▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『桜色の夜半(よわ)に 』
黒澤・早百合2098)&藍原・和馬(1533)




 ――随分と、まあ。
「荘厳で幻想的な建物ですこと……」
「本当にごっそりと壊されちまったんだなぁ……」
 ほぼ同時に吐きだされた、だがしかしまったく着眼点の違うそれぞれの感嘆に、それぞれが互いの顔をつと見合わせてしまった。
 つつましやかに青を息吹きはじめた芝生の向こうに、夜の青黒い霧に包まれてうすぼんやりと洋風の建造物が浮かび上がっている。
「あら、ここにはあなた、前にも来たことが?」
「あー…‥・まあ、何回か、は。それよか早く、中入りましょ、中」
 ふうん。
 納得したような、そうでないような──曖昧な返答に咽喉を唸らせながら、黒澤早百合は後ろから両肩を押す藍原和馬の手に従う。
 早百合が感嘆の声をあげたのは、夜霧に包まれた洋館があまりにも美しかったからだ。
 それに相対して和馬があげた感嘆は、自分の思い出の──今となっては、それが何年前、何十年前のことだったか上手には思い出せない──中にあったはずの、荘厳とはまた違った、美しい和館の景観が損なわれていたからだった。
 ごっそりとえぐりとられたような、もともと和館のおおかたなど存在すらしなかったとでも云うような、あっけない消失。
 その思いを今、早百合に説いても、さほどの充足は得られないだろうと和馬は判断した。
 そもそも、常に行き当たりばったりな早百合との関係の上に、何をどう説明すれば、自分の複雑な思いを理解してもらえるだろうと。
「あんっ、ヒールの踵が芝にっ」
「ザスッ、ザスッて云ってマスな。確かに」
 そうして、滑稽や道化を演じることの多い男である。彼にとって真摯であるべきものと、そうでないものの境目はとても明確で──それは決して、対象への好き嫌いに関係するものではない──、少なくとも今、自分が肩を押している女に対しては、真摯さは必要ないと考えていた。
 だから、ぞんざいさを演出しながら、ふたり洋館のほうへと足を運んでいく。
「珍しいじゃないっすァ、黒澤サンがそんな、及び腰になるだなんてェ」
「ッ、べ、別にっ……ってイヤ、芝生を踏みつけるぶちぶちした感触がっ」
「ハイハイ。撞球室でしょ? あっちっすよ、あっち」
 ぞんざいさ。
 無骨さ。
 そして、長い時間の流れの中に、努めて押し隠してきた、繊細さ。
 早百合を押しながら、かつて和館があった方角へと、和馬が遠い眼差しを送ったことを彼女は知らない。
 
 東京都は台東区、池ノ端に今も現存している豪邸、旧・岩崎邸。
 旧・岩崎邸庭園の中に位置し、建物そのものは洋館、和館、そして撞球室から成っている。
 三菱財閥の創始家である岩崎一家が住まった屋敷で、3年ほど前から一般に向けて公開を始めた。
 17世紀のイギリスに流行ったジャコビアン様式と、ルネッサンスやイスラムなどの建築様式を折衷した細かな装飾を誇る洋館が公開の売りではあるが、岩崎一家が主に居住していた和館のほうは戦後、アメリカ軍GHQの介入によってほぼ全てが解体されてしまった。14部屋あった和館のうち、残存しているのはたった1部屋のみである。
 時間の経過と共にうつろうものは、誰にも、何にも止められない。
 そういうものを、見続けてきた男だったのだった。
 藍原和馬と云う男は。



 もとは、早百合の許に届けられた、1通の封書から始まった。
 彼女が代表として取り締まっている『(株)黒澤人材派遣』の代表取締役──無論、早百合のことである──宛てに、コンサートのペアチケットが届けられたのだ。

