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『喫茶室ブラウンホリックの邂逅 』
ジェームズ・ブラックマン5128

 私が珈琲と呼ばれるものを口にするようになって、どれだけの時が流れただろう。
 この世界の隅々まで、飽くなき探究心と強欲を原動力に満ちていった人間という生き物が珈琲を発見して千年。
 今では遠く原産国を離れた極東のこの街、東京でも香り高い珈琲を楽しむ事ができる。
 手軽に飲めるインスタントも最近はそれなりになってきているが、やはりゆっくり時間をかけて落とした珈琲の香りにはかなわない。
 また喫茶店で飲む珈琲には、単なる味と香りの良さの他に、代えがたい何かが漂っているような気がする。
 それが何なのか、まだ私――最近は便宜的にジェームズ・ブラックマンと名乗る事が多いな……にも判然としないのだが。
 時間ができると私が立ち寄る喫茶店の一つに、喫茶室ブラウンホリックがある。
 『褐色狂』――珈琲なしでは生きていけない程溺れているつもりはないが、なければ味気ない毎日を過ごす事になるのも確かだ。
 ブラウンホリックはコンサートホールと美術館を囲むバラ園の一角に設けられた場所で、室内にもふんだんにバラが飾られている。
 華やかな場所には華やかな客が似合う。
 身体を包む全てを黒で覆った私に色があるとすれば、瞳とカフスの銀色くらいか。
 黒は目立たない色だというが、この場合は含まれないだろう。
 客のほとんどが品の良い女性客で占められた店内で、私の姿が著しく浮いているのはわかっている。
 しかしブラウンホリックの珈琲は、そんな一抹の気まずさを押しても味わう価値がある、と私は思っている。
 もっとも外聞を気にかけるような私ではない。
 他人の評価など些細なものだ。
 その時々の主観でしかない。
 それら全てに合わせていられる程、私も暇ではない。
 ブラウンホリックのドアを開けた私の視線の先、私と同様この場にそぐわないだろう男が座っていた。
 草間武彦――草間興信所の所長にして飲み仲間。
 今の所、私たちの付き合いは珈琲を挟んでしか成立していない。
 それよりも一歩進んだ交際というのも面白そうだが、今はからかわれた草間の表情を楽しむ事で満足している。
 草間は窓辺に近い四人掛けの席で、珈琲を飲んでいた。
 草間が口に運ぶカップは、フッチェンロイターのブルーオニオン。
 ブーケのように束ねられた桃、柘榴、芍薬、竹の図案が、それぞれ東洋哲学の象徴的意味を含んでいると草間は知っているのだろうか。
 せめて芍薬の示す「富」だけでも、彼にもたらされれば良いのだが。
 私はそう思いながら彼の席へと近付いていった。
 待ち合わせなどではなく、偶然の邂逅だ。
 だがこの世界に偶然などというものがあるだろうか。
 テーブルに落ちた影に、草間が顔を上げた。
 次いで薄く唇が開き、驚きに肺から空気が押し出される。
「クロ……っ!? 何で、ここに」
 ブラウンホリックが禁煙で良かった。
 でなければ草間は、珈琲と同じ位愛するマルボロを唇から落としていたところだ。
「珈琲を飲みにだよ、武彦」
 唇の端を持ち上げて笑い、向かいの椅子を引いて座る私を草間はじろりと見返す。
 全く迫力がないぞ武彦。
 明るい日差しとバラの花々を背景に背負いながら凄まれても、な。
「席は他にもたくさん空いているだろう」
 平日の昼下がり。
 ブラウンホリックの店内はバラ園散策のついでに立ち寄った女性客で賑わっていたが、席が全く空いていない訳ではない。
 現に一人で草間は四人掛けのテーブルを使っている。
「何か相席に不都合でも?」
「せっかくの珈琲、葬式帰りみたいな格好のお前と飲みたくない」
 憮然とした表情のまま草間が答える。
「だいたい変だろ。
いい歳した男二人が揃って、向かい合わせに座って珈琲飲んでる図なんてさ」
