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『a wish in rain 』
榊・遠夜0642)&柏木・アトリ(2528)




 さあさあと、霧の様な雨が降っている。
 春を過ぎ夏を目前に控えた、風待月の日曜日。明け方から降り続けていた雨は昼を近くに迎えた頃、ようやくその勢いを幾分か弱め始めたのだった。
 街中には色とりどりの華にも似た、様々な傘が咲いている。忙しなく歩く人の流れは、雨の季節ともなれば殊更その速度を増して過ぎて行く。
 遠夜は飾り気の無い傘を手に持って、大通りから幾つかの小路を挟んだ場所で見つけた小さな公園の中にいた。
 雨はさあさあと静かに降り続けている。その雫を受け、紫陽花が心地良さげに揺れていた。
 薄青の花は重々しく続く灰色の空を背景に、さわさわと小さな詩を奏でながら咲いている。
 そっと手を伸べて花に触れると、花や葉がはたはたと雨雫を振り落とし、水を吸い込んで湿った大地の上に落ちていく。
 
 雨の日は、街中に響く喧騒もどこか遠いものとなるように思える。降りしきる雨が音を吸い込んでしまうのか、あるいは雨が人々の心を感傷的にさせるのか。
 遠夜は薄青の花弁を指先で撫でて雫を払いのけ、それから灰色の雲が広がる空を振り仰いだ。
 雨は止みそうにない。
 紫陽花は、雨にこそ相応しい花だろうかと思う。気鬱を誘う曇天を背景に向かって誇らしげに花を咲かせているその様を見ていると、心のどこかが小さな安堵の息を漏らすのだ。
 遠夜は一頻り紫陽花を愛でた後に、ふと踵を返して振り向いた。拍子に傘が雨を跳ね上げる。
 振り向いた遠夜の視界に映るのは、霧のように降り続ける雨に煙る街並み。常ならば広がっているはずの喧騒の代わりに、今は、はたはたと雫を落とす濃緑の木立ちが揺れていた。

 テラス席は、天気に恵まれた日であればテーブルと椅子とが数脚ばかり並べられ、心地よい風と陽光とに吹かれて、上質な紅茶と焼きたてのケーキやスコーンを堪能出来るスペースとなっている。だが、この数日はあいにくの雨天が続いている。テラスは雨にさらされたままだ。
 アトリは、しかし、雨空の日も決して嫌いではないのだ。晴れの日には陽射しを、雨の日には雨雫を。それぞれがそれぞれの美しさを持っている。アトリはそういった風景を見るのも好きなのだ。 
 偶然に――あるいは、もしかすると必然だったのかもしれないが――見つけた喫茶店は、幸運にも、とても良い場所だった。オーナー夫妻はとても穏やかで優しい人達だったし、出される茶もケーキもとても美味なものばかり。何より、急かされず、ゆったりとした時間を過ごす事が出来るのが、アトリには最良の条件だった。
 手頃なサイズのスケッチブックを広げ、窓の外にある風景を描いていく。
 雨は止みそうにないが、薄く煙った世界の中に花開く紫陽花や色とりどりの傘が、アトリのスケッチブックを染め上げていく。
 紙の上を、滑るように走る色鉛筆。スケッチブックの中に描かれているのは、雨の中を歩き過ぎていく人間達が描く、ゆったりとした心地の良い風景だ。
 ふ、と。青い鉛筆へと伸べた手が止まる。
「……遠夜さん?」
 呟き、静かな夜を呈した双眸をゆらりと細める。
 アトリの視界に映りこんだのは、通りを挟んだ向こう側の公園を後にする少年――榊遠夜の姿だった。


 ゆったりとした空気の中をジャズが静かに流れていく。
 遠夜は、珈琲を運び持ってきたオーナーに向けて一礼すると、まずはそのまま一口運び、その香りと深みとを楽しんだ。
 立ち昇る湯気の向こうに、微笑むアトリが映る。
「……驚きました」
 カップを受け皿に戻しつつ、遠夜は穏やかな笑みを滲ませながらアトリを見遣る。
 対するアトリは、二杯目となる紅茶を一口楽しみながら、遠夜の言葉に眼差しを細めた。
「私も驚きました。街並みをスケッチしてたら、遠夜さんが歩いてたんだもの。久し振りにお会い出来たのですし、お茶でもご一緒出来ないかなって思って」
「ええ。僕も退屈していたところですし。――驚いたというのは、アトリさんと偶然にお会い出来た事だけじゃなくて」
 目を細め、わずかに首を傾ける。
 遠夜の言葉が示す意図を汲み取ったのか、アトリは少しばかり気恥ずかしそうに目をしばたかせた。
「だって、遠夜さん、私に気付かずに行ってしまいそうだったんだもの」

