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『紅夜 』
紅・蘇蘭0908)&(登場しない)



 自分が出るほどのことではないだろうけれど、と彼女は自分に弁解した。弁解してから、宵闇の中に沈む店を出た。

 伽藍堂、という名の骨董品屋だ。名の響きとは裏腹に、店内は多数の商品で埋め尽くされている。店内は世界中の文明で混沌としていたが、心なしか、中国大陸産の品物が多いように思われた。
 店主は紅蘇蘭である。
 彼女が店に立っているかどうかは、彼女のその日の気分に尋ねるしかない。いない日もあれば一日中カウンターの奥で座っていることもある。時おり何の前触れもなく閉店し、一切の宣伝も打たずに突然商品を整理して営業を再開することもあった。
 気まぐれだ。商売のことなどろくに考えていない。
 実際、この伽藍堂に入る客は、ほとんどが骨董品に興味を示さず、別件で店主を訪ねてくるのだ。大抵がサングラスやダークスーツで個性を隠し、本名さえも打ち捨てていた。
 蘇蘭は骨董品だけではなく、かたちはないが確かな情報や、人間たちが定めた法では取引が禁じられているものまで扱っているのだ。日の光の中を生きる人間たちには無縁で無用の、黒い繋がりを持っている。伽藍堂を訪れる者の多くは、蘇蘭のその『顔』を知っていた。
 いつもの退屈な夜のこと、ひとりの黒服が伽藍堂を訪れた。
 そして、話を聞いた紅蘇蘭は、黒服が帰ってしばらくしてから、店を出て行った。
 出て行ったかと思えば、すぐに戻ってきた。
 伽藍堂の入口に鍵をかけ、『準備中』の札を掲げると、彼女はまた出かけていった。


 金が消えたらしい。
 その金には蘇蘭も関わっていたし、1万や2万という額ではなかった。持ち逃げした人間がいるのは確かだがなかなか見つからない、蘇蘭に迷惑をかけてしまったと、今日の黒服は頭を下げてきた。謝罪はあくまで『ついで』だったのかもしれない。
彼と、彼の上に立つ者は、蘇蘭に金の在り処をつきとめてほしいと哀願していた――蘇蘭にはそう見えた。サングラスと、当たり障りのないスーツで隠された心。感情が辿ってきた過去の記憶。蘇蘭の目から隠せるものは何ひとつない。蘇蘭に見えない、知らないものごとがあるとすれば、それは彼女がみずから「見ないことにした」ものごとだけだ。
 消えた金の在り処もわかっている。探すまでもなかった。
 けれども、どんなに多額の金が消えたところで、紅蘇蘭が怒ることも、困ることもない。彼女は富など欲しない、必要ともしていない。人間たちが金に翻弄される様を横合いや高みから眺めて、彼女はいつも、哂っているだけだ。彼女が動かした金には、大概、あとから――または彼女が手をつける前から、血が絡んでいた。この国では金のために人が泣いて笑って、しょっちゅう命を落とす。それを蘇蘭はただ見物していた。
 そんな紅蘇蘭が、今宵は、金のためにみずから動いたのだ。


 蘇蘭は、わざわざ歩いていた。電話ひとつで車を手配させることも、地を縮めて瞬時に目的地へ行くこともできたが――今宵の彼女は歩いている。取り巻きも、ひとりもいない。銀の煙管に煙草も詰めず、手持ち無沙汰に弄びながら、歩いていた。
 夜の東京の、妖しい界隈だ。目に焼きつくような赤や、欲望に媚びるようなピンクの明かりが、黒い闇に滲みながら浮かび上がっている。人通りは、少なくなかった。蘇蘭は流れるような歩みで、するりするりと音もなく、酔っ払いや着飾った女たちを避けながら、悠然と夜道を進む。
 紅い目を細め、美しい芝居を見ているような笑みで、蘇蘭は通りや、人を眺めていた。眺めながら、彼女は金の在り処に向かっている。
 色とりどりの光や、きらびやかな姿の女、赤ら顔の男たちでは韜晦しきれない、血と死の臭いが彼女を導く。ふと蘇蘭は暗闇で足を止め、ようやく、煙管の中に刻み煙草を詰めた。ライターもマッチも持っていなかったが、いつの間にか刻み煙草には火がついていて、蘇蘭はその煙を吸っていた。
「石を隠すには、砂利の中……」
 都心のどこにでも転がっている、薄汚れた古いアパート、明かりどころか、カーテンがかかっていない窓も多い。あまりに古すぎるせいか、周囲にここよりも都合がいい物件が揃っているためか、入居者は少ないようだ。
 金はここにある。金を持ち逃げした人間も。金を失った者たちは血眼になって東京じゅうを探しているのだろうが――蘇蘭の独り言がすべてだった。
 彼女の風体、そして彼女が持つ気配そのものと、この木造アパートはあまりに不釣合いであった。暗い夜の中、蘇蘭がふしゅると吐く紫煙、彼女の紅い瞳が、面妖な光を帯びて浮かび上がっている。
 蘇蘭はアパートに足を向け、錆びた鉄製の階段を上り、ある一室のドアを開けた。鍵がかかっていたが、鍵など蘇蘭の世界では何の力も持っていなかった。


