▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『月下の約束、それぞれの信念 』
鬼丸・鵺2414)&桐嶋克己(NPC3325)




 月は人間と密接に関わっているという。潮の干満が月齢と関わっているのは有名な話だし、月経周期が月の満ち欠けとほぼ一致していることも知られている。

 人間は古来から月を愛で、恐れてきた。満ちた月の下で酒や団子を口にして陽気に騒ぐこともあれば、日ごとに姿を変える月を得体の知れないものと恐れた時代もあった。満月の夜にだけ本性を表す狼男の伝承は世界的に広く知られている。

 とにかく、月、特に満月には何か不思議な力がある。人を惹きつけ、おののかせ、心をざわめかせて、何かに駆り立てる力が。

 そしてまた、今宵も月齢は十五を迎える。





 一年前の、あの日。

 伸ばした手は、届かなかった。

 忘れようとしても忘れられない。

 男は、姉を救えなかった。

 懸命に伸ばした手は、届かなくて。

 姉は屋上のアスファルトを蹴り、まっさかさまに落下していった。

 そして今、男は大病院の屋上に立っている。

 あの時と同じように。

 眼下にはすでに野次馬が集まり、こちらを指差して口々に何か喚いたり囁き合ったりしている。

 あの時と違うのは、自分が一人であること。

 そして、今度は自分が飛び降りる番であること。

 迷いはない。恐れも振り切った。

 靴を脱いで揃えた後で美しく満ちた月を仰ぎ、男は皮肉な笑みを浮かべる。

 姉がここから身を投げたのも満月の夜だった。

 そして今夜も――。

 月が満ちる夜を意識的に選んだわけではない。しかし無意識にそうしたのかと問われればそれも否定できない。

 妖しく光る満月の魔力に引き寄せられたとでもいうのだろうか?

 馬鹿馬鹿しいが、それもよかろう。

 姉と同じように、同じ夜に死ねるのならば。

 フェンスの外に立ち、男は大きく両手を広げ、排気ガスにまみれた夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。まるでオーケストラの前に立って、今まさにタクトを振り下ろさんとする指揮者のように。

 静寂。漆黒の闇。目を閉じた男の耳には都会の騒音は聞こえない。ただ、高揚と、闇の先に待つものへの甘い期待だけが胸の中いっぱいに広がっている。

 そして男は目を閉じたまま歩を進めた。不思議なほど落ち着いていた。一歩、二歩、そして三歩。靴下の先がコンクリートの縁に達する。いよいよだ。たかぶりを鎮めるためか、あるいはわずかに湧いた恐怖を抑えるためなのか、男が小さく息を吸った、その時だった。

 ちらり、と視界の上端を何かが掠めた。

 それは闇の溶け込むかのような黒い影だった。反射的に顔を上げて影の行方を追う。周囲に林立するビル群、その一角に黒い影が現れ、消えた。男は信じられない思いで影の動きを目で追った。その黒い影は、ビルの屋上から屋上へとまるで天狗のように身軽に飛び移っているのだった。

 やがて影はわずかな風切り音とともに隣のビルから男の前へと着地した。

 フェンス越しに相手と対面した男は目を丸くした。目の前に立っていたのは真っ黒な衣服に身を包んだ小柄な人間だった。体格からすると子供であろうか。いや、子供というほど幼くはないかも知れない。しかし少なくとも成人ではなさそうだ。赤い帯で留めた丈の短い和服風の衣装、そして顔には天狗の面、後頭部には別の面をもう一枚装備しているらしい。二枚の面の間からのぞく髪の毛が月光を受けて銀色に輝いているのを認めて男はようやく思い当たった。

 テレビや新聞、ネットなどで噂は聞いていた。満月の夜に自殺志願者のもとに現れる銀髪の少女。彼女は能面をかぶって自殺志願者と対面し、自殺をやめるように説得するのだという。そして、彼女に説得された者はことごとく自殺を思いとどまって泣きながら帰って行くのだとも。

