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『残花の灯火 』
物部・真言4441


■オープニング

 ただ、櫻の木だけがそこにあった。古木。染井吉野のような華やかな枝振り淡い色合いな定番の花とは少し違い。赤みが強い、山櫻。それ以上の風景は視界に入らない。あったのかどうかさえわからない。ただ、闇だけがあったように思える。明るくは無かった。陽の光からは遠かった。月の光さえもあったように思えない。周りにあるべき緑すらも感じない。なのにその古木の残花だけが、灯火のようにただ、映えている。
 その木の、下に。
 一人、無造作に腰を下ろして古木を見上げている姿があった。和装の男。書生のような風体とでも言えば良いのか、まだ若い。後頭部高い位置で括った長い黒の髪。黒壇の瞳――否、瞳はよくよく見れば紅い。深い深い紅。黒と見紛う紅。光の加減でしかそうとわからぬ程、深い紅。
 ――…既に流されこびり付いた、古びて饐えた血の如く。

 和装の男はただ黙して、古木の残花を見上げている。
 何の言葉も無いまま、静止している。
 ふと、瞼を閉じた。
 そして。
 唇だけを、開く。

「…貴方も、この櫻を?」

 静かに、声が響く。
 頭の中に。
 周囲に反響は無い。ただ直接響く。

「もしそうであるならこれも何かの縁。少し、私の話し相手になっては下さいませぬか」

 無理にとは、申しませぬが。
 控え目な頼みが、耳を打つ。
 和装の男はそれ以上は、何も言わない。

 ふと、その男の手に目が行った。

 ――…瞳の色とは違い、もっと鮮やかな紅に、濡れていた。右も左も、両の手共に。

 気付いた事に気付いたか、和装の男は静かに笑う。
 何処か、諦念を感じさせる笑み。
 男は再び瞼を開けていた。
 今度は古木の残花では無く、そこに来訪した姿を、ただ、真っ直ぐに見据えて来る。

 視線のその前。紅い色が、つと落ちる。
 一滴――否、花弁。本物の小さな櫻の花弁が、そこにはらりと落ちている。
 目の前。

 息吹ある大地とも思えぬ、闇の中。

 …否。

 貴方の目の前にある、現実に。



■夢現――ゆめ、うつつ

 ――…心地好い一定の揺れが感じられた。睡魔を誘う、慣れた振動。何だったか。確認。その為に――瞼を開こうか、開くまいか。それだけのとても簡単な事の筈なのに、何故か酷く迷う。この振動。凄く慣れているのだが、何故慣れているのか――何故揺れているのかがわからない。反射的にその理由を辿ろうとしていた自分に気付いたが、そんな気持ちもすぐ消える。ただ、このままずっと身を任せていたいような感覚。瞼一枚、指一本動かしたくない。いや、そもそもそんな事を考えるのが面倒臭いくらい、疲れているのだろうか? …それが一番正しいような気がする。
 ガタン、ゴトンと聞き慣れた音が耳を擽る。音と共に慣れた揺れが来る。

 ふと、瞼の裏に先程見た古木が浮かんでいる。
 濃い紅の。
 一瞬『そう』と言うには躊躇いを覚えたくなる色でもあるのだが――それでも、花は確かに『桜』のもので。
 転瞬、瞼の裏は闇になる。

 ガタン、ゴトン
 音がする。

 諦めたような表情もふと脳裏に過ぎる。
 年経た桜の木の下に居る和装の男性。
 紅に濡れている彼の両手も、また、見えた。
 見逃してしまってはいけないように思えてしまう自分が居る。

