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『病める館 』
夏目・怜司1553)&影山・軍司郎(1996)



 さほど、疲れは感じていなかった。
 いや、疲れすぎているのかもしれない。
 ランナーズハイに似た現象が、外科医の自分にも起きている。――それが妙におかしな冗談に感じられてしまうのも、夏目怜司がひどく疲れている証拠なのかもしれなかった。
 怜司は開業医で、住宅街の中に小ぢんまりとした医院を構えているが、この夜のように大学病院に呼び出されることもままある。今日は事故で断絶した神経を繋ぎ合わせる、まるで配線工事のようなオペを手伝うことになった。
 腕が上がらない。目が痛い。あらぬ声が聞こえる。
 早朝に自宅を出て、いまは午後7時。息子には、今日の帰りは遅くなることを伝えてあるし、食事をどうするかの指示も出しておいた。たったひとり自宅で留守番をしている息子のことが、怜司の脳裏をかすめる。しっかりした子だから、ちゃんと食事をしているだろう。問題は自分だ。朝からろくにものを口にしていない。
 空腹も感じないほど怜司は疲れていたのだが、まっすぐ自宅には帰らなかった。
 赤い血と神経を睨みつづけた目が、赤い光景を怜司に突きつけてくるのだ。
 目が声を聞き、怜司を導く。
 彼は、助けを呼ぶ声を無視することはではないし、困っている人を無碍にはできない男だった。だから彼は、自宅がある方向とはまったく正反対の方向へ歩きだしていた。


 そして、


 20分後には、影山軍司郎が運転する黒塗りのタクシーに乗っていた。


「悪いね、急に呼び出したりして」
「仕事だ。こちらはむしろ感謝しなければならない」
「でも行き先は山奥だし、迷惑かけることは『目に見えてる』んだ」
「……」
 よそ見はせず、事務的にタクシーを運転する軍司郎は、まったくの無表情だった。怜司に「感謝している」と言い放った彼だが、とてもそう思っているようには見えない。
怜司は軍司郎と知り合い以上友人未満のつもりでいた。昨年のクリスマスには、軍司郎のタクシーを呼び出す電話番号も手に入れた。いつか呼ぶことがあるかもしれない、と怜司が言うと、軍司郎は拒絶こそしなかったが、取り立てて嬉しくもないといった表情を返してきた記憶がある。
 怜司は声ではない声を聞き、その声の在り処を『見た』。奇妙なのは、声が起こっている場所はわかるのに、その声の主がなぜ助けを呼んでいるのか、声の主は男なのか女なのか、『目』をこらしてもぼんやりとしか窺えないのだ。
 その怪奇が、怜司の焦燥に拍車をかけた。どうしてもそこに行って、声を上げる者を助けなくてはならない――もともとの性分からしてそうだった怜司は、影山軍司郎を呼び出した。
 場所はわかっているのだ。山奥の、古びた屋敷。
 説明は曖昧になったが、軍司郎はその曖昧な説明だけで走りだしていた。……彼も、知っているらしい。はっきりとしない存在が助けを求める、不可思議な屋敷の話を。
「影山さん、あなたにも聞こえてるのか?」
「何がだ」
「いや……現場のことを知ってるんだろう?」
「行くのは初めてだが」
「影山さんは大変だね」
「なに?」
「ほとんど生身で怪物退治をしてるんだから。おれの目みたいなものをあなたが持っていたら、どうだったかな、と思って。きっと仕事がしやすかっただろう」
「仮定の話などに何の意味がある」
「あれこれ考えるのって面白いじゃないか」
「それほど暇ではない」
「あまり働きすぎると身体に毒だよ」
「きみが言うことではないな」
 車中の会話は不毛な拡がりと収束を繰り返しながら、途切れ途切れにつづいていった。
 タクシーが悪路を進み、怜司が『見た』現場に到着したのは、満月が空の真上に差しかかろうとしている深夜のことだった。


