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『泣き響む夜さり、櫻游ぐ狹間 』
榊・紗耶1711


 櫻の巫女の指先が空に舞ったひとひらを掴みそこねる。
 伸ばした手からも逃れて、花弁は、くるり、くるり、深き夜の底に沈んでゆく。
 それを見送り、巫女はそっと瞳を閉じた。
「……良き夢でありますように」
 たとえそれが、終わりを告げるものであったとしても。
 僅かでもひかりが照らしますように、と。
 願った。


 そうして、ここにもひとつ、夢物語。
 花に満たされた底へ葬られる物語。

 冥く、懐かしい――櫻ノ夢。





「そう、これは、夢」
 夜を湛えた空に戻ってゆく櫻の巫女を知覚して、もうひとりの巫女が目覚める。
「過去であり過去でなく、未来であり未来ではない」
 呟きを押し流すように、花弁が舞い上がる。
 新たな花を連れてきたようだった。





 風が意識を掬い取る。
 睡っていたのかもしれない。はじめ冷たいと思ったその風の温度はひどく曖昧で、瞼を開けたときには既に無風の状態だった。すぐに風の存在など、忘れる。
 まだ夜は明けていなかった。月の姿もない。それでも辺りは薄らぼんやり、雲でも懸かっているのかと空を見上げたが、枝々に遮られ明かりの元は知れなかった。かわりに下を覗きこめば、灯火のひとつも持たぬ大勢が、なお冥い穴の底を揃って見つめ頭を垂れている。
 男もいる。女もいる。大人も、子供も。それは家族のようでいて、他人の寄せ集めのようでもあった。
 皆一様に、己の死を悼んでいる。
 いいや、こうして上から全体を眺めていれば、端の方でどこぞへ駈けゆく若者や、その先に待つ賊の集まる光景さえ、よく見えるのだった。眼差しを戻せば、墓穴の群聚から数歩退いて、自分をじっと見つめる黒衣の影。先ほどからずっとこちらを窺っているのは知っていた。眼を合わせてはいけない。それとなく逸らして、ふたたび櫻木の根元に埋められる己の屍を、眺め遣る。
 花弁が数片、すぐ傍を降る。
「まだここに残っていたか」
 少年の声が、頭上。ゆっくり声の主を振り仰げば、予想に違わぬ金眸が見下ろしていた。衣を被いたその身は境もつかぬほど真白い。髪も肌も色を忘れ、ただ衣の間から覗く眸だけが禍々しく金色爛としている。
「放っておけ。おまえは既にこの世のものではない」声音にそぐわぬ倣岸な口調が嘲笑う。「それとも、己が躰がああして土に隠れゆく様を認めても、死を疑うのか?」
 返事はしなかった。
 彼は僅かに首を傾けて、音にせず言葉を紡ぐ。哀れな。そういったように見えた。
 花が降る。舞う。落つ。彼の立つ細い枝は撓うことすらせず、はらり、素知らぬ顔で薄紅を夜へ遊ばせる。
「……そうだな」
 不意に彼が口を開く。
「私も退屈していたところだ。このところの亡者は物分かりの良い輩ばかりでな。心残りはと聞いてやっても、特にないなどと吐かす。おまえはどうだ? やはり同様、思い残すことなどなにもないと、そういうのか?」
 独り言つだけの声先がこちらへ向けられる。眩い金は伏せられて真意を悟らせなかった。
 風がまた通い、衣を煽る。
「――我が名、鵠辰丸。しばらくの脇道、付き合うぞ」
 束の間露になる顔貌は、花明かりにも霞むことなく、あてやかに笑んでいた。


 彼の在る櫻の大木には、六つのひかり。
 五つは枝上に、一つはその下に。





 胸の中心を貫いたそれが、ひどく冷たかったのを覚えている。
 やがてじわりと熱を持ったかと思うと、躰中の細胞すべてが一斉に暴れだした。引き抜こうとそれを掴んだのに、逆に掌がじゅうじゅうと焼け爛れて、少しも動かすことができなかった。
 明滅する視界、耳鳴り、遠くに獣の唸り、噛みしめた牙の間から滴る唾液と血、
「死にもするわな、そりゃア」
 あんな立派な銀の剣で、心臓を一突きされれば。
 太い枝のひとつに身を預けながら、乗り出して下を覗きこむ。自分の死体はもうほとんどが土を被せられていて、残りは肩より上の頭部だけだ。墓を掘る男たちが、躊躇いながら少しずつ……少しずつ、土を乗せていく。泣きながら。涙を拭いながら。問いかけながら。


