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『The Site of The WaterMoon 』
アドニス・キャロル4480)&モーリス・ラジアル(2318)


 空は灰色で覆われ、肌を撫でる風が湿り気を帯びている。今にも泣き出しそうな空を軽く見上げてから、アドニス・キャロルは自分の目の前に広がる風景に視線を戻した。
「さすがにここはない、か……」
 呟き、べたつく空気の心地悪さに眉を顰めながらうなじをさする指の先で、長めに切り揃えた銀色の髪がさらりと流れた。
 アドニスが足を運んだ場所は、彼が根城としている廃教会から歩いて間もない寂れた村だった。灰暗い景色に溶け込みひっそりと佇む名もない小さな廃村は、遥か昔の異国から時を止めたまま移されてきたような、どこか現代の東京という街にはそぐわない空気を漂わせていた。そういう意味ではアドニスの纏う空気と似ている。
 胸の奥に不思議な懐かしさを感じつつ、アドニスは村の入り口の、元は門扉とそれに連なる石壁だったのであろう崩れ積まれた瓦礫の上に腰を下ろし、上着の内ポケットから煙草を取り出し咥えた。
 火をつけ、唇の端から細く煙を吐きながら目の前の風景を見るとも為しに見ていると、先程過ぎった郷愁がより深く感じられた。
 このままでは本来の目的を忘れて何時間でもそこに留まってしまいそうで、アドニスはふと我に返ると少し勢いをつけて立ち上がり、自分の感傷よりも優先すべき事柄を思い出すように煙と共に大きく息を吐いた。
「やっぱり違う場所にしたほうがいいな」
 アドニスがわざわざここまで歩いてきたのは、とある計画の下見であった。
 それは遡ること数ヶ月前、バレンタインのプレゼントとして彼の恋人が用意してくれた小旅行に発端を帰する。
 アドニスの恋人であるモーリス・ラジアルはアドニスには内緒で和風の旅館を予約し、バレンタインのサプライズとして温泉でのゆっくりとした日々を提供し、アドニスを喜ばせてくれたのだ。
 愛する人が自分のためにと準備してくれたことに言いようのない感激を覚え、アドニスはいつかそのお返しに自分も彼を驚かせ、喜ばせてやろうと思ったのだった。
 そう決めた日から密かにその計画に相応しい場所を探索してはいたのだが、その内に秘めた人外の血のせいか、はたまた元来の性格故なのか、人の多いところへ出向くのが苦手なアドニスに日常を離れた持て成しの名案は思い浮かばなかった。
 自分だけではどうしようもないと悟り、時にはいわゆる"デートスポット"と呼ばれる箇所を特集した雑誌などを密かに読んだりもしてみたのだが、あからさますぎる演出しか載せていない記事に、その日のことをシミュレーションするだけでアドニスの白い肌は赤く染まってしまい、却下せざるを得なかった。
 そして辿り着いたのが人のいない近場の廃村だったのだ。
 博識で強かで煌びやかな雰囲気を持ちながら、時折繊細で儚い芸術家のような風情を垣間見せることもある彼の恋人は、もしかしたら古い西洋の街と己の雰囲気に似た空気を漂わせるこの場所を気に入ってくれるかもしれないが、アドニス自身は気が進まない。
 自分は郷愁を感じ、心が落ち着く場所だとしても、サプライズのプレゼントとして恋人と共に甘い時間を過ごそうとする場所にしては殺風景過ぎる。
 ことさらロマンチストというわけでもないが、それでも最愛の人を招く場所にはもう少し雰囲気を感じられる方がいい。
 そう決めて、アドニスは唇から落とした煙草を爪先でもみ消すと、来た道を引き返した。

* * *

 それから数日の間、アドニスはまた時間の許す限り自分の記憶に残る情報を探り、相応しい場所を探し計画を立てようとしたのだが、結果は妥協というよりは手詰まりで、結局何も出来ないままいつもの教会での逢瀬という結論に至った。
 落胆を隠しつつ、逢える喜びに違いはないと半ば無理やり納得させてアドニスはモーリスの携帯番号をプッシュした。