「……ん? ……おかしいな」
 怜司は眼鏡を外し、眉をひそめた。車窓に顔を近づけて、外の漆黒を窺う。
 タクシーが止まっているのは、山道の真ん中だ。
「……確かに、ここで『声』が上がっていたのに……今は何もない」
「ずれが生じているようだ」
 運転席の軍司郎も、制帽の影の下から、闇を睨みつけた。
「この周辺は異界化している。真の目的地はここではあるまい」
「もう少し進めるかな? ……道がないようだが」
「切り開くより他はないな。――お客さん、シートベルトを着用して下さい」
「え?」
 軍司郎が怜司の行動を待たずに、クラクションを鳴らした。

 タクシーが、自ら、ヘッドライトを遠目に切り替えた。クラクションは獣めいた咆哮だった。ぶるるるん、と喉の奥から唸り声を発したタクシーが、がばお、とクワガタのようなあぎとを開く。

「うわっ……と! と! と!」
 怜司は車窓や天井に頭や肩をぶつけながら、急いでシートベルトを締めた。
 草木や低木を食い千切り、四肢の獣のように跳ねながら、タクシーが森の中を突き進む。軍司郎はハンドルに手を添えているだけでまるで動かしていない。
 シェイカーのようになった車内で、怜司は見た――軍司郎も、見た。
 タクシーがヘッドライトで照らしながら薙ぎ倒していくのは、平成の世の日本には生えていないねじくれた植物ばかりだった。前方を歪な蟲が横切り、タクシーに食い殺されていく。フロントガラスは、異様な植物と昆虫の血で汚れた。汚れた端から、タクシーが自らウォッシャー液をスプレーし、ワイパーで拭っていく。拭って、汚して、拭って、吼える。
 眼鏡という枷を外した怜司の『目』が、赤い軌跡を引いた。悲鳴を上げる異形の草木。昆虫と鳥とドラゴン。しかし、もっと、さらに、悲痛な叫び声は怜司の感覚を揺さぶっていた。辿り着かなければならない場所はすぐそこだ。あと10メートルもない。だが相変わらず、助けを呼ぶ声の主ははっきり見えない――。
 ――見えない。どういうことだ。眼鏡を外して、こっちは必死になってるのに。……目的地を示してくれるだけだ。あなたは誰だ?
「見えた。あれだな」
 軍司郎が呟く。
 アクリル絵の具で汚されたかのような有り様のフロントガラスを見れば、かすかに、ぼんやりと――赤い館が、闇の中に浮かび上がっているのが見えた。


 もはや、ここは平成の日本ではあるまい。地球のどこでもない場所だ。道なき道を切り開いた生けるタクシーが、ごふうとガソリン臭いため息をついた。怜司はタクシーを降り、異様な草木と蟲の中に立ちすくんだ。
『目』は囁き、怜司にねじれた時間を告げてくる。
 ここはどこでもない。だが、来なければならなかった場所だ。
 屋敷はかろうじて、洋館と呼べる類のものだった。いつの過去からあったかは怜司の『目』を持ってしても窺い知れないが、かなり古いようだ。
「……」
 怜司は、さっと右手を振った。彼の手の中で、名前も分類もわからない蟲が、はたはたと蠢いた。怜司を刺したりはしなかったし、毒も持っていないようだった――おとなしかった。しかし、そっと手を開いて見つめたその蟲には、足が7本あった。触覚が腰にあり、13枚の羽根が頭についている。
 怜司は蟲を癒した。
 癒すことができた。
 怜司の右手の力で本来の姿を取り戻し、昆虫は飛び立った。三対の脚と一対の触角を持つ、ありふれた蛾だった。
「歪みは正さねばならない」
 軍司郎がタクシーを降りてきた。黒い軍服と外套に着替え、手には軍刀を引っ提げている。怜司はすこしだけ微笑んだ。
「あまり長居はできないな。おれたちも変えられることになる」
 軍司郎は館の扉に近づいていく。怜司は自分の指の数を確かめながら、軍司郎のあとにつづいた。


