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『もしかすると、もうひとりのわたしが 』
京師・桜子4859)&(登場しない)



 スイッチとは、わかりやすい一見を持っていなくてはならない。特に、電源のスイッチは。わかりやすいように、赤く丸く、大きく作るのだ。そして、たった一押しで、容易く、切り替えができなくてはならない。
 だが、京師桜子の重要なスイッチは、どこにあるのか、どんな色をしているのか、何もかもがはっきりとしていなかった。桜子本人すら、自分のスイッチの存在を知らない。入れたとき、切ったときに、具体的に何が起きるのか。それすらも、曖昧なのかもしれなかった。
 それでいい、と彼女は思う。
 けれども、それでは困るのだ。
 ではどうすればいいのだろう、どうすれば。手さぐりで彼女は、スイッチを探す。ぱちん、ぷつん、ぴっ、ぽっ、ぱっ。


 ぶう……んん。


 蠅の羽音か。それとも、校務韻が体育館の外の雑草を刈っている音か。低い、不愉快な唸りが聞こえる。目を閉じていても聞こえる。右……いや、背後……七時の方向……。
 じいじいじい、みんみんみん、紛れこむこの音は蝉の声。校舎裏の松や柏の木で、彼らは歌っている。
「お待たせ」
 この声は、真正面から。
 京師桜子は、目を開けた。
 重い格子の向こうに、面をつけ、小手と胴、すね当てをつけた女子生徒が立っていた。薙刀部で、桜子と一緒に練習を積み、さまざまな大会にも出場してきた。彼女は桜子の大切な仲間だ。クラスは違うが、学年は同じで、誕生日も近い。
 もうすぐ顧問の教師がやってきて、他の部員たちもやってくる。しかし、桜子の中では、もう部活動は始まっていた。稽古着を着て防具を身につけたら、その瞬間から、薙刀は始まっている。桜子はいつも早めに部室に入り、支度を整え、道場に入る。今日はたまたま彼女も早めに来ていた。軽い手合わせを願い出たのは、桜子のほうだった。
「とりあえず、先生が来るまでね」
「そうですね。お手柔らかにお願いしますわ」
 桜子は立ち上がり、相手と薙刀の切っ先を合わせ――

 ぶぶ、ぶぶぶぶぶ。

 桜子さん。桜子さん。
『はい、おかあさま、さくらこはここに』
 よかった、わたくしの大切な桜子さん。あなたには、まだまだ覚えてもらわなければならないことがたくさんあります。今日の先生は、この方です。さ、ご挨拶なさい。
『けいしさくらこともうします。ほんじつは、どうぞよろしくおねがいいたします』
 桜子さん。先生の仰ることをよく聞くのですよ。
『はい、おかあさま』
 みんなみんな、あなたのためになることなのです。素晴らしい先生方の教えが役に立つ日が、必ず訪れます。これは、これからのあなたに必要な技や知識なのですよ。
『はい、おかあさま……』



 ことん、と照明が落ちた。
 辺りは、完全な闇に包まれた。闇の中で、音もなく、ばねやゴムのかたまりのように軽やかに動くのは、彼女だけだ。突然の闇の帳に、彼らは泡を食って右往左往している。
 黒いほっそりとした肢体は、足音も立てず、筋肉と関節が動く音さえしのばせているようだった。彼女はまるで白昼夢のように、すみやかに、しずかに動いていた。光を求めて足掻く男たちの動きは、プログラムや意思に左右されない、まったくのアトランダムかに思える。しかし黒い彼女は、まるでその動きを読んでいるかのように、男たちの間をすり抜け、飛び越え、滑りこみ、ただひとつの目的に向かって進んでいた。
 誰も彼女の存在に気づいていない。いや、気づくか。人間の目も、獣にははるかに及ばないが、闇に慣れるようにできている。
 彼女は、人間の目が闇に慣れてしまう前に、目的を達しようとしているのだった。
 黒い豹が目指すのは、この、広い道場の奥に立っている者。幾人もの人間の汗や涙、時には血を吸ってきた畳のマットの臭い。男たちの臭い。洗いたての胴着の匂い。臭いという匂いをも、彼女の肢体は跳ね返す。
 目指すは、この道場の主。集まっている門下生は目的ではない。道場主。多くの者から恨まれ、憎まれ、しかし畏れられている男。
 目は慣れたか。
 狙われし者は、フルフェイスの黒いヘルメットをかぶった、黒づくめの女を見た。女は、闇そのものを織り成したかのような、黒いツナギを着ている。骨と筋肉、最小限の脂肪しかついていない、すらりとした体躯が見て取れる。
 男の前には木刀があった。仮にも彼は、この道場の主だ。武芸に秀で、反射神経も鋭かった。それこそ、研ぎ澄まされた刃のようだ。
 ぶぶぶ、
 しかしそのとき、蠅が飛んだ。男の鼻先を。彼の気合が、刹那乱された。黒い女が、男よりも速く木刀を掴んだ。
「かッ――」
 木刀は、刃の如く、すばやく動いた。光だった、と言ってもいい。刃なきはずの木刀は、男の目を潰し、その眼窩を突き進み、脳髄に突き刺さった。彼女の目的は、悲鳴も上げず、仰向けに倒れた。闇の中で赤い血が噴いているのか。木刀の柄はそそり立っているか。
 それを彼女はほんのひと目で確かめて、再び無音の疾風となった。


