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『〈マルファスの瞳〉 』
レイリー・クロウ6382)&(登場しない)



 その館では、殺人が起きていた!
 魂消るほどに凄惨で、身震いするほどの醜き経緯が、古い屋敷で起きた殺人の背景にあった。底のない物欲と、淫らな情欲とが根底に流れていた。今や、この、一見だけは立派な屋敷の中で、如何な惨劇が繰り広げられたか、その全貌を知る者はいない。
 みな死んだからだ!
 暗く沈んだワイン色の絨毯が敷かれた玄関ホール。
 ゆったりとしたカーブを描く階段。テーブルにパンとワインが並んだ食堂。マントルピースのある居間。金庫のある書斎。髭を生やしずんぐりした体格のベルギー人探偵や、スズランパイプと虫眼鏡をたずさえたイギリス人探偵が、今にも刑事とともに踏み込んできそうな様相だ。
 見てくれだけは優雅で、ゆったりとたゆたう時の流れを見る者に抱かせるような、この館。しかし、ここを訪れる者の10人にひとりは気づくだろうか。ここに住む者、そしてその親族や愛人たちが放っていた、悪意や欲望――黒い闇の感情が、屋敷の床のうえを這いずり、壁に染みつき、虚空を蜘蛛の子の如く漂っているということに。
 殺人は、起こるべくして起こった。
 世間がこの館での殺人に気づくためには、まだいくらかの時間を要するだろう。
 今、この静まりかえった屋敷で起きた事件を知るのは、あの――

 ただ一羽の、鴉だけ。

 そう、鴉! 大鴉!
 今は夜である。太陽は眠り、月さえ消えている。今は梟と夜鷹が音もなく狩りをする時分。彼ら、夜のものどもの領域。鴉は雀や鳩のように、梢で眠っているはずだ。
 しかしこの鴉は、館の扉の前に降り立った。目は漆黒であるようだが、金である。まばたきのたびに金の光を宿すのか。それとも、まばたくことでその金の瞳が隠されるだけか。とにかく、この鴉は、只ならぬ鴉に違いなかった。
 そう、まさにその不安を抱く者は、愕然たる真実を見るがいい!
 鴉はその翼をひるがえし、ひとりの男に姿を変えた。
 鴉だった男に、今やオニキス色の翼はないが、手袋をはめた両手があった。薄い笑みを浮かべる顔と、黒光りする革靴を履いた足もある。黒い礼服、黒いシルクハット、黒い外套。まるで鴉のような男であった。男はその足で歩く。そして、その両手で扉を開けた。
 扉の外へ逃げ出そうとした、生温かい血臭。男はそれを逃さず、捕まえ、つるりと呑みこむ。薄いピンクの舌が唇を這う。男はすぐに扉を閉め、館の中に、血にまみれた臭いや、漂う欲望を閉じ込めた。


 まず殺されたのは、館の主人の妻。パーティーに招かれた客の中に、主人の愛人が紛れこんでいた。招待状も持っていなかった愛人だが、使用人を色仕掛けで丸めこみ、まんまとパーティーの席に潜りこんでいたのである。主人はたいへんな資産家で、また、たいへんな快楽主義者であった。愛人は愛されてはいなかった。単なる、夜のパートナーだ。愛人はそれを承知していたのか。ともかく、ろくに愛されてもいない妻が邪魔だったので、彼女は殺した。
 その殺人のあと、愛人を屋敷に入れたことを主人に知られそうになった使用人が、愛人を殺した。殺すしかなかったのだ。まさか彼女がこの屋敷で殺人を犯すために自分に取り入ったのだとは思わなかった。美しい女ではあったので、使用人は彼女の「あとでなんでも言うことを聞くから」という言葉に期待していたが、結局、その言葉は単なる嘘だった。時分は利用されたのだ。彼女が憎かったので彼は殺した。
 その殺人のあと、殺人の事実を知った主人は激怒し、メイドに使用人の殺害を命じた。メイドは主人に弱みを握られていた。裸にされた写真を撮られ、主人を含めた複数の男の慰み者になっていた。メイドは以来、いつもその事実を突きつけられては、望まぬ犯罪に手を染めたり、主人の相手をさせられていたのだ。しかし今宵、その関係は彼女自身によって断たれた。メイドは主人を殺したのである。
 その殺人のあと、主人の二番目の息子がメイドを殺した。今夜、主人は遺言を書き換え、死後、二番目の息子に遺産のほとんどを相続させることになるはずだった。しかし主人は、遺言を書き換える前に死んだ。二番目の息子は激怒し、メイドを殺した。
 その殺人のあと、さらに殺人は連鎖した。
 その殺人のあと……その殺人のあと……その殺人のあと……その殺人のあと。
 そして誰もいなくなった!

