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『かの花のごとく 』
城ヶ崎・由代2839)&高柳・月子(3822)

 ふらり、と大きな窓の縁に身を寄せる。
 都心の喧騒からは隔絶された静けさに支配される空間、粛々と冬の気配を色濃く残した空気だけが一帯を覆いつくす。
 そんな中、ぼんやりと闇夜に浮かび上がるのは仄かな紅を纏った可憐な花弁。
 今まさに時満ちようとする月明かりに照らし出され、どこか恥らうように淡く微笑む。
「あぁ、どうしたものか」
 手にしていた分厚い本を気もそぞろに閉じ、城ヶ崎・由代は心ここにあらずといった溜息を零した。
 忍び出る熱に、氷のように冴えていたガラス窓が、そこだけ霧に閉ざされたように白く濁る。
 恋は盲目――とはよく言ったもので。日、一日と近付いてくる所謂「ホワイトデー」を目前に、由代の思考は平静さを失い始めていた――勿論、外見上にそれが現れることはないのだが。
 一輪、また、一輪。
 庭に根を下ろす河津桜の花が、その数を増す。
 ちらりちらりと、薄紅が顔を覗かせ始めたのは確か一月ほど前。つまり、彼女――高柳・月子がこの家を訪れ得意の和食と、それからチョコレートケーキを作ってくれたあの頃。
 神が起こした奇跡のような、雪が舞い降りたあの日、ひょっとするとこの桜は咲き始めたのかもしれない。
「いかんいかん、現実逃避をしている場合じゃなかった」
 正しくは、甘く胸を疼かせる記憶に浸っている場合ではない――なのだが。
 プランは決めてある。
 自宅からさほど遠くない場所にあるお気に入りのフレンチレストラン、そこでの食事に彼女を招くのだ。どことなく和のテイストを盛り込んだ料理は、きっと彼女を喜ばせてくれることだろう。
 はにかむように頬を桜色に染める月子の様子を思い浮かべ、由代の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 二人並んで空から落ちてくる白い翼の欠片達を眺めた日、強く握り返された手へと視線を落とす。
 どうしても物憂げな方向に頭が走ってしまうのは、ここ最近ずっと彼女に会えていないから。仕事の一つや二つに追われ、目まぐるしい日々を送らなければいけないなんてことは大人にとっては当たり前のことで。それを素直に『寂しい』と形容するには躊躇いを感じてしまうのも、これまた大人ならではの簡単には素直になれない複雑さ。
 けれど、寂しいものは寂しいのだから仕方ない。そのせいで仕事が手につかなくなっているのだから、まさに本末転倒――いや、悪循環。
 カチコチと、机の端の専用スタンドで時を刻み続ける懐中時計。静かにそれに手を伸ばし、由代は想いを決したように瞳を伏せた。
 暫し孤独な夜闇よりなお暗い世界に身を浸し、ゆるりと瞼を押し上げる。
 目線の先にあるのは、ありふれた受話器。
 生きてきた時間相応の皺が刻まれた口元が、更に曰くありげな曲線を描く。それは満月のような見事な半円。
 これまで幾度となくダイヤルした番号を、懐中時計を握り締めたままの指でプッシュする。
 事務的な機械音が数回。
 そして――繋がる。
「あぁ、もしもし? 僕だけど――そう、由代です。今度の14日、時間空いてるかな? バレンタインの心づくしの料理のお礼にお誘いしたい所があるんだけれど」


「わぁ……綺麗ですね」
 日本人形のようにきっちりと切り揃えられた美しい黒髪が、両手を合わせて微笑む月子の動きにあわせてサラリと踊る。
 怪異などの物事には全く動じない月子だが、それはそれ、これはこれ。
 美しいものや、可愛らしいものには当然のように表情が緩み出す。
 3月14日。
