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『Moderation 』
兵頭・雅彦4960)&浅海・紅珠(4958)



 数ヶ月前に訪れた動物園で起きた一件以来、雅彦と紅珠との間は、奇妙にぎくしゃくとしたものとなっていた。
 否。紅珠の方は、以前と何ら変わらぬ態度で雅彦の傍へと近寄って来るのだ。が、寄って来る紅珠に対し、雅彦は――おそらくは自分でも意識しないままに、どこか素っ気ない態度で接してしまうようになっていたのだ。

「ねえ、雅彦」
 
 気持ち良く晴れ渡った空が燦々と朝日を放ち、地上を照らし出している。
 朝はいつも同じチャンネルを見ている事が多い。これは無意識よる、云わば習慣となったものであろうか。
 テレビの向こうでは明るい笑顔を満面に浮かべた気象予報士が、地方の話題を交えつつ、今日一日の天気を告げている。
 この数日は思わしくない天候が続き、洗濯をしていた紅珠がぶつぶつとボヤいたりもしていた。が、今日は一日快晴であるという。
 ――――快晴、か。
 知らず、小さなため息を落とす。

「雅彦ってば」

 と、俯きがちにため息を吐いている雅彦の視線の真ん前に顔を覗かせた紅珠が、雅彦の名前を口にした。
 思わず目をしばたかせた雅彦は、ふと視線を持ち上げて、目の前にある紅珠の顔をちらりと見やる。
「――なんだ?」
「なんだじゃないってば。もう、やっぱり話聞いてないんじゃん」
 ぷくりと頬を膨らませる紅珠に対し、雅彦は、コーヒーを口に運ぶ事でどうにか返事をごまかした。
 紅珠は、自分のカップの中に残っていたカフェオレを一息に飲み干して、それから再び雅彦の側へと身を乗り出して言葉を告げる。
「あのさ、俺、今日、学校の給食が無い日なんだけど」
「給食? ――ああ、じゃあ、適当に買ってきて食っとけ」
 素っ気なくそう返し、ポケットの中から五百円玉を取り出し、テーブルの上に置く。が、紅珠はふるふるとかぶりを振るばかりで、差し伸べた硬貨には一向に手を伸ばしてこない。
「そうじゃなくってさ。今日さ、ほら、すっごく天気良いじゃん」
「――ん」
 返し、皿の上の目玉焼きを口に運ぶ。
「お弁当は作れないけどさ、どこかで何か買って行くのは出来ると思うんだ」
 紅珠はニコニコと微笑みながら、ちょこんと首をかしげている。
 雅彦はわずかに眉根をしかめてみせた後に、残りのコーヒーを一気に干して椅子を立った。
「俺は仕事だ。おまえに付き合ってやる暇はない」
 そう吐き捨てて部屋を後にする。
 紅珠の不平が追いかけてくるだろうかと思っていたが――思いがけず、紅珠は雅彦の一方的な遮断に対する不服を申し立てようとはしなかった。
 むろん、それはそれで、随分と気楽なものではあるのだが。
 歩く速度をわずかに緩め、肩越しに振り向いて紅珠の姿を確かめる。
 紅珠は、雅彦が振り向いている事には気付いてはいないようだった。何事かを思案しているのだろうかと思われる面持ちで、サラダボールの中のレタスをがじがじとかじっていた。

 
 数ヶ月前の冬の日、雅彦は、ぽっかりと開いていた記憶の穴を取り戻したのだった。それは自分にとって、決して良い記憶ではなかった。思い出さずにいたままの方が幸福であっただろうかと思えるほどに、劣悪な――残酷なものだったのだ。
 しかし、それがどれほどに劣悪で残酷なものであろうとも、それは紛れもなく真実であるのだ。
 
 兵頭の家は、遠く遡れば、獣人の血脈であったのだという。もっとも、今となってはその血も水ほどに薄いものとなり、先祖返りといった現象に見舞われる者も少ないのだともされている。
 
 動物園で虎の檻を前にして起きた現象と、過去、幼少の頃に起きた同様の現象とを思う。
 そして、以来、自身の身体を伝う血脈の影響を、雅彦は何度となく押さえ込んできたのだ。
 自分の肉体が虎へと変化する。
 もっとも、その変化は身体の全体を覆いつくすほどのものではない。三分の二ほどの変化をきたしたところで、先祖返りはぴたりと勢いを弱めていくのだ。
 日常生活を送るには、とりあえずは支障をきたす事もない。だが、失われていた記憶を――知らずにいた真実を知ってしまった所以であろうか。雅彦の身体は、ふとしたきっかけで、獣人への変化をきたすのだ。それこそ、雅彦の意思などお構いなしに。そのたびに、雅彦は懸命に己の中の血脈を押さえ込む。しかし、その影響もあってか、近頃では街中へ赴くのも躊躇してしまうほどにまでなってしまった。
 
 自宅と仕事場とを兼ねた倉庫の入り口から、紅珠が学校へ向かう姿が見えた。赤いランドセルをがしょがしょと鳴らしながら、近所に住む友人と合流して出かけていくその背中を、雅彦はぼんやりと眺め見送った。
 紅珠との同居生活は、雅彦にとっては本意によるものではなかった。
 ある日、偶然に結びついた出会いを果たして以来、紅珠は雅彦の意思になどお構いなしに、雅彦の家へと転がり込んできたのだ。
 年は一回りも違う。何よりも静寂を好む雅彦に反し、紅珠はまるで子犬かなにかのようにキャンキャンと騒ぎ立てる。孤独を逃げ場にしようと思う時でさえも、紅珠の無邪気さがそれを許してはくれないのだ。
 ――――まったく、……はた迷惑な。
 呟く言葉とは裏腹に、雅彦の口の端には緩やかな笑みが浮かんでいる。
 ――本当は気付いているのだ。
 紅珠が、雅彦にとり、いつの間にか居て当然ともいうべき存在に変わってきている事を。

