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『ハイドランジアの午後を 』
リラ・サファト1879)&藤野 羽月(1989)&(登場しない)



 2年になろうとしている。
 リラ・サファトと、藤野羽月が出逢ってから、2年になろうとしていた。

 リラが窓を開け放つと、涼しい風が居間に入りこんできた。じきにこの風は熱気を含み、蝉の声を一緒に連れてくるだろう。だが今は、まだ6月だ。ぐずついた天気がつづいていたが、この日は朝からからりと晴れ上がっていて、風も空気も乾いている。
 リラは大きく息を吸いこんだ。もうじき2年になる、と考えながら。羽月のことと、この心地いい風のことも考えていた。風の中に、清らかな石鹸の香りも混じっている。誰かがこの晴天を逃さず、外に洗濯物を干しているのだろう。
「……あ」
 その石鹸の香りに隠れるようにして、何か、花の香りがあるようだ。何の花の匂いだろう、とリラはまぶたを閉じる。閉ざされた視覚を補うように、嗅覚と聴覚が力を帯びる。しかし、花の香りは追いやられてしまった。
「晴れたな」
 羽月の香りによって。
 彼の和装には、独特の香りがある。それをリラは、羽月そのものの香りだと見なしていた。いつもそばにあるはずなのに、忘れたことなど一度もない香りだ。
 リラは目を開ける。
 羽月はリラの隣に、開け放たれた窓の前に立ち、真っ青な空を見上げて微笑していた。
「久方ぶりの青空だ」
「はい。真っ青」
「またいつ雨が降りだすかわからない。せっかくだから、出かけよう」
「……はい!」
 ただ目的もなく歩くのもよかった。ふたりで貴重な6月の晴天の中を歩く――それだけでも、すばらしい目的であるように思えた。けれども、どちらからともなく、『記念』に何か買おうという話になっていった。
 羽月は何も言わなかったが、彼も覚えていたのだ。もうじき2年であるということを。


 食べ物でもよかった。甘いクリームのお菓子や、バターたっぷりのクッキー。トマトとベーコンの冷たいパスタ。しかし、ふたりはいつまでも形として残るものを選んだ。アルマ通りのはずれ、少し閑静な商店街の家具店に、ふたりは入っていった。
 店の奥では難しい顔をした老職人がオークの鏡台を磨いている。完成間近であるようだ。カウンターには、職人の妻なのか、品のいい老婦人がいたが、レース編みの途中でまどろんでしまったらしい。古い椅子に座って、舟を漕いでいた。
 リラはその老婦の姿を見て、羽月に笑顔を見せる。しいっ、と人差し指を唇に当てた。
 ふたりは静かに静かに、家具を選んだ。
 買っている子猫たちのために、ちいさなスツールを。
 出逢ってもうじき2年になる自分たちのために、ダイニング用の2脚の椅子を。
 ふたりのささやかな笑い声で、カウンターの老婦が目を覚ました。奥で作業をしていた職人が手を止め、木の匂いで満ちる店内を覗き込む。
「夕方には手が空く。あんたらの家まで配達しよう」
 むっつりと、職人は言った。ちょうど、無謀にも羽月が椅子を2脚担ぎ、リラがスツールを持って帰ろうかと相談していたときだった。
「本当ですか? 助かります。ありがとうございます!」
ありがたい申し出にリラは満面の笑みで職人に礼を言ったが、老職人はむっつりと口を閉ざし、ぷいとふたりから目をそむけて、また鏡台を磨き始めた。
「照れてるのよ」
 老婦が嬉しそうに笑いながら、ふたりに囁いた。


 親切な照れ屋の職人のおかげで、ふたりは手ぶらで帰路につくことができた。用事はすっかり果たしてしまったが、ふたりはまだ、歩いていたかった。空に浮かぶ雲の動きは少し速く、数が増してきている。けれど、まだ充分『晴天』だ。
 商店街や住宅街を抜けてしまうと、辺りは草花や木々ばかりになり、やがて民家は見当たらなくなった。ゆるやかな上り坂がつづいている。坂道を上りきれば、天使の広場や通りを一望できる丘の上に出ることができる。ふたりはその道をゆっくり歩いた。道沿いの花に目を落としながら。
 タンポポの花はほとんどが綿毛になっていた。涼しい風が吹いて、綿毛が飛んでいく。春は終わっていた。雨がちな今が過ぎれば、ソーンは夏に包まれる。草花はその到来を待ちわびているのか、緑の葉を豊かに伸ばしていた。その緑の濃さに目を奪われて、羽月が呟く。
「今年も暑くなるだろうか」
「今の季節がずっとつづけばいいのに」
 雛菊を眺めながら、リラが羽月の呟きに応じた。
「そうか。リラさんは雨が好きだったな」
「はい。雨のあいだに、こうしてたまに晴れの日が入ったら……素敵です」
 雨は水と涼しさを届けてくれるだけではない。こうして、晴天を引き立ててくれる。今、ふたりの前に茂っている緑の葉のようだ。緑が多いからこそ、綿毛の白と、雛菊の白が映えている。
 ふと、いやに湿った風を感じて、羽月は空を仰いだ。空はそのほとんどが白に包まれていた。わずかな切れ間から青を見出せるだけだ。
「リラさん、ひと雨来そうだ」
「えっ? どうしましょう。お家までまだだいぶ……」
「いや、確かこの先に四阿があるはずだ。……それに、降るとは限らないし。ただの勘だから」
 しかし、羽月の懸念どおり、雨はぽつりぽつりとやってきた。


