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『夏の始まりに寄せて 』
三葉・トヨミチ6205)&(登場しない)



 三葉トヨミチという男が座長を務める劇団『HAPPY−1』は、規模としてみれば決して大きな劇団とは呼べない。むしろ、小劇場系と称される通り、万年赤字運営を強いられている劇団だ。
 しかし。
 演劇という世界に関わりを持つ者であるならば、この劇団の名前を知らずとも、三葉トヨミチという名前は一度なりと耳にした事はあるかもしれない。
 演劇への情熱は相当に熱いものを抱え、演出や脚本といったものには一切の妥協を許さず、その功績は演劇という業界内では彼の情熱に見合った評価を得てもいる。
 
 梅雨の晴れ間を迎えた六月の某日。湿度は高く、陽射しは強い。じっとしているだけでも汗が滲み、首の後ろを伝い流れていきそうな天候だ。
 トヨミチは都心近くの河川傍を歩いていた。
「シェークスピア曰く」
 縁のない眼鏡を指先で押し上げながら、陽に透けて小さな閃きを得た茶色い双眸をゆらりと細める。
 河の上を吹き流れる風は、周りに満ちている熱気に反比例して、随分と涼やかな温度を伴っている。
「賢明に、そしてゆっくりと。速く走るやつは転ぶ、ってね」
 身につけた白いシャツが風をはらんでゆらゆらとはためく。
 トヨミチの視線が捉えたのは、河の近くにいる女性の姿だった。窺い見る限り、年の頃は二十代半ばといったところだろうか。短く切り揃えられた黒髪に、飾り気のないジーンズとTシャツ。脇には小さなリュックを置いている。
 果たして、シェークスピアの格言通り、トヨミチはゆっくりと、しかし確実に、女性の傍へと歩みを寄せる。
 女性は発声練習に勤しんでいた。
 腹に両手を添えて、河の向こう岸に目をやっている。近付きつつあるトヨミチの存在になど、まるで気付く様子もない。
「ねえ、きみ。少しだけ、いいかな?」
 女性が立っている場所から数歩分離れた位置で足を止めると、トヨミチは心持ち首を傾けて言葉をかけた。
 女性は全身を大きく震わせた後に、ゆっくりと、顔だけをトヨミチの方へと向けて顔を強張らせる。
「練習中に申し訳ない。きみの声がとてもよく通っていたものだから、思わず足を寄せてしまった」
 ナンパだと思われているのだろう。これまでにも何度となくこういった表情を目にしてきた。不審者を見るような、怪訝な目を。
「あ、申し訳ない。違う、ナンパとかそういったものじゃないんだ。宗教の勧誘だとかそういうものでもなくて。――あ、いや、正確に言うならば勧誘には違いないのだけれど」
 咄嗟に手荷物を抱えて立ち去ろうとした女性を呼び止めて、トヨミチは一枚のチラシを差し伸べた。
「俺は三葉トヨミチといいます。小さな劇団を運営してる者なんだけれど」
 やわらかな微笑みを浮かべて名乗りをあげながら、トヨミチは女性の表情をちろりと見遣る。
 女性の表情は、先ほどまでの怪訝なものに比べ、少しづつ変化をみせていた。
「三葉トヨミツさん。……噂で聞いたことのある名前」
 チラシに目を落としつつ、女性はぽつりと呟いた。
「ありがとうございます」
 演劇仕込みの動作で、恭しく腰を折り曲げる。
「そのチラシは劇団『HAPPY−1』の第一回公演の折に作成したものです。――公演をご覧いただけた事は?」
 訊ねるが、女性はふるふるとかぶりを振るばかり。 
 トヨミチはやわらかな眼差しをゆるりと細め、窺うような視線で女性の表情を確かめた。――彼女は、手渡されたチラシに書かれた文字に視線を向けている。