 ガタン、ゴトン
 変わらない、音がする。
 睡魔を誘う慣れた振動。
 日常の一部。
 自分自身の、日常の。
 よく、やってしまう事。

 ガタン、ゴトン

 せめてもう少し、このままで。
 思うとも無く思いながら、意識は再び深いところに沈んでいく。

 そんな自分の、膝の上。

 ――…濃い紅色の小さな花弁。

 はらりとひとひら落ちている。
 重さも何も無いままに、いつの間にやらそこにある。

 窓も開いていないその場所に、何処から紛れ込んで来たものか。





 ほんの僅かな間、自分の居るべき現実に戻ったような気がしたが――気が付いたらまた深い深い闇の中に居た。足許にたった今落ちた風である、濃い紅色の小さな花弁。先程の場面の続き。少し離れた位置に、残花となった桜の古木。それから人一人。…それも、手を紅く染めている、人。
 それしか見えない。随分と奇妙な…心象的とでも言うか、おかしなところ。
 ただ、そうは言っても、不安も危険も感じる事は無かった。帰り方がわからないのは確かだが、何故かあまり困った事のようには感じない。まぁ、元々気になる事があれば自分から首を突っ込んで行く方だから、ひょっとすると自分――物部真言は、元々無鉄砲な方になるのかもしれないが。でもそれで悪いとも思わない。…思えない。そうする事が何か自分にとって必要な事なのだと思っているから――何故か心の底でそう確信している自分が居るから。
 だから結局、自分はこうやって今初めて会ったばかりの――桜の下に居る人に話し掛けているのだろう。
 真っ直ぐこちらを見据えて来た、その相手に。
 つい今さっきの、続きそのままに。
 投げられた控え目な頼みに、受け答えている。
「…あんたが何処から来て何をしたのかは知らんが…これから何かをしたいって言うなら手伝うし、話も聞く。ただ先に一つ…」
 その両手。
「怪我をしている、のか?」
「…え?」
 驚いた声が上がる。
 真言から返った今の科白を考えもしなかった、そんな風な――和装の男性の声。
 それを認めてから、真言は続ける。
「気に障ったのなら悪い事を言ったが、血…と言うより怪我を見ると、治したくなるんだ」
 もしそうなら――怪我をしていると言うのなら、少しの時間をくれないか?
「…」
 言葉が、返らない。
 俄かに沈黙が続く。
 真言のそれは、つまりは怪我なら癒そうと――そして同時に、癒す力をも持っていると言う事で。
 それに対しての和装の男性の様子は、沈黙していると言うより、絶句してしまっている…と言った方が近かったのかもしれない。
 …何かまずい事を言ってしまったのだろうか。内心で少し動揺しつつ、真言は和装の男性を窺う。そして続けて再び声を掛けようとするが――その前に、声がした。
「――…その紅について触れられる事、それ自体に驚きますか」
 …君のその手を染める色、今ここで君に呼び掛けられた我々のような者にすれば――真っ先に気になってしまうものなのですよ。
 その声。当然声を掛けようとしたところである真言の声ではなく、だからと言って和装の男性の声でもない。また別の声。快い響きを持った、聞き取り易い低音。それだけでも容姿の美しさを思わせる男性の声。
 声のその源は、櫻――正確には櫻の古木を挟んで和装の男性の向こう側。影が動いた。仕立ての良いスーツを纏った人影。ステッキを突いている。その柄頭を握る繊細な指。緩く波打つ長い銀髪が靡いている。それ自体光って見えるのは周囲が闇だからか。
 ステッキの先端でぽつんと闇に波紋を立てつつ、二人の視界に入る位置にまでゆっくりと歩いて来たのは――セレスティ・カーニンガム。それとなく周囲の様子を確かめてから、再びこの場に来れたようですね、とひとり小さく頷いている。
 そして、少し思案してから、和装の男性へと向け言葉を続けた。

 …君はどなたか、大切な方を亡くされたのでしょうか。
 …その紅に濡れた両手から零れ落ちた何かの為に。
 …助けられなかった事に後悔をして。
 …悲しみが深過ぎ夢の中に囚われてしまっているのか。
 それとも、逆に。
 …何か傷付けるような事をしてしまって――その場に留まったままなのか。

