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『残花の灯火 』
シュライン・エマ0086


■オープニング

 ただ、櫻の木だけがそこにあった。古木。染井吉野のような華やかな枝振り淡い色合いな定番の花とは少し違い。赤みが強い、山櫻。それ以上の風景は視界に入らない。あったのかどうかさえわからない。ただ、闇だけがあったように思える。明るくは無かった。陽の光からは遠かった。月の光さえもあったように思えない。周りにあるべき緑すらも感じない。なのにその古木の残花だけが、灯火のようにただ、映えている。
 その木の、下に。
 一人、無造作に腰を下ろして古木を見上げている姿があった。和装の男。書生のような風体とでも言えば良いのか、まだ若い。後頭部高い位置で括った長い黒の髪。黒壇の瞳――否、瞳はよくよく見れば紅い。深い深い紅。黒と見紛う紅。光の加減でしかそうとわからぬ程、深い紅。
 ――…既に流されこびり付いた、古びて饐えた血の如く。

 和装の男はただ黙して、古木の残花を見上げている。
 何の言葉も無いまま、静止している。
 ふと、瞼を閉じた。
 そして。
 唇だけを、開く。

「…貴方も、この櫻を?」

 静かに、声が響く。
 頭の中に。
 周囲に反響は無い。ただ直接響く。

「もしそうであるならこれも何かの縁。少し、私の話し相手になっては下さいませぬか」

 無理にとは、申しませぬが。
 控え目な頼みが、耳を打つ。
 和装の男はそれ以上は、何も言わない。

 ふと、その男の手に目が行った。

 ――…瞳の色とは違い、もっと鮮やかな紅に、濡れていた。右も左も、両の手共に。

 気付いた事に気付いたか、和装の男は静かに笑う。
 何処か、諦念を感じさせる笑み。
 男は再び瞼を開けていた。
 今度は古木の残花では無く、そこに来訪した姿を、ただ、真っ直ぐに見据えて来る。

 視線のその前。紅い色が、つと落ちる。
 一滴――否、花弁。本物の小さな櫻の花弁が、そこにはらりと落ちている。
 目の前。

 息吹ある大地とも思えぬ、闇の中。

 …否。
 貴方の目の前にある、現実に。



■夢現――ゆめ、うつつ

 …うに?
 色の濃さが印象に残る櫻の花弁が目の前にはらりと落ちた。そう思ったのだが、良く考えればふかふかの感触が気持ち良いなあとも同時にずーっと思っている上に視界には何も映っていない――って自分は眠っているのだろうか? 眠っているなら自分の部屋か草間興信所か。どちらだったろう。とにかくソファでクッションでも抱えているんだか、布団被っているのだとは思う。ただ、本気で寝るつもりで寝てたとだけは思えないのだが――御昼寝中なんだったっけ? …そんな気もしないでもない。鬼の居ぬ間に何とやらで…ってどちらだったとしても別に本当に鬼が居る訳じゃないけど。…あ、興信所だったら種族が鬼な人は来る事もあったっけ。まぁ、今私が言った諺の意味には何も関係無い話になるけれど。
 と、シュライン・エマはとりとめも無く思いながら――恐らくは、ひとり微睡んでいる。…今自分が居るその場所、本当は疑う余地も無いくらいはっきりわかっている筈なのに、今は頭の中に靄が掛かっているようで、自分が何処に居たのだったか判然としない。
 …場所はともあれやっぱり自分は寝ているんだと思う。気持ち良くてうとうと。そんな中、今見たもの。闇の中だった割には何故ふかふかの感触が? 見事な櫻の古木があって…その下、根元に座っている和装の男性が一人居て。私の目の前にぽたりと落ちた紅い滴、ではなく、舞い落ちた櫻の花弁。はて。…相変わらず考えている事、思考の表層に浮かび出る情報にとりとめが無い。
 正直なところ、何が何だかよくわからない。
 まぁ、頭が確り覚醒していないせい、とも言えるのだが。

