▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『奴は不死たる我が父か 』
新座・クレイボーン3060)&レグゼキアス・−(6470)



 彼がぴたりと足を止めたのは、東京の街の中だった。
 急に足を止めた新座にぶつかりかけて、彼の後ろを歩いていた青年が舌打ちする。――しかし、新座の、痛々しくも見える包帯顔を見止めた青年は、慌てて目をそらし、新座を避けて歩いていった。
 自分のせいで人の流れがわずかばかり乱れていることを、新座・クレイボーンはあまり気に留めない。と言うより、自分が乱れの原因になっていることに気づいていなかった。
 いつもはのんびりと、飄々と、人を食ったような、そんな穏やかな目をしている彼だったが、今は違った。知り合いには『天然』と呼ばれる彼にも、凶暴で野性的な一面がある。その秘めたる横顔は、彼がよほど不愉快な思いをしない限りは現れなかった。
 人々が目を伏せ、厄介ごとを避けていく。新座・クレイボーンを避けていく。
 新座は獰猛な隻眼で、振り返った。
 彼の視界に入るものは、おおよそ人畜無害で、争いごとや面倒を嫌う東京人ばかりだった――だが、彼には、伝わってきたのだ。今、すぐそこを、忌むべき者が通り過ぎて行った。見たわけではないが、わかるのだ。彼は人間ではなかった。人間にはない感覚や、人間より優れた五感を備えている。
 全身全霊が、彼を嫌悪と怒りに駆り立てた。
 ――なんでこんなとこにいるんだよ。
 そう、ただそれだけのことが、気に食わない。
 ――レグ、なんであんたがここにいるんだよ!
 会いたくもない、見たくもない、同じ空気を吸いたくもない。だからこそ、すぐさばにいるということさえ、喧嘩の種になってしまう。新座は忌まわしい気配を辿り、足早に歩き出していた。
 空は灰色だった。東京と同じ色だ。空気も湿っている。いらいらする。
 よみがえってくる。どんよりとした灰色の、吐き気がする思い出が。
 新座には、悪い思い出が多すぎた。けれども彼の中では、いま追っている父の思い出ほど、面白くない記憶はないということになっている――のかもしれない。


 新座クレイボーンというのは、自分でつけた偽名だ。
 彼には名前がいくつもあった。アインと呼ばれたこともあるし、LIVE FOR ALLという名の白馬として、走っていたこともある。
 そして真の名前は、ニィルラテプ。もしくは、アムドゥシアス。現在でも彼をニィルラテプ――ニィルと呼ぶのは、彼の実父くらいのものだった。
 実父の名はレグゼキアス。この世の馬ではなかった。


