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『■はぐくむ息吹■ 』
リラ・サファト1879)&藤野 羽月(1989)



 街に響く歌声はそれまでと変わらない。
 二人はその源であるだろう方角へ瞳を向けてから、お互いへと顔を巡らせて微笑んだ。
 気のせいだろうか、気のせいじゃないといい。弾む声。
 街路であった辺りを歩く足裏の感触がはかつて訪れたそのときよりも強く自分達を受け止めて、儚く細かな砂になって逃れる気配は少なくなっている。
 高く響く歌声を乗せて吹く風は覚えているそれよりも柔らかい。
 何度か訪れる間に雨以外の顔も見せるようになった空は、この日は薄曇のどこかしら脆い温もりを控えめに陽光に乗せて降らせて。

 木々の細い枝先に硬く覗いていた蕾が少しずつ緩み始める。
 綻び様々な花色を葉の緑に添えて人々に知らしめる、そんな季節。

 かねてからの願いを叶える為に、リラ・サファトと藤野羽月の若い夫婦は一つの街を訪れてた。
 梶苺の苗木と、他にも様々な野菜の種だとか、苗だとか。
 揺れる幼い葉に興味を示す仔猫をたしなめながら踏み入った街は、瓦礫の街。


** *** *


 羽月が初めて訪れたときにはただ乾いていた。
 次いで訪れたとき、そしてリラが初めて訪れたときには弱いながら雨が降っていた。
 渇きを満たすように以降は大半を雨に降られていたはずの街は、けれど繰り返し訪れる二人には陽光を与えることが多かった。雨は、二人が訪れるときに限って弱く、またじきにやむ。
 まるで街が迎え入れるような天気の変化はこの日も同様に。


 ざくざくと土を掘り返していく。
 農園でもあったのだろうと思われる場所も荒れていた為に、肥料を用意して土を整えるところから始める必要があった。掘り返し、肥料を混ぜ、状態を見ては新しい土を入れ。深く根を張り育つようにと苗木を預ける土を二人は時間をかけて手入れしていたのだ。
 苗に添える木だとか、園芸の道具だとか、それらを数度に分けて運ぶ度に瓦礫を動かしてきた。
 かつて雨に苦しみ、拒んだが故にまた苦しみ、そして生命の去った街。
 街中の瓦礫を片付けてしまうなんてことは不可能だけれど、可能な限り二人は通い、手を入れて。
「ちょうどいい季節になりました」
「そうだな」
 羽月が掘り広げる穴を、もう少し、と指先で範囲を示しながらリラが微笑む。
 まだ環境が良いとはいえない街だ。
 こまめに世話をするつもりでいても庭先とは違う。
 だから多少の天候の崩れにも耐える力のある苗をと二人で相談して選んだそれらをリラが用意する、その間に羽月は梶苺の苗を置く場所を作っているところ。
 手順は打ち合わせるまでもない。
 二人で育て、手入れしてきた花は自宅でその命を誇っているのだから。
「本当に、緑豊かな街だったんでしょうね」
 水にも恵まれていたのだろうとは見て回った街の造りですぐに知れたことだ。
 けれどそれは過去の話。今はこんなにも哀しい荒れた街になってしまった。
 手を止めて街の中央方向へと視線を向ける妻の、以前より短くなった髪とそれを見上げる仔猫を見て羽月も手を止めると同じように街の中心部へ顔を向ける。
「大丈夫だ、リラさん」
「羽月さん」
「雨が降り、じきに人も戻る。大丈夫だ」
 寂しくはなくなる、と彼が冴えた瞳を向ける先をリラも知っている。
 視線を街から夫へと向けて数度まばたきしてから「そうですね」と微笑んだ。
「お天気も安定してきているみたいですものね」
「ああ――ところで、これぐらいでどうだろうか」
「そうですね。じゃあ苗を」
「運ぼう」
「ありがとうございます」
 頼りない小さな苗木。
 それを羽月が作った穴に置いて根を広げてやる。しっかりと育つようにと丁寧に。
 梶苺。寄り添う少女。優しげな人の背丈程の低木がいつか花を咲かせて実をつける。
 脳裏にその瑞々しい果実の色を思い浮かべながら、知らずリラの口元が綻び慈しむ色が濃くなっていく。羽月はそれを静かに見る。彼の眼差しも穏やかに優しく、リラの揺れる小さな身体を包むように。
「あら」
「混ざりたいらしい」
 小さく鳴きながら前足を踏みしめて苗木の根元を叩く仔猫に笑み零す。
 安定を確かめて、最後にまた土を軽く叩いたのは頑張ってという気持ちから。いや、実際に「頑張って下さいね」と語りかける声は、耳にかろうじて届く程度の音量だ。猫の耳がぱたりとそれを拾って動いた。