 横断歩道を渡り、アトリがいる喫茶店の前を通りすがろうとしていた遠夜を呼び止めるため、アトリは懸命に手を振っていたのだ。初めこそ周りを気にして小さく振っていたものの、遠夜がアトリの前を行き過ぎようとした時、ついに、アトリは片手をぶんぶんと振ってしまっていたのだった。

「遠夜さんが気付いてくださって、本当に良かったです」
 少しばかり頬を紅く染めて、アトリは照れ隠しに小さな笑みを浮べた。
 遠夜はアトリの笑みを見遣って小さな頷きを返し、カップにミルクと砂糖とを落とし入れた。

 からん

 客人の来訪を知らせる鈴の音が静かに響く。オーナー夫妻が歓迎の言葉をもって迎え入れたのは、初老といっていいであろう年頃の、上品そうな女性だった。
 店内にいる客の姿はまばらだった。アトリと遠夜とを数えても四〜五名ほどといったところだろう。が、
「すいません、お訊ねしたいのですけれど」
 静かに告げられた婦人の声が、客人全ての視線を引き寄せたのだ。
 どうされましたかと応じるオーナーに、婦人は疲れ切ったような面持ちで頷いた。
 
「どうされたんでしょうか」
 遠夜がひそりとアトリを見遣る。アトリは再び紅茶を口に運びつつ、婦人が告げる言葉に心を寄せていた。

 実は、飼っている猫が夕べからいなくなっちゃって。

 婦人は深々とした溜め息と共にそう告げた。
 あちこちを探し回ったのだろうか。疲弊を全身に滲ませている。

 猫は、先だって生まれたばかりなのだという。四匹生まれた内の一匹が、夕べ、ちょっとした隙に居間から飛び出していったらしいのだ、と。

「子猫……遠夜さん、どこかで見ませんでしたか?」
 心配そうに訊ねるアトリに、遠夜は小さなかぶりを振る。
「いいえ。……しかし、この雨では、やはり心配ですね。……早く見つけてあげなくては、体力も消耗してしまう」
「私達も手伝って差し上げましょう」
 深く頷いたアトリに、遠夜はすらりと立ち上がり、真っ直ぐに婦人の許へと歩み寄って行った。


 二人は、遠夜が先ほどまでいた公園の中にいた。
 雨はやはり降り続き、薄青の紫陽花がひっそりと雨に揺れている。
 人気はない。ゆえに、情報を集めるといったような効果はあまり期待出来そうにない。
「あの方のお宅はこの公園の近くだという事ですし、子猫となると、あまり行動範囲も広くないはずですよね」
 傘を両手で持ち、雨に煙る風景をきょろきょろと確かめながら、アトリは確認するような口調でそう告げた。
「ええ、そうだと思いますが……保健所にも問い合わせはされたとの事ですから、最悪な結果には……なっていないと願いたいです」
 やはり傘を広げ持ち、遠夜もまた公園の中を一望している。
 紫陽花や躑躅といった花々で囲まれた散歩道。晴天の日であれば散歩やジョギングを楽しむ者達も大勢いるのだが、今はひどく閑散としている。
 遠夜が述べた杞憂を、口に出したりこそしないものの、アトリもまた同じように考えていた。
 そんな不幸などあっていいはずはないのだ。
「……あ、そういえば」
 ふと、アトリの表情に少しばかりの希望が宿る。
「ねえ、遠夜さん。あのペンダントヘッド、今も持っていらっしゃいます?」
 それは、遠夜が考えもしていなかった言葉だった。
「……え?」
「ほら、前、アンティークショップでご一緒した時に」
 驚く遠夜に、アトリはニコニコと穏やかな微笑みを見せる。
「ええ、持っていますが……でも、今日は持ってきてはいない」
 返しつつ、上着のポケットを片手で探る。――と。
「……あった」
 ぼうやりとそう呟きながら取り出したそれは、南国の鳥がなされたシルバーのペンダントヘッドだった。
「……家に置いてきたはずなのに」
 ごちる遠夜に、アトリは、さもそれが当たり前の事であるかのように、やわらかな笑みを浮べて頷くのだった。
「前に私が願い事をかけた時には、それはちゃんと応えてくれましたよね。きっと今回も応えてくれます」
 言うが早いか、アトリは片手をふうと持ち上げて、遠夜の手の中にあるペンダントヘッドに指を触れた。
「……あの、でも、これはもう」
 眠りについているんですよと告げようとした遠夜に構わずに、アトリはついと神妙な表情を浮かべて目を伏せた。
「迷子になっている子猫が見つかりますように」

