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『重たい花 』
尾神・七重2557



 まだ春だと、素直に思える今日この頃。柔らかな日差しは梅雨の兆しなどちらともみせず、花の散った桜の木を照らしている。いつもの黒い服が熱を集めるのも、今日は風があるから心地よい。散歩する老人達が朗らかに言葉を交わし、七重の視界をよぎる。一人の老婆が赤い花を手にして笑っていた。
 母の日である。
 空が低くなりつつありながら、風は涼しいから暑いとは思わない。だから、風に揺れる花屋のカーネーションもまたそうなのだろうと思う。くしゃくしゃと赤いちり紙でも縮めたような赤い花弁を手早く束にする男がいた。目があって、目線だけで会釈した。
「いい天気だね」
 大きな笑いではっきりとした声。はい、と小さく同意すれば洗濯日和だよねと笑った。店の主人らしく、アルバイトであろう少女が店の奥に見えていた。
「母の日だけど、君は買わないの」
「いえ」
「そうかぁ。最近はカーネーションよりも、ハンカチとか、そういうものをあげるのが流行ってんのかね」
「どうでしょう」
 主人は顔のしわを引き延ばし、大きく欠伸をした。
「今日もいい日になるといいね」
 それだけが言いたかったのか暇だったのか、大きな笑いを残した主人は店の軒先に戻っていく。親子連れがスイトピーを買って笑いあっていた。
 歩き出した七重の目がいやに赤色を捉える。項垂れながら歩き出す。赤が見えない眼鏡でもかけたかった。通りを過ぎて繁華街の近くに来れば嫌でも看板が目に入る。母の日にちなんだ柔らかいキャッチフレーズがそこかしこに溢れている。背中を後押しするような励ましのキャッチフレーズにも、七重は目をつぶった。いらっしゃいませと声がする。人の足音と、笑い声と、囁きと電話の鳴る音。全てがかさなりふってくる。重い。
 もともと人混みの中にいるのは好きではない。早々に立ち去ろうとしたところで、背中に衝撃が伝わった。よろめいてたたらを踏む。何とか体勢を達なおして背後を振り返った。
「ごめんなさい」
 大げさに頭を下げた女子高校生が慌てていった。大丈夫ですと首を振るのにまだ申し訳なさそうだ。
「ほんっとにごめんなさい」
 制服の上に緑のエプロンを掛けている。胸元には白い筆のロゴで「アトリエ・フロッグ」。繁華街を抜けた場所にある停滞ビルの三階、しがないアトリエの名前だった。
 女子高生が抱えているのはカーネーションの花束で、素っ気ない新聞紙にくるまれた花は生き生きと活気づいている。胸の奥がちくりと疼いた。日が日なだけに、赤い花との出会いが多い。
「ほんとに大丈夫なの」
 こくりと頷く。大きな溜息で安堵した女子高生は、お詫びをすると言った。
「いえ、大丈夫です。お急ぎだったのでは」
「平気です。まだ時間ありますから」
 腰の低い女子高生はのっぺらぼうのような顔をしている。無精した髪をゴムで留め、小さな目と薄い口。鼻は低く、見るからに影が薄そうな少女だ。
「じゃぁ、繁華街の入り口までおくってもらえますか」
 結構だと言っても聞かないだろう。案の定、それだけでいいんですかと不満げに尋ねられた。
「またぶつかる人がいないように、横に立っていただきたいんです」
 はつらつとした返事が返ってきて、女子高生は七重の隣を歩き出した。足を出すたびに新聞紙が腕の中で音をたてる。
 長い繁華街の中央道路を通り越し、パン屋とレコードショップ、本屋の前を通り過ぎる。雑然と並べられた自転車の中に一つ、籠にカーネーションの鉢が入っているのを見て七重は顔を背けた。どうして、こんなに逃げているのかよくわからない。思い当たる節はあれど、考えるのが怖かった。下を向き、思考を脇に退ける。
「あ、そこまででいいんですよね」
 少女の声にはっとしてみると、前方に大きく口を開けたアーチがあった。
 長いようで短い。そう、あれから何年たっただろうか。長いようで短かった。振り返れば歩んできた年月は数字でしかないような気もする。酷い話。
「私のアトリエもすぐ近くにあるんですよ。見学していきませんか」
「いえ」
「そうですか」
 首を傾げた少女は何処か悲しげだ。
「そのカーネーションは、何に使うのですか」
「これですか。先生が絵を描くから、好きな花を買ってきなさいって言ったんです。カーネーション好きだし、部屋にもよく飾ってるし」
 おかげで毎日が母の日です、と少女は笑った。また、胸が疼く。
「先生の絵は素敵なんですよ。色を、同じ色でかかないから」
「同じ色でない……」
「はい。たとえば薔薇なんかは、ピンクから描き始めるんです」
 おかしな話だ。七重は思う。
「でもいつの間にか、赤い色に染まるっていうか。色彩の関係なんですかね。周りの景色の色が、濃いピンクを赤に見せるんです。真っ赤な色を塗るより、よっぽど綺麗です」
 頬が桃色に染まる。尊敬の眼差しで虚空を見つめ、はにかんで笑った。
「ようは見方の転換ですよね」
「見方の転換」
 得意げに言って、少女はまだ講釈を続ける。相づちを打ちながらも、七重は半分も聞いていない。見方の転換。母の日も、墓参りになるならば足を運びやすくなるだろうか。
「ここで、いいんですよね。大丈夫ですか」
 目の前に少女の顔がある。びっくりして目を丸くするとおかしそうに笑われた。早いもので、もう商店街の果てまで来ていた。振り返れば長い道のりは大げさに言えば霞んで見える。
「ありがとうございます」
「はい。ぶつかってごめんなさい」
 最後の謝罪をして、少女は花束を抱えたまま四階建てのビルに消えた。三階の窓を見ると白い筆のロゴで、「アトリエ・フロッグ」。文字の横から顔に皺のある女が手を振っていた。少女の先生だろう。七重は頭を下げて、歩き出した。