* * *

 いつもは日が沈みかける頃に目を覚ますアドニスも、月が満ちる時期だけは本来人であった生活リズムに近づくせいなのか、昼間に起きても活動に支障がないくらいには覚醒する。
 それでも太陽に真正面から挑む勝負の行方は目に見えているので、窓のカーテンは閉めたまま、アドニスは上半身を起こすとベッドサイドの携帯電話にちらりと目をやった。
 先日電話で取り付けた約束の時間まではまだ少し余裕があるはずだが、人を驚かすことが好きな恋人はいつ唐突に目の前に現れるか分からない。
 その証拠に、覚醒したばかりのアドニスの耳には軽快に地面を蹴る車の振動が既に聞こえていた。
 着替えを済ませ外に出ると、道の向こうからモーリスの運転する車が見えた。それは滑るように敷地内に入ってきて、アドニスの目の前で静かに停まった。
「やあモーリス……どうした?」
「出迎えの第一声がそれでは、あまりにも色気に欠けませんか? キャロル」
 日差しを避けるように手を翳しながら、車内から降りるモーリスに近付き出迎えたアドニスは、恋人の端正な顔に僅かに浮かぶ疲労の色を見て取って、歓迎の微笑を潜めた。
 自分の顔を見て途端に表情を曇らせるアドニスに対し、軽口で返すモーリスだったが、体調が優れないのは事実でありそれを隠すつもりもあまりなかった。他の誰かにであれば最初から疲労など微塵も見せぬモーリスだが、心を許したアドニスにだけはなるべく本心を隠す悪い癖は出さないように決めていた。
「すみません、最近急に暑くなったせいか食欲がなくて、あまり食事を摂っていないのですよ」
 軽い溜息と共に苦笑するモーリスに向かって、アドニスは教会を示した。
「それなら出かける前に少し涼んでいこう。食事も……軽いものでよければ作るから少しでも胃に入れたほうがいい」
「そんなに気を遣わなくてもいいのに。でも、そういう優しいところが好きですよ」
「…………」
 さらりと口にされた不意打ちの言葉に心臓が1つ跳ね上がる音を聞いて、アドニスは僅かに頬を赤らめながら教会の中へとモーリスを導いた。
 
* * *

 アドニスが作った食事はサラダに冷製パスタと、少々早い夏バテ気味のモーリスを気遣ったさっぱりと口に出来るものだった。さりげなく細やかな恋人の気遣いに笑みを浮かべながら、モーリスはアドニスと向かい合って席に着いた。
「これくらいなら食べられると思ったんだが……どうだ?」
「ありがとう。大丈夫ですよ」
「そうか、よかった」
 にこりと笑って返すモーリスに同じような微笑を返してから、アドニスはふと口を噤んだ。
「……どうかしましたか?」
「いや、俺はモーリスにして貰っている半分も返せていないなと思って」
「なにを返すんですか?」
 俯き加減に小さく呟くアドニスをモーリスは不思議そうな顔で見返した。
「……バレンタインの時に、温泉に連れて行ってくれただろう? あの時、とても嬉しかったから俺もお返しにどこか内緒で出掛けて驚かせたいと思っていたんだが……結果はこんなものしか用意出来ない」
 テーブルの上に目をやり、軽く口の端を上げて自分自身に呆れたようにアドニスは小さく笑う。もっと頼れる存在でいたいと思うのに、相手に甘えてばかりの現実に己の体たらくを嫌悪する。
 落ち込んだ風情でパスタをフォークに絡めて遊ぶアドニスに対し、モーリスは笑みを零した。
「私には素晴らしい持て成しに思えますけどね」
 そう言ってアドニスの瞳を覗き込む。
「貴方といれば何だっていいんですよ私は。どこで何を食べようが愛しい相手と共に過ごすのが一番です。そういうものでしょう?」
 そこで一息吐き、今度は悪戯っぽい笑みを浮かべてモーリスは小首を傾げた。
「それともキャロルは私といても楽しくないですか?」
「まさか!」
「それなら食事を楽しみましょう」
 慌てて首を振るアドニスの様子が可笑しかったのかモーリスはくすくすと笑った。それを見て、アドニスは些細なことで気に病み後ろ向きになりかける自分の性格を早々に直したほうが良いと心の中で自分に対し苦笑した。
 そうして食事をし、歓談するうちにいくらか疲労の取れたモーリスの様子にほっとしながら、アドニスは食事中に唐突に思い出した場所についてモーリスを誘おうと口を開いた。
「実はこの教会の地下にプールがあるんだ」
「へぇ、それは知りませんでした」
「ああ、俺もさっきまで忘れていたんだが、その、外に出るとまた暑さでやられるだろう? だから地下のプールで涼まないか?」
「それはいいですね」
 にこやかに同意を示したモーリスの微笑みに、やっと今まで何も出来なかったことを悔いる気持ちが軽くなり、アドニスはタオルを取ってくるから待っていてくれと席を離れた。

