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『香蓮園の歌 』
神居・美籟5435)&(登場しない)


 夏の夜の気だるさに眠れず、神居美籟(かない・みらい)は陽の昇りきらない早朝にふらりと家を出て、目的を定めない散策の徒についた。
 道端の朝顔が静かに花咲き、優しい香りを美籟に届ける。全ての香が凪いで居るのは早朝故か、それとも眠れぬ夜に物思いに耽り、未だ思考がそこから抜け出せずにいる為か。
 一つに結んだ漆黒の髪は腰まで真っ直ぐに伸び、時折吹き抜けてゆく風に揺れて微かな沈香を漂わせる。藍の絽を身に纏う姿は凛として、夏にありながらも見る者に清涼感を与える。だが、己がそんな清廉な姿を呈している事に、美籟自身は気づいていない。それどころか、美籟の表情には微かな陰りが窺えた。脳裏を掠め行くのはついえぬ疑問。

――護とは何か。
四代毎に産まれ、一族の繁栄を担う者。
――立場とは何か。
子を成し、加護を絶やさぬ為に生きること。
――では生きるとは何か。
…………

 きりがなかった。
 何故「四代」毎の誕生なのであろう。「三代」ならば穏やかに生きる事も出来よう。「五代」ならばその加護を欠こうとも諦めもつこう。「四代」であるが故に――。
 そこまで思うと、美籟は瞳を閉じ唇を軽く噛み締めて頭を振った。

――生き急ぎ、私は己を見失ってはいまいか。

 己の『護』という立場を厭う訳ではない。だがそれを思うにつけ、心の深淵に横たわる疑問が美籟の心に枷となってのし掛かる。
 理性で解していても、齢16の若さで己が宿業を完全に受け止めるのは難しい。


 ふわりと風に乗って栴檀の香が届き、美籟は考えるのを止めた。
 足を止め顔を上げると、そこは地元にある総本山の入り口であった。
 いつの間にこんなところまで歩いて来たのか――。深い緑を湛える高木を両脇に、真白の参道が真直ぐに続いている。どこの宗派であったかは定かでないが、香は寺の奥から流れて来るようである。この場であれば栴檀が焚かれていても何ら不思議はないが、それに紛れてもっと奥の深い香が己を呼んでいる様な気がして、美籟はそのまま本山へ入り込んだ。


*


 地元ゆえに見過ごしがちであったが、全国に名の知れた寺である。観光客こそ多くは無いが常に人は絶えない。けれど今日はいつにもまして忙しなさを感じ、美籟は首を傾げた。
 中門を過ぎ本堂まで辿り着くと、数人の小坊主が本堂の廊下を走り奥へと消えて行く姿が目に入った。他にも袈裟を掛けた僧侶が数名、本堂の中で何某かの準備をしている。
「今日は何かの法要でもあるのか?」
 七月も半ばである。盂蘭盆の季節であるから、それに随する行事があるのかもしれない。栴檀の香が一際艶やかに美籟へ届いたのも無理からぬ話である。
 そんなことを考えながら美籟がふと視線を脇へと向けると、本堂の裏手に石段が見えた。
 どこへ続く石段であるのか。このまま散策を終えて家に帰ったとしても、再び答えの出ない疑問に思考が戻るだけだ。もう少しこの場に留まって、これから何が始まるのか見届けてみるのも良いかもしれないと、美籟は静かに歩き出した。



――蓮。
 石段を登りきった先。奥の院へと続く橋の下に、今が盛りと無数に咲き誇っていたのは一面の蓮であった。
 池の泥水からは葉が高く生え、その合間から葉に負けじと同じ高さを保って薄紅の花が咲き誇っている。恐らく今時分が一番美しい状態なのであろう。蓮は凛と気高い芳香を周囲に放っていた。

