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『やまと ことのは あいのうた 〜2nd anniversary〜 』
槻島・綾2226)&千住・瞳子(5242)

 漸う緩み始めた凍りがまた冴え返るのは卯月の風の生業、ならばその花を落花させ薫り豊かに吹き抜けていくのが皐月のそれ。下萌えを経てすくすくと生いだした若草に、その柔らかなる木の芽の青葉に、翡翠色の風は大いなる慈しみと凛々しさで以って両手を広げる。そんな指先の戯れを感じたのだろう、槻島綾は微風に揺れた前髪をそと押さえ、傍らの女性に──千住瞳子に、道先の家屋を指して言った。
「瞳子さん、あれ」
「はい、もうそんな季節ですものね」
 見合わせた口許に笑みを含ませたのも道理。澄み渡る、とまでは言えないが、程よく蒼と白とを取り混ぜた晴天の空に悠々と尾を旗めかせ泳いでいるのは、子の長ずるを祝う端午の大鯉。からからと回る矢車の下、父母息子と並び居て、色も彩なる五色の幟が風の腕を形で示す。
 本当に、屋根より高い。踵を上げ、手を翳してまで見晴るかす瞳子に綾が継ぐ。街中では、こうはいきませんからね。
「綾さん、写真。撮らせてもらいましょう?」
 彼女に首肯して、綾は手持ちのカメラを構える。人様の家の祝いを勝手ながら収めることは失敬なのかもしれないが、あれはまた万人が共有すべき季節のひとひらでもある。綾はパシャリ、シャッターを切り、その出来栄えを画面で瞳子に確認した。
「もう随分撮りましたよね」
「ええ、フィルムだと嵩張りますけれど、デジカメだとその点は楽で便利ですね」
「じゃあ、行きましょうか。まだ巡り始めたばかりですし」
「そうですね。けれど、ゆっくりと、ね」
 瞳子は鞄を肩にかけ直し、はい、と笑みを深めた。

 旅に出よう、と言いだしたのは果たしてどちらが先だったのだろうか。恐らくは二人同時に胸に抱き、明確に斯くと切り出さぬうちにもう、心と計画は決まっていた。瞳子が長期の休暇をとれる、暦の上では初夏の始まりの一週間ほど、綾と瞳子は大和の古都・京都を訪れることにした。
 目的は大きな括りでひとつ、曰く二人だけの写真集を作ること。この邦の情景や風物を具象するあまたの言葉を、逆に自然の景観の中に求めようという趣向だ。カメラで切り取り印画紙に残すも好し、また見つめるのみで胸の内に収めていくのも好し。そう決めて東京を発ち、新幹線で京都駅へ。余裕がありすぎるほどの旅程が二人には丁度良く、幾日もかけていにしえの都を巡っている、本日はその中途、場所は洛北・嵯峨野。
 秋の紅葉を特に愛でられる嵐山は渡月橋を渡ったのが朝一番、いずれ名月の頃には赤く染まる木々の葉も今は初夏を彩る新緑の様で、保津川に沿って彼方まで連なる木立に早速二人は感嘆の声を上げた。欄干から身を乗り出さんばかりの瞳子に綾が後ろで苦笑して、それに気付いた彼女が一瞬顔を赤らめかけたものの。
「綾さん、下。水の音がとっても綺麗ですよ」
 並んで首を伸べれば、数日前に訪れた宇治の大河よりは優しげな水音が聴こえた。清水、というには雄雄しい流れ。耳朶を打つ清かさは、湧き出づるそれよりもずっとずっと、激しくて。
「ここは撮るべきところではありませんね。この言葉が表すのは、音と、それから涼しさ」
「はい。あっ、秋になったらあそこが全部赤くなるんですよね。もう一面真っ赤で」
「小倉山峰のもみぢ葉、と言いますしね」
「それ知ってます、えっと、百人一首の」
「貞信公の歌、ですね」
 そうしてふと見上げた初夏の青空、山の峰の遙か上空に雲の峰がそそり立っている。季節時代の違いはあれど今も昔も変わらぬは自然の営み、時間の巡り。千年昔も今この現世も眺めた山は同じかと、綾は暫し言葉の向こうの世界を思った。

