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『白銀の夜明け 』
城ヶ崎・由代2839)&デリク・オーロフ(3432)&(登場しない)



 冬は沈黙。夏は矢の如し。春と秋など、気づけばすでに去っている。
 そんな北の大地に、あるとき、ひとりの東京の男がこっそりと忍びこんできた。男は打ち捨てられているも同然だった山奥の古い洋館を買い取り、そこに住みついた。洋館は著名な画家のものだったが、十数年前にここでわけもなく自殺し、それ以来人が寄りつかなくなっている。田舎は噂が広まるのが早い。
 男はそんな曰くを知ってか知らずか、何食わぬ顔で住んでいた。彼は、城ヶ崎由代といった。
 曰くつきの洋館に越してきた東京の男。ほとんど家を出ず、仕事をしているのかどうかもわからない――由代はそのうち、珍獣ではなく、不気味で危険な男として地元の人々に認識されるようになってしまった。誰も洋館には近づかず、由代の周囲には沈黙が下りた。
 けれども、城ヶ崎由代はそれを苦にはしていなかったし、むしろ有り難く受け止めていた。彼は閉ざされた館の中で本を読み、あるいは書いた。それだけの生活。そればかりの毎日。それは彼にとって不幸ではなく、満ち足りた幸福な日々だった。

 ある冬の初まりに、一羽のワタリガラスが由代の家を訪れた。日本には生息していない鴉だ。北海道の北も北にふらりと迷いこんでくるくらいの渡り鳥。その巨大な黒い翼が窓の向こうで羽ばたいていた。由代は窓を開けた――厳しい、冷たい風がたちまち書斎の中になだれこむ。
 鴉はその黒い爪でひとつの指輪を掴んでいたが、耳障りな声で一度だけ叫ぶと、それを由代に投げよこした。
「……誰からの贈り物かな?」
 おだやかな笑みで由代はワタリガラスに尋ねた。黒い鳥は人語で答えることもなく、ただ、用はすんだとばかりに飛び去ってしまっただけだった。
「ふむ……」
 指輪に目を落とした由代は、思わず声を漏らす。欲望の象徴たる黄金に、〈不吉な石〉オパール。
 鴉が誰かの使いであることは間違いない。誰かが自分にこの指輪を何とかしてもらいたかったのだ――由代はそう判断した。指輪の、石を支える台座と腕に、びっしりと古いラテン語が刻まれているのを見て取り、由代はすぐに決断を下す。
 この指輪は、この世にあってはならないものだ。
「……いや、どこかで見たような気もするがね……」



「指輪が現在〈指揮者〉のもとにある」
「彼のことだ、今ごろ破壊の準備を整えているだろう」
 この時世において、暗闇が燭台の光によって照らし出されている。そんな会議室の中には、魔術師、と呼ぶべき者が十数名。誰もが苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、ただひとりだけ――しかも、面子の中では最も若い男が――薄く笑っていた。
「では、取り返しましょう。皆さんも、それ以外に方法はないとお考えのはず。今は、ここで議論を交わしている時間さえも惜しいときです」
 笑っている彼が、そう言った。
「〈猟犬〉。まことの猟犬と成るつもりか」
「策はあるのか。奴は名も言えぬ魔を味方につけているのだぞ」
「……待て。彼は〈指揮者〉の友であった。今の関係がどうあれ、過去の精神の結びつきは、心に何かしらの隙を与えることができる」
 多くの者が、若い魔術師にあまり良い表情を向けなかったが、中には期待を寄せる者もいた。
「デリク・オーロフ。行ってくれるか」
「は」
 す、と最も若い魔術師は立ち上がった。群青の視線は、するりと会議室の面々をなぞった。群青の底には、さまざまな感情が沈められていた。けっして浮かび上がらないその感情たちの存在は、視線の持ち主だけが知っている。
 失望、かなしみ、怒り、喜び、期待……。さまざまだ。無数だと言ってもいい。
「勝算はあるか」
「なに、私には〈猟犬〉がおりますのでね」
 皮肉めいた言葉を残し、デリク・オーロフという魔術師が、暗闇から抜け出した。