   深夜コンサート 招待ペアチケット
   場所 台東区池ノ端 旧・岩崎邸敷地内 撞球室

 封筒そのものからも、内包されていた招待状やチケットからも、幽かな──ごく幽かな霊気が感じ取れた。
 差出人の名前はない。
「妙な残り香、コンサート……しかも、ペアチケット。差出人の当てはなし、ついでに会場が不穏、と……」
 台東区、旧・岩崎邸、撞球室──。
 少し前から、岩崎邸が一般公開され始めていたことは早百合も知っていた。
 が、撞球室だけは外観のみの公開で、室内は立ち入り禁止区域だった筈である。
 撞球とはビリヤードの和訳だが、明治時代に建てた家の中にビリヤード場を作るとは、岩崎家の人々はなかなかにハイカラーな人々だったようである。
 と云うことは、この招待状の送り主は、岩崎家の誰かなのだろうか。
「──あいにく、三菱財閥のヒトに、そんな粋なはからいをしてくれるような知り合いはいない、し……」
 悩んでみる。
 いっちょまえに。
 だが、さすが、とも云うべきだったろうか。
 送り主の謎などものの数分のうちに忘却し、彼女は『誘う相手』のことに関しての苦悩をしていたのだった。
 封書が漂わせている霊気は、いつかどこかで、『感じた』ことのあるものだったと思う。
 だからこそ、送り主が誰であろうが、立ち入り禁止区域がコンサート会場だろうが、最初から赴く気は満々だったわけである。
 ──あの方をお誘いして、ロマンティックでアバンギャルドで、ちょっぴり大人のデートを、げっと。

 そんな物思いとときめきは、ものの数十分で、見事に打ち砕かれる結果となったのだったが。



「嬉しいでしょ、これだけの美人がこれだけめかしこんでエスコートされてあげてるんだから」
 きわどく開いた胸元から、決して嫌味過ぎない質量でこんもりと盛り上がっているデコルテ。
 それ以上に大きく開いた背中からは、つるりとした質感のなめらかな背筋が露になっていて、時々、和馬は苦虫を噛みつぶしたような、それでいてなんとなくニヤけたような、複雑な表情を繰り返すはめになっていた。
「や……こう、俺にも……俺なりの事情と都合ってモンが……」

 和馬は相変わらず多忙な、アルバイターとしての生活を送っていた。
 ピザの配達、空調設備のメンテナンス作業員、ビル清掃サービスなど──こちらには前例があったので──、数多くのアルバイトを同時期にこなしつづけていきながらも、折り多く遭遇してしまいそうになっていた早百合とは、仮病を使ってでも邂逅を拒み続けて来たというのに。
『あら、いらっしゃい』
 どうしても行かなければならない、メール便の配達だった。
 社長は外出しておりますので──そんな受付嬢の言葉を信じた己がたわけだったと、その数分後に和馬は後悔することになった。
『外出? 今からするところ──ああ。あなた』
 扉の前でくるりと踵を返した時には、すでに首根っこをぐいっと引き捉まれていた。
『あなたで良いわ。いらっしゃい……そして、いらっしゃい』

 そして、伴われたのがこの場所──旧・岩崎邸であった。
「──まさか、『男と女の事情と都合』、じゃないわよね……?」
 早百合に両腕を絡まれるがままにしてあった己の腕が、ビクッ、とはねてしまうのを和馬は止められなかった。
 彼女が擦り寄っている側のレバー──脇腹に、鋭い殺気を感じたからだった。多分、自分は墓穴を掘ったのだ。ここは話の矛先をどこか違う方向に持って行かなくてはならぬ。
「いやいやいや、いやいやいや。と申しますか、なんですか。これだけの美貌と教養を兼ね揃えた黒澤サンっすから。そちらこそ、『男と女の事情と都合』のひとつやふた──ッヴぉフ」
 細く鋭い肘鉄が、和馬の脇腹を深く抉った。それは彼の墓穴を、さらに深いものにしただけだった。
 にっこり、と優雅な微笑みを面持ちにたたえながら、早百合は和馬を見上げて曰う。「口は災いの元、身をもって教えて差し上げてよ?」
 差し上げても何も、口より先に手が出ていた。おそらくは、自分よりも年下であろうと思われる眼前の男に、決して悟られたくはなかったのだ。男が自分の前に現れた半日前、今夜のコンサートに意中の相手を誘い、あっけなく断られていたことを。
 女として、あまりにも柔らかく、幼気な粘膜の感性を持っていた。
 黒澤早百合と云う女は。
 
