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『Memoria di un profumo 』
オリヴィア・ー6558)&ジェームズ・ブラックマン(5128)&(登場しない)

 男はバラの花を手に取り、その茎にハサミを入れた。赤い花が掌に落ち、男は薄く裂いた紐状の木で編んだ篭の中へバラを並べた。すでに十数本が篭に収められている。バラは剪定しなければ綺麗な花を咲かせない。こうして摘み取る必要がある。
 男は篭を手に立ち上がった。そこは一面、見渡す限りのバラ園であった。大きな赤い花が所々で咲いている。あと2週間もすれば見頃になるだろう。
 バラの垣根で迷路のようになった庭園を抜けると、目の前に城が見えた。たいして大きな城ではない。こぢんまりとした古い城だ。
 男は城の前庭で馬車に馬をつなごうとしている御者や、甲冑を身に着けて警備に当たる衛兵たちへ会釈をすると、裏の勝手口から城の中へ入った。
 絨毯が敷き詰められた廊下を歩いて食堂に行くと、数人の侍女が朝食の支度に追われていた。侍女たちの邪魔にならないように食卓の上に飾られていた花瓶を引き寄せ、挿してあったバラを抜いて新しい物と交換する。甘いバラの香りが広がった。
「いい香り」
 その時、食堂の入口で声がした。男が振り向くと、そこにはドレスを身に着けた1人の若い女性が立っていた。長い茶色の髪に、緑の瞳が印象的な美しい女性だ。
「おはようございます、お嬢さま」
 男は女性を見て頭を下げた。食堂にいた侍女たちも口々に挨拶の言葉を言って頭を下げる。女性はスカートの裾を指でつまみ、食卓へと近づく。その後ろを2人の侍女が付き従った。女性は食卓の中央に置かれた花瓶に顔を寄せた。
「本当にいい香り。これは今朝、摘んできたもの?」
「はい。先ほど、庭園から摘んできたばかりです」
 女性の言葉に男はうなずいた。彼女の名はオリヴィア。この地方を統治する領主の一人娘で、その人柄ゆえか領民からも慕われている。
 若く美しく、そして人柄も良いとなれば世の男が放ってはおかない。当然、王室の血筋を引く貴族から強く結婚を申し込まれている。王室へのつながりが持てるため、彼女の父親は結婚に乗り気だが、オリヴィア自身は結婚を考えると憂鬱な気分となるのだった。
「それでは、失礼します」
 会釈をし、古いバラを入れた篭を手に男は食堂から出て行った。その後ろ姿をオリヴィアは心なしか悲しげな目で追いかけた。

