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『鈍色の日差し 』
セレスティ・カーニンガム1883)&マリオン・バーガンディ(4164)&(登場しない)



 セレスティ・カーニンガムは夏の強い日差しを嫌う。
 夏に限らず、日差しを嫌う。
 古きものを好む彼は、炎天下のエジプトに長居できないことを残念がっていた。灼熱が育んだ文明に憧れてか、セレスティのアンティークコレクションの中には、エジプト産のものも混じっている。西欧アンティークが多分を占めるコレクションの中では、ハトホルやホルス、アヌビスの姿が、ひときわ異彩を放っているのだった。
 セレスティのコレクションを管理しているのは、マリオン・バーガンディであった。壁ごと購入したフレスコ画から、得体の知れない彫像まで、彼が手入れをし、日の光から遠ざけ、保管している部屋の温度や湿度を調整してまわる。簡単な仕事ではなかったが、マリオンもセレスティ同様に美術品やアンティークをこよなく愛していたので、少しも苦ではなかった。
 けれどもその日のマリオンは、いつもの部屋のいつもの仕事を進めながら、何度か首を傾げていた。アンティークがずらりと並ぶ部屋は、古ぶるしい匂いに満ち、おだやかな薄光に包まれている。しかし、何かがちがうのだ。マリオンは、毎日のように移り変わるコレクションリストを何度も検めた。
 結局、違和感の招待をつかめないまま、その日の時間はティータイムに入っていった。


 氷で満たされたグラスに、ディンブラが注がれていくのは、薄い白色の光に包まれた部屋の中。大きな窓にはすりガラスが嵌まっていて、夏の強い日差しを阻んでいる。カーテンを閉めようとしないのは、セレスティ・カーニンガムが、昼には光を、夜には闇を望むから。時折気まぐれを言ってみたり、昼の光の中で熟睡することもあるにはあるが、基本的には、昼には光、夜に闇。
 セレスティは部下を待たず、アイスティーを飲み、さくさくとビスケットを食べていた。マリオン・バーガンディが白い部屋に入ってきたのは、セレスティのアイスティーが三分の一ほど減った頃だった――。
「今日はてこずりましたか。何か問題でも?」
 マリオンは何も言っていない。しかし、セレスティはやわらかに笑みながら、すうと目を流し、そう尋ねた。あ、とマリオンが口ごもり、肩をすくめる。
「セレスティ様。また私には内緒でお買い物をしたのですか」
「どういうことでしょう」
「……その、コレクションが……増えているような、増えていないような。エジプトものなのですが……、あんなに多かったでしょうか」
「エジプト。ああ」
 セレスティはグラスを置いた。からころと、氷が泳ぐ音がする。
「心当たりがあります」
「気になるのです。教えてください」
「今はお茶とお菓子の時間ですよ、マリオン」
 それだけ言うと、セレスティはまたグラスを取り、冷えたディンブラを飲んで、木苺のジャムをのせたビスケットをかじった。マリオンはほんの少しため息をついただけだった。彼は何も言わず、席につくと、セレスティと同じ時間を楽しんだ。
 白い部屋の中に、細長い黒い影が落ちる。
 それは、窓の格子が落とした影か。天井を支える梁が落としたものなのか――。


 セレスティは静かにマリオンを自室に導いた。せせらぎの香りが満ちた部屋の中に、ふたりはたったひとつ、禍々しい異彩を放つものを見る。セレスティが指し示す前に、マリオンは動いた。
 ローテーブルの上に、1冊の大仰な書物が置かれていたのだ。
 いつの時代に書かれたものなのかわからない――ひょっとするとこの星ではない場所で書かれたものかと思われるほど、古びた威圧感を放つ書物だ。表紙は金属板でできているらしい。びっしりと錆に覆われているようだが、その錆は何らかの図柄を織り成しているようにも見えた。タイトルらしきものも刻まれているが、まるで読めない。マリオンはこれまでにさまざまや文化や文字に触れてきたが、その彼すら見た記憶がない象形文字だ。
 いや。
 見覚えのあるものも、ないこともない。
 よく見ると、象形文字は、エジプトのヒエログリフに似ていなくもないようだった。不吉に歪み、どこかぞっとする角度に傾いでいるから、一見しただけではわからなかった特長だ。しかし、エジプトとのわずかな繋がりを見出したところで、やはり文字は読めないままだった。シャンポリオンが見つけだした法則は、間違いなく当てはまらない。
 表紙には鍵がついている。秘密の日記やビジネス用の手帳とは比べるべくもない、頑丈な鍵だった。
「……、セレスティ様、これを一体、どこで買われたのですか」
「いいえ、買ったのではないのですよ。そう……、押しつけられた、と言いましょうか。古書好きの知人がおりましてね。なんでも、その古書を手に入れたときから、身のまわりで怪現象が起きたり、人が消えたりし始めたとか」
「な、なぜそんな危険なものを引き受けたのですか!」
 思わず声が大きくなってしまったマリオンを、セレスティは笑顔で制する。
「危険かどうかはわからないではありませんか。知人も私を頼ってくれたのです。私ならば、何とかできるだろうと」
「あの、そのお知り合いは、ご無事なのですか」
「それがですね、昨日から連絡が取れないのですよ」
「えっ」
「心配には及びません。包みを剥がしただけで、本にはまだ指一本触れていませんよ」
「いえ、あの……そういう問題では……」
 いつもの調子を崩さないセレスティに対し、マリオンはたじたじだ。彼はこの書物が放つ異様な未知の波動に、息を呑んでいる。
「マリオン。この本が私のコレクションや、この屋敷や、私や……あなたに害を及ぼすものならば――これを片づけなければなりません」
「はい、それは……もちろんなのです」
「そして、この本が振り撒く災厄を、これ以上広げてはいけません」
 セレスティはマリオンから本に目を移した。
 青い眼差しは強い光を帯びていた。
「さあ……動くようですよ」


