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『緑の掟 雨と紫陽花 』
藤井・葛1312)&藍原・和馬(1533)&藤井・蘭(2163)&(登場しない)



 東京では連日、雨がつづいていた。今年の梅雨はとりわけ陰湿であるようだ。洗濯物を部屋干しする日が連なり、何をするにも、暗い雨音がついてまわる。
 居候が窓辺の観葉植物やサボテンと一緒に、むくれた表情で外を眺めているのを見て、家主の藤井葛は、彼を連れて東京ではないどこかへ逃げようかと考えた。思いきり光合成もできない日がつづいては、いくら水が好きな居候の蘭もつらいだろう。それに――このままでは窓枠にぶら下がったてるてる坊主でのれんができそうだ。蘭が作るおひさま祈願のてるてる坊主は、日々増殖していた。
 葛は蘭には内緒で、アシを持つ藍原和馬と示し合わせ、一日だけでも雨から逃げる計画を立てた。大したことではない。ただ、山へハイキングに行くという、ただそれだけのことだ。


「ねえねえねえ、どこいくなの?」
「ひみつ」
「えーっ、どこいくなのー?」
「ないしょ」
「わかった! かいがいなの! がいこくなの! そうでしょ!」
「ブブーッ!」
「はずれ」
「ぅむーっ……」
 車中では不毛な問答がつづいた。和馬が運転する車は相変わらず雨の降りしきる東京を抜け、畑が広がる平野を横切り、緑が鬱蒼と茂る山の中へ――峠の曲がりくねった道へと入っていった。
空は、もうすっかり見飽きてしまった面白くもない灰色だが、雨は降っていなかった。緑が増えるにつれ、蘭の口数は少なくなったが、反対に表情は明るくなっていった。和馬はルームミラーで、葛は振り返って、後部座席の蘭が嬉しそうにしている様子を頻繁に確認していた。
「ここ、まえにきたなの」
「おッ、正解に近づいてきたぞ」
「いつ来たか覚えてるかい?」
「えーと、えーーーっと……、モミジさんたちがきれいだったなの。ふゆのしたくをしてたころなの」
 そこまで言って、蘭がぱっと顔を輝かせた。
「おもいだしたなの! しかさんのおにくのなべをたべたところなの! またなべたべにいくなの?」
「それじゃちょっと芸がないからね。今日はひとつとなりの山に登るんだよ。途中まで道はこないだと一緒なんだけどさ」
「歩きながらこないだの紅葉に挨拶すんのもアリだわなー」
「アリなの! またあえてうれしいなの!」
 不意に、暗い車内に光が射し込んだ。まるで蘭が呼び寄せたかのようだった。晴れ、とはとても言えないが、分厚い雲に切れ込みが入り、うっすらと青い空がのぞき、黄と白の光が漏れてきていた。

 今日の葛と蘭は、完全なハイキングスタイルだ。帽子にリュック、水筒はもちろん、カッパやタオルも持ってきている。足には履き慣れたスニーカー。一方、和馬はなぜかいつもの黒スーツに革靴だ。リュックと水筒だけはハイキングにふさわしいものだったが、スーツに登山用リュックの組み合わせというのは、なかなか凄まじいものがあった。
「……和馬」
「ん? 何かな?」
「……あなたは、その、スーツ脱いだら変身しちゃうとか、そういう理由があるわけ?」
「はッはッはッ、変身だなんてそんなドキッとする冗談を言うなィ」
「は?」
「――今の発言はただの冗談なので気にしないように!」
「……。服はともかくさ、靴。そんなんで大丈夫? 歩きづらいんじゃ……」
「へーきへーき。旅行は履き慣れた靴でしろ、ってな」
「かずまおにーさん、ヘンなかっこなの」
「ストレートにグサッと来たぞおまえぇ!」
 がぅお、と和馬が両腕を振り上げて襲いかかると、蘭は歓声を上げて逃げまわった。大きな石も多い砂利の駐車場だが、革靴の和馬は器用に走りまわっている。
 ――まあ、本人がそれでいいなら……。
 葛は頭を掻いた。散策の途中で和馬が足をくじいたり、「足が痛い」とわめきだしたら何と言おう、と考えたりもしていた。
 すでに蘭と和馬は、追いかけっこのどさくさに紛れて、ハイキングコースを歩き始めている。薄汚れて、かなりの角度に傾き、矢印が空を指してしまっている立て札が、ふたりのそばにあった。『← ハイキングコース』。
「もちぬしさーーーん」
「ぅおーい、のろまー、早く来ーい」
 空を示す立て札の横で、和馬と蘭は立ち止まり、いまだ駐車場にいる葛に手を振ってきた。ふたりとも笑顔だ。蘭の顔いっぱいの笑顔を久しぶりに見た気がして、葛は嬉しくなった。
 ふたりのもとまで走って、ハイキングコースに入る。その前に、自分ののろま呼ばわりした和馬に軽く蹴りを入れた。