 朝食の時刻もとうに過ぎた頃。男は庭園の片隅でバラの剪定を続けていた。
 城の前庭の横にある広大なバラ園を、男は1人で手入れをしていた。庭師は男1人だけではない。他にも何人かいるが、彼らは別の場所を受け持っている。
 城の周囲にある庭園は、このバラ園だけではない。しかし、男はこのバラ園が好きだった。なによりも、オリヴィアがバラの花を好んでいた。
「ここにいらしたのね」
 聞きなれた声がして男は振り返った。そこには日傘を差し、微笑みを向けるオリヴィアが立っていた。いつも彼女の傍らにいる次女の姿は見えない。
「オリヴィア」
 彼女の笑みに釣られるように、男も微笑んで立ち上がった。
「もう少しで満開ね」
 そう言ってオリヴィアは薄い桃色のバラに顔を近づける。赤い花のほうが最もバラらしいが、薄く可憐なピンクの色は彼女に良く似合った。
「そうだね」
 男は眩しそうにオリヴィアを見詰めながら答えた。すると、バラを眺めていた彼女の表情がわずかに曇った。
「また、お父様から結婚の話をされました」
 オリヴィアの口から漏れた結婚という言葉に、男は苦いものを感じた。いずれ、そう遠くないうちに彼女は嫁ぐことになるだろう。末席だが、王位継承権もある貴族から求婚されており、その貴族は彼女を迎えるために莫大な支度金を用意していた。
「わたしは、あなた以外の人と一緒になど、なりたくないというのに」
「オリヴィア……」
 いつの頃から惹かれていたのか、今となっては覚えていない。ただ、2人は出会い、そして恋に落ちた。それが決して叶わぬものだと知りながらも、若い2人は互いの気持ちを胸のうちに留めることなどできなかった。
「恐らく、来週には正式に婚約ということになるでしょう。そうなれば、わたしはこの城を離れなければなりません。ここのバラが、満開に咲いているところを見られないのは、非常に心残りですが」
 立ち上がり、オリヴィアは男を見た。
「止めてはくださらないのね」
 決して責めているような口調ではなかったが、その言葉は男の胸に突き刺さった。
 貴族の結婚とは血筋をつなげるためのものだ。本人の意思など関係ない。彼女が反対しようと、相手の家柄が上である以上、今回の話を断ることはできない。ましてや、父親も乗り気なのだ。1日でも早く、彼女を嫁がせようと思っているに違いない。
 同じように男がなにかを言ったところで、結婚の話がなくなるわけではない。いや、すでに男がいることが判明すれば、相手はオリヴィアに興味をなくすかもしれない。だが、その場合は彼女が様々な汚名をかぶることとなり、そして父親はその原因となった男を許すことはないだろう。そうなれば酷い仕打ちが待っていることは確実であるといえた。
「オリヴィア、私では君を幸せにはできない」
「なぜ? あなたと離れるほうが、よほど不幸だというのに」
「一緒にいることができたとしても、私では君を悲しませるだけだ」
 その言葉にオリヴィアは小さく首を振った。彼女が伸ばした手が、優しく男の腕に触れた。まるで、それが苦痛でもあるかのように男は顔を歪めた。
「いいえ。わたしにとって、あなたと離れることよりも悲しいことなどありません」
 穏やかな口調だが、はっきりと彼女は言った。その言葉を耳にした男の瞳が、どこか悲しそうに揺れた。

 深夜、城の人間が寝静まった頃。
 オリヴィアは城の裏手にある巨木の根元に1人で立っていた。周囲には深い闇が舞い降り、彼女を照らしているのは薄い月の輝きだけであった。
 侍女や衛兵の目を盗み、寝所を抜け出すことも慣れてしまった。こんな自分を父親が知ったなら、どんなふうに嘆かれるのだろうか。そんなことを考えていると、彼女の耳に下草を踏み分ける足を音が聞こえてきた。
 振り返ると、オリヴィアが待ち焦がれていた人物が歩いてくる姿が見えた。オリヴィアは男に駆け寄り、抱きついた。男も彼女を優しく抱き締めた。
「夕食の席で、お父様から正式に婚約が決まったと言われました」
 男の胸に顔をうずめながらオリヴィアが呟いた。
「もう、耐えられません」
「オリヴィア……」
「いっそ、あなたとどこか遠くへ逃げられたらいいのに」
 なに不自由なく育てられながら、それでも満たせなかった彼女の心を満たしてくれたのが、目の前に立つ男であった。
(この人の腕で抱かれる以外に欲しいものなどないのに)
 オリヴィアにとって今の地位は重要なものではなかった。むしろ、自分の思いを妨げる障害でしかない、としか今は感じられなかった。
「オリヴィア、私と一緒に遠くへ行こう」
「え?」
 聞こえてきた言葉に、オリヴィアは驚いて顔を上げた。どこか憂いを秘めた瞳で自分を見下ろす男の顔が目の前にあった。
「わたしでは、君を不幸にしてしまう。けれど、それでも構わないというのなら、私と一緒に来てはくれないか?」
 信じられない、といった様子で男の顔を見詰めていたオリヴィアの表情が歓喜に染まった。やがて、彼女の瞳からは涙が溢れ、頬を伝った。これ以上の喜びはなかった。望んでも手に入らないと思っていただけに、その喜びはひとしおであった。
「嬉しい。この幸せが、永遠に続けばいいのに」
 震える声で呟き、オリヴィアは涙で濡れた頬を、そっと男の胸に押し当てる。
「続けられるさ。永遠に……」
 喜びに涙を流すオリヴィアのおとがいに指を添え、男は彼女の瞳を見詰めた。オリヴィアがゆっくりと瞼を閉じる。
 その美しく白い首筋に男は牙を突き立てた。次の瞬間、オリヴィアの意識は闇に落ちた。