 一月前ほどではないものの、どこか世間が浮き立つこの日の夜。月子は由代に誘われ、東京郊外にひっそりと隠れ家的に居を構えたフレンチレストランにいた。
 電話で連絡を受けた時、フレンチだと聞いていたので、出かけるときに洋装にすべきかさんざん迷った。結局気持ちが落ち着くという理由からか、今の彼女の身を包むのは落ち着いた緑の色無地に桜色の羽織。
 いかにも春めいた色合いの月子に、開口一番由代が告げた言葉は「春が僕のところにだけやってきてくれたようだね」と甘い笑顔添えで。
 本人に含んだ意図があるのならば、それはそれでかわしようもあるのだろうが、それがないのが見て取れるのである種心臓によくない。
 おまけに今日の由代の格好は、黒の三つ揃いと言ったきっちりとした正装。円熟した魅力がそこはかとなく漂い、月子の落ち着きを奪っていく。
 絵に描いたように美しい料理や、物腰柔らかなスタッフの給仕に感心しつつも、そわそわとどこか心が定まらない。
「どうかな? 気に入ってもらえただろうか」
 メインディッシュは近海物らしい平目のソテー。抹茶と梅肉を使った2種類のソースで彩られ、さながら皿の上にも小さき春といった風情。
「えぇ、とっても。由代さんのお家の近くにこんな素敵なお店があるなんて、ちょっとズルイですね」
「そういうきみも素敵な和菓子屋さんにお勤めじゃないかい」
「それとこれは違うんです。もう、こんなお料理で由代さんの舌がますます肥えちゃったら、あたしは困る一方なんですから」
 月子は拗ねて頬を膨らませてみせるが、それも長続きはしない。どちらともなく小さく吹き出し、クスクス笑いが店内に流れるヒーリング系の音楽に乗って流れる。
 傍から見れば、他愛のない睦み言。
 しかし当人たちは一向に気にした風ではないから、微笑ましいことこの上ない。
 まさか給仕係がそんな事を思っているとは露知らず、由代と月子は美食に舌鼓を打ちつつ、会話に花を咲かせて穏やかな時間を過ごす。
 この後に、もう一つ大きなイベントが控えているのは、由代のみが知っている事。
「あら、これって空豆?」
「そうでございます。すり潰したものと豆乳でアイスクリームに仕立ててみたのですが、お口に合いましたでしょうか?」
「とっても。春らしくて美味しいわ」
 食後に運ばれてきたのは薄緑色のアイスクリーム。さっそくパクリと口に放り込んだ月子は、皿を運んできたスタッフと話し込む。
 お菓子は月子の専門分野だ、頬張ったら尋ねずにはいられなくなったのだろう。
 新鮮な出会いに目を輝かせる月子に、お客様に喜んで貰えた事に嬉しさを隠さないスタッフ。そんな二人のやり取りを瞳を細めて眺めていた由代は、小さく身じろいだ。
 月子に気取られぬよう、極小さなアクションで。胸のうちポケットにしまってある懐中時計でさり気なく時間を確認する。
 せっかくの二人でいられる時間、時計を気にするそぶりは相手の気分を害する恐れがある――が、あまり遅くなってもいけない。
 口の中に微かに残る爽やかな甘さをブラックコーヒーで漱ぎ、由代はあくまでもさり気なく切り出した。
「ホワイトデーのお返しをどうしようか、ずっと考えていたのだけれど……自宅前の桜が早くも満開でね。きみに見せたいんだけれど、どうかな?」
「え? 桜?」
 料理の話にすっかり夢中になってしまっていた月子は、『桜』という言葉に現に呼び戻された。
 軽く頭を下げて場を辞す給仕係に会釈を送ると、飛び込んできたのはテーブルの上でゆるりと手を組み柔らかな笑みを湛えて自分を見つめている男の姿。
 ドクンっと心臓が一際高く跳ねる。
 見慣れているはずなのに、今日はどうしてだか違ったように見える――気がする。さほど気に留めないようにしているつもりなのだが、今日は「ホワイトデー」という「バレンタインデー」のお返しに当たる日と意識してしまっているのだろうか。
