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『逆光 』
守崎・啓斗0554)&守崎・北斗(0568)


■→→□

 草の根元を分けながら、ほたり、ほたり、と。
 漆黒にも似た深紅の滴りが零れ落ちて、土の中に吸い込まれていく。
「・‥…──、は」
 春の声を聞く季節に移ろったとは云え、夜明け前ともなれば空気は澄み渡り、さまよう者の体温を容赦なく奪っていく。
 東の空がうっすらと白みかけている。4時を少し回った頃合いだろうかと、少年──守崎啓斗は荒く細い息を繰り返しながらぼんやりと思った。さらりとした焦げ茶色の髪に朝霧がまとわりつき、それもまた、彼の疲弊を深いものとさせる。
 面立ちそのものはまだ非道く幼いのに、表情ばかりが成長を先走っていた。深く物事を考えすぎる子供の面相である。
「──ただ今、戻りました……」
 擦れて小さな囁きとなった帰宅の声音すらが、幼い。
 そして幼い少年の言葉に、応える者はいなかった。

 数刻前。
 啓斗は己に課せられた『任務』遂行のため、都下を離れふたつばかり向こうにある県に足を運んでいた。
 家督を継いだのはつい数ヶ月前である。それが楽しいか否かと問われたならば、ただ一言、「愚問」とだけ答えただろう。苦しいか、との問いにも、同じく答えたに違いない。
 父の突然の死を境に、彼の生活はがらりと変わってしまった──正確に記すならば、それまで以上に、と付記するのが正しい。
 忍としての師でもあった自分の実父が、己の眼前で弾け、千切れ飛んだ光景は、まだ彼の眼の裏にありありと焼き付いていた。
 身を挺して自分を守った父。
 跡には欠片も存在せず、千々となって土に還った父。
『それ』を、自分は何年経ようと──この眼をたとえ抉り毟ったとしても、決して忘れることはないだろう。そう悟った時、幼い長男は父の跡目を継ぐことを覚悟したのだった。
 ──家の手伝いをしています。アンサツギョウ、です。
 学校で教師に、授業中の居眠りを窘められたら、そう云わなければいけないのかと。少年は冷徹なりにそれを懸念した。
 だが、懸念はそのまま、杞憂に終わることになりそうだった。
 跡目を継いだばかりの若造、否、少年が頭領であったとしても、その腕が確かならば、依頼は絶えぬ。
 依頼が絶えぬならば、そもそも、学校に行くことそのものが、減ってきていたからだった。

 自分の帰宅の言葉に、応える者がいない。そんな当然の事実が、啓斗の口許を自嘲気味に引き上げさせた。
 父は、もう現世に存在しない。
 遺体も残らず果てた今となっては、そもそもが存在していたのかどうかすらがあやしい──流石にそれはないだろう。こうして自分が生まれ落ち、彼の跡目を継いでいると云う事実が、父の実在した過去を物語っているのだから。
 そして、自分と等しく父の血を継ぎ、この家で自分を待っている筈の半身──双子の弟、北斗。
 共に暮らす唯一の血族の気配が家内に存在せぬことに関しても、今の啓斗は心配こそすれど、不審がることもなくなっている。
 
 弟は、自分が彼に隠し事をしていることを、知っている。

「……血……零さないように──しなければ」
 玄関口に足を踏み入れた瞬間、得体の知れない感情が込み上げてきたから力が抜けた。
 散らばる2人分の靴をよけながら冷たいコンクリートに腰を下ろしたら、そこに根が張ってしまったのだった。
 帰宅して脱力することを、俗に『安堵』と云う。
 幼い頃から忍としての訓練に明け暮れ、今し方こうして半死半生になりながらも立派に任務を遂行する小さな暗殺者はそれを知らない。
 左の脇腹の部分がざっくりと切れてしまった制服の上を脱ぎ、とくとくと静かに深紅を滴らせている右腿に宛てがう。そのまま、老人のように腰を曲げたいびつな姿勢で、啓斗は自分の部屋へと不規則な歩を進めていく。
 ──どこを遊び歩いているのだろうか、北斗は。