 冷や汗じみたうすら笑いを浮かべたまま、和馬は撞球室の前まで、1度も言葉を発することができずにいたのだった。



 いくら一般公開用に多少の手が加えられているとはいえ、刻は丑三つに近い。
 漆塗りのつやめいた夜空の下、ふたりは撞球室の扉の前に立ち止まり、互いにその顔を見合わせるはめになっている。
「……撞球室って、ココっすよ? 会場合ってます?」
「の、筈……ちょっと待って」
 撞球室の扉は堅く施錠されており、その向こうに人の気配も感じられない。早百合はハンドバッグの中から招待状の封書を取り出し、改めてコンサート会場とその時間の確認をする。「間違いないわ。確かに、開場には少し早いけれど……旧・岩崎邸の、撞球室って」
 たとえどんなに小規模なものであれど、コンサートというからには、それなりの準備や時間が必要になってくる。演奏者のリハーサルはもちろんのこと、それを含めて『コンサート』といわしめるに値するだけの演出の準備など──弦楽器演奏があるのなら、会場の湿度にも気を遣うことになるだろうし、通常は音楽のために用いられない建造物を使用する場合は、音響演出を理由として建造物そのものに手を加えなければならない場合もあるだろう。
 撞球室の扉のノブを握った和馬の指先には、うっすらと埃がついた。
 雨風に舞った砂塵がこびりつく程度に、このノブには誰も手を触れていなかったということだった。
「──私に大掛かりなイタズラを仕掛けて、無事で済むと思ってる人がいるなんて……」
「まあまあ、もうチョイ調べてみません? イタズラだって決め込むのは、まだちょっと早計すぎだと」
 そんな命知らずが存在するわけない──そんな言葉を呑み込んだかわりに、ひどく堅実な言葉で和馬が早百合をなだめすかした。
 これで、まだ見ぬ招待主の首を、皮1枚で繋いでやることが出来たに違いない。
「扉には鍵が掛かってて、ノブに誰かが触れた痕跡はなかった。撞球室の中にも人の気配なし、ここまではオーケイ?」
「……オッケー」
「でも実際、この時間に、この場所でコンサートを開きますよって招待状は届いたんスよね、黒澤サンとこに。それもオーケイ?」
「オッケー、そのふたつは矛盾してるように感じられるから、私はイタズラだと判断したの」
「矛盾してないと考えるとするならどうっスかね? このふたつを結びつけて、矛盾しないように説明するなら──」
「そんなの、お化けやなんやらじゃあるまいし──…‥・あ」
 霊気だ。
 ハンドバッグの中、この招待状を手にしたときに感じたではないか、淡く纏っていた霊気──いうなれば、『お化けやなんやら』の気配を、だ。
「……来てほしいのね? この中に、この私に」
「かも……? 理由は知らんですけど──、ほら」
 ・‥…ふうわり。
 穏やかな春の風が一陣、辺りの桜の花びらをふるわせた。
 早百合のつぶやきを肯定するかのようにそれは、見上げた黒い空を照らしてはらりと儚くさざめいている。
「気付かなかった……すごい桜だわ。私たち、岩崎庭園の中を歩いて来ていたのね」
「月もないのに明るかったのは、このせいだったんか……」
 噎せ返るほどの濃厚な桜の花の香が、却って視覚を麻痺させていた。桜並木を仰いで瞳を眇めた早百合の横で、和馬が小さな咳払いをする。獣の姿を取らずとも、元来すぐれた──すぐれすぎた五感を持つ彼にとって、いささかこの桜の香は酩酊を誘う。
 その時。
 さわさわと梢を鳴らす桜の靄の中から、ひとひらの桜の花びらがつと離れ──燦々と控えめな光彩を放ちながら、早百合の目の前に戸惑うように舞い落ちた。
 ふたり、知らずそれに目を奪われる。
 花びらは音もなく揺れ、さまよい、早百合のもとを離れてゆらゆらと宙を泳いでいる。
「……イタズラじゃないことが、これではっきりしたみたいで」
 やがて、花びらが舞い降りたのは──旧岩崎邸の、洋館の扉の前である。来賓を招くための表扉ではなく、使用人や家人が主に使ったものだろう小さな勝手口のノブに、ひたり。それは吸い寄せられるように貼り付いて、やがて輝きを失っていく。
「時間外はこちらからどうぞ、っていうことかしら」
「どうだか──、……俺、また手汚すんすか」
 両肩をすくめて見せる早百合を横目に、和馬が、やはり埃に汚れたドアノブを──なんとなく、桜の花びらには触れてはいけない気がして、3本の指先だけで──ゆっくりと回す。