 雨が来るとき、その足音が聞こえる気がする。羽月はそう思っていた。雨が来る――その予感が外れたことはない、ような気もした。
 幸いどしゃ降りとも本降りとも言えないささやかな雨で、長くはつづかないものと思われた。ふたりは紫陽花に囲まれた四阿で、雨しのぎがてらに休憩をした。この午後のうちに、やるべきことは何もない。夕方までに家に戻ればいい。家具が届くまでに。
 紫陽花の花は、青のような紫のような、微妙な色に染まっていた。紫陽花も、季節の変わり目の只中にいる。その花と大きな葉に雨を受けて、生き生きとしているように見えた。風が吹きぬける四阿から見えるのは、紫陽花、紫陽花、紫陽花と、雨だけだ。リラは飽かずその雨と紫陽花を見つめ、羽月はそのリラを見ていた。紫陽花の花はやがて、リラの髪と目のような色になり、終わって、葉だけで夏を迎えるのだろう。
 リラは喜んでいる。
 雨と紫陽花を見て、目を輝かせている。
 けれども羽月は、実は、雨があまり好きではなかった。リラには一度も言ったことがない。リラの雨を愛でる心に触れていれば、羽月は、ひょっとしたら自分も雨を好くことができるようになるのではないかと考えていた。
 羽月は、雨の中で人を傷つけたり、逆に傷つけられたりした記憶が、どういうわけか多いのだ。
 ――リラさんとは違う人間だということだ。だがそれは、些細な違いでしかない。
 生涯雨を好きになれないとしても、きっとそのうち、雨のよさがわかるようになってくるはずだ。雨を受けて生きている紫陽花を見て、羽月は思った。雨は何も悪くない。雨もそれほど、悪くはなかろう。
 木造の四阿が濡れる、寂びた匂いは、紫陽花の匂いの底を流れていた。
「きれいですね。すごく。ほんとにきれい……」
 時おりそう呟いていたリラは、いつしか羽月にもたれかかって、浅い眠りについていた。
「ああ、きれいだ。紫陽花には、やはり、雨だ」
 夢の中のリラに向かって、羽月は薄く微笑みながら、そう囁いていた。彼の目の中にある紫陽花は、どれも蒼い色をしていた。


 ゆっくり、ゆっくりと、雨が上がっていく。ずっと見ている限りでは、いつ頃からやみ始めたのかわからないほどに、ゆっくりとした退き際だった。厚い灰色の雲が、次第に白く染まっていく。


 リラは夢を見ていた。温かい雨の中にいる夢だ。羽月が雨をあまり好いてはいないことを、彼女は知っていた。羽月は一度も、それをはっきりと言ったことはないのだが――彼女にはわかっている。
 雨がつづいたあとの晴天に、彼がいつも言うことば。
『晴れたな』
 羽月はさほど表情が豊かではない。冷静で、その喜怒哀楽は実に静かに顔にあらわれる。晴れたな、と言うその顔も、けして満面の笑みではない。
 けれども、リラにはわかっている。今の彼女は、2年分の彼を知っている。羽月は雨が上がれば、いつも喜んでいる――。
 人の好みは、それぞれだ。リラは、羽月に雨を好けと強いるつもりはない。それが羽月だ。
 だが、夢の中で、リラは雨の中を歩く羽月を見た。蒼い番傘をさして、紫陽花と雨の間を歩く彼。彼は時おり、傘の外に手を出して、温かい雨で手を濡らす。
『いい雨だ』
 そう呟いて、彼は微笑んでいる――。
 夢は願いだ。
 彼と一緒に、心から雨の到来を喜べる日が、もしも来るなら。
 ――嬉しいけれど。けれど……。
 夢の羽月は、傘から出た。目を閉じ、顔を上げて、雨を受けている。紫陽花と一緒に、雨を受けている。リラは紫陽花のあいだから飛び出した。屋根から逃げ出した。羽月と紫陽花の中に飛び込んで、彼女も雨を受けていた。


 リラはゆっくり、目を開ける。羽月の温もりはすぐそばにあった。
「上がったな」
 羽月のことばが、リラを揺さぶる。リラは顔を上げた。羽月は、四阿の外を見て微笑んでいた。
 彼の視線の先に、光がある。雲の切れ間から、傾いた午後の日差しが射し込んできていた。光は丘と、緑と、紫陽花を照らしていく。
「綺麗だ……」
 紫陽花の葉と花弁に乗った雨粒が、まるでガラスのようにきらめていた。羽月は息を呑むようにして、そう呟いた。リラは笑っていたが、しばらく言葉が出てこなかった。これほど美しい紫陽花を見ることができるとは思わなかったのだ。
「雨も悪くない」
「そうでしょう」
 ふたりは顔を見合わせる。お互い、笑みの中に、ちょっとした驚きを秘めていた。
「そろそろ行こう」
「またいつ降り出すか、わかりませんしね」
「聞いたような台詞だな」
「私も、そう思います」
 手を繋いで、ふたりは紫陽花に囲まれた四阿を出た。鳥がさえずり始めている。雨の間、かれらはずっと黙っていた。蝶と蜂の姿も見えた。今まで、どこかに隠れていたのだろう。かれらの身体の大きさでは、落ちてくる雨粒も脅威の存在だ。
「勘だが――」
「はい?」
「ちょうど帰った頃、椅子が届きそうだな」
「あ、そうかもしれません!」
 服の裾を濡らしながら、ふたりは帰り道に戻る。進んでいく――夕暮れの予定に向かって。
 3年目に向かって。


 リラはようやく思い出す。
 風の中、石鹸の香りに隠れていた香り。あれは、紫陽花と雨の香りだった。




〈了〉
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聖獣界ソーン
2006年07月07日

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