 ――…まぁ、いっか。





 気が付いたらまた櫻の木が見えた。
 一面の闇の中、さっき見たのと同じ場所。残花を見せる見事な古木。その根元に、座る人。
 さて。
 …いったい、誰の夢に紛れ込んでしまったのやら。
 やっと頭がクリアになったと思ったら、今度は自分が眠っていた筈の場所では無く――どう考えても自分の居る現実ではないなあと思える風景の方が目の前で続いている。これは、目は醒めてない。むしろ眠りが深くなってしまったか。…となると、この場所は誰の夢だろう。取り敢えず最低ライン、私が私の頭の中で作り出した夢では無い筈。…自分の夢なら記憶の断片がその材料になる。今目の前にある光景には、私にとって憶えのある要素が全くと言って良いくらい、無い。…櫻の花の付き方、幹や枝振り、それら色彩。和装の男性。顔形――面影、服装。髪型。色。紅に濡れる手。櫻の下に座るその姿勢。その場所。一面の闇――今の私の本来居る現実では誰であっても滅多に遭遇出来ないだろう、黒く深い真の闇。
 やっぱりどの要素も憶えは無い。
 …と、なると。
 これは――この見事な山櫻が見る夢なのか、はたまたその根元に座る和服の男性の見る夢なのか。
 うーん。
 …ま、考えたところで櫻の見事さに変わりは無く。
 と、ほんの少しだけ考え込んでから、シュラインは気後れ無くさくさくと和服の男性近くまで進む。特にまじまじ見ているとか気にしている訳でもないけれど、改めて何となくその男性の姿を確認してみる。格好や物腰からして――今見た時点で、少し話した時点でわかる様々な要素を統合すると、ただ和装と言うだけでは無くそもそも今の時代の――今私が生きている時代の人じゃないような気がした。手の紅は――何の意味があるのだろう、とはちらりと思う。夢であるだけに何とも言い切れない。その紅――血が他人のものか彼自身のものか、心の傷や痛みに反応しての事なのか――色々可能性はあると思うから。まぁ、私が妙に反応する必要も無いだろう。
 取り敢えず、和服の男性と同じように、シュラインも櫻の根元に腰を下ろして櫻を見上げてみる。静寂。隣に座る男性も自分も特に口を開かない。二人ともまずはただ、同じように櫻の残花を見上げている。
 闇の中、仄かに照らす灯火の如く残る、濃い紅の花。
 今まで見た事が無いくらい、色の濃い櫻。これ程の木になれば満開の時もまた見事な花を見せてくれるだろうと思えるが、一つ一つの花が確りと見えるこのくらいの残花もまた、違った風情がある。
 そのままじっくり観賞しつつ、シュラインはふと口を開いた。
「…この櫻に何か思い入れでも?」
 和装の男性に、さりげなく問うてみる。
 と、彼は少し、考え込んでいるようだった。
 再び、静寂が――沈黙が続く。
 古木に付いた残花の灯火に見下ろされたまま、暫し時が経つ。
 たっぷりの沈黙の後、漸く和装の男性が口を開く。
「………………まぁ、そんなようなものですね。この櫻自体に思い入れ、と言うより、この櫻の下が、思い出の場所と言うか…何と言うか」
 と、内容はシュラインの問いへの答えではあるが…何故か、あまり自信が無さそうな答えになっている。
 シュラインの方も櫻を見上げつつ、また、うーん。
「…だからこうやってお花見中、と?」
「…はい」
「他、実は何かが気になってたりしません?」
「…と、仰いますと?」
「ここで偶然お会いしただけの私に対して話し相手になって欲しい、と言う事は…他にも何か気にかかってる事があるのかなって思いまして。お花見だけで良いんだったら――こうやってここに座って見上げているだけでも充分過ぎる気がしますし」
 …それにお花見目的で櫻の下に居るにしては、この櫻の花の付き方は――少し季節が外れている。既に見頃は過ぎており、散り残った残花のみ。…もし、ただゆっくりと花見をする事が一番の目的であるのなら――それも夢の中であるのなら余計に――満開の櫻である方が自然な気が。
 ひとまず言葉には出さないが、シュラインはそこまで考えてみる。
 別の可能性も幾つか考えてみた。
「んー、そうですねー。ここから櫻を見上げている――と言う事は、実は櫻の上に何かがあるとか?」
「…いえ別にそんなに深く考えての行動ではありませんが」