 あれは、何年前のことだったか。だが、つい最近、とも言えるほど、デリクや由代の記憶の中には鮮明に焼きついているのだ。
〈指揮者〉と〈猟犬〉。平和で現実的な世間があずかり知らぬところにある、魔術教団の一員だった。〈猟犬〉デリクはいまだに籍を置いているが、〈指揮者〉由代は教団を去った。 去る去らないのひと悶着は、今でも教団内部での悪い語り草だ。
 関係者の全員がその記憶を引きずっている。由代とデリクのふたりは、とりわけ、その記憶に縛りつけられていた。由代が遠い北の大地の自然に逃げたのは、少しでも記憶から距離を取ろうとしたためか。無駄なあがきだっただろうか。由代を包む自然の静寂は、物思いをいたずらに過去へ運ぶだけだった。


 ――駄目だな。集中……集中だ。
 指輪には教団の息がかかっている。その事実が、由代の勘を鈍らせるには充分だった。部屋の結界は揺らぎもしなかったが、風がないはずの部屋の中で、66の蝋燭の炎がぼうぼうと激しくなびく。
 床にはラテン語と星。サークルと記号。天井にも、床の文句や図式が、まるで鏡に映したかのように正確に反転して描かれている。部屋は術式の中に閉じこめられているのだ。サンダルウッドの香りさえも停滞している。
 由代の前には、指輪がある。蝋燭の橙を受けて、不吉な石は燃えているようだったし、溶けているようでもあった。この世にあってはならない指輪を、由代はこの世から排斥するための準備を進めていた。その準備の進み具合が、非常に芳しくない。
 集中が途切れ、いらぬ記憶が雑音のように思考に割りこんでくる。生じた緊張の亀裂に楔のように突き刺さる。亀裂が大きくなり――粉々に砕けて、散らばってしまいそうだ。
 ――情けない。僕はまだしがみついているらしい……。
 思わず自嘲したその瞬間、66の炎が、一度にかき消えた。

「……!」

 がぅ、る・る・る・る・る!