 ――なぜだ、なぜなんだ。
 ――約束しただろう。


 約束。
 そうだ、このようなはなを、櫻を、美しい情景をまたともに眺めようと誓ったのではなかったか。
 せつなき顫えが身のどこかに走るのは理解しているのだが、なにゆえかそれは、こころにまでは至らなかった。どういうことだ、と裡を咎める。落ち着け、と口中で呟く。妻との契り、妻とともに、妻はいずこに、
 彼女は、
「――すみません」
 ほうと長く細く吐息を落として、かぶりを振った。
 どうやら私は、あなたをひとり、残してきてしまったようだ。遠目にもわかる私のあの躰は、あの肌の色は、力の抜けきったそれは、まがうことなくもうなにをも宿してはいないのです。
 そしてあなたに申し訳なく思う一方で、今は、僅かばかりの安堵を覚えていることを、赦してください。私の死を嘆く方々のなかに、あなたの姿がないこと。まわりの墓にもないことを。ただひとり残される苦しみを知らぬわけではないのに、それでもこうして己が死者の側になってみると、やはり、あなたの未来を願わずにはいられないのです。
「心残り、か? それが」
 いつの間にかまたすぐ傍へ来た気配に、振り向くことなく頷く。
「それにしても、あの方たちは……?」
「わからぬか。おまえの死をあんなにも悼んでいるというのに」
 哀れなるは向こうかもしれんな。嗤う声が、ひそやかに風を呼ぶ。
 いくつもの渦をつくりながら薄闇をくだる花弁は、六つの穴を目指しているように見えた。
 自分は彼らを知っているのだろうか。――知っていた。――知らなかった。
「……私の死を悼む者など誰もいないと、そう思っていました」
 否。
 ひとりだけ。たったひとりでいい。玉響あなたの思いが憂いの色を滲ませてくれたのなら。
「私は、別れを告げることができたのでしょうか」


 死んだら、お別れをいってまわろうかと思ってた。
 家族にいってまわろうかって。私、死んだみたい。私は死んだの。死んでしまったのよ――でもそれはきっと不要。わざわざ言葉で伝えずとも気づいてくれるでしょう。
 見上げる櫻の樹には、はっとするような眩いひかりが五つ見える。さっきの風に導かれて、花弁に乗ってやってきた夢たち。ちゃんと、戻れるかしら。道はわかるのかしら。彼がいるから大丈夫でしょうけど。
「鵠」
 この世界でもっともたしかなものの名を囁くと、彼は動きを止めて、衣の下で金色を閃かせた。
 私の声は、この距離では届いていないはず。それでも眼差しがたしかに交差したのを認めて、瞳を伏せる。どうやらここでも、私は自由に動けるようだ。それならもう少しこの夢に留まって、あのひかりたちを見届けようか。
 黒髪が珍しく風を感じている。頬をさらり撫でるそれに気づいて、櫻の幹へと手を伸ばした。ひんやりとした温度と、硬い樹皮を指先に感じ、つよくその表面を撫でる。弾力のまったくないざらつきが嬉しかった。前に樹に触れたのはいつだろう。花を目にしたのはいつだろう。どんな花だったかしら。
 今は、櫻の季節なのね。


