる。
 いちいち文句をつけるほどキレやすくはないし、暇でもない。それほどに、この感覚が大地の鼻先をノックするのは頻繁で。
 『送り狼』なんて不本意なあだ名が大地につけられてからどれくらい経つだろう。はじめのうちは確か『お迎え係』だったはずだ。それが、彼の存在が大型犬を彷彿とさせるらしい事から『お迎え犬』に変わり、さらにいつの間にか『迎え狼』になった。
「掃除までには戻るから」
 あだ名の変遷に馳せていた気持ちを切り替えて、教室の扉をがらりと開ける。
 途端にむっと纏わりついてくるのは、過度の湿度を含んだ熱気。クーラーの効いた教室内にいた分、そのギャップに大地でさえ息苦しさを覚えた。
 この暑さでは、仕方あるまい。というか、こんな日のこんな時間に、教室から『彼』を出るよう仕向けた方に問題がある。
「おー、行き倒れ先輩によろしく〜」
 机に跨り、ひらひらと手を振る級友の気配を背中に感じながら、大地は目的地へ向けて走り出した。
 『行き倒れの環和』――後輩諸氏はとりあえずの敬称でもって『行き倒れ先輩』と呼ぶのは、大地より一学年年長の親友である基当人。
 彼にこの名が与えられたのは、大地が高校に入学するより以前の話。


 外界では名残を惜しむように、薄紅の桜の花弁が空を泳いでいた。
 鼻腔を擽るのは、春特有のどこか甘やかな香り。新たな門出の為に、大きく両手を広げた広い世界。
 何もかもが新鮮に瞳に映る季節。
 しかし、それは新鮮かつ唐突過ぎた。
「なに?」
 大地の口を思わずついて出たのは、そんな当たり前の疑問形。
 しかし、それ以外の何が言えるだろう。
 真っ直ぐに続く学校の廊下、その先にぱったりと人が倒れていたら。
 いや、本来なら何はさておき急いで駆けつけなければならない状況なのかもしれない。が、人間は予想だにしない事態に直面して驚きが先にたつと、思考回路がパニックを起こし、表面上はこの上なく冷静に見える状態に陥ってしまいがちである。
 まさに今の大地がそれそのもの。
「2年生……だよな?」
 とりあえず、近づく。まるで犬が鼻を鳴らし警戒しながらも玩具ににじり寄るように。
 落ちていた教科書から、彼――『彼女』だったならば、また態度は少し違ったかもしれない――が自分より1学年先輩であることに気付く。
 もしも大地が高校入学したてでなければ、きっと目の前の人物の逸話を耳にしたことがあったに違いない。『行き倒れの環和』と評される、既に学校の名物になりつつある日常の延長線上にある光景を。
「もしもし、大丈夫ですか? つか、細っ」
 しゃがみこみ、頭を抱え起こす。
 触れた首筋の細さに、大地は思わず声を上げる。少年から青年へと変化を遂げる微妙な頃合とは言え、目の前の彼はまるで少女を思わせる程の細さだった。
 対して大地は結構な大柄で、見た目には分りにくいがしっかりとした筋肉を纏っている。おそらく『彼』を抱え上げようとすれば、さほど問題なく実行できることだろう。
「もしもし、もしもーっし」
 幾度かの呼びかけに、腕の中の相手の睫毛が微かに揺れた。
 ゆるりと開かれる瞳。真夏の青空を切り取ったようなスカイブルーが姿を現す。
「……誰?」
 辛うじて意識を取り戻したのか、その人物は薄く開けた目で大地の漆黒の双眸に焦点を合わせる。
「具合、悪いんですか? 保健室まで運んだほうがいいですか?」
 倒れていたんだから、具合が悪くない筈はないだろう。けれど、そんなことまで頭はまわらず、とりあえず当たり前の事を尋ねてみる。
 だ、が。
 ぜいぜいと短い息を繰り返す唇から紡がれた言葉に、大地の頭は更なる白に染まった。
「……耳」
 かくり、と腕の中の首が力を失い折れる。
 同時にずっしりと遠慮のない体重が圧し掛かってきた――完全に意識を失ったのだろう。
 しかし、そんな事より深く重い謎が大地に襲い掛かる。
「耳?」
 耳。
 なんで、耳。
 聞き返したいが、肝心の相手が昏倒してしまっていては、その願いが叶えられる可能性はゼロパーセント。
「いや、ミミかもしれないぞ。深美ちゃんとか、彼女の名前かもしれない」
 そうだ、きっとそうに違いない――って、俺並の女の子って早々いるか!? つか、俺が女の子に間違われたのかっ!??