「では何処か別のところが気にかかっているとか。櫻の下――は今居る場所になるけれど、貴方の思い出の場所と言うなら実は私たちの座っているここに何かあるとか。幹の反対側とか枝振り全体とか花の形とか大きさとか、ここからじゃはっきり見え難い部分も結構ありますし。ここから見上げるだけじゃなく、違う位置から見てみるのはどうでしょう?」
 何なら櫻、登ってみます?
「…え?」
「違う位置から見れば同じものも違う角度…顔を見せるものだから」
「そう、でしょうか」
「…違いますよ? 見方によって色々に表情は変わってきます。人間だってそうだし」
 と。
「――」
 その科白に反射的に言葉を失う和装の男性に対し、シュラインは特に目立った反応は何もしない事にした。今の私の言葉の中に何かショック受けた部分があったのかなとも思うが、だからと言ってあまりそこを突付いて刺激を与えたくないなぁとも思うので。
 で、結局実際の行動の方では、さて、とシュラインは櫻の木肌に触れつつ上を見上げてみる。…ふと自分の服装を顧みる。…。事務所で仕事してた通りの格好。…つまりはスカート。アクティブな行動には適さない。
 が。
 まぁ、あんまり気にしない。夢の中な訳だし。と、そんな感じでシュラインは櫻に登る算段を付け始める。
 けれど和装の男性は動かない。
 少し途惑っている風で、シュラインの行動を見ている。
「…本当に登るんですか?」
「…まずいでしょう…かね?」
「…いえ、別に問題無いくらいの大きさの木ではあると思いますが…」
「だったら」
 うん。と頷いて、一緒にいかがです、と和装の男性にもお誘いしてみる。
 と。
 苦笑された。
「…汚してしまいますから」
 静かに言って、申し訳無さそうに両手を掲げる。両掌をシュラインに見せる形。
 その手は相変わらず紅に濡れたまま、けれど本当に言葉の通り以上の意味は含んでいない話し振り。傷を作っているのだとも誰かの血が付いているのだとも特に言わない。いや、傷を作っているならば「汚してしまいます」が先には来ないだろう。となると当人が怪我をしている――と言う線は取り敢えず消える。今見える通り自分の手は血で汚れているから、このまま木登りしては汚してしまうと言いたいだけのような態度。別に気負いも衒いもない。
 ただ、そこが――そこだけが引っ掛かってできないと言うのなら、今ここでそれをどうにかしてしまう事はできないのだろうかともシュラインは思う訳で。
 なので、シュラインはちょっと考えてから提案してみる。
「だったら…その血、拭いたり洗ったりして落としちゃう訳には行かないんでしょうか?」
 あ、でも洗うには水が無いし砂も無い。それは夢であるなら別に特別な能力を持たずとも望めば何とかなるかもしれないが――と思いながら水水と念じてみるがそれでどうなる訳でもなし。櫻の木がある以外は一面闇で地面らしい地面すらも見えないから砂も土も無いらしい。どうやら今の私には『洗う』の方は実行させるのは不可能のよう。…となると今すぐ出来そうなのは拭く事くらいか。思い、シュラインはポケットを探ってみる。ハンカチがあった。よし。取り出して、和装の男性に、宜しかったらどうぞ、とあっさり差し出してみる。
 が。
 和装の男性は、受け取ろうとしない。
 そのハンカチを見ながら、止まっている。
 少し、驚いているようではあったか。
「拭け、と?」
「はい」
「…それも汚れてしまいます」
「んー、そこについてはまぁお気になさらず。ただ、貴方の方で拭く気になれないって言うんでしたら、無理にとは言いませんけど」
 夢なのだから、彼の為には――拭いてはいけないのかもしれないし。
 拭いた方が良いのかもしれないし。
 …どっちだろう?
 と、差し出す側の手も少々迷っていると、和装の男性は小さく息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。そして少し己の両手を見ていたかと思うと、おもむろに自分の着ている着物の袖を使い、手に付いている紅を拭っていた。
「…あ」
「そんな綺麗な物をわざわざお借りするくらいなら、これで良いです」
 言って、和装の男性はシュラインにまた笑って見せる。