 櫻の葬送。
 ただ素直に綺麗だと、思った。躰が滅び去るその日がやってきたのだとして、自分の死を悲しむひとがいてくれて良かった、とも。
 墓穴のまわりに佇むひとりひとりの顔を順に眺めてから、そろりと足を下の枝に掛ける。鵠辰丸がそうであったように、その枝はまったく重みを感じた様子がなかった。そして自らの足にも、なんの障りもないことに気づく。思いきって決して低くはないその枝から飛び降りてみた。
「ああ……そうですか」
 夢、ですからね。こういうこともあるのでしょう。
 それにどうやら、視力の方もだいぶ回復しているようですね――慣れない感覚に口許をゆるめ、歩を踏み出す。支障なく着地を終えた脚は、意識して体重の掛け方を調整してやらずとも滑らかに動く。歩くという行為は、こんなにも自然なことだったのか。土の感触はあまりないが、地に散った花弁が一歩のたびに靴のまわりを躍った。
 その穴の近くまで来ても誰も振り向かなかった。気づいていないというより、自分の姿は彼らには見えていないのだろう。母親らしき女性の服に顔を埋め、すすり泣く少女の姿が目についた。その頭へそっと掌を乗せる。できなかった。溶け出したかのように自分の手は突然透けて、少女のやわらかそうな髪に触れることができない。
 もどかしいですね。微笑を刷いたまま掌を見つめて、ひとつ瞬く。彼女が嘆いているのは私の死。死んでしまった私には、彼女を慰めることはかなわないのですから。
「それにしても」
 底を見下ろす。
 花弁の雨は絶えることなく降り続いて、もう呼吸することのない私の躰を埋めていく。
「死とは、意外にあっさりしたものなのですね」


 どうも私は、死んだらしい。
 それを告げた少年は、自分よりいくつか下の枝で誰かと話をしている。ゆるく波打つ長い髪の女のひと。どこかで見たような気が、する。どこか? それは私が生きていたときかしら。それなら、あの私の死体のまわりにいるひとたちも、生前に面識のあったひとたちなのかもしれない。ごめんなさいね、私、なにも憶えていないみたい。あなたたちが誰なのか、なぜ私はこんな埋葬をされているのか、わからないの。
 そもそも、なぜ、死んだのだったか。
 でも、あの死体は、私だ。
 心残りは、と彼は私に訊いていた。未練。そんなものが、あったのかしら。人、場所、それともやり残したこと。思い出そうとするけれど、記憶は白くて厚い布で遮られているようで、幽かに色や音がその向こうでゆらめいている。
 こんな状態で、私がここに留まる理由があるのだろうか。
 首を傾けると、髪が肩から滑り落ちて、胸元の花弁を払った。僅かな動きにも、身の上に降り積もった花たちが、はらはらと私の許から逃げていく。落ちていく。
 鵠辰丸の金眸が、今度は見上げていた。


「自分が誰かも、判じかねているのか?」


「……その呼び名は、やめろ」
 鵠辰丸はわざとらしく嘆息すると、上向けた面をまた私に戻した。衣は肩に掛けられて、その水干姿を露にしている。白いのは、その装束も同様だった。頸紙に菊綴、袖括りの緒に至るまでただただほのけし白光。この夜の明るさに彼も一役買っているのか、白の過ぎる彼の影は櫻とともに千切れそうでもある。
「人と話をしているときは、眼を逸らさない」
 呼び方に関しては答えを返さず、いい含めて唇を撓らせた。
「それにあなた、退屈していたのでしょう?」
「おまえにも、心残りがあると?」
 はっきりと首を振り、立ち上がった。枝は揺れない。
 やりたいこと、やらなければならないことはたくさんある。けれどそれはやり残したことと同義ではない。これからやっていけばいいこと。そう、これから。
「今の私は簡単に死ぬ玉じゃないし、場所もそぐわない」
 だから、これは夢。
「虚勢では、ないようだな」
 これは泡沫の幻。
 死んだことは何度もあるけれど。
 ――私は“人”だから。
「ならば他に、私の無聊を慰むものがあるというか」
 鵠辰丸の言葉が幾分つよい響きを持つ。興をそそられた様をそこへ見出して、笑みを深める。金色をまっすぐに覗きこんだ。
「少なくともここでただお花見をしているよりは」
「それは過信でもなく?」
「ええ。けど、張り合いのない相手は退屈だけど、張り合いがありすぎると文句をいうんじゃなくて?」
 身内によく似たのがいるわ。
 夢のなかにいても眩しいほどの存在を思い浮かべながら、彼の返事を待つ。首が縦以外に向くことはないのは知っていたが、あえて間を置かせた。
 得たり。
 そうして、難問をひとつ。
「――いい退屈凌ぎには、なるでしょう?」