 軍司郎が、慎重に扉を開ける。中からは、ふたりにとって未知の臭いが漂ってくる。どんな臭いにたとえることもできない臭いは、少なくとも――芳香ではなく、悪臭だった。なんらかの香りが、無理やりねじ曲げられている。
「……病巣だ」
 怜司が呟いても、軍司郎は振り返らなかった。ただ、その言葉だけを受け止めていた。
「切り離せばよいというわけか」
「なにが原因だったのか……それを知りたい気もするが……」
 怜司の目が、紅蓮の軌跡を描きながら動き、屋敷の傾いたロビーを見回した。
 過去や未来や異形を見抜く怜司の『目』も、この館でなにが行われたのかは『見る』ことができなかった。怜司の意識に入り込んでくるのは、真実と幻想、幻燈と陽光が織り成すシュールな時間の映像だ。この館は過去にも未来にも、現在にも存在していない。
「……噂だけは聞いていた。……きみに感謝する」
 軍司郎が言いながら天井を仰いだ。
 館の天井は、軽く見積もっても100メートルは上にある。
 木製の梁が音も立てずに渦を巻き、面妖な紋様を描いていた。まるでここは、時間の渦の中心だ。館を中心にして、世界が回っている。
「世界のあらゆる場所に姿をあらわし、居座った場所の次元を歪めていく『館』があると――知っていた。『館』に近づいた者が帰らないことも聞いていた。だがわたしには、この館の居場所を特定することができなかったのだ」
「おれたちは怪物の腹の中にいるわけか」
 怜司が眉をひそめる、その前で――軍司郎がわずかに口の端を吊り上げた。いや、口の端を引き結んだだけだったか。ともかく彼は、懐からマッチを取り出した。
「飲み込んだものに咬みつかれることまで、この館は考えていない」
 軍司郎がマッチをすった。5本ほど、まとめて、いっぺんに。
 すられたマッチたちが、けたたましく哄笑した。
 マッチの頭についている硫黄の量をはるかに無視した、凄まじい炎が上がった。炎はふたりが立つ床に、どこまでも向こうにある壁に、渦を巻く天井に、踊るカーテンに飛びついた。言いようのない悲鳴が上がった。

 館が吼え、苦痛に身をよじっている。

「影山さん! 扉が閉じる」
 怜司は影山の外套を掴み、出口に向かって走りだした。走りだしたときにはすでに、怜司は外套から手を離していた。影山軍司郎が遅れるはずはない。燃える館と、逃げ延びる自分たちが織り成す未来が『見える』。
 館はたちまち炎上した。木造だったためだろうか。
 館はよろめいたようだった。叫んだようだった――泣いたようだった。
 ねじれた木々が音を立ててまっすぐに姿勢を正していき、蟲と鳥たちがじたばたともがく。彼らが平静を取り戻して飛び立つときには、異形の姿ではなく、ありふれたこの世の生物に戻っていた。
 炎はねじれ、空に昇っていく。館の姿は消えていった。虫の鳴き声と、風の音が戻ってくる。
「……」
 軍司郎は最後の火の粉が消えるのを見届け、タクシーに歩み寄った。
 黒塗りのタクシーはあちこちに傷をこさえていたが、ビビッドカラーの血液の汚れなど、どこにもついていなかった。
「……」
 眉間を揉んで、怜司もタクシーに近づく。
『声』は感じられない。姿の見えぬ者からは、安堵の言葉も、感謝の言葉も返ってはこない。けれどもそれを非難する気にはならなかった。怜司に助けを求めていたもの。その正体が、あまりに大きかった。
「――世界だった」
 怜司の呟きに、軍司郎がぴくりと顔を上げた。
「世界そのものが……病んでたんだ」
「治療は済んだか」
「ああ。影山さん、あなたが治したよ」
「ここまでわたしを導いたのはきみだ」
 相変わらずの無愛想で軍司郎は答え、タクシーに乗りこんだ。やはり、とても感謝しているようには見えない。
 ふたりの男の細いため息が、車内に落ちた。
 まだ空は黒く、深夜であるようだが、月の姿が見えない。果たして今日は、何月何日だろうか。ちゃんと、もとの時間軸の世界に戻ってきているのだろうか。
「ああ……、さすがに今日は疲れたかな」
「……」
「影山さんも疲れただろう。何時間も運転して」
「これから同じ時間をかけて戻ることになる」
「……ちゃんとお代は払うよ。ああ……清算が怖いかも。うちで朝食ご馳走するから、ちょっとまけてもらえたりしないかな」
「……」
 ルームミラーの中で、軍司郎の黒い瞳がぎろりと動いた。
 怜司は眼鏡をかけていて、にやにやしていた。

 眼鏡のレンズは、五つになっていた。




〈了〉
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2006年05月19日

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