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『レストア・ドッグズ 』
九尾・桐伯0332)&鳴神・時雨(1323)



 九尾桐伯のもとに、〈神〉がやってきたのは、ある休日の白昼であった。
 彼はいつもある種の翳りを帯びた男で、見る人によっては、無感情とも冷徹とも取られる人物である。常に落ち着き払っていて、謎めいた微笑をその顔に浮かべているのだ。
 その彼が、言葉と微笑を失い、こみ上げてくる戦慄を必死になって押し殺していた。
 桐伯の前に鎮座するは、磨き上げられた赤のカウンタックLP500だ!
 彼はこれを待っていた。すでに数台の『走り屋仕様』のクルマを所有している彼だったが、カウンタックLP500は、まだ憧れの的でしかなかった。それがついに手に入ったのだ。しかも金は1円も払っていない。取って置きのナポレオン一瓶と交換したのである。取引相手は、桐伯の身内だ。彼の中にはクルマに対して並ならぬ情熱を捧ぐ血が流れているらしい。彼らは自らの身体に流れるその血を、誇りを持って『エンジンオイル』と呼んでいる(こともある)。
「いやいや……いつ見ても素晴らしいフォルムです。時代を完全に先取りしていたわけです。これぞ、レトロフィーチャーの代名詞と言えましょう。……生きていてよかった……」
 自宅の前で赤い名車の周りをうろうろしながらぶつぶつと感嘆する九尾桐伯。時折自宅からは電話の呼び出し音が鳴り響いたり、親子連れが不審な視線を桐伯に送ったりしていたが、桐伯はまったく動じなかった。電話にも出なかったし、通行人に会釈すらしない。彼はトリップしていた。別世界に旅立っていた。
 もし、彼の行動をはじめからずっと見守っている人があったなら、「さっさと乗ってみたらどうか」と提案していたかもしれない。桐伯は先ほどから、このとおり、クルマの周りを歩き回ったり、手袋をはめた手でぺたぺた触ったり、薀蓄を語ったりしているだけで、エンジンをかけようともしないのだ。まるで、1/1スケールのプラモデルのような扱いである。カウンタックLP500。最高時速300キロを超える、レトロフィーチャー&スーパーカーの代名詞であるというのに。
 むろんそれには事情があった。
 このカウンタックは、走らないのである。
 だから、価値はナポレオン一瓶であった。
 桐伯にはレストアの知識もあった。レッカー車で運ばれてきたこのポンコツ――いやスーパーカーを生き返らせるためなら、いくらでも時間と金をかける心づもりだ。いまは、どこでそのレストアをするか、考えているところだった。

「クンタッシ……」

 不意に背後からかけられたその言葉に、桐伯はさっと振り返った。
 スーパーカーを見つめ、呆然と立ち尽くす、長身な男の姿があった。
「この目で初めて見た。ロールアウトは1971年。間違いない、データと照合する必要もない。これはLP500クンタッシだ。凄いな。もうそれしか言えん」
 彼は両手に山ほどガラクタを抱えていた(軽く見積もっても総重量200キロはありそうだった)。少し歩いたところに廃材置き場があるのだが、そこから調達してきたものだろう。桐伯もそこからたびたび使えそうな車の部品を拾ってくることがある。
 いや、それよりも、この銀の髪と髭の男は何者か。
 桐伯は、警戒こそしなかったが、強く興味を引かれた。ひと目でこの車の型番を見抜き、そして言葉を失い、武者震いをこらえている様子がある。それになによりも、カウンタックの正しい発音がクンタッシであるということを知っていた。
 この男、『通』!
「そのとおりです。念願が叶いましてね」
「……試乗はしたか。古い車だ。走らないとわからない不具合がある可能性が高い」
「乗って確かめるまでもないのですよ」
「……?」
「エンジンが完全に『オシャカ』でしてね。これからどこで整備修理するか考えていたところです」
 男は、動かない車から、さっと目を桐伯に向けた。
 桐伯はそのとき気づいた。彼の目は、自分と同じ赤だった。そしてその目に、『エンジンオイル』を宿している。彼とは繋がっている。言葉で確かめる必要などない。彼とは、どうしようもない熱い意思で繋がっているのだ。
「あやかし荘は知っているか」
「ええ」
「俺のガレージがある。よければそこでレストアをしないか」
「……あなたも手伝ってくださるのですか」
「手伝えるのなら、光栄だ」
 ふたりはそこで、固く握手を交わした。握手は無言であった。言葉などやっぱりいらないのだ。ただ――最低限の挨拶は、それからおこなった。
「九尾桐伯と申します」
「鳴神時雨だ」
 時雨は持っていたガラクタをその場に放り出し、ひょい、とカウンタックを担いだ。桐伯はべつに驚かなかったが、通行人が目をしばたいてから入念にこすった。