 どれほどの時が過ぎただろうか。
 海を隔てた隣国と100年にも亙る戦争が始まり、2人は争いと人の目を避けるように各地を転々としながら暮らした。暮らしは決して楽ではなく、まして領主の娘として生まれ育ったオリヴィアには、辛い日々の連続だったに違いない。
 それでも彼女は泣き言一つ漏らさず、男の後をついて行った。男もそうしたオリヴィアを気遣い、貧しいながらも2人にとっては幸せな日々が続いた。
 そんな折、異変に気づいたのはオリヴィアであった。
 桶に汲んだ水面に映った自分の顔を見て、彼女は自分が歳を取っていないように感じられた。城の中で、鏡を見ていた頃となにも変わっていない。
 あれから、どれくらいの年月が流れたのだろう。多くの知人が戦死したということを風の噂に聞いていた。それなのに自分は老いていない。水面に揺れる自分の顔は、どう見ても十代の娘にしか見えない。これは、どういうことなのだろうか。
「あなた?」
 夜、ランプの明かりに照らされた狭い部屋で、夕食を終えた男にオリヴィアは悩んだ末に覚悟を決めて訊ねてみることにした。
「どうした?」
 いつになく真剣な面持ちの彼女を見て、男は怪訝そうに眉をひそめた。
「あなた、わたしは呪いにかかってしまったのでしょうか?」
「どうしたんだ、突然?」
「バカなことを言うとお思いになるでしょうが、歳をとっていないような気がするのです」
 その言葉を聞いて男の表情がかすかに歪んだ。しかし、ランプの光が影となってオリヴィアからは男の表情を見ることができない。
「なぜ、そんなことを思う?」
「昼間、水を汲みに行って、ふと思ったのです。あなたと一緒になってから、歳をとっていないのではないかと」
 そして、オリヴィアはまじまじと男の顔を見詰める。
「そういえば、あなたも出会ったときから変わっていませんね」
 彼女の視線を受け、男は静かに目を伏せた。今まで隠してきたことをオリヴィアに知らせなければならない時が訪れたのだと、男は思った。だが、いずれにしてもこうなることは予想していたはずだ。老いない人間など、この世には存在しないのだから。
「オリヴィア、心して聞いてほしい」
「はい。なんでしょうか?」
「私たちが老いることはない。永遠に、このままなのだ」
 男の言葉を聞いたオリヴィアは呆気に取られた表情をしていた。無理もない。自分が人間ではなくなったと聞かされたも同然なのだから。
「それは、どういうことなのですか?」
「私と共に、永遠を生きる存在となったのだ」
 最初は男が冗談を言っているのかと思ったが、その真剣な、そしてどこか憂いを含んだ表情を見て、オリヴィアは男が冗談を言っているのではないことを悟った。