 …君のその手の紅は、この櫻と、何か関わりがあるものなのか。
 …君が今ここで、この櫻と共に居られる事に、その意味が隠されているのか。

 そこまで指折り挙げるようにして、セレスティは漸く和装の男性へと言葉だけではなく視線も向ける。…それから、続けた。
「…こんな風に色々と、想像は出来ます」
 先程の君の言葉――そしてその瞳。秘められた何かを暴いて欲しいのか聞いて欲しいのか。…そんな風にも御見受けしましたので。
 失礼かとは思いながらも、思いつくままに並べ挙げてはみました――。
 ――が。
「…ですがまずは、そちらの青年――物部君の仰る通り、その紅の理由が怪我であるのかどうか、そこが気になるのもわからないでもありません」
 お優しい人であるなら、特に。
 言いながら、セレスティは真言を見、微笑む。
 その表情を向けられてから、真言は今度は――やや躊躇いがちに和装の男性に声を掛けた。
「…違う、のか?」
 と。
 声を掛けられた方――和装の男性の方もまた、真言同様に躊躇っているように見え。
「どう、でしょう」
「?」
「手に痛みはありません。傷も。…ですが」
 何故でしょう。…『違う』と、否定したくないんです。
 怪我をしているのかと問われてしまえば。
 その通りなのだと、思いたい。
 呟くように言いながら、和装の男性は自分の手を持ち上げ、見る。
「私は、これは怪我ではないと知っているのに。怪我どころか、その逆。私が傷付いたのではなく、私こそが傷付けた方。数多の人々を屠った証」
 それがこの紅の色。
 聞いて、セレスティは瞼を伏せた。
「…どうやら、あまり穏やかではない話のようですね」
「ええ。
 私は…私自身は、今御二方に言われるまで、この手の紅の事など、考えの内にも入っていませんでした」
 今もまさか、いきなり問われるとは全然思っていなくて。
 …それも、本来己が為した事とは全く逆の方向に、気遣われるなんて。
 驚きました。
「この色は――この私の手を染める血は、最早…私の一部です。幾ら拭っても、落とそうとしても意味がない。幾ら拭ってもすぐまた同じように汚してしまう事が――切りが無い事がわかっているから、そのままでいるんです。そしてずっとそのままでいると――やがて、両の手が血塗れである事すら、忘れてしまうようになる」
 当然、痛みも傷もありません。
 言われなければ意識せずにいられるような事、なのです。
 ですから。
 ――…この紅の理由は、私の怪我では、ありません。
 なのに、怪我をしているのかと気遣われて、すぐに否定出来ないんですよ。
 それどころか、否定したくない自分が居ます。
 痛みも何も無いのに、手を染めるこの血は己自身のものだと思いたい。
 そこまで告げると、和装の男性は何処か自嘲気味に息を吐く。
「…何を勝手な事を言っているんでしょうね、私は」
 と。
 そんな和装の男性の様子に、少し考え込んでからセレスティが口を開いている。
「…君の『手』ではなく、『心』の方が怪我をしている――傷付いていると言う事なのかもしれませんね?」
「………………私が?」
「今我々と何でも無いように話してはいらっしゃいますが、自覚していないだけなのでは、とも思えます」
 今の、心底意外そうな君の反応を見ても。
 そんなセレスティの指摘に、今度は真言が頷いた。
「…かも知れないな。はっきりとは言い切れないが…さっきカーニンガムさんがちょっと言った通り、この不思議な場所が夢である可能性は俺も高いと思う。俺やカーニンガムさんまで居る訳だし…。本当の――ここじゃなく『あんたが本当に居る場所』では手を染めるその血はあんたのものじゃなかったとしても――今ここであんたの手を染めているその血は『本当にあんた自身の傷口から溢れたもの』なのかもしれない。…だろ?」
「…」
「…だったら、試しにやってみても良いよな?」
 真言はちらりとセレスティを見、首肯されるのを確認しつつ黙する和装の男性に言う。それから静かに息を整え、言霊を紡ぎ出す。波瑠布由良由良、而布瑠部由良由良、由良止布瑠部。
 息を整え神への祈りを込め、それを幾度か続けると。