 葬列がせつせつと進んでゆく。


 あれは、誰の葬列だろうか。
 知人か、他人か。それともまた、己のものか。
 丘を登ってくる者たちは、自分の墓を囲んだ彼らよりずっと少なく、誰一人涙しているものはいない。あくまで事務的に柩を運び、あらかじめ掘られていた墓へ乱暴にも見える動作でそれを据える。咎める者はいなかった。誰もが早く終わってくれと、無表情に無感動に、視線さえも死者を認めぬまま、葬列は尽きた。


 あれこそが、私の墓ではないのでしょうか。


 あれこそ、俺の墓じゃないのか。


 いや、墓がつくられるかも疑わしい。
 不安になったわけではない。ただほんとうに、そう思ったのだ。
 長く永く、気の遠くなるような時間を過ごして、行きつく場所が、幸福に満ち充ちたものであるわけがないのだと、どこかで考えていたからかもしれない。
 いつだって置いていかれる側だった。
 柩に納められるのも、花に満たされるのも、土の下で眠りにつくのも、自分ではありえなかった。
 今だって、眼の前の死体が自分であるのは知っていたが、これが現実ではないのも同時にわかっていた。夢であるのに、獣の血をひく研ぎ澄まされた躰は、幻覚を許さなかった。
 樹を下りてきてみれば、あらかた土に隠れた屍は、たしかに屍以上でも以下でもない。当然のことだが、安らかな死相をさらすそれはただの人間の果ての姿だった。
 現実でも、このように、死ねるだろうか。
 口の端が歪んだのを感じる。


 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり事去り、樂しび悲しび行きかひて、花やかなりし邊も、人すまぬ野らとなり、變らぬ住家は人あらたまりぬ。


 輪廻の外で、ただ見送るだけの自分の傍らに、誰かが添うこと、並んでくれること。
 刹那だとわかっている。
 それでも、同じ花を眺め、触れ、語らう。この時を、失いたくはなかった。
「……先に逝っちまった。すまねェ」
 遊ぶように呟いてみる。
 この台詞を、俺が口にする時は、はたして来るのか。
 少なくとも、おまえよりは後になるんじゃねェかって、思ってる。


 桃李物いはねば、誰と共にか昔を語らむ。


 自分ひとりで、いい。
 櫻を見上げる。夜を糧に誇るその花は、こうして少し離れてみても、全体を眺めることが難しいほどの雄大さで、ひかりの片を放っている。そのように散り急がずとも。いや、この散るという行為で、儚い身を誰かの記憶に留めることを、せめてもの慰めとしているのかもしれません。
 黙礼。
 櫻に向けて。空間に向けて。誰かに向けて。
 謝罪はきっとわかってくださるでしょうから、それより勝る感謝の念が、あなたに届くように願います。
 顔を上げたところに、また花弁が流れる。
 風のゆくまま。ときおり逆らうように、空中でくるりと身を翻して。
 その様を眼で追い、地に落ちきったのを見届けてから、静かに、左腕を持ち上げた。


 櫻木は、小高い丘の上にあった。
 樹があんまり大きいので、その根はもしかしたら、丘全体を包んでいるのかもしれない。盛土に、墓標。櫻の他にはそれしかない。
 丘の周囲は、闇だった。
 その闇へと、埋葬を終えた人々は、哀しみに暮れながら帰ってゆく。名残を惜しみながら去ってゆく。


 残されたのは、誰?


 あれは、見てはいけないのでした。
 丘を一周して元の櫻の下に戻ると、危うく視線を向けてしまいそうになったその存在に、ふっと微笑する。それがなんなのか、きっと私以外の方にもわかっているのでしょう。とてもシンプルなことですから。
 見てはいけない。それがルール。
 見たくなったら見ればいい。それがルール。