 宵闇の中に浮かび上がる巨躯は、どこまでも巨躯。銀にも等しい白い毛の馬。馬ではないが、馬ということにされて飼われていた。彼の名は、レグゼキアス。
 生まれたばかりだった彼にとって、父親はあまりに巨大で、そして強大だった。彼は生まれるときにひねったか、そもそも胎児であった頃からなのか、左の前脚が悪く、立ち上がることもままならない、ひ弱な馬として生を受けた。レグゼキアスはそれが気に入らなかったらしい。理由など、彼は知らない。レグゼキアスは理由など差し置いた振る舞いを見せる、狂える馬だった。
「おまえは弱い……、おまえは、弱い」
 ぶるるる、とレグゼキアスはため息混じりにかぶりを振った。闇の中で爛々と光る銀の瞳は、遥か遠くで瞬く星のようだった。
「弱ければ死ぬ。弱ければなにも守れない。なにも……、なにも、だ。ニィル、おまえは弱い、弱い、弱い、このレグゼキアスのように弱い、このレグゼキアスよりも弱い!」
 呪詛のように、負の言葉を刻みつづける父の姿は、超えられない壁と次元であった。立つこともままならない彼は、父の蹄に打ち据えられ、咬みつかれ、蹴り上げられた。成す術もなかった。暴虐な仕打ちは数夜つづいた。幼い子馬を守ったのは、代理の母馬だ。
「弱い奴! 弱ければ守れもしない! 守れ、守るんだ! 弱い奴!」
 猛り狂う蹄が、母馬に向けられている間に、幼い白馬はよろよろと、不自由な前脚を酷使しながら逃げていた。皮肉なものだ。生まれてから、ずっと満足に立つこともできなかったというのに、恐怖が彼に手を貸した。逃げるために彼は立ち上がり、そして歩きだし、最後には走っていた。いななきながら放牧場で力尽きているところに、主が現れ、ようやく異変を察知してくれた。ニィルラテプとレグゼキアスは引き離され、まだ若いニィルは母屋のそばの厩に入れられた。
 とりあえずの難は逃れた。だが、恐怖はそれからもしばらくつづいた。
 立てるようにも走れるようにもなった子馬だったが、夜になれば落ち着かなかった。頭上で光る銀の星に怯えた。放牧場の向こうの厩から、父の低いいななきが聞こえてくるたびに、彼は怯えて身体を強張らせた。恐怖のあまり、厩の壁を蹴りたくなったこともある。
 銀の星は、たびたび、荒々しい息吹とともに、幼い白馬のもとにやってきた。
 深夜、厩を抜け出し、放牧場を横切って、レグゼキアスは殺しにやってくるのだ。
「弱い奴――」
 殺してやる。


 ――殺してやる。レグ、今度こそ殺してやる。二度とおれのそばを通れないようにしてやるんだ。レグ……おれはもう、弱くなんかないんだよ。


 新座は、右目を失い、一生痕が消えない火傷も負った。
 けれども、もう左足は引きずっていない。風や、矢のように走ることができる。人間たちが賭けを行うレースに出ていた頃は、ついに一度も敗北を見なかった。自分の血が持つ力を知り、駆使することができる。人でも馬でもない異形に変ずることも。
 新座・クレイボーンは、弱くない。弱くはなくなってしまったのだ。彼はそう信じていた。
 だが、記憶の中で、彼の父はいつまでもいつまでもわめき、囁き、嘲っているのだ。
 おまえは弱い、と。


 彼らはただの馬ではなかった。レグゼキアスに至っては、この世の馬でもない。角を持ち、奇跡を起こす血を持っていた。ふたりとも、人間の姿に化けることができた――新座はここのところずっと化けているから、馬の姿になったときが「化けている」と言うべきなのか、人の姿がまことのものか、わからなくなっている。
 新座の父の気配は、廃墟の中にあった。
 ひどく長い銀の髪を束ねもせず、路肩の瓦礫に腰かけて、ぼんやりしている。
 しかし、新座が近づくと、レグゼキアスの髪の間から低い声が漏れてきた。
「久し振りだな。弱い奴……この、レグゼキアスの息子。相変わらず弱そうだな」
「……なんでこんなところにいるんだよ、レグ」
「散歩だ。天気予報じゃ、晴れると言っていたから」
 空はまったく晴れていない。それどころか、雨が降り出しそうだ。
 空には目もくれず、新座は唇の端を吊り上げた。
「いつの天気予報聞いたんだよ。あんたは、あいっかーらずバカでイカれてるな」
 銀の髪の間から、ちらりと目が覗いた。星のような銀は、充血した眼球の中に浮かんでいた。新座を見上げる暗い目には、怒りこそなかったが――底知れぬ狂気と、獰猛な衝動が渦巻いている。彼は新座など、自分の息子など、歯牙にもかけていない。
 ――おまえは所詮、混じり者。
 レグゼキアスの、探るような銀の視線は、そう言っている。
 ――なんだよ、その目。ふざけんな。だから嫌なんだ。おれのそばから追い出してやる。あんたなんか、殺してやる。二度とそんな目でおれ見ないようにしてやる……!