 いつから、自分たちの心は、離れてしまったのだろうか。

 8センチ。
 そんな言葉が、胸中を掠めた。

 背丈の比べあいをしていたのは、何歳くらいまでのことだったろうか。
 高校に入学してからはしていない。中学のころはどうだったろう──小学生だったころは、何かと云っては背丈を比べあい、どちらが1ミリ高いだの、低いだのと言い争っては、泣かせたり、泣かされたりしたものだと啓斗は記憶を反芻した。
 その身長の差が、5ミリになり、1センチになり──いつしか言い争いはなりをひそめて、後は開くがままに任せ始めるようになっていったのだ。それが、いつのころだったのか、思い出せない。
 自分と北斗の間には、8センチ分の隔てがある。
 手に取るように判りあっていた心同志の呼応が今はない。
 ──8センチ。
 ふたりの身長の差が、1センチ離れていくごとに、ふたりの心の間の扉が1センチずつ狭まっていった。
 そして、8センチ。
 ふたりの間の心の扉は、パタンと音を立てて、閉まったのだ。
「……空が」
 明るくなっていく。
 失血が非道い。
 玄関が開いて、また閉まる音がする。
 出迎える余裕も、学校に行く余力も、今は、ない。

 青白く顔を失血させたまま、啓斗は自分の部屋の壁に凭れ、幾許かの浅い眠りに引かれていく。

□←←■

「・‥…──っぉお」
 非道く鬱屈した気持ちで、乱暴に玄関の扉を開いたら、そこに小さな血溜まりが出来ていたので少しだけびっくりした。
 出来れば踏みつけたくない。新調したばかりのブランドスニーカーだった。靴底がやたら厚くて、中に空気が詰まっているらしい。それで足の裏にかかる負担を軽減させてくれるとか云うスポーツタイプのスニーカーだったが、そんなうんちくのほとんどはクラスメイトの受け入りだった。
 彼は高校生活に何の問題もなく順応している。
 兄とは辛うじて見てくれだけに共通点があった。
 弟の、北斗である。啓斗よりも8センチばかり背が高い。
「──ッ自分で汚したモンは、自分で片づけろっつの」
 啓斗は良くそんな言葉で北斗を叱りつける。父が亡くなって、この家にふたりきりの生活になってからは、口煩さに拍車がかかっていた。
 血の泉はべったりとした濃度のまま、尻の形でコンクリートにへばりついている。兄の帰宅からは何時間も経過していないのだろう、かなりの出血と見て取れるも丁寧にローファーだけは揃えて脱いであった。
 同じ日、同じ母の肚から産まれ落ち、同じ修業と同じ躾けを父から受けながらも、自分よりも秀でた能力を示した兄、啓斗。
 そんな啓斗らしさを目の当たりにした瞬間、得体の知れない感情が込み上げてきたから自分は乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てた。
 自分とは似て非なる者の優秀に心を荒立たせることを、俗に『苛立ち』と云う。
 そのままの勢いで、兄の品行方正に苛立ちを覚える思春期の弟は、兄の部屋の隣に位置する自分の部屋へと足音も高らかに篭り行った。

 もっと子供だったころ、小さくて、見た目が今よりもずっとそっくりだった昔のころは、啓斗の考えていることは何でも感じ通すことができた。
 例えば夜。トイレに行きたくて、お化けが怖くて行けなくて、布団の中でじっとしている時。
 例えば朝。お腹が痛いのをぐっと堪えて、無理にでも学校に行こうとしている時。
 昼、学校から抜け出して自分が買い食いをしようとしている時の、怒った啓斗の雰囲気とか──。
 双子のなせる技だったのか、ただふたりの間に通じるものがあったのか。
 今となってはよく思い出せずにいるのは、そんな不思議な感応能力が、ある日気付いた時にはかき消えてしまっていたからだった。
 そのきっかけが、北斗には思い出せないでいる。
「ムカツクんだよ……」
 父親の手ひどい訓練に泣かされて、地べたに腹ばいになったまま啓斗の背中に手を伸ばした。大好きな兄だった。ケンカも人並みの兄弟程度に繰り返しはしたが、彼が戸惑うときに背中を押すのは自分だったし、自分が泣いた時に助けるのは彼、だったのだ。
 彼はあの日、自分が求めていた助けの手に、振り返ることをしなかった。
 あの時はまだ、啓斗に自分の心の声は届いていたはずだった。
 互いが互いの心を塞いだのは、そのあとのことだ。
 