 …拭いた後にまた広げて見せられた彼の両手に、傷らしきものは、無い。





 櫻に、失礼しますと撫でながら一声掛け。
 シュラインはよいしょとばかりに木登りを決行している。古木だけあってこの櫻、危なげはないくらい太い幹ではある。足や手を掛けられるだけの木肌の凹凸、窪みも多い。気を付けて下さいねと和装の男性から声が掛かる。…何だかんだでそちらの彼の方もシュライン同様、櫻に声を掛けてからその幹に足を掛け登っていた。この和装の男性、書生っぽい姿とは言ったが――どちらかと言うと若いお武家さん、と言うよりむしろ素直に学者さんの卵っぽく見える雰囲気を持っている。が、その割に――意外なくらい身ごなしが軽やかでもある。
 で、ある程度上まで登ると、木登りと言い出したシュラインの方より和装の男性の方が慣れた様子でシュラインを先導するような形になっている。細くなっている枝を上手く避け、傷めないように気を付ける。落ち着くのにちょうどいいような場所を選んで、シュラインの手を取り引っ張り上げたりもしていた。…案外身も軽く力もある人だったらしい。雰囲気とは逆で、この人はお武家さんの方なのかも知れないともちらりと思う。
 ともあれ登って二人共にそれぞれ落ち着くと、そのまま――上の方から櫻の残花を見下ろしてみる。
 暫し、また観賞。
 微かな風が、枝をざわめかせていたのは気のせいか。
 上から見ると、見上げていた時より――櫻に包まれている感じがある。
 シュラインは偶然、落ち着いた場所のすぐ近く、殆ど目線の高さに――まだ落ちていない花を一つ見つけた。慎ましげに咲く残花がぽつり。灯火みたいに闇を照らす紅色。
 折角なので、じっくりその花自体を観察してもみる。
「この櫻、一応…紅山櫻、の系統になるのかしら」
 こうやってすぐ側で花を見ると、山櫻の内では、少し大きめな花の気がするし。
 ただ、花の色だけで言うなら寒緋櫻みたいよね…ううん、この花は寒緋櫻よりも色が濃いのかも。
「…ってあ、ひょっとして寒緋櫻自体御存知無いでしょうか」
 言ってしまってから少し慌てて、シュライン。
 何故なら――寒緋櫻は暖かい地方の櫻であるからで。…中国南部に台湾、ヒマラヤ。沖縄で自生している櫻でもある。…対して紅山櫻は、中部以北――関東東北、北海道に掛けて自生する櫻。…分布している地方が思いっ切り違う。…この古木がシュラインの思った通り紅山櫻の系統であるなら、恐らく寒緋櫻は同じ地方には自生していない。交雑する可能性すらも…やや怪しい。
 情報網が発達しており遠方への行き来も簡単に出来る平成の現代ならばともかく、和装の男性が生きているのだろう時代を考えると、知らない可能性も否定できない。
 と、慌てて自分を気遣うシュラインを見、和装の男性は微かに苦笑した。何か、彼自身もほっとしたような、そして同時に慌てるシュラインを安心させようと試みているような、どちらとも取れる優しい笑みでもある。
「すみません。仰る通りです。…カンヒザクラ、と言う事は――まだ早い時期――寒い時期に咲く緋櫻、を意味する名前になるのでしょうか」
 考えながらぽつりぽつりと口に出し、和装の男性はちらりとシュラインを見る。
 はい、字義としてはその通りになります、とシュラインはすぐに肯定。…ちなみにこの寒緋櫻、平開し切らないで下向きに、釣鐘みたいな形に咲く花で、薩摩緋櫻、琉球緋櫻…等々の呼ばれ方もしているものなんです、ともついでに続けてみる。
