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『Woods of silence 』
威伏・神羅4790


 電車を幾つか乗り継いで歩み来た森に踏み入れば、間も無くその邸宅は私の眼前にその姿を見せるのだ。
 西洋の邸宅を思わせる造りの成された外観も手伝ってか、或いは周りを囲う深い森の景色がそう見せるのかは分からぬが、ともかくも何やら小洒落た見目をもった邸宅なのだ。
 門という門もなく、庭という庭も持たぬ造りながら――それとも、この邸宅の持ち主は、森の全容を己の庭だと嘯いているのやもしれぬが、客人が目にするには些か温かみの足りぬ黒いドアが邸宅の真ん中でだんまりを決め込んでいる、¥。
 私は、試しにとばかり、呼び鈴を数度ばかり押しやってみた。が、さもそれが当然の事であるかの如く、それに応じる者など居はしなかった。
 次いで、私は手持ちの鞄の中から一本の鍵を取り出し、ひんやりとした鍵穴の中へと投じてみる。――鍵穴は容易く開き、そうして私は強固なドアの内側へと足を進みいれたのだった。

 タイル敷きの床をもった玄関横には幽かな芳香を漂わせる芳香剤が置かれている。
 恐らくは数日といった時間、この邸宅は留守を守ったままでいたのやもしれぬ。芳香剤は柔らかな空気を広げてはいたが、それをも凌駕するかの如くに広がる冷えた空気が、私の鼻先をくすぐるのだ。
 幽かに漂う埃の匂いに、私は僅かに眉根を寄せる。――が、これは決して不快な匂いではない。留守にしがちな邸宅であれば、こういった匂いを纏うのは至極当然の事と云えるだろう。

 私の名前は威伏神羅。日ノ本と云われるこの国が、後に室町やら南北朝やらといった名前で称されるところとなった時世に、この身は息吹を知る処となった。
 あれから実に六百年以上もの歳月を越え、今、私は平成という元号を得たこの現代を歩んでいる。
 嘗ては血の気も多く、少しばかりやんちゃであった頃もあったのだが――それも幾許かは落ち着きを得た、ようにも思える。
 私は樂を奏する身だ。
 三味線の絹糸を爪弾くのも、アコルデイオンの鍵盤を弾くのも、私にとり、どちらも等しく、心地良い。

 私は玄関を越えてすぐの位置にある階段を上り、幾つか並ぶ客間の内の一つの扉に手をかける。
 この邸宅の持ち主である者からすれば、客間が一つ占領されてしまったという事にもなろうか。が、そのような事は私の知る処ではない。
 ひやりとしたノブを閉じれば、そこには、以前は確かに客間と呼ぶに相応しいものであったかもしれぬ部屋が広がる。
 一人寝には充分たる広さをもったベッド、少しばかりの衣服ならば収納出来るであろう衣装棚、小さなテーブル。
 私はベッドの上に腰を下ろすと、深い息を一つ吐き出した。
 窓の向こうには森の木立ちが覗き、その間からは春の涼やかな蒼穹が顔を見せている。
 窓を開け放つと、土の香りと森の木立ちの香りとが鼻をくすぐった。アイボリーカラーのカーテンがそよりと揺らぎ、私はふつりと眼を細ませる。
 ――この森は、実に穏やかで心地良い。
 鳥が囀り、気の早い蛙が鳴き、耳を寄せれば水音さえもが静かに響いているのが知れる。
 
 ふと振り向き、以前は客間と呼ばれていた部屋の中を確かめる。
 ベッド脇に置いた雑誌入れ。壁には三味線が数本とアコルデイオン。私が運び入れた床の間代わりの小棚が一つに、アンティークショップで買い求めた椅子が一脚。
 客間は、今や私の私物で溢れたものとなっている。――云わば、この神羅の私室と呼ぶに相応しいものとなっているのだ。

 森を流れる風が部屋の中を撫で回して広がっていく。
 私は再びベッドの上に座り、それからちろりとテーブルの上へと視線を寄せた。
 買ってきたばかりの雑誌を収めた紙袋と、ちょっとした茶請けを包み入れたビニール袋が一つづつ。
 私はしばし目を泳がせた後、――紙袋へと手を伸べた。
「か、からかって遊ぶためじゃ。それ以外に、何の目的があろうか」
 誰にともなしに呟きつつ、紙袋の中から数冊の雑誌を手に取った。
 和洋を問わず、有名どころな菓子職人に関する情報を集めた特集記事を載せた雑誌が一冊。それに、女子向けのファッション雑誌。――ファッション雑誌には巷で人気のイケメン職人と女優との対談が組まれた記事が載っている。
 私は、まずはファッション雑誌の方をぱらぱらと捲り、雑誌の真ん中ほどに載せられていた特集記事で手を止める。
 見開きを含めた五頁を割いたそれは、映画等でもよく見受けられる女優――私はその女優の名前など知るよしもないが――と向き合って座る洋菓子職人の写真を大きく載せていた。
 相変わらずの黒衣と、いつもと何ら変わらぬ仏頂面。映された写真の殆どが顎鬚に手を添えたもので、上目に見上げている女優の事なぞお構いなしといった表情だ。
 私は、ふと頬を緩め、笑う。
「少しは愛想というものを覚えんか」
 低くそう落として一頻り笑んだ後、――ふと、私は再び部屋の中を見渡してため息を吐いた。
「……か、からかうための材料じゃ。愛想笑いの一つも身につけておけと、笑い飛ばしてやるのよ」
 ケフンと小さな咳払いなぞ一つ吐き、私は開いていた雑誌をそのままテーブルの上へと放りやる。
 
