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『残花の灯火 』
3009


■オープニング

 ただ、櫻の木だけがそこにあった。古木。染井吉野のような華やかな枝振り淡い色合いな定番の花とは少し違い。赤みが強い、山櫻。それ以上の風景は視界に入らない。あったのかどうかさえわからない。ただ、闇だけがあったように思える。明るくは無かった。陽の光からは遠かった。月の光さえもあったように思えない。周りにあるべき緑すらも感じない。なのにその古木の残花だけが、灯火のようにただ、映えている。
 その木の、下に。
 一人、無造作に腰を下ろして古木を見上げている姿があった。和装の男。書生のような風体とでも言えば良いのか、まだ若い。後頭部高い位置で括った長い黒の髪。黒壇の瞳――否、瞳はよくよく見れば紅い。深い深い紅。黒と見紛う紅。光の加減でしかそうとわからぬ程、深い紅。
 ――…既に流されこびり付いた、古びて饐えた血の如く。

 和装の男はただ黙して、古木の残花を見上げている。
 何の言葉も無いまま、静止している。
 ふと、瞼を閉じた。
 そして。
 唇だけを、開く。

「…貴方も、この櫻を?」

 静かに、声が響く。
 頭の中に。
 周囲に反響は無い。ただ直接響く。

「もしそうであるならこれも何かの縁。少し、私の話し相手になっては下さいませぬか」

 無理にとは、申しませぬが。
 控え目な頼みが、耳を打つ。
 和装の男はそれ以上は、何も言わない。

 ふと、その男の手に目が行った。

 ――…瞳の色とは違い、もっと鮮やかな紅に、濡れていた。右も左も、両の手共に。

 気付いた事に気付いたか、和装の男は静かに笑う。
 何処か、諦念を感じさせる笑み。
 男は再び瞼を開けていた。
 今度は古木の残花では無く、そこに来訪した姿を、ただ、真っ直ぐに見据えて来る。

 視線のその前。紅い色が、つと落ちる。
 一滴――否、花弁。本物の小さな櫻の花弁が、そこにはらりと落ちている。
 目の前。

 息吹ある大地とも思えぬ、闇の中。

 …否。
 貴方の目の前にある、現実に。



■夢現――ゆめ、うつつ

 と、思った――次の刹那。
 …目が醒めた、と思ったのは、たまたまその部屋に入ってきた灰縞模様の仔猫――百草の気配を感じたが故だったのか。自身が居るのはいつも通りの畳の上――布団の敷かれたその上で、灯りは疾うに消している。夜。深更。然り。…何刻程になるか。
 思うとも無く思いながらゆっくり瞼を開いてみる。
 傍らで眠る妻の寝顔が視界に入る。
 安らかな寝息を立てている。
 その、向こう。布団が揺れる。するりと百草が滑り込んだ。…少々、む、と思う。自分の側に来ない不満と寂しさか、はたまた妻の懐に簡単に滑り込める事への軽い嫉妬か。その両方か。
 …どちらにしても、まぁ、詮無い事。

 どちらにしても――目の前にあるのは紛う事無く、自分の今在る場所の光景。

 過去在る場とは違う場所。
 それは妻がそこに居る事で――証明されている。
 ならば先程の光景は何なのだろうか。

 目の前にはらりと落ちた――血の滴とも見違え掛けた、濃い紅の桜の花弁。
 大地とも空ともつかず、ただ一面に広がる深い深い闇。
 その中に、桜木。
 古より紡がれし永き命と見受けられる、それ。
 その元に。
 …士分ある若者か。
 見たところ腰に大小を差している訳では無いようだが、そう感じた。
 人物そのものに憶えは無い。だが姿は――小袖に半袴の軽装で。自身がソーンに迷い込む以前の事、かつて居た国のものと似ており。
 その両の手に、紅の色。
 血であると、すぐに察しが付く。
 この若者には穏やかではない何かがあると。
 すぐにわかった。

 そんな若者が、何故か自分に呼び掛けている。
 話し相手になっては下さいませぬか、と。

 そして今の自分の目の前に広がる現実の光景。
 ならばこれは、夢の中の事であろうとは思う。思うが――それにしても不思議なもので。
 …それは、このソーンに迷い来て、以前よりも不思議と言うものに慣れもしたつもりだが。この世界ではむしろ、不思議が日常と考えを改める必要があるくらい。