 弾む会話を供にして、八方睨みの龍で有名な天龍寺、それから笹の葉打ち交わす竹林を通って野宮神社へ。古き斎宮たちのの仮宮は、綾の愛好する能楽の舞台の一つなので自然長居が決定した。社自体はこじんまりとしたものだが、入り口に設えられた黒鳥居と今にも残る静謐な雰囲気が、否応無しに心を物語へと遊ばせるようだった。
 神聖な雫を少し心に受け、野宮を後にする、その先の野巡りは喧騒とは打って変わった心安き長閑さ。ゆるりとした歩み、常寂光院を目指す途中で先刻の鯉のぼり、それから野生の藤棚を向こうの山の中腹に見た。遠目にもはっきりと藤色を認められるその柔らかな波。まるで山が、花簪をつけている様な風情。
 その房にふと思い出したのは、東の街で見たアカシアの枝枝、開花まではまだ少しの猶予、いずれはあそこにも藤に似た白い花が連なるはずだ。東に西と、古と今と、時代に場所は違えども、街に息づく人や花やは同じもの。白と藤とが豊かに揺れて、季節は春、そして夏へと波を寄せる。
 遠くから近くへ視線を転じれば、前を行く、同じく観光客だろう家族連れ、自然視線が惹かれるのは母と子の手の結び。幼稚園児と思しき息子の覚束ない足取りを、若い母親の手が急かすでも甘やかすでもなく引いて、繋いで、傍らの父親もそれに合わせた歩調を守っている。
 そういえばもうすぐ母の日ですよね。瞳子がぽつりと呟いた、その眼差しは微風よりもなお温か。
 ええ。受ける綾の声も、あくまで、穏やか。

 小倉山にある院を拝観し、田畑ひろがる野辺道を行く。嵯峨野という名が示す通りの平かな地平、路傍には疎らにひめじょおん、時折雛罌粟、空を邪魔する高楼もなく、それはつまりこの地に住まう人々が昔からの景色を、言葉を、慈しみ続けているという何よりの証拠だろう。そんな空気を愛した故人の住居跡を二人は訪ねた、名を落柿舎。江戸時代の俳人・向井去来の隠棲所である。
 框を跨いで真っ先に目に飛び込んでくるのは、土間に掛けられた蓑と笠。そういえば彼の師は遺している────月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり。
「芭蕉さんもこうやって、自分で歩いて、目で見たものを言葉にして、句として残したんですね。写真を撮るみたいに」
 数百年昔を生きた偉人を親しげに評する彼女に、では、と綾は投句箱を指す。僕達も残しましょう、瞳子さん。
「…………」
「……あの、かれこれ三十分ほど経っていますが……」
「待ってください、もう少し、もう少しで何か思いつきそうなんですっ!」
「はい……まあ、いいのですけれどね」
 鉛筆と投句用紙とを手に熟考の極みに達する瞳子と、彼女に並んで縁側に座る綾と。カコン、という獅子脅しの高音が昼間近な空に響いた。

 二尊院の参道もまた紅葉で名を馳せているが、この季節は掌形の紅ではなく足元で円やかに咲く赤い躑躅が見頃。砂利道の石段を上って本尊を拝し、また野を行く途中の家屋の軒先、炎天とまではいかないが打ち水をするのもむべなるかな。うすらと浮かんだ汗を拭い、やがて清涼寺に辿り着く。門前の店で少々遅めの昼食に豆腐料理をいただいてから、厳めしい仁王門を潜った。
 昼前に訪れた天龍寺も立派なもの、だがここの構えも決してひけなど取りはしない。本堂へは縦にも横にも圧倒されるほどの空間が開けていて、一足運ぶだけでも大層な重圧感。それもそのはず、と綾が歩きながら口を開く。
「嵯峨釈迦堂という別名が示すように、ここのご本尊は釈迦如来立像、つまり釈迦の立ち姿の像ですね。これに謂れがあって、釈迦三七歳の生き姿を写し取ったのだそうです。そういったものを安置しているわけですから、並々ならぬのも頷けます。そしてまたこの地は、光源氏のモデルとされる源融の山荘跡でもあるのですよ」
 へえ、と瞳を輝かせて聞き入られるのは悪い気がしない、とは年上の男のちょっとした虚栄心。
 彼女が自分を、ともすれば過大評価しがちなことを綾は承知している。自分は彼女が考えるほど優しくも頼もしくもないし、そんなには気が利くわけでもない。別に謙遜をしているのではなく、単に、人並み程度の男であるとそれだけのこと。そしてまた、隣りを歩く彼女も、他人から見ればごく普通の女子大生でしかないのかもしれない。

 だから大切なのは、最も重要なのは。互いが互いにとって、代わりがきかないほど唯一無二の。
 この上なく愛しき、特別な存在であるということだ。

 彼女との関係が明確な恋仲となってそろそろ一年が経つ。出逢ってからは、それよりもう少しか。このひととせの間に二人で幾つもの景色を見た、時を過ごした、こうして旅にも出たし、同じ夜を抱き、また明け行く空を眺めたりもした。思い出はまるで根雪の様、降り積もり形を成し、いつの間にか溶けること叶わぬほどの重みを持つ。
 綾は思う。この先の未来を共に、と願う心は最早自分の命そのもの。彼女もそうであればいい、そうでいてほしい、そのためならば自分はどれほどの力でも尽くすだろうから。