 そこまで言って、ふと気が付いた。
 今シュラインが引き合いに出した櫻の名前。三つ挙げたどの呼ばれ方にしろ緋の色が付いている。櫻と言えばまず『櫻色』。つまりは『紫がかった白に近い淡い紅色』、と言う印象があるものだろう。そんな中で、敢えて『緋』の呼び名が冠されている櫻。
 シュラインは再び、櫻の花に目をやってみる。
「…やっぱり花の色が濃いと紅色を通り越して緋色で呼ばれるって事なのかしら」
「緋の色…緋の櫻、そうですね。確かに、このくらい色が濃くなると、紅と言うより緋の名を冠した方が、似合うような気がしますね」
 この櫻、貴方の仰る通り、一応紅山櫻の系統になる櫻だろう、とは私も聞いていますが。
「…紅梅や桃だったなら、このくらい濃い色である事も珍しくないかもしれませんが…。櫻となると――それも殆どの場合で白に近い色の花を見せる山の櫻ともなれば余計に話は違ってきます」
 言って、和装の男性もまた櫻の花を見る。
「だから、この櫻が――思い出の場所のようなものになったのかも、しれません」
 私が、大切な人と初めて逢った場所がこの櫻の下なので。いえ、厳密に言うならこの櫻ではありませんね。現世にある――本当にあるこの櫻の方の下で、です。
 故郷にあるこの櫻が目を引く色を持っていたからこそ、私は、大切な人とこの下で逢う事が出来たのだと。
「…だったら木登りはあまり関係無かった、かな?」
「いえ。彼女も――舞姫様も気が向けばこういう事しそうですし」
「それが…大切な方、ですか?」
「ええ。…まぁ、今の私では、どのみち彼女には逢えないんですけどね」
「あ…ごめんなさい」
「…。あ、いえ違います。…別に彼女は死んではいませんよ。むしろ殺しても死にそうにありません」
「…はぁ」
「ただ、私は彼女と暫く逢っていない上に、これからも彼女に逢えないだろう、と言うだけの話で。無事かどうかと言う意味で言うなら、まず元気でいるとは思います」
「…てっきり、さっきの血の理由かと」
「それは…まぁ、全然関係しない訳でも無いんですが…私の手を汚す血は、特に、象徴と言う訳ではないんですよ。見た通りの事実を示しているだけです。ですから拭けばその時は落ちます」
「…」
「ですがすぐまた、同じように汚してしまうので――拭いても洗ってもほんの僅かな間、一時的にしか意味が無い。拭う為の布の方が、流した水の方が勿体無い。その内、自分の手が汚れている事自体を忘れてしまうくらいです。手が汚れているその状態が、当然のように思えて来る訳で。私の手は初めから紅く濡れている、と。…私を構成する要素の一つのように思えて来てしまう」
 だからここ、夢の中でも手が紅く濡れていた訳で。
「…ただそれでも、そのままの手でこの櫻に触れるのは躊躇いましたね。貴方に言われて初めて、拭くと言う事を思い出しました――って…危ない!」
 叫ぶ声。
 唐突に。
 同刻、シュラインの視界がぐらりと傾いでいる。木肌に触れていた筈の手が離れる。落ち着いていたのだと思っていたその場所。ずっと同じ姿勢で居ると一部分だけに偏って負担が来る事がある訳で、少し足の置き場所を変えようと動いたら、その拍子に。
 木肌で、滑ってしまった。
 落ちる。
 和装の男性の腕が伸ばされるのが見えた。
 刹那。
 ざ、と周囲の枝がざわめいた、気がした。
 音が鳴る。
 足を滑らせ落ち掛かるシュラインを、追いかけるように。
 …そう思えたのは、気のせいだったのか。