 男は下唇をきゅっと巻き込んで拳に力を入れた。説得など無駄なことだ。自分の決心は絶対に揺るがない。

 「こんばんは」

 相手はそう言って面を取った。天狗の面の下から現れたのはまだあどけなさの残る少女の顔であった。夜風になびく銀色の髪と大粒の赤い瞳。美少女と呼ぶにふさわしい顔立ちであったが、天狗の面に真っ黒な衣装、そして自殺志願者の説得というシチュエーションには少々不似合いではある。

 「ふーん。その顔だと、鵺のこと知ってるみたいだね」

 少女は銀色の髪をさらりと揺らして微笑んだ。





 鬼丸・鵺はもう一度にっこり微笑んで目の前の男を見つめた。二十代後半といったところであろうか。薄汚れた背広、垢のついたワイシャツ、ぼさぼさの髪の毛、無精ひげの生えた顔。衣服はだいぶくたびれているが、元は安物ではなかったことがうかがえる。それなりに整っていたであろう顔は頬がこけ、唇は青く、落ち窪んだ目からも光が失われている。今まで数々の自殺志願者と対面してきた鵺だから、今更これしきのことでたじろぐことはない。今までのパターンとそう変わらないようだが、面をかぶるまでは予断はできない。
 
 「無駄だよ」

 男はそう言って唇をかすかに引きつらせた。「説得なんて無駄だ。もう決めたんだ。怖くなんかない。俺はもう死ぬしかないんだ」

 「そう」

 鵺はあえて反論はせずに目を細めた。自殺志願者は多少なりとも気がたかぶっている。強引に反論や説諭を試みれば態度が頑なになる恐れがあった。これも経験から得た鉄則である。

 あの事件――某所轄警察署の物置部屋にある、怪奇事件専門のあの部署で経験した、あの連続殺人事件。あまりにも悲しい結末を迎えてしまったあの事件を経験して以来、鵺は満月の夜になると“ハヤトの面”を被って出かけるようになった。あの所轄署で最初に経験した事件で得た面で、鵺の友人である多重人格の青年をかたどった物である。これを被ると相手の内に潜む得体の知れない物を見抜くことができ、相手に自省や自覚を促すことができる。その効力を使って自殺志願者に己を省みさせ、本当に死にたいのかどうか問い直して自殺を思い止まらせるというのが最近の鵺の行動パターンだった。

 「じゃあ鵺とお話ししない?」

 鵺わずかに首を傾けて問うた。男の唇が不快そうに歪む。

 「俺はガキと話すことなんてない」

 「鵺はキミと話したいの」

 鵺はにっこり微笑んだ。敵意も武器もないことを示すために両手を広げてフェンスに男に歩み寄る。男がかすかに動揺の表情を見せた。その隙を逃さずに鵺はひらりとフェンスを飛び越え、男の前に着地した。男は反射的に身構えたが、鵺は構わずに笑顔を保った。

 「キミ、どうせ死ぬんでしょ? だったら十分か十五分くらい死ぬのが延びたっていいじゃん。どうして死にたいのか聞かせてよ」

 ね? と小首をかしげ、友達とおしゃべりでもするかのように鵺は言葉を継ぐ。男はかすかに笑みを浮かべた。自嘲とも、自棄とも、卑屈ともとれる笑みだった。しかし先程まで固く結ばれていた唇はわずかに緩んでいる。どうやら話してくれそうだ。いったん口を開かせてしまえば入り込む隙はある。

 「話させたところでどうなる? それが自殺を思いとどまらせることになるとでも言う気か?」

 男が口を開きかけた時、鵺の背後、フェンスの後ろで冷ややかな男性の声がした。同時に緩やかに漂う芳醇な葉巻の香り。声の主がふうっと紫煙を吐き出すのと、鵺が弾かれたように振り返るのとは同時だった。

 「貴様が噂の烏天狗か。どんな奴かと思っていたが、ただのガキではないか」

 葉巻をくわえた男はオールバックにまとめた硬い髪の毛に手をやりながら皮肉たっぷりに言った。タイトなスーツに包まれた体躯は長身で、筋肉のつき具合もパーツの大きさもよく均整がとれている。それにこの顔つきの鋭さはどうか。険しく吊り上がった目に外国人のような鷲鼻はまるで猛禽類だ。この男ならばこの不遜な態度や尊大な台詞も肯ける。