 すぅ、と少しずつ和装の男性の両手から紅の色が薄らぎ、消えている。
 が、和装の男性はそちらを気にするより先に、いつの間にか瞼を閉じている。
 何故か、耳を澄ましているような。
 心持ち、瞼を閉じたその表情が安らいで見える気さえする。
 何を思っているのだろう。思いながらも取り敢えずの効果が齎された事を認め、真言は祝詞を終わらせる。終わらせたそこで――ゆっくりと瞼を開いた和装の男性からぽつりと呟きが返って来た。
「…懐かしいです」
「…今の、言霊がか?」
「ええ。何を意味する言の葉であるのか、寡聞にして仔細は存じませんが、響きからして神式の祈祷――と言うか祝詞ですよね」
「ああ。布瑠の言霊――生命力を奮い起こさせ、癒しとする言霊だ」
「ですか。…わかる気がしますよ。意味が取れずとも、語り掛けてくるような、優しい言の葉に聞こえます」
「…手の紅が、消えましたね」
 やはりその紅もまた、君自身の傷であったようですね?
 そうセレスティに言われると、和装の男性は紅の消えた己の手をちらりと見、目を細める。
「…まだ、信じられませんよ」
「何故です?」
「私自身が傷付いている――少なくとも、産土の神にそう見なされてしまう事が、私の中にあるなんて」
 あくまで、私は傷付けた方であって。
 まさか、私が傷付いているなどと。
 私はただ、この場所で。
 ただ、現世から逃れ、甘えているだけなのに。
 眠りについた僅かな間でも、安らぐ事が出来るのならと。
 それだけの為にこの櫻の下に居るのに。
 それだけの為にこの夢を見ているのに。
「…やっぱり夢なのか」
「はい。…ここは私の夢の中ですよ。貴方がたがここに居るのも――私が呼んでしまったが故なのかもしれません」
 そうなると――御二方には済まないと思っています。何の都合を伺う事もせず、唐突に、呼び付けてしまった事になる訳ですから。
 静かに告げつつ、和装の男性は真言とセレスティを見る。
 と、まずはセレスティがゆっくりと頭を振っていた。否定。
「…いえ。私は全然構いませんよ。君の呼び掛けに受け答えたのも、私自身で君に――この場所に興味を覚えたからに過ぎませんので。その気なら無視も出来たでしょう。私が受け答えた事が、君の慰めにもなるのでしたらそれは僥倖と言えますよ」
 ここは、独りで居るには寂しそうな場所ですからね。
「寂しそうな場所――そう、思われますか」
「…櫻には様々、呼び方があると聞いています。品種だけではなく、季節毎移り変わる花の状態でも。…こんな状態は、残花と言うのでしたか。季節が移り見頃を過ぎて、僅かだけ花が咲き残っている櫻。…ただ一面の闇の中、そんな残花をぽつりぽつりとつける古木と共に、そこに居るなどと――やはり、寂しく思えますよ」
 誰か、と話し相手を求めてしまうのも…わかる気がします。
「やっぱり、ここはあんたの夢なのか…。…不思議な場所だとは思っていたんだが。この桜…この古木も、どれ程齢を重ねているのか…何処か畏怖の念までも呼び起こされそうなくらいの姿に見える」
 古木としての姿だけじゃなく、とても濃い紅の花が、余計にそう思わせるのかもしれないが。
 告げながら、感慨深げに真言は古木の残花を見上げる。
 その花は闇の中、儚い灯火の如く、照らしているようにも見え。
「…この櫻は、私の故郷にあるもの――いえ、正確に言うならその故郷にある櫻を、私が夢の中に映しているものです。この花の色は、私も珍しいと思いますよ。これは紅の名が付く山櫻の系統の木ではあると聞いてはいますが…それでも本来紅山櫻と言われる櫻なら…ここまで濃い色は表れないものです」
 ここまで濃い紅となると…そう、何か宿っていると思わせる程の、色にも思えます。
「…だな。この静謐で清浄な気は――神木とされてもおかしくないだろう」
「…神木、ですか?」
「ああ。夢の中に映された、それだけで…これだけの気を感じさせるんだ。この古木、神社みたいな祈りの場にも通じるさ」
「…祷りの、場」
 真言の科白をぽつりと反復すると、和装の男性は再び古木を見上げる。
 何を、告げたいのか。
 何か祷りを捧げているのか。
 そう思わせる、態度。