 響く歌は途切れることなく街を巡る。
 瓦礫の街。乾いた街。雨に再び濡れる街。
 その街の片隅で、ふたり。
 苗をひとつひとつ、優しい手付きで植えていく。
 種をそれぞれに、慈しむ手付きで土をのせていく。

 いつまでたっても少女めいた印象の指先をリラがふと、止めた。
 妻の仕草をただ気配で察して羽月はちらりと視線を走らせて、けれど道具を片付ける手は休めないままに手際良く。
 昼の軽い食事――まるでピクニックのようだと微笑み交わし膝上に仔猫を寛がせ、土をどうするかだとか、雨の降りがこうだから水はけがだとか、植えた苗を眺めながら話していたのはつい先程までのこと。
 そのときにも歌は街の異なる方向から聞こえていて。
『羽月さん』
 ふわふわとどこかリラの髪を思わせる動きで立ち上る湯気を、鼻先に触れながら両の手で包み込んでいた羽月が身体を向ける。絡みそうな繊細な髪はいつだって綺麗に梳られていて、その花色を揺らしてリラは手入れしたばかりの土を見遣っていた。
 ライラックの、同色の髪の下から覗く瞳。
『私、ずっと何かを育ててみたかったんです』
 今もですけど、と続くのだろうなとは彼女の眼差しや表情というよりも、普段の植物や仔猫に対する態度から自然と考えたことだ。言葉の先を待ちかけた羽月は、リラが胸中で何かを思っていて結果的に先の言葉が溢れたのだと察した。「そうか」と頷くに留めると手にした飲み物を空けて片手で持ち直す。
『リラさんに育てられるなら、幸せだろうな』
『そうでしょうか』
『ああ。とても、幸せなはずだ』
 空けた片手で傍らの細い指と手の平を控えめに握り込むと、半ば覗き込みながら語りかけた羽月にリラがはにかんだ顔を傾けた。
 羽月さんも一緒にですよ、と笑うから、僅かに耳が熱く感じられながらもしっかりと頷いて。
 そんな。
 そんな遣り取りのすぐ後だったから。
「お花を、育てる事が出来ても」
 手を止めたリラが指先の、次に調整中の肥料を見下ろしたまま呟いたことが言葉の続きだとはすぐに気付いたのだ。
「だからといって」
「リラさん」
 動物は、人の気持ちに聡い。
 また途切れた言葉に羽月がついに片付けの手を止めて歩み寄る前では、茶虎が尻尾を揺らしてリラを見上げている。その傍らに膝をつくと外見の印象よりずっと鍛えられた手を、羽月は妻の細い肩を包むのに使った。ほんの少しだけ、少しだけ触れる、身体。
 傍で見れば気配だけでなく知れる眸の揺らぎ。
 抱き締めて甘い言葉を囁くことはないけれど、僅かな温もりがどれだけ力になるか、それは羽月もリラもお互いに知っている。だからそのまま花よりも花らしい髪の揺れる下の瞳が切なく伏せられるまま静かな空間。
 ――優しい人だ。
 ひとりの娘とひとりの老婆。出会わなかったひとりの青年。
 かつて訪れたときに関わった過去の残滓。
 それらが遅まきながら自由になったとしても、この傍らの優しい人には辛いことだったのだろう。
 感情を、思考を言葉にして正確に誰かに伝えることは困難だ。
 なんらかの形にして重ねれば、羽月とリラの間でも寸分の狂いなく合致することはまず有り得ない。だが似た形にすることは出来る。
 だから今も、日々の繋がりの中で意識するより先に相手を思い遣る、その感覚で。
「どうしたって私は、生身の、非力な生き物です」
 街を知り、訪れたときにはもう街は街ではなかった。
「頑張ったって叶わないことが、あって」
 瓦礫の街。無人の街。涸れて孤独な歌の街。
 雨の降る街。誰も居ない街。想いが寂しく潜んでいた街。
 ――無垢で、優しい人だ。
 遺されていた想いを感じ取っていたリラの気持ち。それを甦らせて、沈んでしまっているような声音だ。けれど羽月はそうではないと知っている。
 優しい人は、己の無力を思うことはあっても引き摺られて、そこに溺れることはない。
 華奢な姿の妻であっても内の強さはいかばかりか。羽月こそがそれに励まされることも多くある。
「なんだって出来るわけじゃないですけど」
 だからこの言葉は想いを語る中で、抱いた切なさを告げているだけのことだ。
 きゅ、とそこまで声を落として唇を一度引いたリラの足元で今も見上げる茶虎の仔猫。
「でも羽月さん」
 そのふわふわとした毛並みに浅く指を滑らせてからリラが羽月を見る。
 綻ぶ、その咲き初める笑顔。誘われるように目元を緩ませて僅かに頷き返す羽月。
「だからといって何も出来ないわけじゃないですよね」
 ほら、とリラが示す肥料。並ぶ苗。ひときわ目に付く梶苺の幼い姿。
 強めの風に揺れて戻る。丁寧に植えた苗木はそれで傾いたりはしないけれど。
「どうしてかな。急に、思い出して考えたんです――あのときの、出来ることなんて限られていた無力感、というんでしょうか。でもこうして一緒に苗を植えて」