 綾さん、呼ばれて意識を引き戻す。下から覗き込まれた、その歳の割には無垢な瞳を一瞬抱き寄せたくなったけれど。綾は甘く笑んで、ただ「はい」といらえを返した。
「あの、綾さん。私、思ったんですけど」
 控えめに切り出した彼女に続きを促す。彼女の手には旅行前に買ったという歳時記の書物。綾に比すれば日の本の語彙がやや劣る彼女は、この旅を豊かにしようと自らそれで学びを深めてきたらしい。
「季語とか、そういう言葉って、私特別なものだと思ってたんです。古典で習うような、芸術用の言葉っていうか、何て言うのか、硝子ケースに入れておくようなものだって、ずっと、固定……かな、そういう風にしてたんです」
「はい、浮かべているイメージはよく解ります」
「それで、でも今ちょっと違うかなって思って。すごく、身の回りにありますよね。こうやって歩いているだけでたくさん、綺麗な言葉と、そのものに逢えるんですよね。だから季語とかの言葉って、当たり前のところにあるから長い間使われ続けてて……うーん、うまくまとまらないんですけど」
 解りますよ。綾は殊更愛しそうに目を細めて、繰り返した。
「それがこの邦の言葉なのだって、僕も思います」
「そう、ですよね」
 瞳子はほっとした様な表情を見せる。綾は彼女の肩を軽くぽんと叩いた。
「────だから、貴女と来たかったのですよ」

 野も終わりかけ、祇王寺の敷地に足を踏み入れた途端不意の通り雨、いや白雨に襲われた。五月雨と名付けるに適当と言うべきか否か、庵に逃げ込みながら綾は苦笑する。寺内の客は今自分達二人だけ。ふと目を遣れば瞳子の肩に幾つかの雫の痕、濡れてしまいましたね、と言えば、綾さんこそ。
「でも温かい雨ですよね。四月にはまだ寒い、冬の雨でしたけど、もうすっかり」
 言いながら瞳子はハンドタオルを綾に差し出す。そちらからお先に、と辞退する綾を彼女は笑って、もう一枚あるんです、と胸を張る。
「しっかりしている」
「綾さん私、同じ二十代なんですよ」
「けれど六つも違いますよね」
「……気にしてるの知ってるくせに」
「あはは、すいません」
 言葉に甘えた綾が髪を拭いていると、少々ふくよかな猫が玄関姿を現した。飼い猫だろうかと見守る二人にそれは一瞥も呉れず、慣れた足取りで三和土から室内へと跳び上がり、そのまま端居、身体を丸めて目を閉じる午睡の風情。気侭を体現しているあれがもし淑女なのだとしたら、花海棠の形容が似合う、かもしれない。
 庵の中で雨を待つことにした二人は、早速納められているここの主らへと挨拶した。この寺は、その名が示す通り祇王──『平家物語』に存在を残されたあそび女と、その妹に母刀自、また同じく清盛公の寵愛を受けやがてそこから出奔した仏御前、と、四人の尼僧が祀られている。都の煌びやかな天上世界から遠く離れ、鹿の声すら遠くに聞こえるようなこの嵯峨野で生を終えたという女達の、その寂然たる暮らし、詫びしさ、また到達したのだろう諦念を座して思う。今とて耳に沁みてくるのはさあさあというか細い雨が降りくる音のみ。
 ────そういえば以前に雨が降った折、傍らの彼女はそれらを音に載せていた。彼女の世界は音に溢れているのだろう、ならば、自分の世界は言葉に満ちていると言ってみよう。音と言葉が愛し合い、それがことのはやまとうた、歌となって時代を超えて、人の心を打ち続ける。
 瞼が重く感じられるのは猫同様の睡魔のせいではあるまい、どちらかというと、此岸から彼岸へと意識を引き寄せられる幽玄の境地に似た力。思考がまるで密の様に蕩け、伸びて、曲線の軌跡を描く。雨の音がさあさあと地を穿つ。
「綾さん」
 不意に、瞳子が奥、控えの間を指した。何事かと目を遣れば、丸く切り取られた円窓と、そこに閉められた真白な──それでいてどこか色味を帯びた障子。
「あれ、虹の窓っていうそうですよ。光の具合で色が変わって、今は後ろに緑の葉があるから緑色なんですけど、秋になれば、例えばあそこが紅葉すれば、赤い窓になるんです。……ガイドブックの受け売りで、すいませんです、けど」
「そんな。教えてくれて嬉しいですよ、へえ、虹の」
 障子を開け閉めしてその色の違いを味わう。虹橋は国によって色の数が異なるという、それはつまり、名付けられる色の数が言語によって変わるということ。この邦の七色は恐らく多い部類に入るだろう、色彩の微妙な違いに敏いゆえ例えば青と藍とを区別する。雨に幾種類もあること然り、歳時記というものがあること然り、自然を細かく見極められるこの邦の気質、出来れば永久変わらないでいてほしい言葉たち。虹を指して「彩虹」と呼べるその心を、失せさせないでほしいと綾は切に願う。
 控えの間からは一面に苔生した庭が眺められた。地に深い緑、また若楓が天を覆っているせいで、差し込む光も雨までもが新緑の色、これぞまさに世界万緑一色の趣と、綾はカメラで、また心で言葉で、それらを納めた。