 果たして、それはまるで使い込まれたもののように、ゆっくりと、とてもなめらかに、手前に開いた。



 ふたり、扉の隙間から洋館の中に滑り込み、後ろ手に戸を締めてしまえば、完全なる暗闇が周囲に満たされることとなった。
「……目が慣れるとか悠長なことはいってられない感じ」
「──」
 互いの姿のりんかくすら追えない闇の中、自分の傍らでがさごそと気配が鳴る。和馬がスーツのポケットを漁っている音だろうか。しばらくすると、小さな摩擦音と共に、ぼんやりと見慣れた顔が暖色に浮かび上がった。
「あーらこんなっトコロにジッポーが」
 数年前にオンエアーされていたコマーシャルソングを替え歌にしたものだった。
 一瞬、不意の灯火に目を細めたものの、底知れぬ不安を掻き立てる闇の呪縛から逃れられたことは喜ばしい。「落して邸を燃やさないで頂戴ね、洒落にならない」
 だがしかし、火を灯したままのジッポー・ライターを、長時間、指先につまんでいることは難しい。勝手口から続く、新たな手がかりを探し出すための徘徊中、和馬は何度か火を消して、スーツの膝に金属部分をこすりつけることでジッポーの温度を冷まさなければならなかった。
 そうしないと、本当に手からジッポーを取り落として、床を燃やす羽目になりかねなかったのである。
 そしてそのたびに、ほの明かりと、暗闇が、交互にふたりの間に満ちては引いていく。
「何を探せば良いと思う……? 撞球室の鍵?」
「いや、そういうものがあるんだとしたら、俺らもうとっくに撞球室に入れるようにセッティングされてると思うんスよね……って熱いから」
 最後の言葉が独白じみて、和馬がハ、と息を吐き出した。幾度目かの暗闇である。金属と布地の擦れる音を耳にしながら、早百合は最後に浮かび上がった視界を思い起こし、今現在の闇の向こうに何が存在しているのかを再把握しようとしている。
 左手に暖炉。中央に大理石の低いテーブルがあって、それを3方向から囲むようにえんじ色のソファが置かれていた。いかにも、家族や来賓が団らんをするために作られた広がりであった。
 暖炉の右は? 目を閉じてみる。
 実際には、濃密な闇の中と瞼の裏に、視覚的な差違はなかった。が、それはある意味、儀式のようなものでもある。人は何かを思い起こす時や思案する時、目を眇めたり、閉じたりすることがある。
 見落としはないか。
「そうよね、鍵があるなら開けて置きなさいって感じ。──ということは、」
 暖炉、テーブル、ソファ。
「招待主は鍵を持っていない」
 鍵じゃない。きっともっと、ずっとわかりやすいものだ。
「もしくは──使えない」
「何らかの理由で」
「例えば……」
「実体がない」
「使える場所にいけない」
「招待状は送れるのに?」
「阻まれてるのよ。出来ることと出来ないことがあるの」
「ということは、行ける場所と行けない場所がある」
「行きたいのはどこ?」
「──、でしょ」
 カシャン、と金属が擦れて、眼前でジッポーの炎が灯された。
 それを握りしめている和馬の、もう片方の手が彼の顔の横で天井を──否、『上』を、指している。
「……あなたの後ろに扉があるわ。暖炉の横、多分……鍵は、かかっていない」
 団らんの部屋の端に作られた、小さくてしゃれた縁を持つ焦げ茶色の扉。
 炎のゆらめきに陰影が色濃く映し出されて、ドアノブが自分を誘っているかのように、早百合には見えた。
 ビンゴ。
 ライターの明かりに照らされたふたりの面持ちが、にっ、と目を見合わせて僅かに笑んだ。
 