「そう、桜。河津桜と言ってね、名前がついてまだ30年ちょっとという品種なんだが、今がちょうど見頃なんだよ」
「かわづ……さくら?」
「そう、河津桜。原木は冬枯れの雑草の中で芽吹いていたところを見つけられたそうだ。寂しいモノクロの世界にぽつんと咲いた優しい色。自分を見つけて欲しかったのかな、なんて思うとちょっと一途でロマンティックだと思わないかい?」
「そうですね」
 ポッと月子の頬に朱が走る。
 慈しむような視線を向けられたまま、ロマンティックなどと語られたからか、走り出す鼓動を止めることができない。
 別に自分の事を話しているわけではないのに。自然と心を連れて行かれてしまうのは、由代の言葉が巧みなからか、それとも……
「で、どうする?」
「ぜひ喜んで。一足先に桜を堪能できるなんて貴重だもの」
 ついっと自分の髪を一房手持ち無沙汰に弄びながら、月子は由代からの誘いを受け取る。
「それは良かった。相変わらず手入れはしてないけれど、それも自然のままでってことで」
「あんな広いお庭、由代さんが手入れしてますって言われたらそれはそれで大変そう」
「良かった、君が理解者で」
 由代の茶化すような言葉に、月子の鼓動も平素に近いものへと落ち着きを取り戻す。
 けれどなぜだか、不思議な予感が彼女の胸を満たし始めていた。


「まぁ、本当に見事な桜!」
 随分と遠くなったエンジン音は、二人がここまで乗ってきたタクシーのもの。
 それさえ過ぎ去ってしまえば、辺り一帯は深い静けさに満たされた。
 時折耳を擽るのは、僅かに春めいた景色を孕み始めた風に揺らされる、常緑樹の葉ずれの音。
 余計な街灯はない。
 辛うじて足元を照らし出しているのは、少し奥に見える明治大正期の和洋入り混じった独特の雰囲気を持つ古びた洋館の玄関先の遠慮がちな灯と、天に浮かぶ月から注がれた銀の光。
「ほら、今の時間ならここから眺めるのが一番美しいんだ」
 つっと由代の手が月子のそれへと伸びる。
 そして意識する間もなく繋がれ、優しく引かれた。
「ほら、見てごらん」
「………!」
 自分が目にした光景に月子は言葉を失う。
 ソメイヨシノよりも少しだけ紅の濃い小さな花たちが、彼女の視界を覆いつくさんばかりに舞い踊る。その向こう側に透けて見えるのは、真円に近い大きな月。
 夜の闇に浮かび上がったその姿は、まさに絶景と呼ぶに相応しく。あまりの美しさに、月子はただただ魅入られたようにその姿を仰ぎ見る。
 だから気付かなかった。いつの間にか由代の手が離れてしまっていたことに。
 そして彼が、何か意を決したように自分に向き直ったことにも。
「僕はこうして毎年、きみと一緒に桜を見たい」
 呟きは唐突に思えた。
 はっと驚いたように、月子の視線が由代へ向かう。
「……この桜が散って季節が巡る間も、僕の傍らに居てくれないだろうか?」
 声の色はとても穏やかで、そしてまるで彼女をダンスに誘うかのように優雅に由代の手が月子の前へ差し出される。
 ドキリと再び月子の胸の内が高鳴った。
 由代の言わんとしていることが分からぬはずがない。
 途端に何だか恥ずかしくなり、夜風に遊び乱れてしまっただろう髪を左手で押さえつけてみる。それでも鼓動は収まらず、それどころか頬一杯に熱が広がっていくのを感じた。
 暗くて良かった。きっと今のあたしは茹でたタコのようになっているに違いない。
「大丈夫。きみはいつだって綺麗だ。この桜のように所作の一つ一つは可憐でありながら、一人の女性となった時には圧倒的な存在感で僕の胸の中を満たす」
「由代さんったら。それは言いすぎです」
 唇を小さく尖らせ、月子はそう言いながら、自分に向けられている由代の手を眺める。
 さきほど自分の手を引いた手。
 ちょうど一月前、握り返したその手。