――あの歌は何と言ったか。

 蓮の香に魅せられて美籟の胸内を過ぎていったのは、ひとつの歌。
「蓮葉の 濁りに染まぬ 心もて……」
「……なにかは露を 玉と欺く」
 何とはなしに口をついて出てきた歌であったが、不意に美籟の声を遮ってその続きを詠んだ者が居た。
 些か驚いて美籟が顔を上げると、そこには一人の僧侶が立っていた。奥の院から本殿へ向かう途中なのだろう。仔細を知る訳ではないが、その身に纏う装束から、かなりの高僧ではないかと美籟は思う。微かに鼻を掠めるのは栴檀の香。僧侶の徳ゆえ、香に一段と奥床しさが備わっている。
「遍照様の御歌ですな」
「ああ。蓮を見ていたら、この歌を思い出した。……驚いたな」
「何がでしょう?」
「本堂の裏に、蓮池があるとは思わなかった」
「香蓮園(きょうれんえん)と人は呼びます。石段が本堂に隠れて見えませんので、知る人ぞ知る穴場ですが」
 我々にとっても憩いの場ですよと、顔にある皺を一層深くして穏やかに笑う僧侶の声はどこまでも低く、深い。節だった手で己の頭を軽く撫でる僧侶の姿に、自然、美籟も静かな笑みを浮かべていた。

「……何か、思うところでもおありでしたか?」
 不意に問われ、蓮へ戻そうとしていた視線を、美籟は再び僧侶へ向ける。
「思うところ?」
「若い娘さんが朝早くから御参拝というのも珍しい事です。……何か、思いつめておられるのかと。私の思い過ごしであれば笑って下さい」
 問う僧侶の声には微かな遠慮が込められている。僧侶には美籟が世を儚んでいるようにでも見えたのだろうか。
 早朝。寺。無愛想な中にも何処か思い悩んでいる風体の娘――。なるほど僧侶がそう考えてもおかしくない素材が全て揃っているではないか。果たして自分はそんなに深刻な顔をしていたのだろうか。思いつつ、美籟はあえて言葉を濁した。
「いや。眠れぬものだから散策に出ただけの事。特別深い意味があって来た訳ではない」
 確かに物思いに耽りはしたが、人に心内を曝け出すのも、諭されるのも好きではなかった。諭されたところで己が納得しなければ永遠に道は見えない。
「そうでしたか……。今日は丁度、施食会(せじきえ)法要の日。じきに読経が聞こえて来るでしょう。こちらで聴いて行かれると良い」
 眠れぬならこれをと、僧侶が己の着物から取り出して美籟に差し出したのは袖香炉であった。手渡された香炉から流れる栴檀は、どこまでも深い奥ゆかしさを湛えて美籟を包み込む。
 美籟が礼を述べると、僧侶は一言の会釈をして場を離れた。

「施食会だったのか」
 道理で本堂の辺りが忙しないはずだと、美籟は先ほどの喧騒を思い出して納得する。
 生きるもの、この世に生を受けた全てのものに対する感謝の法要。同時にそれは、己に与えられた命を尊び、長寿を願う法要でもある。
「己が命の在る事に感謝を……か」
 美籟は僧侶の姿が見えなくなるまで見送ると、再び蓮へと視線を向けた。

 護という立場から開放されるには、次代の護が生まれねばならない。次代まで、この宿業と供に加護を担わねばならない。
 四代――。あと四代、生き続けなければならないのだ。
 長寿を願う日に、それと知らず寺へ足を運んだのは何の縁か。
 思い、全てを振り払うかのように美籟は音に出して和歌を口ずさんだ。
「蓮葉の 濁りに染まぬ 心もて なにかは露を 玉と欺く」
 蓮は、己の抱く宿業と少し似ていると、美籟は思った。
 蓮もまた花が咲きその命が開放されるまでに四日。蓮は四日の間早朝に花開き、四日目に花弁を落とす。だがその代わり、次代の新しい蓮の蕾が泥水から真っ直ぐに伸びてくるのだ。

 濁った泥水にあっても汚れなく清らかな姿を保ち続ける蓮の花。
 自らも迷いなく凛と、蓮のように上を向き前へ進むことが出来るのだろうか。
 解らない。けれど――。

――この蓮池を見出した時のように、歩かねば見えぬ道もあるのだから。

 己に言い聞かせる。強く。
 俄かに、本堂から読経が響き始めて、美籟は静かに瞳を閉じた。
 雨が地を流れ行くように、数多の僧侶が唱える読経は荘厳な歌となって、美籟の心をひと時でも潤していく。
 全てを包み込み癒しを与える香のように、己が身に添う宿業をありのまま受け入れることが出来ればいい。
 思い、美籟が瞳を開いて空を仰げば、朝日が確かな強さを持って天に昇っていた。



<了>

PCシチュエーションノベル(シングル) -
綾塚るい クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年07月10日

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