 早百合が見つけ出した小さな扉には、やはり施錠はされていなかったが、それがもともと鍵を持たない扉だったのか、そうではなかったのかまではわからなかった。
 ノブを回せば、やはり音もなくそれは奥に開き、更なる暗闇がしっとりと濡れて露出した肌に絡みついてくる。
「……っカビくせぇ」
「地下道よ、きっと。この中だったら照明をつけても、外からは見えない筈」
 淀みきった黒い空気は、長年ここが外気に晒されていないことを意味している。洋館の中の他の場所とは、明らかに空気の質が違っていた。
「一般公開されていないのは、撞球室だけだわ。だったら……」
「この道が、撞球室に繋がってる──ッてわけっスか」
 和馬の声が、いささか掠れていた。『カビくささ』のせいなのだろうか。早百合も、決して鼻が悪い方ではなかったが──さほどの臭気は感じて取れない。
 くっせぇ、くせえと繰り返す和馬の手からジッポーを受け取り、扉のすぐ横にあった燭台を照らす。ぼろぼろに朽ちた蝋燭に、そっと炎を移してからジッポーの蓋を閉めた。
「はい、ライター有り難う。……あと、これで口でも覆っていて頂戴な、くさいくさいうるさいわ」
 ライターと共に手渡されたのは、白いレースに縁取られた柔らかなハンカチだった。思いきり顔をしかめたまま、目の前で手の平を立てて──スマンこってす、という意図が込められたポーズ──受け取ったライターはするりとポケットの中に、ハンカチは広げて大きな三角に折った。
「すんません、マジ、これ洗って返します──郵送で」
「失礼な子ね。借りたものは相手の顔を見て、手渡しでお返しなさい」
「や、基本的に俺、黒澤サンからは逃走する立場デスんで」
 そんな軽口を叩きあうのは、互いにこの小さな扉を発見できたことを誇りに思っているからだった。燭台に灯した蝋燭の明かりが、改めて互いの姿を目の当たりにさせた安堵からかもしれない。
 和馬は三角を下向きに、まるでこれから強盗か殺人でもおかそうかというようなマスクの形に、後頭部で両端をきゅっと結びつけた──が。
「………………」
「何? 洗ってあるわよ、そのハンカチ」
「しっ──」
 もごり。ハンカチに覆われた和馬の口許が一瞬だけ動き──その上に、人差し指が当てられる。
 それと同じだけの瞬間、『何よ』というような眼差しを彼に送った早百合の視線が、ひたりと止まり──蝋燭の光の届かない通路の向こう、和馬と同じ闇の中に、つ、と向けられた。
 蠢いているのだ。
 闇の中が……否、闇、そのものが。
「耳と鼻、塞ぐと不便っぽい感じくっせーとか女子高生みたいなこといってられない感じっスね」
 己の口許から、ゆっくりとむしり取るように、和馬がハンカチを下にずらしながら呟いた。
「……、今、何考えてる?」
 眼差しは闇の向こうをじっと射るように見つめたままで、早百合が傍らの和馬に問いかける。
「多分……黒澤サンと同じことだと、思います、けど。そんでもって、云えってんならいいますけど」
 しわくちゃに丸めたハンカチは、ジッポーを入れた方とは別のポケットにぎゅっと押し込んだ。
 閉塞感という名の騒音。淀み切った澱のように沈殿したカビの異臭。
 それらに存在感をひた隠すかのように、表裏にある『それ』の、さざめく音。生臭い臭気。
「コンサートの招待主を、ブッ殺しちゃうようなことに」
「……ならないと良いわねぇ……」
 コツン。
 ガツン。
 ふたりの靴の踵の音がほぼ同時に、闇に向けて踏み出された、その合図の音、であった。



 闇、というものは、状態である。
 主には光を遮断された状態を指すが、光そのものを概念として捉えた場合、闇もまた概念となりうる場合がある。
 そして、光を遮ることが可能であるように、闇にもまた、拘束力はない。
 だが、ごく稀に──光を完全に遮断し、概念上での光をも拒み、その上で、闇に拘束力が生じるケースがある。
 ひとは歴史上、さまざまな状況でそこに足を踏み入れ、さまざまな呼称でその闇を呼んできた。
 現代日本で比較的馴染みがあり、さらに最も把握しやすい呼称がある。
「……魔境ね」
「魔境、っすね」
 それは、状態であり、概念であり、そして拘束力を持っている。ある種の有機物や無機質を己に同化させ──無論、魔境に『己』という概念が有るのか否かに関しては疑問が残るところだったが──、己の質量を結果的に増やすことで動的活動を行うモノ、である。
 ひと足ごとに濃密さを増していく『魔境』に、ふたりはその歩幅を違えることなく、近づいていく。
「そんなに……俺らが撞球室に行くのが、気に食わないんか?」
「違うでしょ……そんなヤキモチが焼けるほどには、コレはおつむがよろしくない筈だもの」
 それは、小さな宇宙のようでもある。
 そこに意思を見いだす者も、そうでない者もある。
 ただ、和馬と早百合の靴音が高らかに響く地下道の半ばほどまで行くと、闇は舌なめずりをするかのように小さく震え、ふたりの頬をプレッシャーでちりちりと焦がした。
「気に食わないわ。──誘ってるくせに、怖がってる」
「はっはァ……コレが、黒澤サンに招待状を送ったヤツの挙動を『阻んでる』って事、か」
 黒いドレスの女。
 黒いスーツの男。