* * *

 地下に続く階段を下りていくと、ひんやりとした空気が流れ出てアドニスとモーリスの肌を撫で過ぎていき、澄んで冷たい水の匂いが鼻腔をくすぐる。そしてそれはこれから起こる事への期待を含めて、夜の気配を纏い始めていた。
 2人はプールサイドに並んで腰を下ろし、膝から下だけを水に浸しながら同時に天井を見上げた。小さく切り取られた明り取りの窓からは明星が瞬くのが見て取れた。
 先に視線を戻したアドニスが先に水中へと滑り込み誘うように腕を伸ばすと、モーリスも腕を差し伸べてアドニスの胸に倒れこむようにプールの中へと入る。
「ああ……」
 冷たすぎず全身に広がる水の心地よさにどちらからともなく溜息が漏れた。
 水に揺られてうっとりと目を閉じたモーリスの顔を間近に捉え、アドニスは冷たい身体とは対照的に顔が熱くなるのを感じた。
 寄り添ったまま、水中で腕を泳がせ水を掬い、肌を濡らし冷やしていく。下がる体温と共に睡魔に引きずられる心地よさに似た浮遊感を感じ、また冷たい肌とは裏腹の内から沸き起こる熱にも浮かされていくようだった。
「気持ちいいですね……本当に」
「ああ、そうだな……」
 全身から力を抜き、浮力に任せて漂いながら時折交わす囁きと、水が静かに波立つさざめき以外この場所で響く音はなく、窓から僅かに差し込む満月の光だけがどこか怪しげな秘密の逢瀬を見守っている。
「……キャロル」
 水面に金色の髪を靡かせて身を任せていたモーリスが、閉じていた瞳を細く開けてアドニスを見上げた。
 呼びかけに対し視線だけで答えるように顔を寄せるアドニスに、唇の動きだけで要求を伝えると、アドニスもまた瞳を細め、まるで水に沈み込むようにしてモーリスの身体に覆い被さった。
 腰を支え僅かに水に逆らいながら細い身体を抱き寄せると、アドニスはモーリスの冷たい唇に己の唇を重ね合わせた。
「……出かける必要がなくなりましたね」
「行くとしたら寝室とプールサイドとどっちがいい?」
「今日は貴方のもてなしでしょう? 好きなほうでもてなしてください」
 重ねた唇の隙間からうっとりと言葉を漏らし、最後には彼らしく少しのからかいを含んだモーリスの問いかけに、アドニスはもう一度深く唇を重ねると、その吐息ごと胸の内に飲み込んで夜の始まりを告げた。


[ The Site of The WaterMoon / 終 ]
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2006年06月02日

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