 なにも、見えなかった。
 記憶は辿る前に、どの道も霧で蔽われて、帰り道さえ覚束なくなる。なにひとつ、掴めなかった。
 私は、誰なんだろう。
 ああ、たしかに。彼のいうとおり、私は自分が誰なのかもわかっていない。名前は思い出せる。けれどそれになんの意味があるのだろう。私は死んだのだ。もう名を呼んでくれるひともいない。……呼んでくれるひとが、いたのね。死ぬ前の私には。
「     」
 薄れた記憶が揺さ振られる。
 私の名が呼ばれたのはわかったのに、どこか他人の名前のような、物の名前のような、曖昧な距離感に戸惑う。
「案ずるな」
 冷たい響き。
「私はそのためにここにいる」
「……その、ため?」
 きっと死んでから、初めて声を出した。生きているときと、ちっとも変わってない。
 鵠辰丸は微かに頷いて、じっと私を見つめている。
「これが」ゆっくりと、言葉をつくった。「これが『脇道』だと、あなたはいった」
「ああ」
「ここは、どこなの?」
「脇道。――本来往くべき道を逸れた、束の間の場所」
「あなたは、ここに、詳しい?」
「私はこの世界でもっとも揺るぎない」
「急がないなら、もう少し、ここにいても?」
「おまえが望むならば」
「おすすめの場所は、あるかしら?」
 音もなく手が差し伸べられる。私は躊躇なくそれへ掌を重ねた。
「――泣かぬ夜、櫻の及ばぬ処へ」
 一度だけつよく手を引かれる。
 はなびらが私の躰を包んで、視界は薄紅に敷きつめられた。


 花弁は尽きることを知らない。
 こんな風に咲くものだったかしら。こんな風に散るものだったかしら。
 幹に凭れて、櫻を、丘を、その向こうに広がる闇を――この世界を眺める。額の紋様の象徴する力は、今もすべてを顕して、伝えてくる。過去も未来も、幻も現も、私の意思に関係なく。
 さく、ら。
 けれどそれとは別のところで、引っ掛かる記憶があった。この花を現実の世界で見た記憶。こうして夢の狹間を彷徨う前、病室に閉じこめられる前、そう、小さい頃、あのときは京都にいたんだった。いにしえの宮処で咲く、たくさんの桜の花をよく眺めて。
 もうあの桜を見ることは、できないのかな。
 それがとても綺麗な花だったという記憶はあるのに、どんな色だったか、どんな香りだったか、ぼんやりとしか思い出せない。辿ろうとすればきっと鮮明にその風景を視られるのだろうけれど、しなかった。
 過去に夢を見て、過去に生きたくはないから。
 かといって、未来にそれを望んでいるわけでもないのだけれど。
「今は……今だけは、これで満足」
 添わせたままだった掌の幹の感触。三つめの瞳ではなく、この対の銀眸に映る櫻嵐。
 もし他に、思い残すことがあるとすれば――ふる、と払うように首を振る。開きかけた唇をそっと閉じた。
 これこそきっと、未来に視るべきもの、ね。
 現で逢うことを許されぬ兄の白貌が、花霞に過ぎった。


 身の代と遺す櫻は薄住よ 千代に其の名を榮盛へ止むる


「――男大迹王」
 正しく解したいらえに頷いた。
「たしかにおまえのいうとおり、難問には違いない」
「櫻はこれだけ咲き誇り、舞い、降れば十分だし、植樹なんて真似っこは嫌だわ」
 先を制すと、鵠辰丸は細めた眼差しを枝へ流す。私の提案した退屈凌ぎは、予想以上に彼を悩ませているらしい。もっとも、表情の変化の幅が小さくて、僅かに顰められた眉の辺りでそうと知れたのだけど。
 証を残したい、といった。
 私がここに来た証を。
 都に招かれて、長く過ごした里を去ることになった男大迹王が、別れを惜しんで一本の桜木を形見にと、植え残していったように。
 この世界に、鵠辰丸の記憶に、私という存在を残せる“なにか”が欲しいのだと。
「そのようなことをせずとも、私が出逢った人間はすべて憶えている」
「それじゃだめよ」
 いい案が浮かばなかったのか、面持ちはそのまま振り向いた彼に、うたうように告げた。
「たくさんの亡者のひとりじゃなく――この姿、名前、憶えておきなさい」
 鵠辰丸の息を呑む気配が伝わる。それはやはりとても小さな変化で、
「……随分、酷なことをいう」
 でも私から逸らさなかった金の眸が、
「これは夢だと、おまえはいった。ならばおまえは遠からず現へと戻るのだろう」
 心做し色を変じたのが、
「私がおまえを憶えていても、おまえは私を忘れる」
 ――わかった。