 黒は死を意味すると同時に、静寂を司る色彩でもある。
 そのふたつが同時に、同方向へ向けて──木の床を蹴り、同色にして全く異質の闇色へ、舞う。

(見せて、もっと──あなたのことが識りたいのよ、私──)
 細胞と細胞が連なるような形で形成されていた魔境『たち』が(識りたい)、闇から闇へと葬り去られるその刹那、女は自分の心中にあった(あなたのことが)その願望を(見せて)、自分の耳に聴いた気が(もっと)した(もっと──)。

(共に有り続けることが叶わないなら、せめて、最期を。せめて、この手で──)
 細胞と細胞が連なるような形で形成されていた魔境『たち』が(叶わないなら)、闇から闇へと葬り去られる(ならばせめて)その刹那、男は己の心中にあったその願望を(最期を)、己の耳に聴いた(この手で)気がした(この、手で──)。

 魔境は己の状態を打ち砕かれ、己の概念を否定され、その拘束力を失った。
 漸、とも燦、ともつかぬ乾いた音が、密に込められた地下道の空気を裂き、後には『何者か』が去ったあとの微かな残響と、臭気の余韻だけが残されることとなった。
 既に過去のものとなってしまった背後のプレッシャーが、充分にかき消えていくのを感じ取ってから、女は冷徹に眇めていた眼差しをクッと開く。
 指先に絡んでいたプレッシャーの残り香が朽ちて、地面に零れ霧散していくのを見届けてから、男は開いていた手指をグッと握りこめる。
「……見直しちゃった。うだつの上がらないフリーター、ってだけじゃないみたいじゃない?」
「──コチラコソ。恋に恋する乙女ちっくな年増なだけだと思っ──ッヴぉフ」
 眼下で綺麗に弧を描いた、剥き出しの白い腿に一瞬だけ目を奪われた。
 そのなまめかしいふくよかさとは裏腹に、形良く尖った膝頭がみぞおちを抉る。
「口は災いの元」
「──ッもう、学びました……ッ」
 互いが互いに、魔境に己が身を投じ、滅ぼすその一瞬に聴いた、互いの声には言及しない。
 互いはそういう関係ではない。
「位置と方向からして、この階段を昇り詰めた先はコンサート会場じゃないかと思うのだけれど、あなたはどう思う?」
「その通りだと思うッす。黒澤サンのお言葉はいつも正しい、お美しい」
 思えば、互いのことを、互いは何も知り合わないと気付いた。
 互いがそれぞれに、住まうべき場所があり、それぞれに想い人が存在し、それぞれの事情を抱えて生きていることは知っている。
 だがそれは、何もふたりの間柄のみならず、ほぼ万人がそれに等しい認識を持ちあいながら生きているのだろう。
「開演に遅れていなければいいけど──ねえ、今何時だかわかる?」
「階段を昇ったら判るんじゃないスか。行きましょ、後払いの厄払い報酬、聞き逃したら勿体ない」
 次第に近づいてくる扉の向こうからは、招待状が纏っていた仄かなものと同質の、淡い霊気が感じられる。



 施錠はされていない──そんな確信を以てドアノブを回せば、案の定、それは長年使われていなかったとは思えない軽々さで開き、ふわりと桜の花の香が鼻孔を擽った。
「到着、と」
「……どうやら、開演には間に合ったみたいね?」
 早百合の問い掛けに応じるかのように、どこの照明ともつかぬ灯が周囲を包み、撞球室内がうっすらと視界に浮かび上がっていく。
 月夜のような、ほの明かり。
 ふたりがそんな想いを胸に過らせたとき、クン──と。
「見て。……」
 部屋の隅にある、アンティーク調の茶色いピアノの鍵盤が鳴った。

「……ああ、」

 ピアノの伴奏の上に、歌唱部分でセロが鳴っている。
 扉の前に、ふたり並んで佇んだまま──地下道に繋がるその扉は、いつしかひたりと閉じられていた──、うっすらとりんかくを追える奏者たちの姿に見ほれ、桜の香りのする演奏に聞きほれてしまっていた。