 大地を耕し、新たな土を入れ、栄養のある土壌を用意して。
 訪れる度に少しずつ瓦礫を除けてたりもして。
 今は自由な歌を聞く。通りがかりに想いの下で芽吹いた小さな緑を見る。

「ひとつ、何かをするだけでも私達に出来ることは多いんだと」
 目玉焼きを作るみたいには何もかも出来る訳じゃないですけど。
「そうだな」
 うまく説明出来ません、と微かに眉を下げるリラに羽月は気持ちは通じていると深く頷き仔猫に手を伸ばした。
 先程のリラのように毛並みに手を通すかと思いきや、その綿毛のような毛に絡んだ塵にも見える小さな粒を摘み取り手の平に乗せると、ライラックの瞳に映るように差し出して。
「例えばこれも私達の行為の結果かもしれない」
「――あ」
 庭先に溢れる花々。大きくはないが優しい花屋。
 ときに二人で、ときに各々で、それらに触れて来た夫婦には解る。
 仔猫にいつのまにか飛びついていた小さな粒の正体。
「さっきは見当たらなかったのに」
「風に混ざりでもしたか」
「だったら、素敵です」
「ああ」
 それは花の種。
 街中ではなく、農園ではなく、けれど近い何処かから。
 瓦礫のまま、涸れたまま、それではきっと訪れなかった生命の種だ。
 あのときの、出会った相手に少し触れ合うだけしか出来なかったとき。けれどそれがあったから種は街を訪れた。
「まだありますよ羽月さん」
「意外と近くからだな」
 仔猫を抱き上げて、毛並みを見れば小さな種は隠れるように混ざっている。
 くすくすと口中から笑い声を溢れさせながらリラが探す。その種を手の平で預かる羽月。
 犯人ですよ、と言いたげに吹いた風は微かな香りを何処かから。


** *** *


 風に運ばれたと思しき種は少ないながらも三分割された。
 そのうちの一つは農園の苗に並んで一部に蒔かれたのだけれど、さて残りの二つはどうなるのかといえば。
「お土産ですね」
「どのような花だろうな」
「きっと小さな、可愛らしいお花です」
 植えた苗達の分、空いた場所に隠れる小さな包みがその一つ。
 残り一つは、これから別の場所に運ばれるのだ。
「街の中との境目くらいでどうでしょう?」
「門近くも土は整えてあるが……そうだな。出入口にあまり近いと窮屈かもしれない」
「はい」
 街中を途切れなく歌が踊る抜ける。
 それは、羽月の働きかけによって叶ったことだ。
 足を進めながら、いつもと同じく少しの遠回りをすれば瓦礫に隠れる小さな緑。
 それは、リラと羽月がずっと見守る想いの残滓。
「元気そう」
「これも、あのときに動いたからだ」
「ええ。そうですよね」
 何かをする。働きかける。
 それが無駄ではないのだと、知らしめる事柄は瓦礫の街に溢れている。
「……もう、寂しくないといいですけど」
「寂しくはない。リラさんと私と、茶虎と。それにこれからきっと訪れる人も増える」
「羽月さんも、そう思いますか?」
「無論だ」
 リラが大切に抱える苗木はそれも梶苺。
 懐に仔猫を抱く羽月と共に向かう、約束した人達の眠る場所に贈るもの。
 さわさわと、何処かから聞こえる葉擦れの音。
 空耳だけれど――でもきっといつかそれは本当の音になる。

 雨が降るようになって、瓦礫が少しずつなくなって、残った想いも歌ももう哀しくはなくて、そしてこれからは種を蒔き芽吹き育ち甦る。生まれ直す。
 街も、人も、また訪れるようになるのだろう。

 確信に近い予想を二人で語りながら広場を抜ける。
 仔猫の大きな目が揺れる苗木を見ていた。



 変わらない歌声は、けれど空模様のように二人が訪れる度に弾んでいて、それは瓦礫の下で育つ小さな緑だけが今は知っていて――それは。
 木々の細い枝先に硬く覗いていた蕾が少しずつ緩み始める。
 綻び様々な花色を葉の緑に添えて人々に知らしめる、そんな季節。

 息吹は、訪れるほどに強く優しく届くのだ。





end.
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2006年03月22日

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