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『春宴の興 』
威伏・神羅4790


 緩やかな傾斜の坂道をずいっと上りゆけば、そこにはひっそりと佇む一軒の料亭が建っている。
 東京の上空を米軍の戦闘機が埋め尽くし、焼夷弾を雨の如くに降り注ぎ、東京を一面の焼け野原に変えていったあの頃の悲劇にも、この料亭はびくりとも揺らぐ事なく建ち続けていたのだという。
 古き良き風情を思わせるその佇まいは、四季折々の花々と緑とに囲まれて、都市の喧騒にも関わらずにゆったりとした時の流れを見せている。

 冬を越えて目を覚ました小川のような青を浮かべた空の下、乳白色の玉砂利を敷き詰めた庭先を、絹糸が弾く浪々とした音色が滑り、広がっていく。
 鼈甲で作られた撥を振るうのは威伏神羅。春の野を織り込んだ鶯色の振袖は、神羅が撥を振るう毎に春風を生み出している。
 井草の香りが漂う畳を敷き詰めた広間は、三方を障子で囲まれている。今、その障子は悉くに開け放たれ、未だ少しばかり肌寒さを覚える涼やかな風が流れ入って来ているのだ。
 神羅の手の中の撥が動きを止めた。韻々と空気を震わせていた音色はゆったりとした余韻を残し、風の中へと融け込んでゆく。
 
 この料亭が建てられたのは元治元年。女将は京都の三条小橋近くで籠屋をやっていたという事だが、尊攘派二十名余りが新撰組により襲撃を受けたその次の月、命からがら江戸へと逃げて来たのだという。
 神羅からすれば、たかだか百五十年。世の中がめまぐるしい変化を見せてきたこの百五十年、神羅はこの料亭に通い、こうして撥を振るってきたのだ。
 料亭が神羅を受け入れ続けてきたのは、一重に、この料亭がおよそ現世の流れに関与される事のない場であるからだろうか。
 百五十年。幕末期の混乱にも侵されず、空襲の地獄にも焼かれずにあったのは、この料亭が人ならぬ者達によって成っているためなのだ。

「おおきに、神羅はん」
 細身の体躯に和服をきちりと纏い、細い糸のような目で笑みを作りながら、女将がすいと頭を下げる。
 差し伸べられたのは硝子の徳利と硝子の猪口。中では吟醸酒が黄金色をゆらりと揺らし、覗き見る神羅の顔を映し込んでいた。
「いつもすまぬ、女将」
 一応の礼儀を述べた後に猪口を口に運ぶ。
 広間は三十畳程の広さを有しているだろうか。手入れのなされた広間の中には、今、両の指で事足りる程度の客人ばかりが首を並べている。
「神羅はんの樂はいつもながらぴぃんとして美しゅうございますなあ」
 女将が述べる賛辞に、客人達が同意を見せた。
「最近はアコーディオンを練習しておるのだが、あれもなかなかに奥が深い。そなた等に聴かせられる腕となったら、また客として集ってくれまいか」
 猪口を戻し、僅かに首を傾げやる。と、それを受けた女将の唇の端がゆるゆると持ち上がった。
「そうどすなぁ、それは此方としても願ってもない事どすなぁ。神羅はん、おきばりやす」
 女将の糸目がすらりと引かれ、どこか妖しげともとれる笑みを浮かべる。
 と、開け放たれた三方の障子ではなく、残る一方――閉じられていた襖がつついと僅かに開かれた。
「女将、予約のお客様がお目見えどす」
 襖の向こうにいるのであろう女の声がしずしずとそう告げる。自然、広間内に居た全ての視線が襖の向こうへと寄せられた。
「いやぁ、いけずな客やわぁ。うちと神羅はんとの時間に水をかけよった」
 女将は袖で口許を覆い隠してクツクツと笑い、やがてついと膝を整えて頭を下げた。
「ちょっとばかり行ってきます」
 そう云い残して襖を後にする女将の衣擦れの音が遠ざかる。
 広間にはしばし静寂が訪れ、庭に敷かれた玉砂利を撫でて吹く風が、静寂を梳いて流れた。
 神羅は広間内で思い思いに杯を空けている客人達――否、同胞とでも喩えようか。彼等の姿を一望した後に、さわさわと風にそよぐ庭の樹木に視線を向けた。
 庭には白木蓮や寒緋桜、山茱萸に芍薬――様々な色彩が緑を飾っている。鼻先をかすめ流れる花の気配もまた、春の風姿を思うに相応しい。
 
 この料亭が建てられてから、百五十年。
 今日のこの集まりは、決して定期的に計画されるものではない。が、同胞達は、時折こうして思い出したように集い、互いに持ち寄る小噺を肴に舌鼓を打つのだ。
 ――――この前に集い寄ったのは、果たして何時頃の事であったか。
 僅かに思案し、神羅はふむと唸りながら空を見上げる。
 長閑に広がる蒼穹は澱みの一つもない薄縹色を湛えている。
 広間では、おそらくは初めて顔を合わせた時から比べ、何ら変わりばえのない面々がさわさわと語りを交わしている。
 風は穏やかに――そしてひどく安穏と、神羅の髪の数筋をふわりさらりと撫ぜていった。
 ――――まあ、よいか。
 小さな息を一つ吐き、神羅は再び撥を手にして目を閉じる。それに気付いた同胞達が、瞬時、ひたりと凪いだ。