 そうと自覚していても、どうも胸騒ぎがする夢で。
 このまま――放り出す事は考えられず。

 それは、再びまみえる事が出来るかは、定かではないけれど。

 思いながら。
 ――…再び、目を閉じる。





 と。
 静かな声で呼び掛けられて、そのままの。
 和装の男がただじっと見ている闇の中、再びそこに居たのは――自分だけでは無いとすぐに気付いた。気付いて、ふ、とお互いを見遣る。取り敢えず櫻の下に居る和装の男の事は、誰もが初めから頭にある。ならば他の者は何者かを確かめるのが先になる――自分自身を含め、三人。…それも、さりげなくお互いの顔を確認すれば全く見知らぬ相手、と言う訳では無くて。
 少々、驚いた。
「…遠夜に馨じゃないか」
「倉梯さん…ってこちらが、馨さん?」
「…と言う事は…こちらが榊、遠夜さん…ですか」
 それぞれ、思わずと言った風に声が上がる。
 …こんなところで、出会うとは。
 と、妙な場所での邂逅に、軽く驚いている三人に向け――ふ、と力が抜けたような、穏やかな声が掛けられた。とは言え新たに何者かが現れた訳ではなく、この場で初めに呼び掛けられたのと同じその声。
 櫻の下に居る和装の男。
「…これは奇遇。御三方とも、見知った同士のようですね」
「まぁ、な」
 その声にまず応えたのは、言葉通り残りの二人両方共を良く見知っている倉梯葵。黒いアンダーウェアの上、くすんだ色のダウンジャケットを無造作に羽織った東洋系の青年。切れ長の目、漆黒の瞳。短い黒髪。
 和装の男に軽く応えながらも、遠夜と馨、二人の様子を何の気無く窺っている。
 何故なら――微妙に二人の態度が変であるからで。彼らは葵を通し、お互いの事を伝い聞いていての知り合いになる。つまりは直接の面識があるかと言う意味では初対面になるのだが――ただ初対面と言うにも、少々その第一印象が複雑で。
 それはまぁ、馨の妻女と遠夜が似ている、と言うのが第一印象が複雑になっている原因の最たるものなのだが。…ちなみに、お互いその件は元々知っている。どちらにも葵が疾うに話しているので。
 そんな訳で。
 馨が――黒髪黒瞳、ソーンのお国柄に合わせて黒い騎士服を纏ったやっぱり東洋系の若者、葵の弟分になる遠夜を思わずじっと見てしまっている。…とは言え、後から考えればそれはほんの僅かな間になるのだが。
「…。失敬。…本当に葵さんから聞き及んでいた通りだったもので」
 私の妻と似ていると言うその事が。
「…うーん。こんな場合どう反応すれば良いんでしょうかね?」
 そんな馨に対し、困ったように頭を掻きながら苦笑する遠夜。
 と。
 褒め言葉だと思っとけ。反応に困る遠夜に向けて、葵があっさりそう纏め、ぽむ、と肩を叩いている。