 水の気が、かえってこない。
 常なら万象に感じる親しんだこえが今はないことに、不安より先に不思議な、そして新鮮な感覚に、まるで他人事のように首を傾ける。これは水に生きる種族として、失格でしょうか。いいえ、その種から離れていった証でしょうか。
 すべて夢のことだから、では片づかぬように思うのは、自分の死を観察した結果が少なからず及んでいるのかもしれません。
 どこまでも客観にしか判断できない自分をもて余したわけではないが、思考を中断して改めて水の気配を探った。
 人間も、櫻の木も、この世界を満たす空気にさえも、それは存在していなかったのに。
 腐敗し、濁りきり、凝り固まった水たちが、近づいているのが、視えた。
 彼らは、口々に、


 告白する。


 かつていた別の世で、私は数多の命を殺めて参りました。
 ――置いた掌の下、沈黙する刀の冷たさが、直に触れているようにいたむ。
 腰に佩く刀は武士の魂……志なれど、それが誠の正義であったかどうかは今でもわかりません。
 ――動かぬ視線は、ただ一点に据えられる。
 まだ私の玉の緒が、こうして未練を持ってあの櫻木に繋ぎ留められているのなら、
 ――縛すように力を籠めても、それは零れる。
 自らの手で断ち斬り、終焉を迎えたく思います。
 ――受けとめるものさえなく、零れ続ける。
 やはり私は、いずくの場所や時代であっても、武士なのです。
 ――終を拒み儚きを見せるものたちに解放を突きつけた。
 いっそ、滝が落つるがごとくに、潔く、


 輪郭がぼやけていた。
 鵠辰丸に連れられて来たのは、櫻の丘の“外”だった。丘から見たときは塗りこめられた一色の黒だったのに、こうして外側から眺めてみると、むしろ丘の方がそうであるように見えた。明るすぎて、ひかりの色しか感じられないのだ。
 こちら側の闇は、深くて、だからこそ浮ついたところがない。櫻は綺麗ではあったけれど、その存在はどこか眩しすぎたから。焦がれているのに、永く傍に留まるのにはあの櫻は美しすぎる。
 花弁は、届きそうで届かない。
 ひかりは、掴めそうで掴めない。
「あのひとたちは……なに?」
 指し示したはずの自分の手は、見えなかった。
 けれど彼にはちゃんとわかっている。なぜだかそう感じた。
「眠りを乱す者」
 声だけが、近い闇から答えた。
 丘へ近づく賊たちの手には、たぶん、武器のようなものが握られている。眠り。目指す先には新たな墓。ああ、と納得した。
「私の墓も、荒らされるのかしら」


 ケダモノが、騒いでやがる。
 それは己も同様ではあった。夢現の別なく獣は獣であるらしい。
 少しは気を散らしたらどうなんだ。その息遣いはやかましい。その口が喚く言葉はかまびすしい。その跫音はうるさすぎる。
 る、と咽喉が鳴った。あらぬ月色が瞳に宿るのを感じて、瞬く。瞬時に色は潜められたが、ざわりとした違和感と昂揚が交互にやってきて、ともすれば表に出て暴れ狂いそうになる。
 ねめつけた先で、賊にまぎれた獲物が銀の刃を闇に煌めかせた。


「憶えているわ」
 傲慢とさえ呼べるほどの明瞭が、薄闇を裂いて届く。
「私は絶対になにをも忘れはしない。すべて、余すところなく、記憶している」
 厳かに告げられるその台詞は、疑念すら許さぬつよさで語られる。
 曇りのない微笑みが、霞を退ける。
「空に知られぬ雪は、いつ止むのかしら?」


 散りたい。


 そう結したはずだった。
 いまだ迷いが、私のうちにあるのでしょうか。未練が見せた、幻夢なのでしょうか。それともこれこそが現を断つに要する行だとでも。
「……さ……や、」
 掠れた声が思うより先に言葉を紡いでいた。