 絹糸が爪弾く曲目は元禄風花見踊。江戸の華やかなりし頃の絢爛豪華な花見を唄ったものである。
 酒気に酔った同胞の一人が、神羅の爪弾く音に合わせて唄を披露し始めた。

 寒緋桜の、心持ち色の濃い花びらが数枚、風に乗って舞いを見せる。それはふうわりと蒼穹に向かって舞い上がり、天を大きく果ての無い大河に見立て、その流れに准じて往くのだ。
 
「此処は上野のお山ではあらしまへんえ」
 襖が開き、女将が顔を覗かせた。
「神羅はん、少しだけよろしおすか?」
 女将の糸目が僅かに開かれ、その奥で稲穂色の双眼が幽かな光を帯びている。
 神羅は撥を止めて女将を見据え、ただ一つ、小さな頷きを返した。
「あちらの間のお客が、神羅はんの三味線を聴いてみたいと。まぁ、ひどくごねられよってなあ」
 ため息がてらそう呟いた女将に、神羅は小さな唸り声にも似た言葉を返す。
 覚ってか、女将はさらに続けた。
「まあ、あつかましいお方どしてな。それはできまへんわと申したところで聞くお方ではあらしまへん。……正直、うっとこでも余してしもうてるお客どしてなあ」
 じわりじわりと続ける女将の言葉の節々には、弱り果てたようなため息が含まれている。だが、糸目の奥で覗かせているその面持ちは、言葉とはまた異なる言葉を述べているのだ。
 広間の中の同胞達がさわさわと笑みを零し始める。
 神羅もまた小さな笑みを浮かべ、そうして女将に問うのだ。
「して、その客人とやら、酒はいか程嗜んでおる?」
 訊ねたその言葉の意味を解してか、女将は袖口で口許を覆い、ニマリと頬を歪めた。
「千鳥歩きもままなりまへんやろなあ」
 受けて、神羅もまた同様に頬を歪め上げた。
「ならば、少しばかり悪戯でも仕掛けてやるとするかのう」

 百五十年。
 人ならぬ身である神羅達からすれば、それは決して長くはない歳月だ。――否、ある面では、とてつもなく長い流れとして感じられているのかもしれない。
 ともかくも、この馴染みの同胞達にと女将が特別に用意しているこの広間は、料亭の内でも特に奥まった場所に敷かれてあるのだ。
 神羅は女将が案内していくその後に続き、件の客人が待ち侘びているという『一般客用の』広間を目指す。
 板張りの廊下では料亭で働く者達ともすれ違う。皆一様に、すれ違い様に丁寧な会釈を向けてよこしている。――どの顔も、長く短いこの歳月を共に過ごしてきた面々だ。
 すなわち、この料亭で働く彼等の内の大半が人ならざる者なのだ。
 
 襖の一つを前に、女将の歩みがひたりと止まる。
 その糸目は、今や人ならぬ身――妖ならではといった様相を呈していた。見る者が見れば、廊下に伸びている女将の影が、――神羅の影が、ゆらゆらと揺れつつ嗤う異形のものと見えただろう。
「ごめんやす」
 ついと襖が開かれ、酔いの回った人間達が一度に神羅の顔を見る。

 
 緩やかな傾斜をずいっと上りゆけば、そこにはひっそりと佇む一軒の料亭が建っている。
 何もかもが上質なこの場所は、訪ね来る客人達を一杯のもてなしをもって迎えるのだ。
 ――ただし、一つだけ、気に留めておかねばならぬ事もある。
 この料亭は実に百五十年という歴史を歩んできた老舗ではあるのだが、そこで働く面々もまた、百五十年、一つも変わってはいないのだ。――すなわち、ここの従業員達は、皆、人ならざる者ばかりという事だ。
 むろん、訪れる常連客の中にも、人ならぬ身である面々が混じっている。
 この座敷で遊ぶには、それ相応の礼儀というものを欠いてはならない。欠けば、その客は妖達により、からかい遊ばれるところとなるだろうから。
 それは、文字通り、狐につままれたかのように。
 
 開かれた襖の中に、神羅はすいと歩み寄り、それから間も無く、三味線の音が奏された。
 酒に溺れていた客人達があげた恐怖の声は、三味線の音に合わせた唄声のようでもあったかもしれない。
 調子付いていた彼等が広間の中で何を見、恐怖して腰を抜かせてしまったか。
 それを知るのは、悪戯めいた笑みを浮かべる神羅と女将の二人きりより、他にはいない。 


―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年04月03日

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