 …少し、脱線してしまった。来訪した葵に遠夜に馨の三人――特に後者二人はそうは思ったが、それでその間に櫻の下の男が特に目立った動きを見せた訳でも無かった。人だけではなく櫻もまた同様の佇まいでそこにあるだけ。変わりは無い。
 それどころか、三人が知り合いだった様子を見、櫻の下の男は気さくに話し掛けてさえ、来た。その態度や所作からして葵は、危険か否かと言う最低限の意味では、少なくとも今のこの男ならまぁ大丈夫だろうと判断。面倒が無いならそれで良い。
 そしてほぼ同刻――妻似の遠夜の面立ちに気を取られていたかに見えて、密かに馨の方も葵同様、櫻の下の男の方をそれなりに観察してはいた。…今はソーンに在るとは言え、動乱の世を歩いた身でもある。危険か否かの判断が必要なものに対しての鼻は利く。
 今、三人出会う前、先程話し相手にと櫻の下の男に呼び掛けられたその時に見たのと同様――やはりこの男の腰に差料は無い様子。その手に抜き身を握ってもいない。腰に差していないのならば側に置いてはあるか。無い。或いは身体が豹変する等の証は無いか。さりげなく確認するが、ひとまず問題は無さそうで。
 葵に馨、どちらからとも無くそう見てから、櫻の元、初めから居た和装の男の側に来ている。葵に遠夜に馨の三人とも。馨が桜木に手を添え、そっと撫でている。古より紡がれし永き命に労いを。そして――出会えたのも何かの縁と、呼ばれた際に言われた科白を柔らかくそのまま返し。暫し共に時を過ごしましょうかと改めて申し出る。
 次に、遠夜。話し相手で良ければ付き合うよ、見事な櫻だし、と古木を見上げ。それから――連れ合っている二人が興味を持っているようだし、暇潰しにはなりそうだな、話を聞こう、と葵も続けて同意する。
 先程、彼を置いて三人で話し込んでしまった事を思い、まず自己紹介かな、と遠夜は櫻の下の男に振ってみる。榊遠夜とまず己。続いて馨に、倉梯葵。三人共に、それぞれ異なる界からソーンと言う世界に来た者である、とすんなり名乗る。それから今度は櫻の下の男に名を尋ねると――少しの静寂。沈黙。
 暫し躊躇いを見せてから、遅れて櫻の下の男も名乗った。今の自分が名乗って良い名かどうか知れませんがと前置いて、佐々木龍樹と。
 今の自分に、名乗るべき名は本当は無い。
 けれど、問われてしまったならば、親に付けられた元の名をお答えするしか無いので、と。
 そんな風に言われた。





 馨から龍樹に手拭が渡された。無造作に。さりげなく。当然のように。…両腕を拭くように。そう言い含められての事だが、それでも手拭を受け取ってしまった龍樹は躊躇いを見せていた。
 とは言え、馨が手拭を渡したその際に、僅かな震えすらも無く。血震いか怯えか。余程血に慣れていなければどちらかはありそうなもの――幾ら平静を装っても、平静ではいられまい。…これだけの血を間近に見、べっとりと手を染めて。それで何事も無かったよう、ひとと相対するのは――武士であっても酷く難しい。微小の震えでも見られたら、羽織を掛けてまずは落ち着かせたい。そう思いはしたのだが――意外な事にこの龍樹の場合、そう言った意味では至って平静で。
 …むしろ。
 手拭を渡し、受け取らせる。それだけのやりとりで、馨の方の背筋が、ぞくりとした。側に寄り、手拭を渡したその時。別に龍樹から殺気がぶつけられた訳でもない。警戒された訳でもない。…何でもない。
 ただ、馨から手拭を受け取る為の、龍樹の僅かな腕の手の指の動き。馨の動きを受けての動き。それを間近にしただけで感じられてしまった、この相手が疑いようの無い引き返せない一線を越えていると言う事実。ふとしたさりげない動きから醸されてしまう、ただ、凄味。古木の根元で腰を下ろして座り込んでいるだけではそれ程のものは感じなかったが、間近で、ほんの僅か能動的に動かれた途端、思い知らされる。
 馨は同じ剣の道に居るが故に、それだけで、わかってしまった。
 この龍樹、血塗れる事に慣れている。
 人を斬った経験も、恐らくは一度ならずあるだろう。
 ――…否、一度ならず…どころではなく。
 恐らくは、私よりも多く。
 何度も修羅の道を潜り抜けている。