 「烏天狗? だっさ、何それ」

 鵺は本気で言って腰に手を当て、眉を寄せる。「誰、キミ? 邪魔しないでくれる?」

 「それはこちらの台詞だ。素人は引っ込んでいろ」

 言って、男は背広の内ポケットに手を差し込んだ。取り出された物を見て鵺は赤色の瞳を何度かぱちくりさせる。

 「警視庁捜査一課管理官、桐嶋克己だ」

 男は金色の桜の代紋がついた黒い手帳を見せてそう名乗った。鵺は「へえ」と鼻を鳴らしてかすかに笑んだ。桐嶋の名前やプロフィールはあの所轄署の警部補から聞いている。なるほど、大方想像していた通りの人物と見て間違いなさそうだ。

 「なんで管理官サマがこんな所にいるの? 夜のパトロール? エリートってのも案外暇なんだね」

 「無礼者。ついさっき発生した事件の捜査中だ。所轄から連絡を受けてホシの早期発見のために俺の“私兵”を出動させたのだが・・・・・・その途中でこんな場面に遭遇するとはな」

 桐嶋の言葉に応じて鵺は眼下を見渡した。眠らない街に灯った色とりどりのネオン、その間でやかましく明滅する赤いパトランプが確かに見える。

 「事件? もしかして殺人事件か? 中年のサラリーマンが刺されて?」

 ずっと二人のやり取りを聞いていた男がようやく口を開いた。男に顔を向けた桐嶋の眉がぴくりと動く。それが肯定のサインであるらしいことを読み取った鵺は軽く首をかしげる。

 男の唇が笑みの形に歪んだ。

 「ちょうどよかった。犯人は俺だよ、刑事さん。俺がそいつを刺した」

 鵺の眉がびりっと音を立てて中央に寄った。

 「でもあんたには捕まらない。俺は死ぬ、今ここで。そのつもりであいつを殺したんだから」

 じりじりと男は後ずさる。靴下の踵の下でコンクリートのかけらがじゃりっと音を立て、そのまま闇の底へと落下していく。

 「俺はもう死ぬしかないんだ。人を殺したんだから。そのために殺したんだから」

 男の目から涙が溢れ、音もなく頬を伝っていった。

 「そうか。ならば話は早い」

 桐嶋はそう言って冷たい目を向けるだけだった。部下に連絡をするべく携帯電話を取り出す。しかし鵺のほうが速かった。桐嶋の行動を読んだ鵺が目にも留まらぬ速さでフェンスを乗り越えていた。そして次の瞬間には、耳障りな衝撃音とともに携帯電話がコンクリートの上に転がっていた。

 「何をする!」

 桐嶋の怒声が響く。鵺はにっこり笑って携帯電話を拾い上げ、笑顔を保ったままフリップを開いて電話機をへし折った。

 「そういう根性だからあの人を助けられなかったんじゃないの?」

 携帯の残骸を無造作に放り投げた鵺は相変わらず笑顔だったが、赤い瞳は笑っていなかった。青い炎のような静かな怒りを冷え冷えと湛えてただ桐嶋を見据えていた。炎はめらめらと赤く燃えるものよりも青く静かに燃えるもののほうが何倍も熱い。