 事実、シュラインは――夢の中とわかっていながら咄嗟にそうは思えず瞬間的に骨折程度は覚悟、衝撃を予感してぎゅっと目をつむってはいたのだが…何故か予感した衝撃は来ない。恐る恐る目を開けば、何故か目の前に櫻の枝の先がある。
 それも、角度が――古木本体から生えている本来の角度とは違った、何処か不自然な角度から網の目の如く幾つも幾つも。
 …目を瞬かせつつシュラインがその枝の元を辿り見れば、内、数本が和装の男性に行き付いた。彼が自分に向け腕を伸ばしてくれていたところまでは見たが――改めて見直せば彼の袖口から伸びているのは本来ある筈の腕ではなく、櫻の枝が数本。いきなりびしりと張り出している。それがシュラインの腕を絡めて掴まえている。それと同時に、周りにある櫻の枝がまるで自分から不自然な形に曲がり網を編んでいるような形で――シュラインの身体を掬い取る形で受け止めてもいた。
 櫻が、シュラインを助けたようにも見えた。

「…大丈夫ですか」
「あう…。ごめんなさい」
 助けられたのだとわかったところでシュラインは素直に謝る。危ないところを有難う御座いましたとお礼も続け、改めて体勢を立て直した。その過程で、腕の代わりに和装の男性の袖口から伸びる櫻の枝が視界に入る。
 彼の方も見られた事に気付いたようで、少し動きが止まった。
 が、シュラインの方は偶然視界に入ったからと言って――だからどうと言う事もない。まじまじ見る必要も目を逸らす必要もない。ただ枝だなぁと思うだけ。で、枝状態なその腕?も素直に借りて、再び木の上で先程落ち着いていた場所まで慎重に戻る。
「…驚かないんですね」
「ええまぁ。…慣れてますから」
 現実世界での――興信所でのお仕事上。…と言ってもわざわざ説明するべきかしないべきか。怪奇探偵貧乏探偵様々異名のある男の元に集まる怪しげな事件の数々の事を。…いやそもそも探偵と言う言葉自体が通じるか?
「そんな方ばかりだとどうも期待してしまいますよ。全く」
 シュラインの反応を見、呟きながらも、ふ、と力が抜けたように微笑む和装の男性。シュラインの目の前で袖口から伸びていた櫻の枝が元通りの人間の腕に変化する。…否、よく見れば、腕が枝状態だった時にはその肩や背の辺りに、櫻の古木本体の方からぶっすりと枝が突き刺さっていたらしい。和装の男性の腕が人間の腕に戻ると、そちらの枝もずずと重い音を立てて引き抜かれているのがわかった。どうやら和装の男性の身体を通過点にして枝が出て来、不自然な動きをしていたような、そんな感じで。
 …何だか、見ていて痛い。
 そうは言っても彼本人の方は――別に痛そうな顔はしていないのだが。
「…訊いていいのかわかりませんけど、ひょっとして貴方は――この櫻の精みたいな方、なんですか?」
「違います。そんな風に間違われてしまっては、櫻に失礼になってしまいますよ」
 私は、そんなにいいものではないので。
 今貴方が御覧になった通り、ただの人間です、ともそろそろ言えませんし。
 むしろ現世での私は――精霊どころか、人殺しの化物のようなものになりますからね。
「ってそんな自虐的にならなくても」
 …例え姿がそう言われそうなものであっても、心はそうでない事なんか幾らでもある。シュラインがそう続けると、和装の男性は苦笑して頭を振る。否定。
「…いえ、別に自虐では無く客観的な事実です。貴方は今…心はそうでない事なんか幾らでもある、と仰いましたが、私の場合はその肝心の心の方がまず化物なんですからどうしようもありません。先程見せた姿の方が、その意味では後付けです。…私は自然の力を借りる事が出来るだけなので、木から落ちる貴方に手が届かない、と思ったところで――咄嗟に櫻の力を借りたまでです」
「…心の方がって、今のあんたの何処が化物だと?」
「それは――夢の中に居る今の私でしたら、まだ人で良いかもしれません。ですが現世の私はもう、他者との意志の疎通は図れませんので。その上に、生きとし生けるもの、どれだけこの手で屠ったかもうわからないくらいなんです。先程、殆ど間を置かず手を汚している話はしましたよね。…貴方の世界では何と言うかわかりませんが、魔物、化物…誇張でも比喩でもなく、今現在現世に在る私はそんな感じの存在なんですよ」
「…私には、あんたは優しい人に見えるけど」
「本当に優しいならばこんな決断、下しません。…現世の私は――私の意志で、人である事をやめているんですよ。その結果、酷い事になるともわかっているんですが…それでも全部承知の上で、私が決めた事なんです」
 ただそれでも、決めてはいても。…やっぱり簡単に割り切れるものではなくて。それで――こんな夢の中でちょっとだけ迷っていた――休んでいたような感じなんだと思います。…貴方を話し相手にと望んだのも、恐らくは――人恋しかっただけの事。他者と話をする事なんて――自分が穏やかな意識を持ち他者と相対せるなんて、もう随分久し振りの事でしたから。
 木登りなんかしたのも、もう何年ぶりだかわかりません。…幼い頃は、何度かしましたけど。