 丸一日が経過した。



「お……ををを? おおをををおお……!?」
 ぶらりとあやかし荘の広大な中庭に出た座敷わらしの嬉璃が、素っ頓狂な声を上げた。彼女の目に映るのは、ぴかぴかに磨き上げられたスーパーカー(嬉璃には名前がわからない)だ。鳴神時雨が建てた掘っ立て小屋――いや、ガレージに収まっている。
「これは鳴神の発明か? またまた、奇抜なでざいんのすうぱあかあぢゃのう」
「おや、嬉璃さん。おはようございます」
 ガレージの中から笑みとともに出てきたのは、九尾桐伯だ。顔は少しオイルで汚れていたが、表情は生き生きとしていた。嬉璃は何度かこの男と会ったことがあるのだが、桐伯が晴れ晴れとした明るい顔を見せているところを、初めて見た気がした。
 桐伯に遅れて、のっそりむっつりと現れたのは鳴神時雨だった。嬉璃はもちろん、あやかし荘の住人であるこの男のことを知っている。この男もまた、嬉璃がいつも見る時雨ではなかった。笑顔ではないが、その顔には達成感が満ちあふれ、一種の喜びにも浸っているようであった。
 そして、どうも、ふたりとも、テンションが高い。間違った方向に行ってしまいそうなほど高い。長く生きている嬉璃の経験と本能が囁いた。「なんだかヤバイ感じがする」。
「これはクンタッシLP500。俺の作品ではない。九尾の私物だ」
「……き、既製品というわけぢゃな」
「もとはそうです。エンジンが完全に壊れていたので、それを修理していたんですがね……」
 桐伯は嬉璃から時雨に視線を向けた。赤い視線には、厚い信頼と、熱い友情がみなぎっていた。
「鳴神さんは素晴らしい技術をお持ちです。おかげで、LP500の魅力を残しつつ、さらに高性能、さらに芸術的な、新しいカウンタックが完成しました」
「これから試運転を開始する。嬉璃。貴様にも試乗してもらおう」
「な、なぜぢゃ! 嫌ぢゃ! わしの他にも生贄はたくさん……!」
「嬉璃さんは新しいものや珍しいものがお好きでしょう? 素晴らしい経験になるはずですよ。是非お乗りください。ささ」
「ぎにゃー! どこを触っておる! やめんか離せ! おい、誰か! 誰かおらぬか、これは拉致ぢゃ、監禁ぢゃ、殺人ぢゃああ!!」
「『殺人』という表現は間違っている。貴様は『人』ではないし、俺たちには殺意などない」
「鳴神さん、運転は――」
「これは貴様の車だ。持ち主がハンドルを握ったほうが車も喜ぶ。俺はバイクで追走させてもらう」
「……ありがとうございます」
 嬉璃は助手席でわめいていたが、桐伯と時雨はほんの数秒の間見つめあった。やはり、熱い赤い視線であった。桐伯の目には、時雨がほんの一瞬だけ、笑ったように――見えた。