 ステンドグラスの割れる音。それは結界が壊れる、かたちなき音だ。人々の精神の中で起きる音だ。まるで耳鳴りのようなもの。
 結界は獣の存在によって打ち砕かれた。由代は、獰猛な、実体を持たぬ牙を感じた。咄嗟に身をひるがえしたが、その手に指輪を持つことを忘れなかった。圧倒的な暗闇の中で、獣が祭壇に突っ込み、指輪の下に敷いていたビロードを引き裂く。目的のものがないことに気づくと、獣は群青とも紅蓮ともつかぬ眼光で、由代を睨みつけた。
 獣に見覚えがある。
 由代はその記憶をたぐり寄せるよりも先に、自分の前の虚空に指でシジルを描いた。サークルが閉じられ、白い姿をあらわすのと、獣が突進してくるのは同時だった。白い壁に鼻面をしたたかにぶつけ、獣は転倒した。憎々しげに、かれは吼えた。唸った。
「〈猟犬〉……」
 由代の呟きとともに、彼を護っている白いシジルがぐわらと歪む。渦巻いたシジルは、空間によってねじ曲げられ、ぶちりと千切れた。
 闇の中で指のスナップ音がした。黒い獣への合図だ。由代には新たな結界を閉じる余裕がない。彼は身をかわしたが、獣の爪は由代から儀礼用のローブを剥ぎ取り、引き裂いていた。
 いつものスーツ姿に戻ってしまいながらも、由代は指で虚空を真一文字に払った。
「Ukobach! 『竃は軌跡が先に在り』」
 ぼぉう、と消えた蝋燭に炎が宿る。66本あったうちの、たった13本。しかし、部屋の中にたたずむ『客人』の姿を照らし出すには、充分だった。
「お久シぶりデス、〈指揮者〉サン」
 橙の光で微笑むのは、蒼い姿だ。少し訛りがある日本語も、彼を示す記号のひとつ。
 蒼い〈猟犬〉の、デリク・オーロフだ――。
「ああ、本当に。英国で別れて以来かな? 今でも向こうにいるのかね」
「ええ、お陰様デ」
「遠路はるばるご苦労様――と言いたいところだが、きみに距離など存在しないからねえ」
「由代サン。私ガはるばる英国ヨリこちらを訪れタ理由は、察しガついていマスヨね?」
「……悪意のある者はこの家に近寄れないようにしていたのだが。どうやらきみは、悪意を持っていないようだね」
「勿論デス。私ハまだ死にたくありまセンのでネ……あなたを殺シたり、傷つけたりスルつもりデお邪魔シタわけでハないのデス」
 獣が由代のそばから跳びすさり、デリクの傍らについた。デリクは、由代に向かって唸りつづける獣の頭をそうっと撫でる。アザミの花を撫でるようで――愛娘を撫でているようでもあった。
「儀式の途中を狙えバ、奪還もアルいは容易イと考えたのデスが。どうやら、儀式は思うようニ進んでおられなカったようデスね。果たシテそれが、あなたにとっテ都合が良かったのカ、悪かったのカ……」
「やれやれ。同業者は相手にまわすものではないね。――ともかく、デリク君。指輪は渡すわけにはいかない。これは誰のものになってもいけないものだ。わかるだろう?」
「イイエ、それハ我が教団のものデス。ご存知でショウ」
「私が教団を去った理由を? デリク君」
「イイエ」
「まさにそれなのさ」
 由代の袖の中にあった指輪が、由代の手の中に滑り落ちる。彼の指が、まるでシジルを描くときのように鮮やかに動いた。彼は指輪をはめていた。デリクが蒼い目を見開いたときには、オパールが蒼い光を放ち、由代の指の動きに蒼い軌跡を刻んでいた。
「さあ、これで、きみが指輪を奪うには、僕の指を落とさなければならなくなった!」
「由代サン! 面倒なことニしてくれタものデス!」
 生きている指を落とすというのは、相当な悪意を持ってしかなし得ない悪行だ。デリクと獣に、ずしん、と見えない重さがのしかかる。デリクは膝をつき、獣は涎を飛ばしながら唸り声を上げた。
 この館に、由代に悪意を抱いた者が近寄ることは許されない。
 指輪がほしい。指輪を取り戻さなければならない。あの男がはめている指輪を。指を落としてでも取り戻さなければ!
「さあ、退いてくれないか。きみは友人だった。僕もきみに悪意を持ちたくはないのだよ」
「……馬鹿な……あなたが、そんな、愚かなことをするとは……!」
 デリクは、そのとき英語で呻いた。
「そうか……私も逆に、隙を突かれた……私は……あなたが、まさか、そんなことをするはずはないと考えていたから!」
「そう。僕の目的はこれで果たされた。……もう、これ以上、誰の手にも渡らないのだからね。デリク君、こうするしかなかったのだよ、きみが来てしまったから。相手がきみでなければ……別の手段を選んでいたのだがね」
 由代の右手の薬指から、ぽたりぽたりと血が流れ落ちている。指輪だ。指輪の台座の裏から金の針が飛び出して、由代の指に食らいついている。この指輪は、はめると二度と外せない。永遠に血を吸いつづけるだろう。
「……その指輪が何であるのか……」
「知っているとも。大丈夫だ。さあ、退いてくれ」
 デリクは、顔を上げた。由代の背後に……〈指輪〉がいる。大いなる〈指輪〉が。由代は微笑んでいるが、彼の背後の魔神は、嗤っていた。
 本当に大丈夫なのだろうか。
 デリクはその問いを口にすることはなく、外套をひるがえす。影が広がり、獣を包んだ。獣は唸り声もろとも姿をかき消し、次いで、デリクの姿も影の中に沈んで消えた。
 しばらく、デリク・オーロフがいた空間は歪み、蝋燭の炎もねじ曲がっていた。
「……さてと、本当に面倒なことにしてしまった。どうしようかな」
 血を流す薬指を見つめ、由代は儀式の間を出る。書斎に詰めこまれた文献の中から、指輪を外す方法を探すのだ。時間はかかりそうだった。デリクがほんの一瞬で英国へ戻ったように簡単ではない。
 けれども、由代には時間がある。彼は書斎の窓の外に、ふと目をやった。
 外ではいつの間にか雪が降っていて、だいぶ積もっていたらしい。そして世間は、朝を迎えようとしている。
 白い朝は、由代に影を与えてくれた。




〈了〉


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2006年08月01日

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