 「ねえ。覚えてるでしょ? あの所轄署の警部補さんが扱った事件。満月の夜の連続殺人。あの男の分身だったあの人――」

 鵺の瞳がすっと細まった。「あの人、鵺になんて言ったか知ってる?」

 桐嶋は眉を上げたまま無言で続きを促した。

 「本体から解放されたかったって。自ら命を絶って解放されるつもりだったって。死んでからようやく本体から解放されるんだ、命を賭けるだけの価値はあるって」

 ひゅうと音を立てて風が吹いた。この季節にしてはいやに冷たい風だった。

 「あの人、最後に鵺の名前呼んでくれた。鵺のこと忘れないって、指切りしてくれたんだよ」

 鵺の唇はいつものように人なつっこい笑みを形作っている。しかし声だけはかすかに震えていた。

 「あの人は死んで解放されたがってた。でも・・・・・・それでも、生きられるものなら生きていたかったと思うんだ。鵺の勝手な考えだけどね」

 「それがどうした。今、この場と何の関係がある」

 桐嶋の声と表情には露骨な苛立ちが表れている。しかし鵺は構わずに続けた。なじるように、やや憤りのこもったまなざしを容赦なく桐嶋にぶつけながら。

 「鵺を棚に上げちゃうけど、警察はなんであの人を助けられなかったのかな。生きたい人を助けるのって警察のお仕事じゃないの? 犯罪者捕まえる事だけが警察のお仕事なの?」

 そう言って鵺は後頭部に背負っていた一枚の面を外し、再びフェンスの向こうに飛び降りる。自殺志願者であり、殺人容疑者でもある男と再び対面した鵺を見て桐嶋は眉を寄せた。

 鵺の手には、色白で悲しそうな目をした青年をかたどった一枚の能面が握られていた。

 「ねえ、桐嶋のおじちゃん。今ここでこの人を捕まえて何になるの。捕まえて、裁いて、それだけで何になるの? そりゃあ罪は償わなくちゃいけないかも知れないよ、鵺にはその辺よくわかんないけどね。でも、それがこの人を助けることになるの?」

 鵺はゆっくりと面を装着した。面の主である多重人格の友人の意識が鵺の末梢神経の隅々にまで染み渡っていく。

 桐嶋は目を疑った。面の目がかすかに動いたのだ。まるで、目を覚ましたばかりの子供がぼんやりと辺りを見回すように。

 やがて面の目が眼前の男をとらえ、ゆっくりと口が開かれた。

 「初めまして」

 面の口から出たのは鵺の声だった。しかし声色は明らかに違っていた。まるで別人のようであった。

 「ぼくはね。あなたに死んでほしくないんです」

 青年の面をまとった鵺は率直にそう言った。桐嶋は信じられない思いでその様子を見守っていた。面を着けた途端、鵺はまったくの別人に変わってしまったかのように見えるのだ。まるで面の主である青年が鵺に乗り移ったかのように。

 「うるさい。そんなことおまえに関係ないだろう!」

 男はヒステリックに叫んだ。甲高い声が無言の月に吸い込まれて消えていく。

 「俺はあの男を殺したんだ。姉さんを死なせたあいつを! あいつを殺して俺も死ぬ! 姉さんの所に行くんだ!」

 男の目からはぼろぼろと涙が溢れ出していた。「俺たちは二人で生きてきた。姉さんは俺のたったひとりの身内だった。姉さんがいたから俺は生きられた。なのに・・・・・・あの男は、姉さんを!」

 握った拳がぶるぶると震えている。鵺は、否、鵺の体を借りた青年は、男に歩み寄ってその拳をそっと両手で包み込んだ。

 「よく思い出してください。あなたの中のあなた――」

 青年の薄い唇がゆっくりと動き、透き通った声が紡ぎ出される。「よく思い出して。よく見てください。あなたの中のあなたが持つ記憶を。お姉さんは、あなたに何と言って亡くなったんですか? 本当にこのまま死んでいいんですか?」 

 深い湖水のような目がじっと男を覗き込む。涙に濡れた男の瞳が大きく見開かれた。





 男の脳裏にあの日の記憶が鮮やかに甦る。

 封印したあの日の光景。一年前の、満月の夜。

 あの日――

 姉は妊娠中絶の手術を受けた。愛した男の子供を殺す手術を。

 姉はあの中年男を愛した。しかし、妻子持ちのその男にとって、姉は単なる暇つぶしの相手に過ぎなかった。

 だから姉は堕胎した。堕胎させられた。なかば強制的に。無理やり麻酔を打たれて、眠らされて。

 麻酔から醒めた姉は、ふらつく足で、術創の出血もろくにおさまらぬまま、裸足でこの屋上までやって来た。

 “あたし、醜くなってしまいそう”

 見舞いに来た男の前で姉は涙を流してそう言っていた。“憎い。あの人が憎い。殺してやりたい”