 暫くの間、そのままで時が過ぎる。
 微かに風を感じたのは、気のせいだっただろうか。
 思ったところで、真言が再び口を開く。

「…話し相手になってくれと、言ったよな」
「…はい」
「どうも話の腰を折ってそのままになってしまったが…初めに言った通り、何か俺に出来る事があるんだろうか」
 あるなら、手伝いたい。
 俺が出来る事なら、手を貸す。
 だから、あんたの話を聞かせてくれ。
 話したい事が、あるんだろう?

 ――…何か、頼みが。

「…ただでさえ御迷惑を掛けているのに、そこまで、親身になってお気遣い頂かなくとも」
「遠慮ならしなくて良い。それは、あんたの力になれれば、と思って今こう言っている。でもそれは、俺が、自分の為に――そうしたいと言う事でもあるんだ」
 だから、遠慮する必要は何処にも無い。
 この桜がある場所に――今俺があんたにここへと呼ばれたのも、何かの縁だろう?
 帰り方もわからないから、時間はある。
 一期一会って言葉もあるし、気の済むまで付き合うさ。
 と。
 真言が真剣にそう続けると、和装の男性は苦笑した。
「………………有難う御座います。ただ、まずは一つ、先にお伝えしておきたい事が」
「何だ?」
「帰り方がわからないと仰いましたが、ここから現世へと帰る事は、何も難しい事ではありません」
 現世で、目が醒める時になれば。
 ここからはいつでも帰れます。
 貴方がたを、この場に長く留め置く気はありません。
 こうしているのは、今だけで、構わない事で。

 それに。

「…助力を頂ける、とのお話ですが。
 もう、話し相手に、と欲した私の望みは、疾うに御二人には叶えて頂いておりますので」
「…そうなんですか?」
「はい。…話の腰を折られてなどいませんよ。私はただ、他者と言葉を交わしたかった。それだけなのですから」
「…じゃあ本当に言葉通り、話がしたかっただけ、って事なのか?」
 改めて確認され、和装の男性はゆっくりと頷く。

 …再三の御厚意、感謝致します。
 ですが今こうしていられるだけでも、もう私には過ぎた話で。

「本当に、それだけでいいのか?」
「ええ。…それ以上は、貴方たちには――貴方には頼めない」
 言って、和装の男性はセレスティと真言の二人を見てから――次に、真言だけを見る。
 セレスティならばまだともかく、真言には頼めない。そう言いたげな視線。
「…あるんだな」
 何か、まだ。
「…ええ、まぁ」
「どういう意味で、俺には頼めないと思う? 俺には出来そうも無い事、って事か?」
「はい。…ですが、貴方の力を侮っている訳ではありません。ただ、今会ったばかりの方々に不躾過ぎる事である上に、あれ程清く優しい言霊を紡ぐ貴方には――酷な頼みになってしまいそうですから」
 そこまで言って、和装の男性は小さく息を吸う。
 吸い込んだその呼気と共に、淡々と告げる。
 その内容に反して。
 今までと変わらず、静かな言葉のままで。

「…もし、現世で私と相見える事があったなら、私を殺して欲しいんですよ」

 誰でも良い。
 この人殺しの化物を。
 どうか、殺して止めて欲しい。

 …私の望みは、それです。

「――」
「君にとっては、現世こそ悪夢、と言う事ですか」
「…仰る通りです」

 本心を言えばこの夢から醒めたくありません。
 ずっとここで、安らいだままでいたい。
 ずっと独りで、ここに居たい。そして時折、賓人と共に言葉を交わしたい。
 それだけの事が叶うなら、どれだけ自分は恵まれていると思えるか。

 ですが、私はこの夢から覚めないつもりもありません。
 決めたのは、私ですから。
 到底許されざる大きな罪を犯す事を。
 誰が見ても酷いと思うだろうその決断を。
 下したのは、他ならない己自身。
 ですから、逃げるつもりはありません。

 …本当は逃げたくて、仕方ありませんけれど。

「…如何です。頼まれて頂けますか」
「それは…」
 静かに気負いも何も無く言われ、真言は言葉を濁す。反応に困り、眉を顰める。…殺してくれ。出し抜けにそんな願いが聞き入れられるかと問われれば。当然。
 が、セレスティの方は。
「事と次第によっては、引き受けて差し上げても構いませんが」
「…本当に?」
「ですが――君の本当の望みは、違うところにあるのではないですか」
「え?」
「血に染まった両手。我々に、話し相手にと望んだ事。自分が傷付いているなどとは思わなかった――けれど物部君の祝詞でその手の紅が消えている。数多の人々を屠っている。人殺しの化物。到底許されざる大きな罪。…それから、殺して欲しいとの頼み。それはどれも、仰っている通りの事だとも取れます。ですが、君のこれらの発言を聞いていると――少し、違う意味もあるような気がして来るんですよ。

