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『息吹く女 』
赤羽根・灯5251



 それは幼い頃に感じた、あの暗鬱とした森に対するものと似ていたかもしれない。
 ふうふうと鳴くのはフクロウ。フクロウはふうふうという鳴き声と共に陰惨たる陰をひとつづつ落とし、湿った風がそれを森の隅々まで運び広げるのだ。

 今、灯は、夜の闇の内にいる。
 夜の闇は恐ろしい。それはどこまでも果てしなく続く、終わりの無い悪い夢そのものだ。
 遠くに青緑の非常灯が見える。両脇には広い空間がある。
 フクロウが落とす鳴き声は聴こえない。代わりに響くのは、灯が足が進むごとに踏みつける、無機質な床板の音。
 ふうふう かつんかつん 
 非常灯が近くなる。
 青緑色の、薄らぼんやりとした光が照らし出したのは、一枚の絵画だった。
 いつの時代に生きた、何という名前の存在なのかも知れない、壮年の女性が描かれた肖像画。
 灯の目は、その画の中へと奪われる。
 ふうふう ふうふう
 聴こえるはずのないフクロウの鳴き声が聴こえる。
 指を伸ばし、灯は画の中心に触れた。――そう、この画の中に、暗鬱たる森が広がっているのだ。
 ふうふうふうふう
 触れた場所から、赤錆色の絵の具が広がる。赤錆色は、やがてふつふつとした斑となり、肖像画の全面を穢していったのだ。


 灯は、今、都内の大手デパートでバイトをしている。正確に言うならば、デパート地下にある洋菓子店で売り子のバイトをしているのだ。
 学校の授業を終えてデパートに入り、そうしてタイムカードを押す頃には、携帯に表示されている時刻は夕方の五時を指している。
 バイトの時間は夕方五時から八時までの三時間。忙しくはあるが、時には売れ残ったシュークリームなどを手土産に貰える幸運に恵まれる。和菓子の方が嬉しいんだけどななどという事を考えつつも、しかしやはり、甘いものを、しかもタダで食せるのは幸せな事だ。だから、この日も、
「あ、赤羽根さん。あともう少しであがりだよね」
 と、オーナーに呼び止められた時は、わずかに胸が高鳴った。なにしろ、今日は生ケーキが売れ残っているのだ。和を彩った造りのなされた、抹茶と小豆のケーキが。
「はい。あと十五分であがりです」
 レジ下に置かれた小さな置時計をちろりと見やりつつ、灯は満面の笑みを浮かべた。
 オーナーは、ふむとうなずいた後に言葉を継げる。
「悪いんだけど、ちょっと頼まれてくれないかな。――これ、企画担当の人に渡してきてほしいんだけど」
 言葉と共に差し伸べられたのは大きな茶封筒だった。
「ほら、来月の連休にやるフェアの件。あれの要項を渡さなくちゃなんないんだけどね。ぼく、今、別件で用事が出来ちゃって」
「企画担当の方ですね。分かりました」
 笑顔でうなずく灯に、オーナーはすっかり気を良くしたのか、
「帰りにお土産もつけるからさ」
 そう言い残して、店の奥へと姿を消したのだった。

 ペアを組んでカウンターに立っている少女に言葉を残し、店のエプロンをしめたままで、灯は最上階の企画フロアを目指す。
 最上階へと向かうエレベーターに乗っているのは、今、灯ひとり。
 四角の無機質な箱は、灯ひとりだけを乗せて、音を落とす事もなく上へ上へと昇る。
 ふうふう
 わずかに首を動かし、肩越しに後ろを確かめた。
 そこには、ただ、物言わぬ白い壁があるだけだった。

 デパートの最上階にある企画フロアでは、一定期間ごとに様々な催し物が行われている。
 エレベーターが動きを止めて灯の体を吐き出した。
 十日程前から、このフロアでは美術展が行われている。とはいえ、有名な画家達の作品を展示してあるわけではないのだ。企画されたのは老人や子供が描いた自画像を飾り、プロの批評家を呼んで、あたりさわりのない評と賞をつけていこうという、至ってほのぼのとしたものだった。
 フロアには客の姿もなく、受付や案内といった係の姿も見当たらない。
 がらんとしたその中を、灯はゆっくりと進む。
 フロアは全体が煌々とした明かりで包まれていて、人気こそ感じられないものの、およそ暗鬱たる雰囲気を漂わせるものではないように感じられる。
 ――が、しかし、灯の体は、ひとつ進むごとにぞわりと粟立つような空気を感じ取っていた。
 そこかしこに飾られた絵画の中の人物が、灯の動きを見つめているような感覚さえも感じられる。
 目、目、目、目。――そこかしこから、確かに、視線を感じるのだ。