 姉の足の間、愛する男との愛の結晶が生まれ出ずるはずだったその場所からは粘りつくような血液が滴り、白い入院服を赤黒く染めていた。

 “あの人を恨んで、憎んで、狂って・・・・・・あたし、きっとどんどん醜くなる。そんな姿、あなたにもあの子にも見せたくない。きれいなお姉ちゃんで、きれいなママでいたいから”

 姉はそう言って男に静かに背を向けた。

 “あの子は天国に行ったわ。だからあたしも天国に行くの。このまま生きていたらあの人を恨んで、殺してしまうかも知れない。そうしたらあたしは地獄に落ちる――”

 姉の白い足がゆっくりとアスファルトを踏みしめるのを男はなすすべもなく見つめていた。

 “今死ねば天国に行ける。きれいなまま死ねる。あの子と一緒に暮らせる”

 振り向いた姉の顔は涙に濡れていたが、穏やかな微笑で満たされていた。

 “ねえ。あたし、きれいでしょう?”

 姉はその笑みを保ったまま両手を広げた。どんなに美しい女神もかなわないであろう、とびきり魅力的な笑顔だった。

 “だから、どうかあなたもきれいでいて。そうしたら、またいつか一緒に暮らせるから――”

 そして、姉はそのままアスファルトを蹴った。

 同時に男はふらつく足で飛び出した。フェンスの間から懸命に手を伸ばした。しかしその手は届かなかった。

 姉は真っさかさまに落下し、青白い月光の下で真紅の花を咲かせた。大きな大きな、血の花を。





 姉は、男のすべてだった。

 早くに両親を亡くし、姉は高校を中退して働いて、男を大学にまで行かせてくれた。

 ずっと二人で生きてきた。

 ずっと二人で生きていくのだと思っていた。

 そんな姉が死んだ。自分の目の前で、自分を置いて。

 そんな事実を、受け入れられるわけがなかった。

 「だから記憶に蓋をして――」

 そして今、姉が死んだこの場所で、面を介して鵺に宿った青年が静かに言葉を継ぐ。「相手の男性を憎んだんですね。あなたのお姉さんを奪った男性を。その男性のせいでお姉さんが死んだのだという事実にのみ目を向けて」