 この部屋にも、大きな窓がある。すりガラスが嵌まった大きな窓だ。
 外が雲ひとつない晴天に恵まれていても、窓が室内に入るのを許すのは、白い、ぼんやりとした光だけだ。
 その窓の向こうで、雲や太陽がいかなる動きを見せたのか。
 その白い光の踊りようからは、うかがい知ることもできない。
 マリオンは金の目を見開いていく。大きくゆっくり、驚愕のままに。
 彼は、『門』が開くのを見た。己がいつも容易く開けてみせる、べつの世界、べつの時間の世界へと続く門だった。それは、歪んだ音を立てながら、確かに、のろのろと開いていく。
 セレスティの長い髪が揺れた。室内の空気に含まれていた水が、ぎゅるり、と渦を巻きはじめている。

 本が開いていた。
 詠唱が聞こえていた。
 白い窓が落とす鈍色の影が、怪しげな調子で、未知の言語の祈りを捧げながら、ゆっくりと本の表紙の鍵を開けていたのだ。
 室内には、エジプト神像を思わせるいくつもの細長い影があらわれていた。セレスティのアンティークコレクションに、いつの間にか紛れこんでいた彫像のような、ひそやかな動きであった。マリオンも、セレスティも、この影たちがいつ、どうやってこの室内に入ってきたのかわからない。
 しかし影たちは、セレスティやマリオンには何の反応も示さず、ただ祈りながら歩いていくだけだ。ふたりが見えていないのか。
 金属製の扉が開き、びらららら、とページがめくられていく。ここには風がない。ただ、未知の色の光があるだけだ。光が本を開き、影を呼び、門を開いている。
 びびびびびび、となおも動く本のページ。
 セレスティとマリオンは、鈍色のページの中に、無数の生物の顔や、風景を描いたスケッチが収められているのを見た。
 セレスティにこの本を押しつけてきた、前の持ち主の顔もあった。彼が住む屋敷が描かれていた。……そして、本の動きは止まった。呻くようにして祈る影たちは、そのページを覗きこむ。セレスティとマリオンも、少し離れた場所から、それを見た。
「マリオン」
「はい」
「……描かれているのは?」
 セレスティの視力はひどく弱い。だが、『見えて』いないわけではない。マリオンに、尋ねるようにして確認しているのは、単なる意地悪だろうか――。
 マリオンは早鐘を打つ心臓に悩まされ、わずかに言葉も失った。

 ページに描かれているのは、セレスティ・カーニンガムの邸宅だ。
 彼だ。マリオンだ。
 たたずみ、ページが開いた本のそばで立ち尽くすふたりの男。
 そして白い光に包まれた部屋。
 水の流れ。

 『ここ』はどこなのだろうか。
 見たこともない光に満ちている。これが、『ひかり』というものなのかどうかもわからない世界だ。ここには水もなく、時間もなかった。ただ、空恐ろしい祈りだけがあった。
 エジプト神に似た影たちはしばらくじっとそのスケッチを見つめていたが、やがて、一様にゆっくりとかぶりを振った。
 ここ(かれら)ではない、
 ここ(かれら)はふさわしくない、
 ここ(かれら)ではいけない、
 少なくとも、かれらはセレスティとマリオン、そしてその部屋に、肯定的な意見を持たなかったようだ。祈りの調子が変わり、ひとつの影が、ペンらしきものを取り出した――。

「マリオン!」
 セレスティが声を放った。透き通るような美声だが、確たる力を持っていた。
 マリオンが動いた。彼はさっと手を伸ばし、影がスケッチに何ごとかを書きこむ前に、古い書物を台座から奪い取った。そう、台座だ。この、異次元の中にある物体らしい物体と言えば、その書物とそれをのせた台座くらいのものだった。
 マリオンが本を奪うと、細長い影たちは祈祷を断ち切り、叫び声のようなものを上げた。声もまた光であった。かれらには、本が突然消えたようにしか見えなかったのかもしれない。
 マリオンはセレスティの腕を取り、鈍色の光が渦巻く虚空を睨みつけた。
『門』が開く。彼らが息づく世界へと続く、世界の傷口が、びりりと開いた。
 門をくぐり抜ける前に、セレスティは振り向いた。銀の髪の間から見えたのは、




「どうするのです、この本?」
「処分してしまってください。ああ、私たちが描かれたページは残して、厳重に保管しておきましょう。肖像画を焼くのは不吉ですからね」
 セレスティは相変わらず、本に触れようともしなかった。ただじっと椅子に座り、窓から射しこむ淡い光を見つめている。
 彼は書物に触れるだけで、その書物が言わんとしていることや、それがたどって来た運命を知ることができる――知ってしまうのだ。彼は、知りたくなかった。この、タイトルもわからない本が、どこで、何のために、誰によって、作られたのか。この本が、今まで何を成してきたのかを。
 ――知ってはいけないことも、ある……。
 セレスティの物思いを知らず、マリオンは素直に頷いた。
「かれらは、どうやら『選定』していたようなのです。……そういう感じが、したのですが」
「そう。そして私たちは、その選に漏れた。けれど、選ばれなかったほうが、我々にとっては都合がいいでしょう。恐らくは」
 セレスティの言葉を聞きながら、マリオンは自分たちのスケッチを破り取るために、白光の中で本を開いた。

 中には、何も書かれていなかった。
 ただ黄変した虚ろなページが、何百枚もつづいているだけだった。

 中には、何も描かれていなかった。




〈了〉

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2006年06月29日

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