 そうなのだろうか。
 私はふと考える。
 草間とこうして珈琲を飲んでいる姿は、周りから見れば奇異に映るのだろうかと。
「武彦はそう思うのか」
「どうせならむさ苦しい男は遠慮したいね」
 私は席を立った。
「これならばどうだ?」
「……余計おかしいだろ!」
 隣の席に移動した私に、草間は肩を震わせて言った。
 向かい合わせがおかしいと言うから移動したのだが。
「少し窮屈には感じるな」
 テーブルは決して小さな物ではなかったが、上背もある男が二人並んで座ると狭い。
「ああもう、わかったから。
とにかくそっちに座れ」
 草間に促されて、私は再び最初に座った席に移動した。
 と、ウェイトレスがメニューと水の入ったグラスを持ってテーブルの横に立つ。
 奇異に映るかもしれない私たちのやり取りが、一段落するまで待ってくれたのかもしれない。
 そういった配慮が出来る店は貴重だ。
「ブレンドをお願いします」
 何度も訪れている場所だし、ここでオーダーするものは決まっていた。
 どの喫茶店でも、まず頼むのはブレンドだ。
 その店の焙煎技術や味、香りへのこだわり……そういったものが如実に現れる。
 嗜好品はつまるところ、自分の好みに合致するかどうかが肝心だ。
「かしこまりました」
 ウェイトレスが遠ざかっていくのを見送り、草間が口を開く。
「クロもこの店知ってたのか?」
「探偵ばかりが世界の秘密を知りうるとは思わないで欲しいね」
 む、と草間が唇を尖らせる。
 そして「嫌味な奴」という呟きを、やや冷めてしまった珈琲と共に喉へ流し込んだ。
 お互いに軽口を叩き合える関係というのも、たまには心地良く感じる。
 睦言ばかりを並べて満足していられるのはごく短い間の事だ。
 それよりも私は、手の内をお互い隠したまま駆け引きする方が楽しい。
 草間の持つカードはいつも少ないくせに、こちらの予想とは全く別の物だった。
 そこに私は惹かれている、と思う。
 途切れた会話に居心地の悪さを感じたのか、草間の方から口を開いた。
「……でも、まあ……気に入った店が同じなら、クロも少しは見る目があるって事か」
 不本意ながら、といった雰囲気をまとわせた言葉に私は笑った。
 草間は正面に座る私から視線を外している。
「お待たせしました」
 ウェイトレスが私の前に珈琲を運んできた。
 カップは草間と同じくフッチェンロイターのブルーローズ。
 この世界に無い青いバラはいまだ見果てぬ夢の象徴、か。
 ミルクの加えられていない黒い液体が、金彩の縁取りの中を満たしている。
 カップの白と珈琲の黒、それを目にする時、私はいつもある言葉を心に浮かべる。
 すでに話す人々も滅んだ国の言葉で。
 私の呟きを耳にした草間が首をわずかに傾けた。
「何か言ったか?」
「『人よ、目の前の黒き愉悦を味わえ』、だ。武彦」 
「は? 味わ、う……?」
 草間の持っていたソーサーとカップが軽くぶつかって音を立てた。
 何を勘違いしたのか、草間の頬から首筋にかけてが見る間に赤さを帯びていく。
「もちろん、珈琲だよ」
 彼の目の前にある黒いものと言えば珈琲と私か。
 私を味わって、と言い換えれば艶めいた言葉に聞こえなくもない。
「……からかうなっ!」
「別にからかうつもりは無かったんだが」
 顔を赤くした草間が見れたのは面白い結果だったが。
 私は立ち上る香りを深く胸に吸い込み、舌に載せられるだろう愉悦を思いながらカップを傾けた。


(終)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
追軌真弓 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年04月27日

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