 さあさあと雨が降っている。
 薄青の紫陽花がふるふると揺らぎ、雨雫を地面へと降らせている。
 アトリは、次いで、遠夜の顔を見上げて首を傾げると、触れたペンダントヘッドを示し、にこりと微笑んだ。
「遠夜さんも、お願いしてみましょう。――言ったでしょう? 誰しもが邪まな願いをかけるわけではないんだって」
「……ええ」
 頷きながら、手の中のペンダントヘッドに視線を落とす。
 霧のような雨が降りかかり、それはわずかに艶を帯びたようにも見える。
「私、紅茶が美味しい素敵なお店が見つかりますようにってお願いしたんですけれど」
 遠夜の躊躇に気付いてか、アトリは穏やかな声音で言葉を続けた。
「さっきのあのお店。その後に見つけたお店なんですよ。とっても素敵な場所」
「……」
 微笑むアトリに、遠夜は静かに目を伏せる。
「……子猫の居場所を、教えてください」
 目を伏せたまま、遠夜はぽつりと消え入りそうな声でそう告げた。
 向かい合わせの傘の下、アトリがやわらかな陽射しにも似た笑顔を浮べている。

 その時。さあさあと降る雨の中、さわりと――そう、何の前触れもなしに、柔らかな日差しが一筋舞い降りてきた。
 まるで、アトリと遠夜の視線を導き、その場所へと誘っていくように。一筋の光はゆっくりと伸び、そうしてやがて紫陽花の下を照らし出したのだ。

「あ」

 どちらからともなく発せら得た声に、二人は思わず互いの顔を見合わせる。
 かちりと重なった視線の中で、頷くともなしに確かめ合う。
「あの紫陽花の下」
「今、猫の鳴き声がしましたね」

 紫陽花の葉が揺れている。まるで、雨を得て歓喜に震え、踊っているかのように。
 遠夜が静かに葉を寄せていく。その拍子に雫がはたはたと零れ落ちていった。
「……見つけた」
 心の底から沸き起こる安堵を言葉と変えてため息を吐き、遠夜はそっと両手を差し伸べる。
「雨宿りをしてたんでしょうか」
 その後ろから覗き込みながら、アトリがふわりと微笑んだ。
 紫陽花の下、身を隠すようにしゃがみ込んでいた茶虎の子猫が二人を見上げ、一声鳴いた。
「そうみたいですね。……遊び相手もいたみたいです」
 子猫を抱き上げながら、遠夜は視線だけでその場所を示してみせる。
 子猫がしゃがみ込んでいた場所のすぐ隣に、一匹のカタツムリが、のらりくらりと歩みを進めていた。


 子猫との再会を果たした婦人は、照れくさそうにかぶりを振る遠夜と、嬉しそうに微笑みながら子猫を撫でるアトリに、何度も何度も感謝を述べた後に帰って行った。
 
 雨は降り続いている。
 ひと時差し込んだ日差しは、今はもうその姿を厚い雲の向こうへと押しやられてしまった。
 ふたりは喫茶店の前で婦人と猫とを見送った後に、ふと互いの顔を見遣り、どちらからともなしに笑った。
「良かった」
「うん、良かった」
「ねえ、遠夜さん」
「はい」
「願いは叶ったでしょう?」
 穏やかに微笑みながら首を傾けるアトリの言葉に、遠夜はふと目を細めて、そして小さな頷きを返す。
「……ええ」
「ふふ」
 素直に頷いた遠夜に、アトリは勝ちを得たように首を竦めて踵を返した。傘がくるりと翻る。
「またお茶でも飲みましょう」
 再び振り返り、アトリが笑う。
「……ええ、ぜひ」
 柔らかな微笑みを眩しそうに見つめながら、遠夜は再び頷いた。

 街中に、色とりどりの傘が咲く。それを囲むように、色とりどりの紫陽花が揺れている。
 雨はまだ止みそうにはないが、それでも、世界は美しく彩られているのだ。



 ―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年06月26日

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