 ――…君は、何を喪ったのですか」

 君はその喪ったものに、酷く責任を感じているようにも思えます。
 その為に、自暴自棄になっているようにも。
 …先程、私が挙げたように――どなたか、大切な方を亡くされたのではないですか。
 その大切などなたかを亡くされた事を――自分がその方を救えなかった事それ自体を、自分が殺した、と見なしているのではないですか。
 だから、自分が傷付いていたなどとは思わなかった。いや、思わなかったんじゃない。頭から、そんな事は許されないと思い込んでいて。考えの外にあって。
 数多の人々を。…その発言も、言葉通りに取る以外に、自分のせいで周囲を傷付けた、と自覚していると言う事の…比喩の意味もあるのではと思えます。
 人殺し。化物。許されざる罪。
 …それは、言葉通りの『何か』が和装の男性の本来在るべき現実ではあるのかもしれない。けれどそれらを差し引いたとしても、今ここで聞いていて、一つだけ言い切れる事がある。

 彼の紡いだ言葉の全ては。
 ――…それ全て、自分自身を責める言葉である、と。
 他の何も責めてはいない。
 攻撃するならば己自身を。
 他の誰のせいでも無く。
 だからと言って、悲劇に酔う訳でもなく。
 ただ淡々と、自分が悪いと、それだけを。

 何もかも背負い、それでも――それらが何でもない事であるように、ただ立って歩こうと。
 そうするべきなのだと。
 疑う事すら考えず、そうする事が、当然なのだと。
 そう、結論付けている。

 けれど。
 自分でも気付かない、本当の、本心のところでは。
「…君は、誰かに救って欲しい――救われたいのではないですか」
 私には君のその心から、悲鳴が聞こえて来る気さえ、しますよ。
 君が何処で何をし、今ここに至っているのか…物事の詳細はそれはわかりません。ですが、その感情だけは――気持ちだけは、ある程度伝わって来てしまうものですよ。
「………………救われ、たい?」
 和装の男性はそのまま、鸚鵡返しに呟く。
 考えもしなかった、言葉。

 救われたい。
 そう、なのかもしれない。

 言われて初めて、意識に上る。自覚する。
 再び、紅色の消えた手を持ち上げ、見る。
 …本当は怪我も無い筈のこの手。この場所は夢の中。そこで、癒しの言霊が、効くのであれば――効いてしまったのであれば。
 否定は、できない。
 己の傷だと見なされた。
 他者を傷付けて、付いた筈の血が。
 それもまた夢であるが故と、他の理由を探す余裕は和装の男性にはまるで無い。

「あんたは…死ねば、救われるのか?」
 ふと、真言。
 セレスティの指摘に固まった姿に、告げている。
「もし、本当の本当にそうなのだと言うのなら、さっきの頼み、俺も…出来るよう努力はする」
 だが。
 …違う、気がする。
 恐る恐るそう言った真言に、和装の男性は静かに笑う。…初めに呼び掛けた時と同じ、諦念を帯びた表情。
「…人様に迷惑を掛けて生き続けるよりは、ましかと思ったのですが」
「あんたが死んで悲しむ奴は居ないのか」
「…」
「居るなら、少しでも心当たりがあるならそれは――ただの逃げにしかならないと思うが。あんたは逃げる事を望むのか?」
 違うだろう。
 さっき、逃げるつもりはないと、あんたは自分で言っていた。
 …そんな逃げ方をしても、あんたも誰も、救われないんじゃないのか。
「いえ。…少なくとも、今後私に殺められてしまうだろう人は、救われますよ」
 あっさりと投げられた否定の言葉に、真言は更に言葉を選んで言い募ろうとする。
 が。
 その前に、でも、と和装の男性が続けていた。

 逃げと言うのも、確かにその通りですね、と。
 私は逃げないと自分で言ったのに。
 逃げていないつもりであったのに。

 本当は。
 ――…私が現世で下した決断それ自体が、逃避でもあったのかもしれません。
 自分自身、からの。

 現世で、もう一人の己に身を任せ、再び人である事を捨て人殺しの化物となる事で。
 手を紅に汚す事を選んだ事で。
 対峙しなければならない人と、直接話し、関わる事から逃げた自分がいたのかもしれない。
 想いは繋がっていると己に言い訳し、逃げていたのかもしれない。