 やがての雨上がり、綾は天に掛かった弓を指して言った。────瞳子さん、本物の虹が出ましたよ。


 その日の宿りは粋な花柳の賑わいを残す、祇園の古宿を綾は選んでいた。高台寺近くの、少し坂を登った所に建つその宿、部屋からの見晴らしが素晴らしい。料理も中々のものと聞いている、ゆえに値段はそこそこ張る。そこはそれ、学生の瞳子が払い易いよう自分が補助していることはあくまで秘して、綾は旅中途のこの日に特別良質な宿を定めた。────それは、心密かな目的のために。
 茶器を運んできた仲居が辞して、夕日赤く射す落ち着いた室内。二人、板間の椅子に腰掛けて、向かい合う窓の眼下、中庭に、残花がはらはら散っていた。
「八重桜、かな。あれは開花が少し遅いですから」
 霞の如くに山を野をそして街をも染める花の名残、夕焼け間近な金色の光に花が、花も、もう終わり。
 彼女は黙って外を見ていた。緋色に燃える最期の陽が、垂れ込めた雲と澄んだ空とを茜に染める。天と地の間に見つけられる色は様々で、時折濃い紅の韓紅、また黄味の強い朱華の色、時が移ればあれは東雲色ともなるのだろう。蒼褪めた世界が徐々に温もりを取り戻していく様、きっと明日の朝早起きすれば見られるのだろう。彼女と一緒に、彼女を腕の中に抱いて、一緒に。
 綾は口をつけていた湯呑を置き、膝に指絡めた手を載せる。瞳子の横顔は差し込む取り取りの光に照らされている。そんな彼女を隠しもせずに見て、瞳子さん、呼ぶか呼ばないかのうちに彼女がこちらに顔を向けた。綾さん。はい、何ですか?
「……いつ言おうか、朝から考えてたんです。今、言っても、いいですか?」
「はい。僕はそれを、朝からずっと聞きたかったのですよ」
 微笑む彼女の輪郭が光っていた、眩しいほどに。神々しいほどに。────ああなんて、綺麗な。
「綾さん」
「はい」
「お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
「当日に言えて、よかった」
「……では僕も、白状しますね」
「え?」
 綾は手の指を組み直した。
「貴女に、とても良い場所でそう祝ってほしくて、今晩この宿を予約しました。貴女に一番大切な言葉をもらえるなら何処が一番嬉しいか、考えました。……僕はそういう自分勝手なところのある男ですけれど、次の一年もまた……いえ、僕と貴女が続く限りずっと、一緒にいてくれますか?」
 瞳子は一瞬口を噤んだ。少し顔の向きをずらしたもので、彼女の表情が赤い光の中に埋没してしまう。綾は待つ、わかりきった彼女の答を、しかし神妙に、どこか案じながら。なぜなら、そういう男だから。
「……綾さんは、時々いじわるですね」
「貴女にだけですよ、悪い気はするのですけれどね」
「……だけに、」
「ん?」
「私だけに、してください。他の人にしたら、嫌です」
「……勿論」
 手を伸ばし、光の中で彼女の頬を両掌で包み込めば、予想以上に紅色の体温が熱い。戯れに親指で下唇に触れたら、肩を揺らして怯えられてしまった。それを宥めて、耳元で囁いて、瞳子さん、自分がこの世に生を享けたことが嬉しくて、幸いで、瞳子さん、呼び続ける唇を彼女に近づけて、そして。

「待って、」
「え」

 触れる寸前だった温もりを、彼女のほうから捧げられた。閉じ損ねた視界に距離をなくした彼女の睫がぼんやりと映る。
 綾はそれを暫し見つめた後、数多の大切な景色の一つとしてその眺めを、彼女を────瞼の中に閉じ込めた。


 了


PCシチュエーションノベル(ツイン) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年05月09日

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