 やがてオリヴィアは心を病むようになった。
 敬虔なキリスト教徒である彼女にとって、自然の摂理――すなわち神の意思に背くような存在となったことは、非常に大きな重圧だったのだろう。
 また、戦火が拡大し、それによって住処を追われることが増えるようになったのも、彼女の心を傷つけた要因の1つかもしれない。
 心を病んだオリヴィアは、食事も満足に喉を通らなくなり、徐々に衰弱して行った。
 そんな彼女を助けようと、男は思いつく限りの手を尽くしたが、すべて彼女から拒否されていた。
「なにかを口にしなければ、弱るだけだ」
 ベッドに横たわるオリヴィアへ男が沈痛な面持ちをして言った。しかし、彼女は静かに首を振ると、かすれた声で答えた。
「もう、いいのです。わたしは、主の御許へ参ります」
「なぜだ!? 私と永遠を生きると、言ってくれたではないか」
「確かに、あなたとずっと一緒にいられたなら、幸せだと思っていました。でも、わたしは人として死にたいのです」
 男の顔を見詰め、顔所は微笑んだ。その瞬間、男は彼女の胸中に秘められた覚悟の強さを思い知らされた気がした。
 男がオリヴィアを愛しているように、彼女も男を愛しているに違いない。だが、それ以上に彼女は人間としての尊厳を守ろうとしているように見えた。少なくとも、神の許へ召されることへの恐怖が、オリヴィアには微塵も感じられない。
「このまま、安らかに主の御許へ行けるでしょうか?」
 彼女の言葉に男は首を振った。
「それは無理だ。我々は自然に死ぬことなどできない」
 オリヴィアはゆっくりと瞼を閉じ、そして吐息のように呟いた。
「では、わたしを殺してください」
 男の表情が大きく歪んだ。まるでナイフで胸をえぐられたかのように、あるいは強い痛みを感じているかのように男は顔を歪ませ、凍りついた。
「私には、できない」
「これが、最後のわがままです。もう、あなたを困らせたりはしませんから」
 男には、ただ首を振るしかできなかった。心の底から愛する者を手にかけることなど、できるはずもなかった。
 ゆっくりとオリヴィアの瞼が開いた。その瞳を見た瞬間、男には目の前に聖女がいるかのような錯覚を覚えた。それほど美しく、真っ直ぐな輝きをしていた。
「お願い。人として死なせて」
 自分には、どうすることもできないのだと不意に男は理解した。もう彼女は生きることを望んでいない。生き続けることは、彼女にとって苦痛でしかない。この場を乗り切ったとしても、そう遠くないうちに彼女は自害という禁を破るだろう。
 それならば、いっそ自分の手で苦しまないようにしてやったほうが、オリヴィアのためなのではないか。男の耳元で悪魔が囁いた。自ら命を絶つようなことになれば、彼女は主の御許へ行けなくなる。教義ではそのようになっている。それはあまりにも残酷だ。
 男は懐から短剣を取り出した。いつ、いかなる時でも手放すことのなかった銀製の短剣だ。その形は十字架にも似ている。
「すまない、オリヴィア」
 その言葉に、オリヴィアは小さく首を振った。
「なぜ、あなたが謝るの? 謝らなければならないのは、わたしだというのに」
 刃を包んでいた布を取り、男は静かにオリヴィアの胸へ短剣を突き立てた。肉を截ち、心臓を貫く感触が男の両手に伝わった。
 途端にオリヴィアは口から血を吐き出し、ベッドが赤く染まった。呼吸が詰まり、彼女は何度も咳き込んだ。しかし、不思議と苦しそうではない。穏やかな表情をし、目の前で涙を流す男の顔を見詰めている。
 やがて、銀の魔力によって彼女の心臓は鼓動を止めるだろう。彼らの肉体は銀の持つ特殊な力に弱い。永遠に近い時を生きる存在でも、決して不変ではない。
「ごめんなさい、×××」
 ゆっくりと微笑み、オリヴィアは息を引き取った。血に濡れていながらも、その表情は聖母のごとき優しさに包まれていた。

 目を覚ました。思わず辺りを見回し、それまでの光景が夢であったのだと理解した。
 それにしても、なぜ、あんな夢を見たのだろうか。
 ふと部屋の中に甘い香りが漂っていることに気がついた。テーブルの上に置かれている一輪のバラに目が止まり、納得した。すべてはバラのせいだったのだと。
 思い出に残る香りは記憶を呼び起こすという。今まで記憶の片隅で眠っていた思い出を、バラの香りが思い起こさせたのだろう。
「それにしても、久しく聞いていませんでしたね。もう、その名で私を呼ぶ人はいません。私も、とうに忘れてしまった名前ですから……」
 暗い部屋に呟きが流れた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
九流 翔 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年06月21日

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