「嬉璃さん、シートベルトをしっかり締めてください」
「下ろせ! 下ろせえええぇー! ぬをををを、なぜすうぱあかあはつうどあなのぢゃ!!」
「万一の場合は座席下のレバーを引いてください。緊急脱出用の射出座席になっています」
「ななな、なぜそのようなからくりが仕掛けてあるのぢゃ!! なんぢゃ、そのフリは!! わしに使えと言っているようなものぢゃぞ!! ……そうぢゃ、今がそのときぢゃ、万一の場合ぢゃ、ればあを引くぞ!!」
『(ざりっ)やめたほうがいい。現時点で脱出機構を作動させた場合、時速250キロの速度でガレージの天井に衝突することになる。貴様は不死だが、大きな損傷を受けるだろう(ざりっ)』
「ぐぬ! むむ、無線までそうびしておるかッ!」
「いよいよエンジンに火を入れるときが来ましたね……」
『(ざりりっ)ああ。貴様のショーだ。貴様が……主役だ』
「ややややややめんかッ、祟るぞ、呪うぞ、にぎゃあああああ!!」
 かちっ――ばすン!
 ――ぶる、るるるるルるンンン!!
 嬉璃の断末魔とともに――生まれ変わったカウンタックは、咆哮した!


 それは一見、新品同様の光沢を放つ、71年製のカウンタックLP500のようであった。いや、どこからどう見ても、伝説とまで呼ばれた名車そのものであった。つい一日前まで、その車が心臓(エンジン)を失っていたことなど誰が想像できるだろうか。
 そして、ツインマフラーから白煙と青い炎を上げ、あやかし荘の中庭のガレージをふっ飛ばし、『飛び立つ』など、誰が予想していただろうか。
 勇猛な轟音をまとい、カウンタックは飛翔した。あやかし荘の、建て増しを繰り返した末に混沌としてしまった棟の一部に、空飛ぶスーパーカーは突っ込んだ。だが0.5秒後、無傷で飛び出してきた。ボディに施された未知のコーティングのおかげだ。
四輪は機械音を上げ、ボディに収納された。
 赤いカウンタックは流星と化した。流星が突き進んだあとに残されていくのは、あやかし荘を構成していた古い木材、住人の家財道具の残骸、千切れた洋服、今年のカレンダー、座敷わらしの甲高い悲鳴。
 桐伯の顔から笑みは消えない。
 彼は慣れた手つきでシフトをチェンジする――まったく、慣れた手つきで! 彼は、空飛ぶ車を運転した経験でもあるというのか!
『東京は窮屈だ』
 恐らくはカスタムバイクで地上を、カウンタックと同等の速さで突っ走る、時雨の冷静な声がダッシュボードから聞こえてくる。
『九尾、進路を南南東へ。太平洋上に出られる』
「ナビをありがとうございます」
「うぎゃああああ、空ぢゃっ、空ぢゃ、どうなっとるんぢゃああああ、これがすうぱあかあかぁぁぁああああーーーッッ!! わひゃははははははははは!!」
 後部座席の悲鳴がいよいよ哄笑に変わった。
 その頃には、カウンタックはたまたま空を飛んでいた報道陣のヘリを紙一重で避け、轟音と炎を引き連れ、宙返りや空中ドリフトを決めながら、東京湾上空へ向かっていた。
 広々とした海の上を、赤いスポーツカーは猛然と走った。白い波の柱が二筋、車の通り道に残されていく。孤高であった。たった一台だが、そこには寂しさや空しさなどない。車は羽ばたいていた。赤い鷲、赤い流星、赤い情熱だ。
「運転に慣れてきました。少し右にハンドルを取られやすいようです」
『そうか。改善の必要があるな。――このまま直進すれば、4時間後にはアメリカ合衆国ハワイ州に到着する』
「ハワイまでドライブ……夢でした」
「ひゃはっ、はわいぢゃ、とこなつぢゃ、きゃはっ、ひひっ、ぐひひひひ、わしもいよいよはわいに進出ぢゃああハアああああ!!」
『……嬉璃も賛成のようだ』
「そのようですね。……では、行って参ります」
 赤い車はさらにスピードを上げ、音を超える音となって、洋上を走りつづけた。
 恐らく、誰もこの星を止められまい。
 時雨のバイクは東京湾を望む埠頭で急停止した。彼の背後は、パトカーのサイレンで賑やかだ。けれども、海の彼方を見つめる時雨の横顔は、満足げに笑っている――ように、見えなくもなかった。




〈了〉

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2006年05月17日

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