 部屋の中はしんと静まり返っている。
 ただ、窓の向こうで、山鳩がふうふうと鳴き声を響かせていた。

 
 私は、楽師という仕事柄、休日等に関わりを持たず、あちらこちらを渡り歩かねばならぬ身だ。ゆえに、時折降って沸いた休暇には、私は一日の大半をこうしてベッドの上で過ごすのだ。
 心ゆくまで睡眠を取り、雨風の音に耳を寄せて瞑想に耽り、買ったままで読まずにいた書に目を通す。これらはベッドの上であっても充分に行えるものだ。
 だが、しかし。楽器の練習時においては、流石にそうもいかぬ。
 件の、アンティークショップで求めた椅子に座る時もあれば、使い慣れた座布団を床に敷き、その上で奏する時もある。――それはその時々、気分次第で変わるものだ。
 私は、山鳩の鳴き声に耳を寄せた後、流れる風に合わせて一曲奏してみようかと、ベッドの上から座布団の上へと移動した。
 奏する曲なぞ、何でもいい。楽器の調子を見るための音合わせをも兼ねたものだ。
 私は、つと眼を伏せて撥を振るう。
 森の木立ちが風に揺らぎ、我が樂の音色を森の隅々までも伝えていく。
 山鳩はふうふうと鳴き続け、風はさわりさわりと木々を揺らし、森を覆う蒼穹はどこまでも広く。
 ――――ああ、私は、こうして樂に触れている時が幸福なのだ。


 一曲どころか二曲、三曲と奏し、ふと手を止めた頃には、窓の外は既に夕暮れを過ぎた薄い夜の色で包まれていた。
 山鳩は何時の間にやら家路へと着いていたらしい。代わりに、蛙の鳴き声がしんしんと広がっている。

「……腹が減ったの」
 呟き、今まさに空腹を訴えようとしている腹に手を添える。
 ちろりと目を向けたのは、和菓子屋で求めてきた上生菓子。
 ――が、
「菓子といった気分でもないのう」
 そう述べた後に腰を持ち上げ、開けていたままの窓を閉め、そうして部屋を後にする。
 向かうのは階下にあるキッチンだ。
 玄関から近い場所にあるリビングを抜ければ、一般家庭にあるものとしては幾許か広く造られたキッチンがある。その厨房には、やはり少しばかり大きめの冷蔵庫が置かれ、何故か何時も適当な食材が収められているのだ。
「スパゲティに……レトルトのカレーか。……あやつ、この神羅の味の好みを理解出来ておらぬとみえる」
 冷蔵庫や厨房の棚を漁りつつ、小さな舌打ちなぞ一つ。と、そこで、私は冷蔵庫の中に、煮物にするにうってつけの根菜類を見付けたのだ。さらによくよく見れば魚――干物ではあるが――も仕舞ってあるではないか。
 よし、ここは一つ、煮物と魚とで夕餉とするか。なぁに、日頃は面倒が先走り、食事処なぞに足を向けるだけよ。この神羅とて、飯の一つや二つ、作るは易い事じゃ。
 独りごちて、私は景気良く腕捲りなぞしてみせた。


 何時の間にやら夜も更け、邸宅を囲う森もすっかりと眠りについていた。
 夕餉を終え、片付けも一通りこなした後に茶請けで緑茶を堪能した後、広々とした風呂に浸かり、一日の疲れを洗い流す。
 風呂場には生花が置かれ、その芳香が湯気と共に広がって鼻先をやわらかく撫でていく。
 ――洒落た事ばかりする男じゃと、私は鼻先で笑い飛ばす。
 それだけの暇があるのなら、愛想笑いの一つも覚えたらどうじゃ、と。

 風呂の片付けを終えて部屋に戻る頃には、更けていた夜も白々とした朝の気配を漂わせ始めている。
 東側の空が薄い紫を浮かべ出しているのを見つめながら、大吟醸を猪口で一杯。寝酒であるから、これは嗜む程度で充分だ。
 ――そうこうしている間に、睡魔はいよいよこの身を包み出す。
 私はごそごそとベッドに潜り込み、そうして夜の気配が薄くなりつつある中で、ようやく眠りに就くのだ。


 
 すっかりと陽が昇り、涼やかで心地の良い風が森の木立ちを揺らす。朝の気配で目を醒ました森は、さわりさわりと揺れながら邸宅の主を迎え入れるのだ。
 静かな邸宅の中に主の気配が戻る。それは玄関先にある神羅の靴を確かめた後に、神羅が占拠した部屋の前で足を止める。

 
 じゃが、既に眠りの中にある私は、その足音になぞ気付く余地もない。
 そうして昼前に目を覚ました頃、階下から漂う朝食の香りに気付くのだ。

 さあ、今日は何と云ってからかってやろうか。


―― 了 ――

PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2006年05月01日

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