 痛ましい。
 わかった途端に、そう思う。…この彼は、私よりもまだ、年若いのだろうに。

 かたじけない。ぽつりと聞こえてきたのは少ししてから。龍樹。怯えは無い。そう言った意味では平静。なら何故科白が、動きがぎこちないのか――それはどうやら渡された手拭を汚す事こそを躊躇っていたが故らしい。が、受け取ってしまったらもうその時点で、手指で掴んだ部分が汚れている訳で。馨から手拭を受け取り、少しの間動きを止めてしまっていたが――無意味だと悟ってから、素直に拭い始めている。
 妙な事を気にする。…自らが血塗れる事より、手拭を汚す方がおおごとか?
 そんな龍樹を窺いつつ、葵はふぅん、と感心したように何度か軽く頷いている。
 …これは相当なものだろう。葵も葵でまた、馨が察したのと同じ事を薄々ながら察している。…ソーンに来る前は退廃し切った世界の戦地に居た元・軍人の身。剣の道とは違っても、殺し殺されるのが常である生き死にの境が身近にあった事は同じ。
 少し見計らってから、さてさて、と少しおどけた調子で口を開いた。…但し目は、笑ってはおらず。油断無く。
「随分派手にやったもんだな…とは言いたいところだが、その割には随分落ち着いてるようで」
 そして、反応を――様子を伺う。
 と――ええ、まぁ、と苦笑された。
「…忘れていましたから」
 両手が、血塗れである事すら。
「…そりゃまた豪胆な事で」
「…。…手を汚した理由を忘れた訳ではありません」
 忘れていたと言うのは、手が紅く染まっているのが、本来常ならぬ事であると言う事こそを。
 今の私には既に、日常の事となってしまっているので。
 平素からこの通りと。
 今更、騒ぐまでも無い事と。
「…この紅だけで気遣われてしまう事であるのだと、今、手拭を渡されるまで、全く」
 気付きませんでした――忘れていました。
 そして手拭。馨さんに渡されるまま思わず受け取ってしまったが――本当は。
 …そんな厚意は受け取れないと拒んで然るべきであったのに。
 溜息混じりにそう告げつつ、これではお返し出来ませんから、と龍樹は色が移った手拭に目を落とす。渡された手拭。白く清められた己が手で、そっと丁寧に持ったまま。
 お気になさらず。大した事ではありませんから。…馨は龍樹に告げると、改めてその顔を見直す。あくまで平静に、いつも通りの感情の読めぬ穏やかな面を見せつつ。
「…嘗て居た国での私の姿と似ております」
 龍樹さん…貴方の、姿は。
「それは…私も思いました。酷く近しい、と」
 …それは、身形の事だけでは無く。
 魂の置き場所までも。
 その誇りに懸けた命の遣り取りを、識っている、と。
 そこまでの意味を含め受け取った上で、龍樹は首肯する。
 …が、そこで頷いた上で――ただ、と注釈が付いた。
 馨を見上げる。
「…だからこそ馨さん…貴方に声を掛ける事には、躊躇いも、ありましたが」
「?」
「…もう、わかっておられるのではないでしょうか」
 先の遣り取りで、勘付かれたでしょう。
 手拭の、受け渡し。
 それだけで。
 察しは付いている筈。
「………………知られたくは、無かったと?」
 馨のその科白に、龍樹は曖昧に頷く。縦とも横とも取れるような、頭の振り方。肯定か否定か。どちらとも付かぬ態度。
 それで、呟く。
「…『知られる』事は、構いません。けれど、『識られる』事は、覚悟し切れていなかったんです」
 私は、貴方のような方に真の意味で勘付かれてしまう事が、怖かったんですよ。
 言葉の上でだけなら――客観的な事実だけならばまた別の話。それで『知られる』なら構わない。誰でも良いから話したい。それで赦されるとも思わない。けれどぶちまけてしまいたい。…元々、そう思っている事柄でもある。行為それ自体の重みならば、隠すつもりなど更々無い。
 けれど――『識られる』となればまた違ってくる。『その行為』を為す自分が『それ』についてどう思っているか。明快に説明が出来る事柄ではない。が、ほんの僅かな切っ掛けで、これこれこうと理屈をつけてでは無く、実感を伴ってただ理解されてしまう――『識られて』しまう事が、有り得る。魂の置き場所が酷く近い存在――馨のような者であるなら、その可能性がある。
 それこそが、怖かった。…他者に己が心が識られる事、それも然り。けれどそれより――その己が心の色を他者の裡に喚起させてしまう、その事こそが、恐ろしく思えて。
 だからこそ、龍樹は馨に声を掛ける事を躊躇った。
 けれど同時に。
 馨が醸す空気が、酷く懐かしかったのも確かで。
 …だから思わず、素直に手拭を受け取ってしまった。
 馨のような存在が目の前に現れた事実に、躊躇いながらも、声を掛けてしまった。
 そう述懐しながら、龍樹は今度は葵を見、それから目を伏せた。
 皆の顔からして、恐らく三人共に気にしているだろう――自分が手を紅に汚した理由を、語ろうと。…随分派手にやったな。そんな軽い言い方で、龍樹のしただろう行為を突いて来たその相手をまず見てから、誰にとも無くぽつりぽつりと話し出す。
 現世での行為。狂気故の化物と。この手の紅は自分が手に掛けた数多なる人々の血であると言う事を。…否、人に限らないと。老いも若きも男も女も。様々な生きとし生けるもの――数多を屠った証であると。
 その行為自体は、忘れられる訳はなく。
 惨い事なら元より承知。
 何故なら己で決めた事。
 後悔もまた置いて来た。