 賢明な者は気づくだろう。
 ならば、誰が最後のひとりを殺したか。殺人と死体ばかりになったパーティーの夜、誰が最後に誰を殺し、一体誰に殺されて、この館は『無人』となったのか。謎である。しかし、他愛もない謎だ!
 玄関ホールから二階へとつづく階段の一段目で、ひとりの初老の男が死んでいる。彼の胸には、年代ものの短剣が突き刺さっていた。彼はその短剣を手にし、慌てて階段を下り始めたところで、足を滑らせ、短剣とともに転げ落ちたのだ。どういう奇跡か、悪魔の悪戯か、短剣は落ちている間に男の胸に刺さり、激しく脈を打っていた心臓を破った。こうして、最後のひとりは死んだ。彼は短剣に殺されたのだ。


「これはこれは、どうも。なんとも素敵な鞘をつけてくださったものです」
 鴉の化身は、胸に短剣を生やした死体に向かって、うやうやしく礼を言った。もちろん死体が言葉を返すこともなく、屋敷は息を殺したままだ。屋敷は押し黙り、新たな来客の動向を見守っている。
「しかしながら、お譲りしたご本人が亡くなったのであれば、これは返していただきます。私の記憶が正しければ、そういった約束であったはずです。――では、失敬」
 彼は、短剣を『鞘』から抜いた。
 そして、まだ鮮やかな光を帯びる血と、その血をまとう刃を、柄に埋め込まれた見事な大粒のオニキスを、うっとりとした目で見つめた。見つめている間、彼の脳裏には、短剣が見聞きしてきた年月の記憶が流れこんで来ていた。それはすなわち、この館に住んでいた者たちの、悪意と欲望であった。

『まあ、あなた。また高い買い物をなさったのね』
『ふん。おまえにはわかるまいよ。この輝き、この冷たさ。この柄のオニキスは、これまでにわしが触れてきたどのオニキスよりも素晴らしい』
『いつものお店でお求め?』
『いいや。……何と言ったか、クロウ……そう、レイリー・クロウ。そういう名の流れの商人だったな』
『あたくしには、ただの黒い石がついたナイフにしか見えませんわね』
『そうだろうとも。おまえにはそのような台詞が似合いだな』

『ほう、この短剣、ただものではございませんなあ』
『わかるか。〈マルファスの瞳〉と云うものだ』
『ほほう。鴉の姿をした悪魔。なるほど、このオニキスの輝きは、大鴉のもののようですな』
『見つめていると吸い込まれてしまいそうだろう』
『ええ、まったく』
『石だけ外してループタイにでもしようかと思っていたが、気が変わってな。その刃の輝きがあってこその石なのかもしれん』
『いやまったく、素晴らしいご判断で。見たところ、古いもののようです。一体何人の血を吸ってきたものやら』
『〈マルファスの瞳〉。悪魔の名を冠するからには、それなりの地獄を見てきただろうな』

 短剣は、ぬらりぬらりと刃を光らせていた。柄の大粒のオニキスは、まるでその、血のような光を放っている。オニキスは囁く。物欲におぼれた持ち主や、彼を憎んでいた者、彼を妬んでいた者の視線を、黒い宝石は、すべて吸い込んできたというのか。
 鴉の化身は、目を閉じ、まるで朝焼けの山頂の空気を味わうかのように、大きく深く息を吸いこんだ。
 何という悪夢か!
 短剣の刃に絡みついていた血が、音も立てずに消えていく。まるで男が、死臭ごと吸い込んでしまったかのようだ。
 さらに、悪夢はつづいた!
 屋敷中を這いずりまわる不浄の香りと気配とが、消えていく。吸われ、喰われていくのだ。鴉の化身は、満足げな笑みを浮かべて、金の目を開けた。
「ただの黒い宝石だったものが、これほど素晴らしい存在になるとは。いやはや。人の力はまったく、計り知れないものですねぇ……」
 男は、きらきらと光る短剣の刃や、柄の装飾、オニキスの輝きに、またしてもうっとりとした視線を送る。短剣はこの視線が気に入ったのか、ますます強く輝いた。
「鞘は結構です。お気持ちだけ、有り難く頂きましたよ」
人の死体の姿をした『鞘』に向かって、男はまたうやうやしく頭を下げた。懐に抜き身の短剣をしまい、彼は外套をひるがえす。

 ただ一羽の鴉は去った。
 殺人が起きた屋敷は、もはや単なる屋敷であった。すべてのものは死に絶え、記憶と感情を失い、物言わぬ倒木のように、朽ち果てるのを待つばかりだ。
 そこには、何も、誰もいなくなっていた。時は止まり、まるで何事もなかったかのように、何事も覚えてはいないかのように、すまして、孤独に、惰眠をむさぼるのであった。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2006年07月18日

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