 名前を呼ばれた気がした。
 私を知るひとなど、そう多くはないはずなのに。哀切の混じるその声に、振り向いていた。
 瞠目する深い碧の瞳が、私を食い入るように見つめている。
 ああ、このひとは、迷っている。巫女姫としての目で知ったけれど、それだけではない私自身のなにかが騒いで、こちらからも視線を逸らせないでいた。
 このひとを、導かねばならない。
 このひとを、迷わせてはならない。
 つよくつよく、そう思った。


 振り向いた少女と、面影が重なる。
 そうしてからやっと、違うのだと気づく。
 後ろ姿に見た髪が、彼女とまったく同じだったから。佇んだその背の気配が、とても似ていたから。
 それだけが理由か。私は彼女を容易に見誤るのか。
 困惑する私に、彼女はやわらかく微笑みかけた。銀色の不思議な双眸、額の特徴的な紋様。なにより記憶の彼女とは年齢も違うのに、どうしてか目が離せなかった。


 天空が、惑う。
 もうそこまで、来ている。


「空知らぬ雨が止んだのなら」
 雪もともに降り止むだろうと、少年はいった。
「空は知っていても、己の身を知らぬ雨はまだ降り続くかもしれないわ」
「それは現も夢も、来し方も行く末も同じこと」
「けれど昨日の花があるからこそ」
「然り、今日の夢。ならばそれすらもいつかは尽きるのだろう」
「花は根に?」
「――鳥は故巣に」
「帰ったとしても、それは咲く前、飛びたつ前とは、違っているものよ」
 少年は衣を被く。そこだけが見えた口許が迷うように開いては結ばれる。
「……路は、開かれている」
 逡巡の末にそれだけを告げると、さっと顔を仰のけた。


 花が、散る。


 櫻の花色が褪せた。
 匂いは薄れ、
 散る速度は益し、
 風が流れを変えた。
 舌打ちする。――してから、俺はなにを期待していたのかと自嘲する。あれを仕留められぬことに対してか。獣の性に従ええぬことに対してか。
 振り向いた獣の目には、少しずつ溶け出していく賊たちの姿が視えていた。それは人間の形をしていて、男がいて、女がいて、そのうちのひとりの胸に、銀の大剣が突きたてられている。獰猛な牙を隠そうともせず、こちらを睨んでいるそいつに、ひとつ、吼えてやる。残された時間がもういくらもなかったその獣は、溢れる血を咽喉に詰まらせながら、必死に剣を抜こうとしていた。掌が銀に焼かれて新たな血が流れて、流れて、頽れ――消えた。
 頬に当たる花弁が煩わしい。
 これはきっと、悪夢に違いない。
「……ソレにしちゃア、花は悪くなかったけどな」
 それだけが惜しいと、降り続ける退紅のなか、思った。


 冷たい手が、私の手首を捉えた。
「行くの?」
「おまえはどちらへ向かいたい?」
 顔はまだ、見えなかった。でももう、ここは闇ではない。あの櫻からも、丘からも、闇は確実に剥がされてゆく。寂しかった。二度と見られないのだと、なぜだかわかってしまったから。同じ場所へはもう来られない。ここはもう、消えてしまう。
「自分の名はわかるか」
「     」
「それならば、どちらへ進むべきか知っているな」
 答えた自分の名は、たしかに私の名前だった。そして少しずつ、記憶が、生前の、現の、日常のそれらが、押し寄せてくる。
 また手を引かれて、櫻の丘が近づいたのを知る。
「鵠辰丸」
 顔は見えなかったけれど、微かに振り向いた彼に問うた。
「あなたは何者なの?」
「――もう、迷うな」


 そろそろここを、去った方がいいということですね。
 両手で掬い取ったはなびらたちは、集合として見てやっと色づいているのがわかるほど白を多くしていた。それも急速に、色を失ってゆく。しっとりとした花の肌触りも、途切れがちになってきた。
 地を彩る花もいいのですが、これほど迷いなく枝を離れられると、逆にしがみつくぐらいのたくましい花が、見たくなります。
 春が終わる。夏へと移り、なお多くの花が現実の世界で待っている。
 手を開く。わっと大量の花が逃げていく。名残惜しいとは思わなかった。ひと時でも美しいと思える瞬間があるのなら、それでいい。
 水が呼んでいる。引き寄せられる。
 一度は去ったその気配が、今は無性に恋しい。
 逆らわず、その水を追って歩きだした。