 だからこそ。

 集団登校のグループにまぎれて歩いていった紅珠の姿が見えなくなったのを確かめて、雅彦は小さなかぶりを振った。

 だからこそ、紅珠には隠し通さなくてはならないのだ。
 自分の、この、呪われた宿命を。


 干した洗濯物が風にたなびいている。
 修理の終わった車を一台納車し終えて、雅彦は仕事場兼自宅へと戻り、車を降りた。
 見れば、近所の子供達が数人ばかり自転車に乗って過ぎて行く。そういえば今日は給食の無い日なのだと思い出し、鍵をかけていったはずのドアに手を伸べた。――予測通り、紅珠もまた既に帰宅を済ませていたようだ。
 ドアを開けて中に立ち入ると、食欲をそそる昼食の気配がふわりと鼻先をかすめていった。
 そろりと立ち入って台所を覗き込む。そこでは、紅珠が鼻歌など口ずさみながら、おそらくはオムライスでも作っているのだろうか。ボールに卵を割りいれていた。
 ケチャップの香りとバターの香り。ふくふくと漂うのはコーンスープの匂い。
 まるでお子様メニューじゃないかと思いつつ、雅彦はついと足を半歩ほど進めた。が、変化はそこでひどく唐突に訪れた。

 心臓が波打ち、内面が燃え滾るような感覚を覚える。
 掻き毟る身体中に生え伸びる体毛は、およそ人間のそれとは異なる種類のものとなっていた。
 喉の奥がからからに渇き、目蓋は燃えるように熱い。
 咆哮をかかげたくなるような感情に捕らわれながら、しかし、雅彦はそこで台所にいる紅珠の背中へと目を向けた。
 フライパンに卵を流しいれ、チキンライスをその上にいれている。――時折見えるその表情は、今の雅彦のそれとは対極的に、安穏とした色を湛えていた。
 じわりと滲む汗を拭い、進みかけていた足を元の位置へと戻す。
 このまま、紅珠に見つからないように、自室へと閉じこもるのだ。そうしてこの変化が収まった頃、まるで素知らぬ顔で、台所へと向かえばいい。
 じわりと退きながら、雅彦はそっと息を呑む。
 今の自分を紅珠の目にさらすことだけは、決してあってはならない。
 後退した足は、順調に台所から遠ざかっていったように思えたが――、
 
 がしゃん!

 紅珠がボールをシンクの中へ置いたのと同時に、雅彦の足は廊下に置かれてあったランドセルにぶつかり、止まった。
 しまったと思うも、紅珠は既にこちらを振り向いていた。
「雅彦?」
 快活な声音が雅彦を呼び止める。
 雅彦は息を呑みこんで、ゆっくりと瞼を閉じた。

「雅彦……? あ、れ? 雅彦だよね?」

 変容した姿となった雅彦を、紅珠は目を見開いて見つめている。
 雅彦は、答えない。ただうっそりと黙り込んだままで、身体が元の状態に戻っていくのを待っていた。
「雅彦、って、虎だったの?」
 目をしばたかせる紅珠は、そう口にしつつも、――そう、どこか暢気に、雅彦の頬に指を這わせている。
「……驚かないのか」
 逃げようともせず恐怖を叫ぶでもない紅珠に、雅彦はようやく一言呟いた。
 紅珠は、雅彦の言葉の意味を察したのか、あるいは察せずにそのまま受け止めたのか。軽いかぶりを振って、うにゅうと眉根を寄せた。
「ビックリはしたけどさ、え、でも、雅彦じゃん。声とか雅彦のまんまだし。あ、ね、今日オムライスなんだけど、虎ってオムライス食べられる?」
 返されたのは拍子抜けしてしまうほどに素っ頓狂なものだった。
 今度は、雅彦の方が目をしばたかせる。
「……いや、そうじゃなく……」
 徐々に元の姿へと戻っていく中で、雅彦は紅珠の赤い双眸を覗き込んだ。
 紅珠は軽く首を傾げ、しばし思案した後に、
「だ、大丈夫! 虎だけど、猫じゃないから大丈夫だよ!」
 そう言って、大きく胸を張ったのだった。
「……猫……」
「オムライス、食べられる!?」
 肩の力がどっと抜け落ちていく。
 雅彦は汗ばんだ額を片手で拭いあげながら、テーブルに並べられていた食器やグラスに目を向けた。
「……ああ」
 うなずく。と、紅珠は弾かれたようにきびすを返し、フライパンの中に放置してあったままのオムライスを温めなおして皿の上に盛り付ける。

 ケチャップの香りとバターの香り。
 台所の窓から覗く空は、紅珠の笑顔にも似た、安穏とした色を湛えている。
 雅彦は小さな息をひとつ吐き出しながら、椅子の上に腰を落とした。

「……土手のツツジが見頃だった。……食ったら見に行くか」

 


 
 ―― 了 ――
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東京怪談
2006年05月22日

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