 いったいどうして、この場所にたっているのだろう。いや、答えはわかりきっている。認めたくないだけであって。
 七重はゆっくりと石段を上がる。右手には水の入った桶、左手にはカーネーションの細い花束。ふと横を見ると、小高い丘の墓所からは下界がよく見渡せた。都内にあるため下から見上げるとまるで一里塚のようなのだ。並木の桜は既に散り、葉桜として凛とたっている。青に緑という情景は、何度見ても心が洗われた。
 一つ息を吐き、また階段を見上げる。すぐそこに、目的地へと続く横道があった。七重は左に折れ、一つの墓石の前に立つ。なめらかに陽光を反射する墓石には尾神家代々ノ墓、と刻まれている。愛しい母の眠る、重い墓石。
 何故カーネーションを買ってしまったのかよくわからない。少女の話が七重を後押ししたのか、赤を見過ぎて手にしたくなったのか。とにかく、気づけば七重は財布を握っていた。そのまま花束を購入して、こうしてここにいる。自分でも把握できない感情があるなんて思わなかった。
 まだからだが重い。気後れするように柄杓で墓石に水をかけ、線香のかわりにカーネーションを供えた。手を合わせようとして躊躇ってしまう。
 ――数えるほどだ。片手で数えられるほどにしか、この場所には足を運んでいない。必要最低限の弔いの時だけ手を合わせてきた。これからもそうだと思っていた。ここに足を運ぶたびに、母の笑顔が遠ざかるような気がしてならなかったのだ。死という虚構のものが忍び寄り、七重の心に深い溝を掘っていくような気がして。手を合わせるたびに、母が生きていた思い出を握りつぶしているような気がして。
 それでも来たのは何故か。ゆっくりと思ってみる。
 見方の転換や背中を押すようなキャッチフレーズは言い訳だ。去年だって、一昨年だって、母の日に赤い色を見てキャッチフレーズを耳にした。それでも来なかった。来たくなかった。今年は――いまは違う。吹っ切れたのかと言われれば、それも違うだろう。
「母さん」
 呟いた声はかすれてろくな言葉にならない。暖かな陽気が墓石と七重をつなぎ止めた。母の声のように。
 七重は墓石に向かって手を合わせる。僅かばかり、指先が震えていたのは錯覚ではない。怖い。背中が重い。そんな七重を、暖かな春の陽気が包み込んでくれた。顔を上げる。手入れの行き届かない場所が苔むした、古めかしい日本づくりの墓。圧倒される墓石がほほえみをたたえている。
「母の日、です」
 七重は静かに墓石と顔を合わせた。初めて、真正面から向き合う。なんだか照れくさかった。
「いつも、ありがとう」
 感謝を込める母の日は、常日頃側で見守っていてくれる母親に贈り物をする日のこと。
 あなたは、見守っていてくれていますか。
 問いかけに墓石は答えない。きっとここに来たのは、こうして静かに対面できる気がしたから。ただ、母に向かって震えることなく手を合わせられるような気がしたから。
 変わっただろうか、自分は。
 何年たったかわからぬ長いようで短い道程。その中で出会った事柄と個性豊かな人々。少しでも変化が見られるだろうか。少しでも先のことを考え笑えるようになっただろうか。
 問いかけに墓石は答えない。それでもきっと、母が微笑んでくれた気がした。


 ――僕は、かわっているよね。おかあさん。









登場人物
■2557 尾神・七重 男 一四歳 中学生
PCシチュエーションノベル(シングル) -
笠 一 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年05月15日

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