「また逢える?」
「おまえが私を忘れていなければ」
「しつこい男は嫌われるわよ。憶えているに決まってるじゃない」
 軽やかに枝を滑って地に降り立つ。見上げると、留まったままの少年の姿が、ますます花嵐に隠されて、白に融けこんだ。
「また逢ってあげてもいいわ。――あなたが私を忘れていなければ」
「忘れろという方が難しい」
 彼は笑った。初めて聴く笑声だった。
「そろそろ夜が明ける。ゆくがいい、『輝ける者』よ」
 少なくとも、名を憶えてはくれるようだ。
「またね、こー君」
 彼が不機嫌になる空気がここまで伝わってきた。
 私も笑い返して、踵を返す。今、帰るべき世界へ。


「道を往きましょう」
 静かな巫女の言葉が下される。
「辿ればいつかは誰のもとにもやってくる、帰り道を」


 吹きすさぶ花のなか、変わらずに扉はそこに立ち続けていた。


 自分をじっと見つめる黒衣の影。
 眼を合わせれば、どうなるのかはわかっていた。
 それはとても懐かしくて、誰しも慣れ親しんだものであったから。
 終わりを告げ、また新たな世界へと旅立つための感覚が、五つのひかりを等しく襲う。別れを哀しみ、期待に躍り、忘却を促されて、再生する。
 これまで、いくつもの夜がそうして明けてきた。


「夢に成れ」


 兇事を転ずまじないのことば。
 それは櫻木から見送る少年の口から発せられたものか、それとも現に帰す側から洩れたものか。
 小さく、風音にまぎれて、境を成した。


 ――分かつ。





「夢見の巫女」
 黒衣とともに現へ戻っていったひかりたちの、残像すらも消え失せた頃。樹上から、しらとりが私を呼びとめた。
「なに?」
「夢はいずれ、醒めるもの。それが好むと好まざるとにかかわらず」
 彼のような存在が、このようなことをいいだすのは珍しい。道を示す役目を担うかわり、迷いこんだひかりと戯れている彼を、私は知っている。でも、今宵この路を来たあのひかりたちは、どこか不思議だったから。彼のなかにも、なんらかの熱が伝播したのかもしれない。
 私の口許にも、久しぶりに穏やかな笑みがある。
「ありがとう」
 飛びたつ音が、花の消えた樹に響いた。


 そして、星のひとつさえ見えぬ玄の天に、新たな羽音を聞く。
 やがて来るそれと出逢う前に、私も渡る。
 ここではない、夢の狹間へと。










 鳥が軽い羽ばたきを繰り返し、在処を教えた。
 墓標の並ぶ丘に巫女は音もなく降り立つ。
 真新しい盛土の上から、細い指先が今度こそその花弁を掬い上げた。
 満たされた微笑みを浮かべ、かげに照らされた世界から、深き森へと帰す。

 夢は、眠りについた。

 神木に戻るこの花弁が、ふたたび目覚めを迎えるとき――そのときも、夢だろうか。





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登┃場┃人┃物┃一┃覽┃
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【整理番號 / PC名 / 性別 / 年齡 / 職業】

■東京怪談
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男性/920歳/フリーター(何でも屋)】
【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2617/嘉神・しえる(かがみ・―)/女性/22歳/外国語教室講師】

■聖獸界ソーン
【3009/馨(かおる)/男性/27歳/地術師】

記┃録┃者┃通┃信┃欄┃
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 お疲れさまでした。夢の迷い路はいかがでしたか。少しでもお楽しみ頂けたのなら幸いです。
 今現在、外はどうやら曇り空。明日は東京及びエルザード周辺は豪雨のち櫻吹雪と予想されます。傘の用意は必要ありませんが、突然足許に墓穴が出現する恐れがありますので、十二分に注意してお出掛けください。
 それではどうぞ、良い夢を。
PCゲームノベル・櫻ノ夢 -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年05月25日

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