 室内は異様な臭気や執念に満ちていた。空になったカップ麺の紙カップや、惣菜のパックがゴミ袋に突っ込まれている。ゴミ箱はない。家具らしい家具もなかった。つい最近ここに慌てて越してきたのだろう――蘇蘭には、それがわかる。
 小さなテレビの前には、競馬や競艇の新聞が散乱している。安い煙草の臭いが、誰かの苛立ちの念とともに、部屋の壁に染み付いていた。
 部屋はこの居間の他に、もうひとつあるようだ。蘇蘭はそちらに目を向けた。窓とドアは閉め切られていたが、細い風が吹いた。
「うわあッ!?」
 その部屋は、寝室として使われているらしい。蘇蘭の視線と風を受け、寝ていた男が悲鳴を上げて飛び起きた。その声に驚いたか、彼の後ろに引かれていた布団の上で、ふたつの小さな影が起き上がる。
 子供がいるらしい。ふたり。
 蘇蘭は、ふっ、と息をついた。父の声に起こされたふたりの子供は、たちまち再び深い眠りに落ちて、布団の上に横たわった。
「あ、あ、あんた……、あんた、」
「愚かなことをしたわね。あれだけの金を、博打に使うとは」
「う……、う、う……」
「連中があなたと金を探しているの。行って洗いざらい話すといいわ」
「か、返す……明日レースがあるんだ、大穴に賭ける。必ず返せる」
「残念だけど、その馬はそのレースで5着」
 男はレースの時間も場所も、賭ける馬の名前も言っていないが、蘇蘭は笑んで言い切った。
「それに、私は金などどうでもいいの。連中があなたと金を探している。それだけなのよ。今夜は暇で暇で仕方なかったから、私が出向いた。本当に、ただそれだけ。あなたにとってはね」
 トランクスとTシャツ姿の男を、紅色の視線が射抜いた。はぐッ、と男は目を見開き、仰け反って、震えながら立ち上がる。
「い、いや……だ、行けば……殺され……ころ……」

 男の意識と視界の中には、もう、暗闇と紅い光しか存在していない。感情らしい感情もない紅は、男を駆り立て、無言で脅す。
 行け。歩け。話せ。
 行け、夜を。おれが辿る道を。

 蘇蘭の横を、男はかくかくと通り過ぎた。いやだ、こわい、と呟きながら、目を見開いて、彼は行く。律儀に靴を履いてから、金の運び手は金も持たずにアパートを出て行った。
 使いこめば殺される金だったと知っていながら、男がなぜ賭け事にその金を使ってしまったのか。蘇蘭は理由を知ることはできたが、よく理解できなかった。彼女にもよくわからないことはある。たとえばそれは、人の心だ。人が考えることだ。この国の妖怪サトリの言い分も、言い得て妙だと彼女は思う。人の心は、焚き火の中に入れた栗だ。手斧だ、草履だ。
 彼女はまだ、そこを去ろうとしなかった。蘇蘭は寝室に入り、自分が眠らせたふたりの子供を見下ろした。
 まだ、5歳か6歳か。男の子と女の子だ。双子かもしれない。
 この子供たちをこのままにして、自分が伽藍堂に帰ったあとの、十数年後を蘇蘭は見た。男の子は老人の家で強盗をはたらき、女の子は暗い飲み屋で男に太ももの内側を撫で回されていた。ふたりの父親の姿を、その未来の中のどこにも見出すことはできなかった。
 ふう、と蘇蘭はため息をつく。
「来なさい」
 蘇蘭が囁いた途端、蘇蘭の視界に広がるふたりの未来がかき消えた。新しい未来は、おぼろげな紅色に染まっていて、まだはっきりと定まっていない。
 囁かれたふたりの子供は、夢うつつの面持ちで、ぼんやり立ち上がった。
「知り合いに、金に困っていない年寄りがいるけれど、ちょうど養子を探しているのよ。あなたたちを紹介しましょう」
 蘇蘭は微笑した。子供たちは、その紅い唇が描く、横たわった三日月を見ただろうか。
 蘇蘭の気まぐれで始まった夜は、蘇蘭の気まぐれで終わろうとしていた。彼女は、変わっていく子供たちの未来を、わざと見ないことにした。このふたりがどう成長していくか眺めるだけでも、数十年の暇つぶしになるだろう、と。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2006年07月06日

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