 啓斗が自分に隠し事をしていると感づいたころには既に、ふたりの声は互いの胸には響かないようになっていたから。
 
「……──」
 啓斗の靴は玄関に置いてあったから、おそらく彼は今、隣の部屋にいるのだろう。北斗は想像する。
 いつもは何があっても、朝帰りを窘めにくるはずの彼が来ない。いくら失血しているとは云っても、そのまま死んでしまうような兄ではないだろう。だとしたらば、眠っているのだろうか。
 眼を閉じ、口を塞ぎ──神経を研ぎ澄ます。
 気配がある。壁際、扉の直ぐ、横。
 北斗は自分の部屋の壁に無言のまま向きあい、数十センチ向こうでぐったりと弛緩している啓斗の輪郭を脳裏に追った。
 ──何か云えよ。
 ──云いたいこと、あるだろ。
 自分の胸中で呟く。そして、駄目だ、と思う。こんな方法では、啓斗の心と感応することはできない。
 ──したいと願って、いるのだろうか自分は。
 ──彼と、判り合う事を。
 今度は自分に向けて、そう問いただしてみる。拒否反応にも似た迅速さで、心がノー、と応える。啓斗は心を閉ざした。父が死んだ、啓斗が家督を継いだ。彼は何も言葉を紡がない、ふたりの間で判りあうことのできる言葉は何も。
 ──紡いで欲しいのか。
 ──判り合いたいのか、自分は兄と、啓斗、と。
「…………ッ、だよ」
 イエス。
 抗えないのは、遺伝子がそれを知ってるからだ。
 ふたりが共に在った頃の記憶を、遺伝子が知ったまま北斗の中に生きているからだ。
 眼を閉じたまま、大きく息を吸い込み──そっと吐き出した。
 思い出せ。
 背負うものも、誇りも、全てが平等だった同胞の頃の彼との記憶を。
「──…‥・啓斗」

 見えた。
 閉じ切ってしまったと思い込んでいた、ふたりの間の扉の向こうが。

 啓斗は眠っている(大丈夫、やっぱれそれくらいで死ぬほど柔な兄じゃない)。
 痩せたなと、そう胸を過ったとき、ツンと胸の奥が熱くなるのを感じた気がした。
 啓斗の心は閉じられたまま、幾重にも頑丈な鎖を巻き付けられているかのように堅く扉を縛りつけられている。『それ』をさせたのは、自分なのだろうか。
 彼がひとりして背負おうとしているものは何だろうか。
 彼は覚えているだろうか、自分と心を繋ぐことを。
 互いにひとつのものだった頃の、その記憶を。

「──どう、すれば良いのかなんて…‥・今さら、わっかんねえよ……」
 呟く。壁に向かって、その向こうで浅い眠りの中に漂う啓斗に向かって。
 薄いカーテンごしに室内に降り注ぐ、真っ白な朝の光りが啓斗の表情を擦れさせてしまっていた。
 白磁のように照らされた兄の顔を、今一度この眼に焼き付けようと北斗は眼を凝らしたが、青白く透けた横顔はそんな朝の逆光で良く見えないのだった。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【0554/守崎・啓斗(もりさき・けいと)/男性/17歳/高校生(忍)】
【0568/守崎・北斗(もりさき・ほくと)/男性/17歳/高校生(忍)】
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森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年04月14日

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