 セロの物悲しく、美しい音色は、凛と室内に響き渡っているのに、どこか泣き濡れる男の声のように聴こえた。
 それにそっと寄り添うような形で、ピアノの音色は慈愛に満ちた女の気配を纏っているようにも感じられる。
 覚悟を識った人格は美しく、そして何よりも強い。
 ふたりが未だ図り知らぬことを、奏者であるふたつの人格は識っているのだと思った。

 そして、穏やかな余韻を残したまま、セロが止み、やがてピアノが最後の一音を弾いた後も、ふたりは拍手も、感嘆の声を挙げることも出来ないまま、その場に呆けたように佇んでいた。
 ふたりの奏者たちは──彼らの奏でた音色のせいで、朧げなりんかくが今はそれぞれ男女を象ったものに見える気がする──、そんな和馬と早百合を交互に見つめ、そっと、口を開く。
「いらして、くださいましたね」
「覚えていてくださいましたか、わたくしたちのことを」
 そう声を向けられた早百合は、きょとんとした表情で数度瞬き、首を横に振った。「ごめんなさい。ただ通りすがっただけで霊を祓ってることも、ないわけじゃ……ないみたい、で……」
 うげえ、と和馬が厭そうな声を挙げた。先だって魔境を祓うに当たり、並々ならぬ霊力を持つ女だと感心してはいたが、それほどまでだったとは、と。
「構いませぬ、構いませぬ。こうしてまたお会い出来たことこそ、わたくしたちのよろこび」
「われらはかつて、あなたに祓っていただいた──悪霊であったものの、ふたつです。あなたはわれらの心を、正しい方向へと導いてくださった。それだけに留まらず、今夜こうして……戸口に在った『もの』を、祓ってくださいましたね」
「わたくしたちは、『あれ』のせいで、発つことができずにおりましたゆえ──」
 ふたりの読みは、おおかたの部分で正解だったといえただろう。自分たちの前で今、名演奏を聴かせてくれたふたりの奏者たちは、あの魔境に阻まれ、和馬がいうところの『上』へと上がれずにいたのだった。
「もう、思い残すことは、ありませぬ」
「ええ、もう──、ありませぬ……」
 女──ピアノの前に朧げに浮かび上がっていた方の霊気が、和やかにふわりと揺れ、はにかんだ。「おふたりで、お幸せに……」
「「……は?」」
 と。
 すっとんきょうな声を挙げてしまったのが、現世に留まるほうのふたり──早百合と和馬であった。
「男と女は、添い遂げてこそが真のよろこび」
「あなたさまに、今夜の宴に同伴なさってくださる殿方がいらしたことを知ることができて」
「それが、わたくしたちの──」
 ……ぶ。
 溜まらず、堪えていた和馬の忍耐がふつりと切れた。
「最期の、心残りでございました──」

 わははははははははははははははははははははははははははははははははははは!

 和馬の噴き出し笑いを、一身に受けながら。
「──っ、ちょ、ちょっと、お待ちなさいなッ!」
 自身を導いてくれた現世の女への慈愛と、天上へと向かえることへの至福に満ちた微笑みで。
「最期最期って繰り返して、土壇場で大きな勘違いしたまま成仏しないでッ!」
 ふたつの霊気は、瞬きながら煌めきながら、さらさらと零れるような音を立てて昇華していく。
「お待ちなさいったら、ってちょっとあなたも笑いすぎじゃなくてッ!?」
「無理! 無理! 笑うなとか無理! 自分が成仏させた霊気に、自分が男の心配されてちゃア、どっちが人助けだかわっかんねえ! わははははは!」
 女として、あまりにも柔らかく、幼気な粘膜の感性を持つ魂、黒澤早百合。
 彼女が『あの時』、識りたいと願ったのは、魔境の本質か、愛する男の魂なのか。
「教えて差し上げてよッ! あなたに本当の『災い』を……!」
 面白い女だと、思った。
 もう少し、道化に付き合ってやっても良いのかも知れない──否。
 付き合ってみたい。

 ドスッ。わはははは!
 ガスッ。わははははは、はははははは!!
 真夜中の撞球室から、鈍い撲激音と、若い男の息も絶え絶えな笑い声が響いている。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【2098/黒澤・早百合(くろさわ・さゆり)/女性/29歳/暗殺組織の首領】
【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男性/920歳/フリーター(何でも屋)】
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年04月13日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.