 と。
 続く独白を止めるよう、こほん、と控え目な咳払いが聞こえた。
 セレスティ。
「…少々付け加えておきますが、物部君は君を責めるつもりは無くて、まずは…殺してくれと言う君のその頼みを君自身の意志で撤回させたい、それだけの筈ですよ。その上で、君が救われたいのなら、何とかして救いたい。だから君に話し掛けている。なのに、それで余計に君が自分を責める事になってしまうようでは、何だか本末転倒ですよ?」
「…すみません。私は――貴方がたまで困らせてしまっているようですね」
「いえ。私は…君の夢の中、この闇に何が秘められているのか、気になってしまっているだけですから」
 渾沌の。
 黒の中。
 よすがとすべき、灯火ひとつ。
 濃き紅の、年経た櫻。
 残花の灯火が浮かぶ闇。
「これは…君自身が考えもしなかった本心の一つ。数多の想いの影になっていた『救われたい』との願いが、この闇の中に隠されていた…そういう事なのでしょうかね」
「ああ…それで、ここに一本だけあるのがこの桜だったのかも…しれないな」
 ぽつりと真言。
 …さっき、あんたの故郷にある桜と言っていたよな。和装の男性に向け、続けてそう訊いている。
 和装の男性は、ゆっくりと頷いた。
「はい。…山に咲く珍しい色の櫻」
 この濃い色の花を咲かせる古木の下は、まだ何事もなく済んでいた頃の――先程指摘されてしまいました大切な人との、思い出のある場所でもあるんです。
「…だからか。…なら、余計だな」
 神木とされていてもおかしくないと、言ったろう。
 この櫻。
 言って、真言はその木肌に手を触れる。
「これ程力強い気を持つ桜になら、無意識の内に頼りたくもなる。…桜の方で、頼らせてもくれる」
 だからきっと、今、ここにある。
 真っ暗な闇の中ででも。
 あんたを救う為に、あんたを見守る為に――この桜はここにあるんだと、思う。
 俺たちを呼んだのも、あんたじゃなく、本当はこの桜だったのかも、しれない。
 他ならない、あんたの為に、さ。

 後から、何を言うまでもない。
 ――…それはきっと、初めから。



━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

━━東京怪談 Second Revolution
 ■4441/物部・真言(ものべ・まこと)
 男/24歳/フリーアルバイター

 ■1883/セレスティ・カーニンガム
 男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い

 ※表記は発注の順番になってます

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

 シチュエーションノベルではお世話になっております(礼)
 今回は突発なところに発注有難う御座いました。…日数上乗せしてある上にお渡しが納期ぎりぎりになっております。
 結果として、二名様御参加になりました。
 …で、何だか良くわからない話だったらすみません…。他タイアップゲーム含め、他の当方櫻ノ夢参加者様の物も見てみると、和装の男や櫻の古木についてまた色々と違った事が語られていたりもします。ノベルによっては正反対の事、全然違う事を言っているような描写に見える場合もあるかと思われますが、別にこちらの手違いと言う訳ではありません。こちらの意志でそう書いてます。

 PC様には和装の男を色々と気遣って頂き有難う御座います。怪我かと真っ向から心配して治療まで考えて頂けるとは…奴もきっと有難い反面、途惑っていたかと。結構剣呑な部分と穏和な部分の両極がある上、その己の両面を理性的に客観的に見れる目もある為に…PC様の方が逆に心配されてもしまいました(汗)
 それから、布瑠の言霊――神道系の祝詞を聞いて、懐かしいと言う科白が出たのは、奴の「大切な人」がそんな系統の術も使うからだったりします。ただ、その「大切な人」が今回ノベル本文でぽろりと話に出ている人物と同一人物かどうかはまた別の話になるのですが…それはそれとして。

 少なくとも対価分は満足して頂けていれば幸いです。
 では、またの機会がありましたらその時は。

 深海残月 拝
PCゲームノベル・櫻ノ夢 -
深海残月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年06月06日

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