 と。
 そこまで重ねて告げた、刹那。
 龍樹の目に、ふ、と凄惨な光が過ぎる。
 黒と見紛う紅の瞳。
 続く言葉が静かに紡がれる。
 今度は、囁くような小さな小さな――それでも、何故かよく、通る声。

 私が、現世で何をしたのか。
 ――…お見せ、しましょうか?





 刹那。
「止めとけ」
 さくりと。
 龍樹から唐突に膨れ上がる鬼気に応じ、殆ど反射の領域で腰に手を伸ばし鯉口を切り掛ける馨。その姿も含め、即座に葵が制止した。動きでは無くまず声を上げ割って入る。…今のまま黙っていたらそれこそ血を見る。龍樹からそんな気配はすぐ見えた。そして馨も、必要とあらば応じると。
 それは今この櫻の下に座る龍樹の手には、刀のような得物も何も見えない。だがそれを確認したからと言って――安全だと言い切れるような生易しい気配では到底無い。ならば何らかの魔法力に似たものを持っている可能性。…否、そうで無くとも――真実無手であってもこの龍樹ならば同じ事。得物の有無などまるで些細な事でしか無いような。存在自体が凶器同然。
 そんな、とんでもない感触がある。黒血の如き瞳に過ぎった凄惨な光で、馨もすぐに察している。前後して、咄嗟に己の懐に手を入れていた遠夜。その指先が触れていたのは、呪縛の符。…葵に制止されなければ、馨の抜刀とタイミングを合わせ遠夜もそれを使用していた。
 が。
 制止は、された訳で。
 止めとけとそれだけ言うと、葵はくるりと手の中で作業用のナイフを意味ありげに一度回して見せる。…何故かこれだけ持っていた。考えてみれば現実では仕事中だった気がする訳で…それでも取り敢えずの得物にはなる。
 そのナイフを自在に使える事をさりげなく見せつけてから、葵は手を止める。
 す、と目を細め龍樹を見た。
「…もっとも、あんたの望んでいる『話』ってのが『それ』だって言うんならどうしようもないけどな」
 面倒だが、こちらも大人しくやられる趣味は無い。
 と。
 そこまで言って様子を窺うと、龍樹はゆっくりと頭を振った。
 力無く。
「…いえ」
 私が貴方がたに望んだ、話し相手にと言うのは――真に言葉通りの事になります。
 そう告げた時の龍樹の目の色は、ふ、と和らいでも見えた。鬼気も抑えられている。たった今見せた凄惨さが冗談のような変化。そんな自分を自覚しても居たのか、龍樹はすみませんと謝っても来た。
 その変わりようを見、葵は小さく安堵の息を吐く。馨も、遠夜も同じ。
「…謝るようなら初めっからするなって」
「申し訳無い。この場では、無しにするつもりの事を――つい、引き出そうとしてしまいました」