「貴方とお会いして――久し振りに、昔に戻れたような気がしました」
 まだ人間でいられた頃に。
 まだ私の手が汚れていなかった頃に。

「…この度は私の夢の中に貴方を突然連れ込んでしまい、大変お騒がせ致しました」
 とても、楽しかったですよ。
 楽しいなんて、今の私がこんな気持ちになっていいのかと思えるくらい。
 途惑いましたけど。
 その途惑う自分が、また、懐かしかった。
 …昔は良くあった感情なので。

 本当に、楽しかった。
 ですが――残念ながら、いつまでも貴方を夢に捕らえて、こうしている訳には参りませんので。
 この夢から醒めましたら、私のような剣呑な輩の事は、どうぞ早々に忘れて――心安らかにお過ごし下さい。
 ――…貴方にも、現世で待っていて下さる方が居るのでしょうから。

 そろそろ、おいとまを。



━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

━━東京怪談 Second Revolution
 ■0086/シュライン・エマ
 女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 いつも御世話になっております(礼)
 今回は突発なところに発注有難う御座いました。
 結果として個別になりました。
 …で、何だか良くわからない話だったらすみません…。他タイアップゲーム含め、他の当方櫻ノ夢参加者様の物も見てみると、和装の男や櫻の古木についてまた色々と違った事が語られていたりもします。ノベルによっては正反対の事、全然違う事を言っているような描写に見える場合もあるかと思われますが、別にこちらの手違いと言う訳ではありません。こちらの意志でそう書いてます。

 …実は。
 今回オープニングはPC様側にどんな受け取り方をして頂いても良かったので、と言うかPC様毎に極端に違う受け取り方をされる事をひっそり期待していたりもしたので、敢えて募集時にオ−プニングの内容詳細については何も書いておかなかったんですが。
 …それでもさすがに木登りと来られるとは思ってませんでした(笑)
 服装も気にせず(笑)果敢に挑戦して下さって有難う御座いました(礼)。…この和装の男、こんな感じで引っ張り回された方が救われそうな奴なので、奴当人にしても有難かったと思います。

 少なくとも対価分は満足して頂けていれば幸いです。
 では、またの機会がありましたらその時は。

 深海残月 拝
PCゲームノベル・櫻ノ夢 -
深海残月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年06月06日

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