 自分で発した言葉に、心が激しい反発の声を上げる。
 出会い頭で既にパニックを起こしていた思考回路が、さらなる迷宮へと踏み込み、出口を完全に見失う。
 そうして答を得られない謎は一秒毎に深刻さの度合いを増し、大地の脳内に盛大な量のクエスチョンマークを書き連ねていった。
「と……とりあえず、運ばないとな」
 ハタっと当初の目的に舞い戻ったのを幸いと――許容量をオーバーしただけかもしれない――大地は勢いをつけて立ち上がる。意識のない先輩らしき人物の重量は、初見通り大地の動きを妨げるほどではなかった。
「えーっと、保健室って……そういやまだ場所を聞いたことなかったな。ま、辿り着くだろ」
 やるべき事を定めた大地は早かった。否、それ以外の問題をかなぐり捨てた、というのが正解かもしれない。
 だから、彼は気付かなかったのだ。
 『行き倒れの環和』と異名を取る青年が、先ほど大地を見て『誰?』と問いかけた――つまり、彼自身が既知の第三者と見間違えたわけではないことに。また彼の最後の目線が大地の耳の位置よりほんの少し上にあったことに。
 そして、彼の中に眠る何かと、彼が見た自分自身に眠る何かにも。
 今はただ、己の勘を信じて保健室へと突き進むだけ。
 進んだ先に何が待ち受けているかも――勿論、知らぬまま。


「狼って言われたのが不味かったんだよな、きっと」
 基との衝撃的すぎる出会いを回想していた大地は、再び己のあだ名の由来に頭の回路を切り替えた。
 基を担ぎこんだ先の保健室で、大地は基の異名と共に彼の貧血体質を知ることになる。それがきっかけだったかどうかは分らないが、それ以来、何故か大地は基の行き倒れ現場にやたらと遭遇するようになってしまった。
 最初のうちは理由が分らず、それほど頻繁にぶっ倒れるなんて実はこいつはかなり悪い病気で、一日のうちの大半は倒れて過ごしてんじゃないだろうか、なんて少し深刻に考えたりもした。
 それからかれこれ一年半。誰が最初に言い出したかは知らないが、「迎えに行く狼なんてオカシイ。狼ならやっぱり『送り狼』だろ」ということになり、すっかりそれが定着してしまうくらいの時間が流れた。
 積み重なっていく、共にいる時間。
 気がつけば、今ではもう何処かで基が倒れただけで大地には分る。そしてその理由が『彼女』にあるんじゃないだろうかと推察することも出来る。
 流石の彼女も基を校内でまで変人にしたくはないのか、こういう場合は絶対と言っていいほど出てくる事はない。だからその度に大地が走り回ることになるのだが。
「おー、いたいた」
 職員室がある校舎と、三年生の教室がある校舎の狭間。部活動をする生徒によく使われる水飲み場の近くの木陰に基の姿を見止め、大地はブレーキをかけるように駆ける速度をやや緩めた。
「まーたこんな所で」
「好きでやってるわけじゃない」
 意識の有り無しを確認する為に話しかけたら、遠慮の姿が微塵も見えない悪態が返って来た。
 どうやら最悪なコンディションではないらしい――かと言って、すぐに回復するような状態でもなさそうだが。
 膝に埋めてしまって読むことの出来ない表情の代わりに、短い会話でそれだけの事を把握し、大地は基の前を横切り水飲み場に歩み寄る。
 金属製の蛇口は、木陰にあるからか程よく冷たい。心地よさに一気に捻れば、勢いよく水が噴き出す。
「やっぱ温いか」
 熱せられた水道管に暫し凝った水は、出だしが生ぬるく温かい。蛇口によって齎された感動をすげなく裏切られ、大地は短く舌を打つ――が、少し待つとその温度は急激に下がった。
 ここまで走って来たせいで、大地の額にも汗が滲んでいる。それを一思いに流し去りたい気持ちを抑えて、まずはポケットから取り出したハンカチを水に濡らす。高校2年生の男子が持つ割に綺麗にアイロンがけまでされたそのハンカチは、みるみる間に水を含んで色を変えた。
「一瞬、冷たいからな」
 軽く絞ったハンカチを、一言断わってから基の首筋に乗せる。
 瞬間、基のうなじから肩にかけてのラインがびくっと竦んだ。
「保健室、行くか?」
「いや、これで十分だ……マメなヤツ」
 消え入りそうな語尾に付け加えられた言葉が、ハンカチの清潔感を感じ取った基の大地に対する評価とは気付かずに、当の本人は先ほど沸きあがった誘惑に身を任せるために蛇口の下へ頭を突っ込む。
 そのまま顔を上げて首を左右に振れば、無数の水玉が煌きながら宙を舞う。