 少し、自棄になっていたのかもしれません。
 …『識られて』しまったと思ったら。

 そこまで告げて、馨を見る。
 馨はそんな龍樹の表情に、痛ましそうに目を伏せた。
「本当に、その事はお気になさらずに――と言っても、無理なのかもしれませんね」
「…。…このまま貴方を――貴方がたを。いっそ私の狂気に巻き込んでしまおうかと。そんな思いに駆られてしまいました。…本当に、申し訳の無い事を」
 私は今在るこの場所でまで、狂気に身を任せるつもりは無いのに。
 そもそも、私がここに居るのは――ただ休息の為だけで。例え僅かな時間であっても、現世で己が下した決断から離れていたい、忘れていたい、それだけなのですから。
 今、貴方がたに話し相手をと求めたのも、現世では最早叶わぬ事を――今この場で、貴方がたなら叶えてくれるかもしれない、そう思ったから、なのです。
 私が貴方がたに求めた事は、初めに頼んだ通りの事。私はこの夢の中、この残花の灯火の下で――どなたでも構わない。話し相手が欲しかった。久々に他者と言葉を交わしたい、それだけが望みでした。
 現世の私では、最早そんな他愛も無い事こそが、叶わない。
 …それは、自業自得では、あるのですが。
 けれどだからこそ――僅かな間、儚い夢の中でなら。
 叶うかもしれないと、縋ってしまい。
「…御迷惑とは思いながらも、ふとその姿が見えてしまった貴方たちに、呼び掛けてしまったのです」
 目を伏せる。
「…なら、もうその願いは叶えられているね」
 短く、応えたのは遠夜。
 吸い込まれるような漆黒の瞳が、龍樹を見ている。
「――…夢の中なら何でも叶う。望めば叶う。其処が夢。…その事は、貴方もわかっていた。それで貴方は、ここに居た。休む為に、忘れる為に。ひとときの夢の中であるからこそ、と」
 でも、ならばこそ。
 まだ引っ掛かる事がある。
 …この場でも貴方が見せている、その、諦めの表情は。手の紅は。
 現世でならば、何か…仕方無い事なのかもしれない。それは、僕にはわからない。それを聞いたとしても、僕らに何が出来るかわからない。けれど、この場であるならば――この場が、あるならば。
「休む為の、忘れる為のこの場であるなら、それらは――顕れなくても良い筈の事。何でも叶う、それこそが夢。ならば何を引き摺る事があるだろう。何を惑う事も、何を怯える事もあるだろう」
 そして僕らが――貴方が想像で作り出した訳ではない僕らが、今貴方の前に居る。
 これら全て、夢であり現実。今のこの場なら、どちらとも言える筈。
 ならば。
 この夢の中でなら。
「…まだ何か、出来る余地があるかもしれない」
 その諦めの表情の理由を、解決する事も。…本当に諦めてしまうのはまだ早いかもしれない、と。
 僕らには、何が出来るかわからないけれど。
 ぽつりと言いながら、遠夜は改めて――残花灯る櫻の古木を見上げる。
「この見事な櫻。まるで…貴方を見守るように傍にある」
 そんな気がする。
 眩しそうに櫻を見上げてのその言葉に、龍樹もつられたよう、問う。
「…貴方には…何か、感じられますか?」
 この櫻に。
「感じられると言うのなら、齢重ねた古き木霊の非常なる霊性を。けれどそれ以上の事は…。…何があるか、もう少し詳しく見させてもらっても良いかな」
「…」
「騎士の姿をしてるけど、これでも僕は陰陽師で、何か手伝える事があるかもしれないから」
 意味が無い行動でもしたいんだ。
 小さく微笑み、遠夜は告げる。何も言わないまま、そんな遠夜に頷く龍樹。…微かな動き、けれど間違い無く肯定の頷きで。それを受け頷き返すと、遠夜は先程の馨のように、古木の木肌に手を触れた。
 陰陽師であるなら、吉凶を占い見極める術を持つ。あやかしのものを見破る術を持つ。何があるか。妖魅ならば、それが善いものか悪いものか見定める。悪いものならば祓い清め退散せしめる。…陰陽師とは霊的に人々を守る存在。
 そんな立場にあると言う、遠夜がこの櫻を見て思うのは。
「花の色――濃い紅の色は重ねられた想いの強さ。数多の人々の情の強さ。…ずっとここには人が居た。この櫻の下で逢瀬を重ねた人はどれだけ居ただろう。どれだけの年月、数多の出逢いと別れを見守っていただろう。…ずっとずっと見守り続け、今がある」
 …この櫻の裡は、人に近い。
 人格と言う程のものは――何も持っておらずとも。
 数多の想いを受けて、霊性が育まれている。
 何か、悪いモノが憑いている訳でもない。
 悪いモノに成ってもいない。
 櫻がただ、己の意志で、この闇の中に在る。
 一面の闇の中、咲く花の色が濃い事も、寂しい残花を見せている事も。