 事務室に向かうためのルートを歩き、感じる視線を気のせいだと思い込む。
 しかし、そこで、灯はふと足を止めたのだ。
「――これって……」
 呟きながら見つめるその画には壮年の女性が描かれていた。
 どこの国の婦人とも知れない面立ちの、赤茶けた頭髪と白い肌、そして灰色の目をもった女性。
「これって、夢で見た……」
 ――――ふうふう、ふうふう

「あれ? きみ、地下街の子?」
 不意に現れた男性の声に呼び止められて、灯は画に向けて伸ばしていた手の動きを止めた。
 振り向いたそこには、企画担当の者と思しき若い男が立っていた。
「あ、はい。あの、オーナーに、これを頼まれました」
「え? ああ、書類ね。うん、ありがとう、ご苦労様」
 差し伸べた封筒を受け取ると、男はそのまま踵を返して去っていった。
 男が去っていったのを確かめて、灯は再び女性の肖像画へと視線を向ける。
 女性の目が薄い三日月を描いている。
 ――聴こえるはずのない森の声が聞こえたような気がして、灯は急いでエレベーターへと戻った。

 その夜も、灯は深い闇の中にいた。
 青緑色の非常灯ばかりがチカチカと光り、ぬらりとした光沢を放つ無機質な廊下は、灯が歩むごとにかつりこつりと硬質な音を響かせるのだ。
 ――ああ、また夢を見ているのだ、と。灯は奇妙なほどに落ち着いた頭の中でそう考える。
 自分はまた夢を見ているのだと。

 かつりこつりと響く音に合わせ、どこからかフクロウの鳴き声が聴こえる。あるいは、どこからか入り込んできている風の音なのかもしれない。ともかくも、灯は引き寄せられるようにフクロウの声へと近付いていく。
 
 気がつけば、そこは、あの企画フロアの中だった。
 闇の中で、動くはずのない目がぎろりぎろりと灯を見つめている。しかし、灯は、迷う事のない足取りで、あの肖像画の元へと向かう。
 ふうふうと、フクロウが鳴いている。

「――私をここへ招いたのは、なぜ?」
 肖像画を前にして足を止めた灯は、他の画とは違い、一向に動きを見せようとしない女性へ向けて訊ねかけた。
「あなたは私をここへ招いたのでしょう?」
 答えはない。女性はただゆったりと微笑んでいるだけ。
 灯は再び手を持ち上げて、ゆっくりと、その画に触れようとして手を伸べた。その刹那、肖像画の中から現れた腕が灯の手を掴み取り、力任せに引き寄せてきたのだ。
 まるで壁が泥沼になったかのように、灯の腕は見る間に呑みこまれていった。
「離して!」
 大きく体を揺すってみたが、ずぶずぶとぬめりこんでいく灯の腕は解放されそうにもない。
 女性の顔が大きく歪み、哂っていた。
 ゲタゲタゲタゲタ
 周りの画が一斉に哂う。
 贄だ、贄だ!
 沈めろ、沈めろ!
 噛み殺せ!
 ゲタゲタゲタゲタ
 灯の腕が肩まで呑みこまれた、その時。灯は肖像画の中の女性の顔を見た。ゆったりとした笑みを浮かべていた女性は、今や恐ろしい魔物へと変容していたのだ。
 巫女よ、我の腹へと収まり、その力を闇の中へと降せ!
 女性が哄笑と共に吐き出し、灯は固く目を閉じた。

 ごうあ、と、地鳴りに似た音がして、大きな両翼を広げた火の鳥が姿を現した。それは灯の身の中から現れたものでり、魔を焼き払い、邪まなるものを薙ぎ払うための聖なる力の象徴だ。
 フロアの中が紅蓮の焔で包まれ、そこかしこから魔の眷属達が張り上げる叫喚が轟く。
「魔よ、滅びなさい!」
 紅蓮の中に立つ灯は、淀みのない眼光をもって肖像画を睨めつける。
 女性は何事かを叫びながらどろりと溶けだし、やがてふつりと消えていった。

 シフトでは、翌日は灯のバイトは休みとなっていた。が、灯はバイトがある時のようにデパートへと向かい、企画フロアへと足を向けた。
 フロアの中には様々な画が展示され、親子連れや会社帰りのOLやサラリーマンと思しき人々がのんびりと画を楽しんでいる。
 フクロウの声は、もう聴こえない。感じていた数知れない視線も、もう感じる事はない。
 フロアを進み、女性が描かれた肖像画の前で足を止める。
 ゆったりとした笑みを浮かべた女性は、もう二度と、闇をもたらす事はない。
 
 一通りフロアを堪能した後に、灯はバイト先へと足を向けた。前々から食べてみたいと思っていた新作ケーキを買うためだ。
 数人の客に紛れてエレベーターに乗り込み、明るくのどかな空気で満たされていたフロアを後にする。
 エレベーターのドアがゆっくりと閉じた。


―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年04月26日

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