 ドクンドクンと全身が心臓になったように感じる鼓動。それは自分のものなのか、それとも由代のものなのか。
「……駄目、かな?」
「駄目なわけ――ないですね」
 今度は自分から。上からそっと由代の手に、月子は指を絡めた。
「由代さんがあたしを必要としてくれるなら、あたしはずっと一緒にいます……由代さんが好き」
 月子の言葉に、由代が思わず息を呑む。
 望んでいた結果、けれどそれが必ず与えられるものだという確証はどこにもなく。ひたすら平静を装っていたものの、由代だって相当に緊張していたのだ。
 見上げた由代の表情に、みるみる広がる安堵と喜びの色。愛おしさが全身から溢れてくる気配に、月子も鮮やかで華やかな微笑を返す。
「あぁ……良かった。フラれてしまうかと思ったよ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「いや、本当に緊張したんだ」
「それはあたしだっておんなじです。由代さんったら突然なんですもん」


 あの日から、2月余りの時間が過ぎていた。
 由代の家の河津桜はもちろんのこと、ソメイヨシノもすっかり青々とした葉を茂らせている。
 キッチンから見える由代の庭は、今まさに新緑に伸びやかな季節。雨の日はまだ肌寒さを感じるものの、その翌日には確かな夏の足音が聞こえる。
「由代さん、ここの本はこっちにしまってもいいですか?」
「それなら構わないよ。あぁ、でも無闇に触ると危ないから……」
「任せてください。あたし、この手のことには強いんです」
 麗らかな日差しの午後、開け放たれた窓の内側から由代と月子の楽しげな声が響いていた。
 勤め先の定休日を利用して由代宅を訪れた月子、昼食後に何を考えたのか大掃除を開始したのだ。
 様々な本が積み上げられた室内が、てきぱきと動く月子の歩いた後は、驚くほど快適な空間へと生まれ変わっていく。
 別にあたしの居場所を作ってしまおうって考えてるわけじゃないけれど。
 割烹着に三角巾と見事に掃除スタイルに身を包んだ月子は、言葉では表現しにくい幸福感に満たされながら叩きを振るう。
 勿論、彼女の後姿を目を細めて見つめる由代の顔には、これまた形容しがたい微笑。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。捨てちゃったりはしませんから」
「いやそんな事は思ってないけど。ただ幸せだなぁって」
「……そういう照れるような事を言う暇があったら、由代さんも自分のお部屋を片付けちゃってください」
 惚気ともとれる由代の言葉に、月子の耳まで朱に染まる。けれどそれを口にしたらますます怒られそうで、由代は彼女の言葉に従うべくくるりと踵を返した。
 ふっと。
 視界に飛び込んできたのは河津桜。
「そういえば……あの桜、きみがバレンタインデーで料理を作りに来てくれた頃から花をつけ始めたんだよ」
「はい?」
 脈絡もなく飛んだ話に、何事かと月子が振り返る。
 絡む視線は、優しく甘く。
「あの桜はね一月ほど時間をかけてゆっくりと満開になるんだ。ゆっくりと、ゆっくりと幸せに向かって歩いていくように」
「!」
「来年は、最初の一輪からきみと数えられたらいいな」
 暫し絶句。一度引きかけた頬の熱が再び増していくのを感じながら、月子は恥ずかしげに視線を逸らしながら小さく呟いた。
「来年だけ、じゃなくって。その次の年も、そのまた次の年も、それからずーっと先の年も最初の一花から数えてあげます」
 月子の言葉に、由代が破顔したのは言うまでもない。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2006年04月24日

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