 数多の想いを――そして貴方の想いを受けての姿。

 遠夜は静かに、そう、告げる。
 途端。

 ささやかながら、風が、吹く。
 一面の闇の中。
 応えるように。
 枝葉を揺らす。
 花を、揺らす。

 けれど。

 ――…これ以上、花は落ちない。





 …しかし桜と、赤い瞳と、血か。
 残花を見上げながら、ぽつりと葵。…そもそも、元からこの桜、花の紅がやけに濃いとは思っていた。そして自分たちに話し掛けてきた龍樹の瞳の色も、ただ黒かと思えば――酷く黒に近い紅。それは青碧と彩度は違うが、ちょうど馨の瞳と同じくらいの明度と言える色。それから鮮やかな紅――血に濡れていた、手。
 随分とお誂え向き…と思うのは、自分だけではなさそうな。
「…桜の下に人が埋まってて、その血を吸って桜は赤味を帯びてるなんて話もあるらしいが…随分お綺麗な話もあるもんだな…」
 まぁ、こいつは遠夜曰くそう言うのは無い、って話だが。
 呟きながら、一服。
 煙草は持って来れていたらしい。
「…なぁ、龍樹っつったよな」
「はい」
「どうしてそれ程殺したんだ?」
 べっとりと染まった手の紅の理由。
 数多なる人を手に掛けた、と。
 そうは言っても。
 何故そうしたか。
 葵は責めるつもりでも何でもない。聞いて、悪い事とも善い事とも判ずる気は無い。この場で遭遇してしまったが故の、ただ、興味。…もしそれで何かする必要が出てくるなら、極力他の二人に任すつもりではある。
 葵の言葉に、龍樹は、ふ、と儚げに微笑んだ。
 どうして。
 それは。
「…弁解の仕様も余地も無い、手前勝手な理由です。…己の狂気が、何を願っているのか。何を求めるのか。それを知りたいが為、私の中のその狂気に――殺戮を旨とする己、狂気の魔性に身を任せた、それだけです」
 大義名分も何も無く。ただ、狂気の赴くままにこの身を委ねる事を決断した。
 どうして殺したか。そう問われるならその理由は、行為そのものとしか言いようが無くて。殺す事――毀す事、それ自体が理由であり目的になってしまう。
 それで。
 その先に、何があるか。
 己が狂気の在る理由。
 私はそれが、どうしても知りたかっただけ。
 惨い事は承知と言いました。
 後悔も、するつもりはありません。
 …誰にどう、責められようと。
 決断を覆す気は、ありません。
 龍樹はそこまで言って、細く息を吐く。
 そんな姿を見て、今度は馨が問う。
 …今の説明では、まだ。
 納得が行かない。
「…血塗れた訳は、それとして」
 ならば貴方は何を、諦めているのです。
「それは…人に戻る事を」
「…今の貴方は、人ではないのですか」
 貴方の今の説明だけでは、剣の魔性に魅入られ酔い痴れる愚かな者としか思えない。けれど――今私が見ている貴方は、鬼である己に呑まれているようには――酔っているようには、到底思えない。
 それどころか、忌んでさえいると…お見受けします。
 ならば龍樹さん、貴方は、人です。
「…現世の私を見ても、そう言って頂けるのでしょうか」
「…」
「夢であるから人で居られる。…現世での私は最早、言葉が通じもしないのですよ」
 ですから、他者と言葉を交わしたいなどと、この場で求めている訳で。
「…それでも。…貴方は人で居たいのですね」
「勝手な、話です」
 ですから、それ程親身になって気に留めて頂く程の事では無く。
 私は、己で決めた道とは、正反対の道への未練も持っている。…ただ、それだけの事なのです。
 けれど、決断を覆す気は元よりありません。…現実として、最早覆す事も出来ません。
 ですからこれは、私が私の中だけで、決着をつけるべき事で。
 僅かな時間の夢の中、悩み惑っていたいと思うのは、私自身の弱さ故。
 貴方がたに呼び掛けたのも、同じ理由からの事。