「みんな、おひさしぶりなのー!」
(あらあ、また来てくれたのねえ)
(こんな天気なのに、物好きだなあ)
(まあ、東京よりは雨も少なかろうが)
(おうチビ、去年の秋にも来たな)
 緑緑緑。
 どこまでも緑に近い緑。この山を切ってすりつぶせば、「みどり」の絵の具ができそうだ。
 もうじき訪れる本格的な夏のために、蘭たちが秋に訪れたことのある山は、緑の枝葉を伸ばしていた。ここの木々は、街路樹や盆栽のように枝を切られることもない。好き放題に伸びた枝には無数の葉が宿り、細い山道に屋根を作ってしまっていた。秋と冬の風景が、想像もつかない緑の世界だ。
 ここも梅雨に呑まれているが、東京の街中とは環境が違う。濡れたアスファルトや、乾かない洗濯物、ふやけたミミズや虫の死骸の臭いはしない。漂うのは、むせかえるほどに濃い、植物の息吹の匂いだ。
 太陽が分厚い雲の上にあるために、強い日差しはなく、木々のトンネルの真下はひんやりとしている。連日の雨を浴びる木々の葉はしっとりと湿り、露を浮かべたものまであった。
(山頂に行くのは自由だが)
(そろそろ雨が来そうだわ)
 今日は風も強くない。けれども、蘭が歩けば枝葉が揺れた。その音は、蘭には声に聞こえるのだった。木々はぐずついた天気の中の3人を少し心配しているようだった。雨が来そうだ、という言葉を受けて、蘭は少し不安になり、空に目を向けた。
 頭上いっぱいに広がっていた枝葉が、蘭に空を見せてやろうとばかりに、ざざざと動く。空は、見えた。蘭につられて、葛と和馬も空を見た。
 雲は変わらず分厚いが、切れ間があって、青空がうかがえる。
「どーした、チビ助? 急に空なんか見て。あの分じゃ、雨なんか降りそうにねエぞ?」
「でも、みんな『あめふる』っていってるなの」
「みんな……、そうか、山の木と草がそう言ってるのか……」
 葛はリュックを下ろし、中からカッパを取り出した。天気予報や空の見た目よりも、蘭が聞いた植物の声を信じた。カッパは買ったばかりの新品で、ポケットティッシュ大にきっちり折りたたまれ、ビニールケースの中に入っている。
「降ってからじゃ遅いから、蘭もカッパ出しときな」
「はーい」
「俺のは出したらかさばるんだよなあ」
「スーツ濡れてもいいのか?」
「はーい」
 蘭はクマのリュックから葛と同じ新品のカッパを、和馬は黒いゴムガッパ(たしかにかなりかさばるものだった)を取り出した。その、ものの数分後に――雨は、やってきた。
「わぁーっ! ひぇーっ!」
「お、おおおおお」
「ちょっとちょっとこれはひどいよ」
 通り雨だろうか。雷をともなう激しい雨だった。空に開いていた青い切れ込みはあっという間にふさがり、雲は厚さと黒味を増した。山はまるで黄昏時のような薄闇に呑まれ、3人の散策者は豪雨に呑まれた。カッパのおかげで服はさほども濡れそうにないが、斜めに降りしきる雨は、フードの中の顔まで濡らそうとする。前に進むのもままならない。
(どれ、仕方ない)
(屋根でも作ってやるか)
(あっちだ、柏の爺さんたちの下に行け)
「……あっち!」
 蘭は和馬と葛の手を引いた。ふたりが驚くほど強い力だ。蘭がふたりを引っ張っていったのは、古い柏の木の根元だった。周囲の柏が枝を伸ばして、大きな葉で雨を受け止めている。時おり一粒二粒の大きな水滴が落ちてくるものの、柏の下には豪雨が降りてこなかった。
「おウ、こりゃ、ありがたい。チビ助がやってるのか?」
「ちがうなの。たのまなくても、みんなたすけてくれるなの。そういうきまりなの」
「きまり……?」
「ぼくたち、みんなのみかたなの。みんなのためにいきてるの」
 蘭の言葉に、不思議な力があるようだった。寒気を帯びるような神秘性も秘めている。葛と和馬は知らず息を呑み、カッパのフードから顔を出して、頭上をあおぐ。
 柏たちは、3人を守っていた。誰も、助けてくれとは言わなかった。けれどもかれらは、屋根になってくれている。打ち付けるような雨を、3人のかわりに受けている。
 静かに自分たちを見下ろす視線を感じたような気がして、葛と和馬は無言になった。不気味ではなかった――ただ、畏怖のようなものを感じた。
 頼まれてもいないのに、酸素を出している植物たちは――切られても、文句を言わない植物たちは――ただ生きているだけで、この星の生物の味方をしている。そういうきまりになっている。初めにそれを定めた誰かなど存在しない。そういうきまりが、誰も知らないうちにできたのだ。
 突然の通り雨も、きまりに従ってやってきて、降って、去っていくだけだ。
 雨は叫びながら行ってしまった。風が吹いて、柏の葉が揺れた。雨粒が落ちた。なすすべもなく空を見ていた葛と和馬の顔の上にも。
「あめ、もうやんだなの。かしわさん、ありがとうなの!」
(なあに、礼にはおよばぬよ)
(しばらくは雨も来ないじゃろ)
(さあ、行きなさい)
 柏の下から出て、散策路に戻るまで、葛と数馬は無言だった。一度振り向いて、ふたりは柏や、他の木々を見た。かれらは笑っているだろうか、と。