 男の膝ががくりと折れた。肩が小刻みに震えていた。

 「お姉さんは天国に行った」

 青年は男の肩をそっと抱いた。「でもあなたは、今死んでもお姉さんの所には行けないと思います」

 青年は静かに、きっぱりとそう断言した。

 不意にけたたましい電子音が闇を引き裂く。桐嶋の携帯であった。先程鵺がへし折ったのとは別の携帯を内ポケットに入れていたらしい。桐嶋は二言三言応対して電話を切った。

 「おい。喜べ」

 そして、フリップを閉じて男に告げた。「ガイシャは命を取り留めたそうだ。貴様は殺人犯にならずに済んだぞ」

 男の目から新たな涙がどっと溢れ出した。

 「ほら、ね」

 青年は男の背中を優しくさすり、柔らかに微笑みかけた。「お姉さんが助けてくれたんですよ。ね?」

 男の唇がかすかにわなないた。

 そして、男はそのまま慟哭した。体を丸め、声を上げ、子供のように泣きじゃくる男を青白い満月だけが無言で見下ろしていた。





 「予備の携帯なんて持ってたんだ?」

 地上に下り、闇夜に消える赤いパトランプを見送りながら鵺は桐嶋を見上げる。桐嶋はふんと鼻を鳴らして葉巻に火をつけた。

 「非常事態に備えてな。大事な時に電池が切れたりしたらシャレにならんだろう?」

 「そりゃそうだね。でも、予備を持ってるならさっさと部下に連絡すればよかったんじゃない?」

 「まあ、な」

 桐嶋はうまそうに煙を吸い込み、夜空に吐き出した。「見物も悪くないと思ったのさ。おまえのようなガキに何ができるのか――」

 そしていったん葉巻を口から外し、じっと鵺を見下ろした。

 「おまえは満月の夜のたびにこうやって現れているそうだな。なぜだ? なぜ縁もゆかりもない人間のためにそんなことをする?」 

 「うーん」

 鵺は背中で両手を組み、爪先で小石をコンと蹴った。「さっきも言ったけど、あの人、生きられるものなら生きていたかったと思うんだよね」

 桐嶋は鵺の言葉を肯定もしなかったが、否定することもしなかった。

 鵺はすっと目を上げて微笑んだ。

 「だから彼が殺した人数分だけ、今度は反対に助けるの。友達だから」

 “鵺の命はとっても軽いの”。

 かつて鵺はそう言った。そして、命の重さがみな平等だというのなら、自分以外の者の命も自分と同じように、ゴミのように軽いはずだと。そんな命を奪って何がいけないのだと。そしてその理屈を通すならば、自殺を止めなければいけない理由などないはずだった。奪っても構わない命ならば、自分で絶つことが許されないはずがなかった。

 しかし、それでも、自殺願望者を助けたい。自分の目の前で消えた、否、消えるしかなかったあの人のために。たとえこの身が作り物であろうとも、鵺という人格が作られた物であろうとも、鵺はこの身で指きりをした。あの人はこの鵺のことを“きっと忘れない”と言ってくれた。だから、鵺を動かす理由はそれだけで充分だった。たとえそれが、少し前の鵺なら“甘っちょろい感情だ”と唾を吐きかけたくなるような代物であろうとも。

 険しく彫り込まれた桐嶋の目がわずかに細まった。それは笑みを形作ったかのようにも見えた。

 「犯罪者を捕まえることだけが警察の仕事かと言ったな。警察には警察のやり方がある。あいにくだが、大人の世界はおまえが言うように簡単じゃないんだよ。特に巨大な権力組織ではな」

 桐嶋は再び葉巻をくわえ、唇の端をかすかに持ち上げた。「だが・・・・・・俺の個人的な意見としては、おまえのような考え方は嫌いではない」

 鵺は口許にぷっくりとえくぼを浮かばせた。

 「鵺もね、桐嶋のおじちゃんのことは好きになれない。でも、完全に嫌いってわけでもないよ」

 赤いランプを点滅させながら覆面パトカーが近付いてくる。鵺は再び天狗の面を着けた。

 「お互い様か」

 桐嶋はにやりと笑い、手を上げて覆面パトカーに合図した。「どうやら俺とおまえはあまり相性がよくないようだ。おまえはおまえのやり方で勝手にやればいい。俺は俺のやり方でやらせてもらう。俺のやり方が正しいかおまえのやり方が正しいかは互いが互いを見て決めればいい」

 「正しいとか間違ってるとか、そういう問題じゃなくない? 鵺、やっぱり桐嶋のおじちゃんは好きじゃないなぁ。組む気にはなれないよ」

 鵺は緩やかに首をかしげつつも天狗の面の下で微笑を浮かべた。「でも、またいつかどこかで会っちゃいそうな気がするね。とっても残念だけど」

 「かも、な。せいぜい暇つぶしくらいにはなりそうだ」

 楽しみにしている、と桐嶋は皮肉な笑みを浮かべて車に乗り込んだ。

 排煙をあげて走り去る覆面パトカーを見送りながら鵺は肩をすくめる。やはり桐嶋は好きになれそうもない。性格的に合わない人間というのはいるものだ。

 しかし、今夜のようなことを続けていればいつかまたどこかで出くわしてしまうのかも知れない。それもまぁ悪くはなかろう。少なくとも退屈はしなくて済みそうなのだから。

 「ま、暇つぶしくらいにはなるかもね」

 鵺はそう呟き、とんと地面を蹴った。体に満ちた天狗の力が小柄な体躯をビルの屋上にまで軽々と運び上げる。いったん屋上に足をつき、鵺はまたアスファルトを蹴る。ビルの屋上から屋上へと身軽に飛び移り、摩天楼の闇に消えていく鵺を青白い月光だけが照らしていた。 (了)


PCシチュエーションノベル(シングル) -
宮本ぽち クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年07月18日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.