 ただそれでも、一つだけ。
 貴方がたの厚意に甘えていいのなら。
 望みが一つだけ、あります。

「…それは、何ですか」
「…」
「言って欲しい。僕らに出来る事ならば、手伝いたいから」
「…現世での私は、化物同然です。ソーンの世界で言うならば、魔物やモンスター、それも凶悪な方のそれらに数えて妥当、と言ったところになるでしょう」
 言葉も通じない。
 力しか、理解出来ない。
 現世の私は、人々をただ殺め、毀すモノ。
 容易に滅ぼせるとも、思えません。
 …そんな、存在です。
 それらお伝えした上で、無理と承知で願います。

「いずれ、現世で相見える事があれば――その時は、私を、止めては頂けないでしょうか」

 そして、私がこれから殺めてしまうだろう人々を、出来る限り助けて欲しい。
 私自身では、助ける事が出来ないとわかっているから。
 だから、私を。

「…それを望まれるなら」
 すぐにこくりと頷く遠夜。
「私も、この刀と――今のこの邂逅に懸けて」
 引き受けましょう。
 馨もまた、静かに肯んじる。
「まぁ、そうなってしまうなら…俺も無視はしなかろう」
 遠夜や馨みたいに、確りと約束はできんが。
 と、少し考える風を見せてから、葵。
 三人それぞれの反応に、龍樹は静かに目を伏せる。
 そして。
 改まって、す、と頭を下げた。
 礼を取る。

「是非にも…宜しくお頼み、申します」

 確りと頭を下げてから、龍樹はゆるやかに顔を上げる。
 その時見えた和えかな微笑みは、葵に遠夜に馨の三人がここに呼ばれ今まで見た中でも、酷く優しく。

 ――…初めて、諦めの色が感じられない表情に、見えた。



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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

━━聖獣界ソーン
 ■1882/倉梯・葵(くらはし・あおい)
 男/22歳/元・軍人/化学者

 ■0277/榊 遠夜(さかき とおや)
 男/18歳/陰陽師

 ■3009/馨(カオル)
 男/25歳(実年齢27歳)/地術師

 ※表記は発注の順番になってます

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 初めましてで御座います(礼)
 今回は突発なところにお誘い合わせの上での発注、有難う御座いました。…そして色々とライターの考え無しがあった為にお渡しが遅くなってしまいました。元々作成日数派手に上乗せしてあるところに更にお待たせしております。…初めましてからこんな体たらくですみません(謝)
 後希望通り三名様同時参加です。
 …で、何だか良くわからない話だったらすみません…。他タイアップゲーム含め、他の当方櫻ノ夢参加者様の物も見てみると、和装の男や櫻の古木についてまた色々と違った事が語られていたりもします。ノベルによっては正反対の事、全然違う事を言っているような描写に見える場合もあるかと思われますが、別にこちらの手違いと言う訳ではありません。こちらの意志でそう書いてます。
 なお、御三方以外の当方櫻ノ夢参加者様のノベルについては、既に七名様分納品済みになっております。…つまりこちらが最後になってしまいました訳で(汗)

 戦う事、も考えに入れて頂けたようですが、取り敢えず事前に止める事が叶いました。状況によってはあのまま…と言う事もこちらの考えの内にはあったのですが、特に望む方が誰も居なかった事と、和装の男の方で、志士――つまりは本当に侍(それも日常的に命のやりとりをする事も実感として知っている侍)である馨様に共感のようなものを抱いてしまった様子である事、それと葵様の突き放したような冷めた態度があった事、遠夜様が陰陽師であった事も密かに関係した結果、本格的な荒事には至りませんでした。
 今回作成の途中、御三方の関係を中心に相関を色々辿ってみたのですが、PC様同士の繋がりが何だかとっても素敵だなぁと思ってしまいました。
 ソーン故の微妙なバランスで、暖かな関係を築いてらっしゃるところが。

 それから…初めましてのPC様ですからして、PC様の性格・口調描写等で引っ掛かったり、何かありましたらお気軽に言ってやって下さいまし。
 出来る限り善処致します。

 少なくとも対価分は満足して頂けていれば幸いです。
 ではまた、機会がありましたらその時は。

 深海残月 拝
PCゲームノベル・櫻ノ夢 -
深海残月 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2006年06月12日

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