「靴が泥だらけだよチクショー」
「言わんこっちゃない」
「ぐうの音も出ませんです、ハイ」
 草は頭を垂れ、山道の細かな砂利と土は水を吸い、歩けばぢゃぶぢゃぶと音がする。濡れた土と草の匂い、音の中を、カッパを脱いだ蘭は上機嫌で歩いていた。その後ろを行く和馬は、汚れてしまった革靴に渋面だ。葛は元気な蘭の様子を見て嬉しくなったり、和馬の愚痴を聞いて呆れたりと忙しい。
 空がだんだんと晴れていくことに気づいたのは、木々の葉がまばらになったためだった。
 40分ほどのゆるやかな道は終わり、3人の視界には、小ぢんまりとした古い寺と、それを囲む紫陽花の光景が飛びこんできた。
「わぁ……! アジサイさん、いっぱいなのー!」
「おウ、こりゃアすげエわ」
「こんなにいっぱいあるなんて……」
 葛と和馬は、ぽかんとしていた。
 秋、鹿鍋を食べに行くために買ったガイドブック。鹿鍋について書かれた次のページには、この、紫陽花に囲まれた寺のことが少しだけ記されていた。6月の雨の降りやすい時期でも、紫陽花見たさにここを訪れる者は少なくないらしい。ただ、この日は平日の午後だったためか、ほとんど人の姿を見なかった。
 濃い紫の屋根をいただいた寺は、紫陽花の豊かな葉と、蘭の顔ほどもある大きさの花に包まれている。花の色は紫だ。そろそろ見頃も過ぎて、枯れてしまうだろうか。
 紫陽花も寺もつい先ほどの通り雨を受けて、しとど濡れていた。晴れ始めた空からの光を浴びて、水滴という水滴は輝いていた。紫陽花も寺も手入れが行き届いているようで、小奇麗に整っている。今も、年老いた尼僧が紫陽花の世話をしていた。
「途中、雨に降られませんでしたか」
 せせらぎのようなおだやかな声で、尼僧は3人に言ってきた。僧衣も袈裟も紫色だ。
「大丈夫です。カッパ持ってたし――」
「かしわさんのしたであまやどりさせてもらったなの!」
「それは何より。お疲れでしょう。お茶はいかがです」
「あ、ハイ、いただきますわ」
 水筒の中身もまだろくに減っていない。葛は断ろうとしたのだが、和馬がにやにやしながらあっさり言葉に甘えてしまった。葛は和馬を一瞬睨んだ。
 けれども、尼僧が立てた抹茶と、出された茶菓子は格別だった。
 寺の中からは、秋に訪れたとなりの山が、緑に覆われた山が、まだ雲の多い空が――紫陽花が、なにもかもが見渡せた。紫陽花の大きな葉は豊かで、少しの風が吹けば、ざわざわと賑やかに騒ぐのだ。
「葛、カメラカメラ」
「あ、そうだね。……忘れてた」
 和馬に言われて、葛はリュックの底のほうにデジカメを入れてきたことを思い出す。ここまでの道中、カメラの存在は忘れていた。もっとも、忘れていたおかげで、カメラが雨に濡れることもなかったのだが。葛は寺から見える風景をカメラのメモリーの中に何枚も収めた。寺から出ても、収めつづけた。はしゃいでいる蘭も、おやつを頬張っている和馬も収めた。デジタルではなく、フィルムに閉じこめて、自分で現像したいという気持ちまで溢れてくる。
 和馬は和馬で、憑かれたように写真を撮りつづける葛を、じっと無言で見守っていた。いつものような茶々は入れず、蘭がどこかに飛んでいってしまわないように、横目で確認しながら。
「お撮りしましょうか」
 不意に尼僧に声をかけられて、葛は振り向く。夢中になっていたのが少し照れくさい。
 いっぱいの紫陽花と、寺の前に、尼はいた。美しかった。自分もその画の中に収まりたいと、葛は、抑えがたい衝動に駆られた。
「――お願いします」


 雨上がりの、濡れた紫陽花が、雲の切れ間から射し込む光に照らし出されている。
 藤井葛と蘭、藍原和馬の3人が、紫陽花と緑に囲まれて、笑顔で立っている。
 のちに葛は、その画像を高価なフォト光沢紙にプリントした。手持ちのプリンターで印刷できる最大の大きさで印刷した。一枚はフレームに入れて壁に飾り、一枚は和馬に渡すつもりで。
 印刷が終わる頃には、東京に夏が訪れようとしていた。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(グループ3) -
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東京怪談
2006年07月03日

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