皆さん、初めまして。当劇団『HAPPY−1』代表の三葉トヨミチです。この度は僕達の記念すべき公演にお越しくださいまして、まことにありがとうございます。
自分がこの劇団の座長を務めるに至った経緯は――正直に申し上げますと、よく覚えていないのですけれども。今にして思えば、劇団名をこの「ハッピーマイナスワン」にしたいが為の、皆の陰謀であるように思えてなりません。
先程紹介させていただきました通り、僕の苗字は三葉です。三つ葉というものは、幸福を象徴とする四葉のクローバーに比べ、どうしても一枚足りないものであるのです。
しかし、思えば、三つ葉のクローバーは決して幸福の象徴たるものにはなれませんが、四葉に比べ、どこにでも容易に見つける事の出来る草です。そして、四葉はいつも必ず三つ葉の群れの中に隠れているのです。
結局のところ、僕達は三つ葉が持つ存在感のような――そんな芝居がしたくて集まったのかもしれません。完全無欠の幸せには届かない、どこにでもある日常。本当の幸せに届く為に必要な、あと一枚がどうしても見つからない。そんな平凡で絶望的な日常を送る皆さんにとって、僕達のお芝居が最後の一枚の葉を手に入れる鍵となれるとしたら。――こんな嬉しい事はありません。
長々と失礼をいたしました。最後になりましたが、どうか、今日の舞台が皆様にとっても僕達にとっても幸せなものとなりますよう。
――――劇団HAPPY−1代表・三葉トヨミチ



 女性は興味津々といった面持ちで、トヨミチが手渡したチラシに見入っている。
 トヨミチはといえば、初めに足を止めた位置からさほどに動く事もなく、ただ静かな微笑を浮かべているだけで、女性の横顔をひっそりと見つめているばかりなのだ。
「失礼ですが、どちらかの劇団などに所属されておいでで?」
 チラシを引っくり返して演目のあらすじやキャストを確かめている女性に向け、トヨミチは静かにそう問うた。
 彼女はようやくチラシから目を上げて、先ほどとは打って変わった眼差しをもってトヨミチの顔を見上げる。
「いいえ、今は。あちこちオーディションを受けてはいるんですけれど、なかなか」
 そう言って笑う女性に、トヨミチの表情がたちどころに輝いた。
「ならば、是非とも我らが劇団においで願いたい! ご覧の通り、HAPPY−1は決して大きな劇団ではありません。が、名前ばかりが先行して中身を伴わない劇団に比べれば、得るものも随分と大きいはずだと約束いたします!」
 両手を大きく広げ、演劇めいた所作で高らかに告げる。
 女性はトヨミチの動きと表情とを眺め、首を傾げている。――恐らくは、あれこれと考えているところなのだろう。
 トヨミチの言葉は更に勢いを増した。
「お察しになられているかもしれないが、我らが劇団は慢性的な赤字運営にさい悩まされております。人員も足りず、裏方が役者を兼ねて舞台に出るといった事も日常茶飯事だ。ギャラといったものをお支払いする事は出来ませんが、その代わり、大きな充足感をお約束出来る! ――シェークスピア曰く、輝くものが全て金にあらずと言うでしょう」
 熱に浮かされたような調子で続けるトヨミチに、女性は目を輝かせてうなずいた。
「――ならば」
 続け、広げていた両手を閉じて、懐から一枚の名刺を抜き取る。
「きみの気が向いた時に、で構わない。是非一度、練習風景を見学しに来てください」
 颯爽と差し伸べた名刺は、無事に女性の手の中へと収められた。
 トヨミチは彼女に向けて深々とした一礼を見せ、そうして河を後にした。

 河の水面を過ぎる涼やかな風がトヨミチの前髪を梳いていく。
 背中を追うように聞こえ始めた発声練習に頬を緩め、トヨミチはタバコを一本取り出して火を点けた。
 夏の始まりを告げる陽光が河の水に反射してひらひらと輝いている。
「今年の夏も熱い季節になりそうだ」
 

 ―― 了 ――
 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年06月29日

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