 咆哮を上げて、新座は父親に飛びかかっていた。
 突然凶悪な中指の爪と、馬にはそぐわぬ犬歯を閃かせて。
 その突然の凶行と咆哮を聞けば、人は、どちらが狂気のものかわからなくなっていただろう。新座にもわかっていないのだ。自分の中を突き抜けるその衝動が、あまりに飛躍していて、狂気に近しいものだということには。

 叱られた馬のように、ほんの一瞬レグゼキアスが肩をすくめて頭を下げたのを、誰が知ろう。本当に一瞬だった。その刹那が過ぎれば、彼もまた獣のような咆哮を上げて、飛びかかる新座に掌を向けていた。
 その掌から、ばぢん、と螺旋状の刀が生えた。
 隻眼でその軌道を読み、新座は螺旋の刀を避けた。刀なら自分も持っている。中指から、凶悪な姿を見せている。
父親も自分を殺すつもりだ。そうに違いない。息子が弱いと思っている。弱いものは生きるべきではないと、今でも思っているのだ。
新座の鋭い爪はレグゼキアスの腕をわずかに裂いた。ほんのわずかだ。耳のそばでレグゼキアスが吼えた。とても馬に似た生物が上げる声ではなかった。いまの新座の銀の瞳もまた、充血のための赤の中で輝いている。新座は包帯がほつれ、醜い火傷の痕をちらつかせながら、左手を伸ばした。己の父親の首を、がっきと掴んだ。
レグゼキアスがもがいた。新座よりも長身で、細身なその身体を構成しているのはほとんどが筋肉だ。凄まじい力だったが、牙を剥く新座の力も並外れていた。黄昏のように暗い昼下がりの廃墟で、父子は闘犬のようにもつれ合った。不可思議な光沢を放つ血が飛び散った。
「殺してやる!」
「死ぬものか! このレグゼキアスが、死ぬものか!」
 乱れた銀の長髪の向こうで、血みどろの顔が笑った。
 その言葉に、新座の攻撃と怒りの手が止まる。父親が不老不死の存在であるとは、聞いていなかった。
 レグゼキアスが拳を固め、どん、と新座の胸を突いた。攻撃のための拳ではなかった――騎手の鞭のように、音と、空気の衝撃を伝える程度の拳であった。
「たとえこの身体が死に、この魂が死んだとしても――おまえの身体の中に流れる、レグゼキアスの血は死なない。おまえが生きている限り、レグゼキアスという馬はおまえの中にいる。おまえが生きている限り、死ぬものか! それが血統というものだ!」
「う、ぁ、あああああがぁあああああ!!」
 おぞましい事実を突きつけられて、新座は叫び声を上げた。悲痛の中に、憤怒と狂気があった。父のどこをどうやって殴ったか、彼は覚えていない。

 ふたりの頭上で、灰色の空が吼えた。

 レグゼキアスが吼えた。

 雷鳴が空の血管だ。
 銀と白の血液が、血管の中を刹那で走り、凄まじい音を立てている。雨が降り始めようとしている。喉が涸れても叫びつづけた新座のそばに、レグゼキアスの姿はなかった。
 父の血は、新座の身体についた傷を塞ぎ、血を止め、痕すら消した。たったひとりで咆哮する新座の身体に残っているのは、引き攣れた、醜い火傷の痕だけになっていた。
 殺したい、殺したい、殺したい! もう二度と顔を見ずにすむ。その気配と匂いに心をかき乱されることもない。

 だが、レグゼキアスはもういない。雷鳴とともに去ってしまった。
 そして、レグゼキアスは死なないのだ。

 包帯を引き千切り、新座は爪で自分の胸を掻きむしった。痛みは感じられなかった。吹き出す血が憎かった。殺したい。血が囁いている。
 おまえはどうしようもなく無力だ、と。
 銀の光沢を持つ新座の血を、雨と稲光が押し流してくれた。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年05月17日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.