 桜子さん。京師桜子さん。そう、私です。あなたでもあります。
 あなたは女で、どんなに鍛えても、力では殿方にかないません。
 しかし、力がなくとも殿方を征す方法はあります。
 学びなさい。そして刺しなさい。
 あなたは私。私は京師桜子。あなたの母の意志を継ぐ者。
 すべては、あなたのためになること。みんなみんな、私のためになることなのです。


 さあ、技を覚えて、刺しなさい。斬りなさい。殺しなさい。
 それがあなたのためなのです。


 ぶう……んん。


 やけに蠅が、たくさんいる。それもそうだ。黒い彼女が、この夏の盛りに、人を殺してまわっているのだから。まれに、こんな仕事も入る。目に入ったものすべてを壊し、殺しつくし、死で埋めつくせという大仕事。
 この殺人も、絶え間なくつづけてきた鍛錬も、すべてはいずれ、自分のためになることなのだ――桜子は黒い仕事着を朱に染め、蠅のダンスの中で立ち尽くす。蠅が五月蝿い。五月の蠅よりも五月蝿い。
 手にした得物は、折れた鉄パイプ。
 しュ、と桜子は得物を突いた。蠅が一匹、死んで落ちた。しュ、ともう一突き。しュ、しュ、しュ、しュ……
「た……助けて……」
 ぶあっ、と桜子は振り返った。蠅が群がる、生臭い死体たちの中から、確かに声が上がったのだ。未熟、と彼女は自分を叱咤したか。一撃のもとに葬り損ねたのだ。
「たすけ……」
 かすれた声の傍らに立つと、桜子は鉄パイプを両手で構えた。
 今度こそ、息の根を止めてやる。
 ぶぶぶぶぶ、蠅が五月蝿い。
 蠅め蠅め蠅め……!



 ぶゅうんんん!



 かすれた、黄色い悲鳴が上がる。たすけて、と言っていたか。
 ――え。
 なぜだ、仕留め損ねたのは男だったはずでは。これは女の悲鳴ではないか。
 桜子の視界に、聞こえない音を立てて、赤い格子が現れた。格子に切り刻まれた道場のマットが、倒れている薙刀部の仲間が、自分が彼女に突きつけている薙刀が、つぎつぎと視界に飛びこんでくる。
 不愉快な音が、不意に途切れた。
 ――ああ。そうですよ、私は、いま、手合わせを。薙刀の……軽い、手合わせを。
「ご、ごめんなさい」
「……」
 慌てて桜子は、倒れた仲間の喉もとに突きつけていた薙刀を引いた。倒れた部員も、慌てて立ち上がり、桜子から少し距離を取った。格子の向こうの顔は、はっきり怯えていた。
「本当に、ごめんなさい」
「い、いいのよ、京師さん。そ、それくらいの気合がないと、やっぱり全国大会には行けないわよね」
「そうでしょうか……」
「あ、先生よ」
 桜子は入口のほうを振り返り見る。薙刀部顧問が、一年生や二年生の部員と一緒に入ってきた。わいわいと、何かの話題で盛り上がっている。
 しかし、桜子の相手をしていた女子部員が、恐る恐る安堵のため息をついたのを――桜子は、聞き逃さなかった。

 夏の蠅が飛んでいる。


 ぶう……んんん。


 その蠅を捕まえて潰したとき、桜子は、ぱちりと一度まばたきをした。
 それは、視界のスイッチを切り替えるためだったのかもしれない。




〈了〉

PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年07月18日

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