「っはー! 気持ちいーっ!!」
「……まるっきり犬だな」
 飛沫がかかったのか、基が迷惑そうにゆるりと顔を上げた。が、それも大地に一瞥を投げただけで、再び膝の合間に沈む。
「おいおい、マジで大丈夫か?」
「だから平気だって」
 そう言うくせに動こうとしないのは、まだそこまで体力が戻っていないせいだろう。ちらりと視線を馳せた校舎に据え付けられた時計が指す時刻は、午後一の作業である清掃時間まで残り十数分。
 この調子だと、基の復活までは最低でも五分はかかるだろう。そう見越した大地は、遠慮なく基の隣に腰を下ろした。ここで見捨てて行くようなら『送り狼』なんてあだ名はつけられていなかったに違いない――つまり、それが大地という人間。
 セミの大合唱の合間に、申し訳なさげ程度に基の呼吸音が混ざる。いささか荒いそれを少し気にしながら、座ったばかりの腰を上げ、基の首筋に乗せたハンカチを再び水に濡らして冷ます。
 難儀な体質だな、とつくづく思う。原因らしきことに本人が全く気付いていない事を辛いと感じることもある。
 怪奇現象に憧憬の念を抱きつつ、その実在に触れることは全くなかった大地に訪れた一大転機。それは基と――彼女の存在。
 ふと、大地の脳裏に切欠となった出会いの瞬間が、再び蘇る。
 基の瞳が常ならぬモノを捉えていることは、既に知っている。ならば――
「なぁ、基。耳って何?」
 いつ、どこの、耳。
 日本語の肝心な部分が完全に欠落した問いかけは、極端なまでのシンプルさ。だから問われた方も、必然的に言葉が少なくなる。
「耳は耳だろ」
 大地の言葉に顔を上げた基は、呆れたような視線を投げかけ、二の句を継ぐことなく元の姿勢に戻ってしまう。
 取り付く島もない短い応えを、しかしながら大地は基の体調が優れないからだと思い込む。
 なるほど、立ち上がれないような相手にするべき質問ではなかったかもしれない。
 湧き上がった興味に蓋をして、大地は静かに基の首筋にハンカチを乗せた。またいつか聞ける時に聞けばいいと、自分に言い聞かせ。
 ミンミンゼミの声に、茹だる暑さを象徴するようなアブラゼミの声が加わる。
「なぁ……」
「あと3分。それで大丈夫だ」
 本当に保健室に行かなくていいのか? と問おうとした言葉は、先ほどまでより張りを取り戻した声に遮られた。
「そうかー、基はカップラーメンか」
「どうせなら野菜も入れとけ」
 なんだそりゃ、と大地が笑えば、基の肩も小さく揺れる。
 真夏の暑さはまだ始まったばかり。当面、こんな風に空を眺めながら過ごす時間も増えるのだろう――願わくば、今日のような炎天下に基を連れ出すようなヘマをしでかす人が一人でも減ってくれますように。
「ところでなんでこんな所にいたんだ?」
「担任に進路の事で呼び出された、その帰り」
「なーるほど」
 紡がれる他愛ない会話に、大地の中に芽生えていた疑問は埋没していく。そうしていつも、肝心な事を聞き忘れるのだ。
「無茶だと思ったら、行けないって言っとけよな」
「教室から職員室が無理な距離のはずないだろ」
「基、考え甘いって」
 だから大地はまだまだ当面気付かない、基の発した『耳』の真意に。
 けれど基が『彼女』に気付いていないのも、また事実。
 そんな風に互いが互いに見えぬモノがあるのを知らぬまま、時間は不変の日々の中で過ぎ去っていく。
「にしても暑いな。放課後、家まで送ったほうがいい?」
「大地、少し黙れ」
 青空の下、セミの鳴き声だけが響いていた世界に、冷えた教室の中に潜んでいた生徒たちの気配が混ざり始める。
 昼休み終了まで残り5分を告げる予鈴の音に、基はふらつきながらも身を起こす。
「もう大丈夫だ、大地は自分の教室に戻れ」
「戻れっていわれてもなー、そうやって途中で倒れる前科者が目の前にいるし」
 送り狼の烏有・大地。
 行き倒れの環和・基。
 彼らが己の身に隠された真実に辿り着くのは、いったいいつになるのだろう?


 烏ぞ有らんや――そう思いし者にも。
 何かが眠る、基となるモノが。
 環り巡りて――やがて和す。
 大いなる地が、ただそこに広がるように。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月09日

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