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『月夜の葡萄園 』
オーマ・シュヴァルツ1953



◇★◇


 石畳の上に水を撒き、両脇に植えられている花々を見詰め、枯れてしまった葉を取り除く。
 綺麗に咲いた花の香りは甘く優しくて・・・笹貝 メグル(ささがい・めぐる)はうっとりと目を瞑りながら花の香りを楽しんだ。
 ザァっと、風が1陣吹き、メグルの淡い銀色の髪を撫ぜる。
 腰まで伸びた髪は、大きな弧を描いて風に踊り―――
 「メーグルー!!!」
 そんな爽やかな昼下がり、メグルの名前を呼ぶ間の抜けた声。
 メグルの脳裏に実の兄である、鷺染 詠二(さぎそめ・えいじ)の顔が浮かぶ。
 「お兄さん、何ですか〜?」
 「ちょっと。」
 なんだろうか・・・。小首を傾げながらも、メグルは立ち上がると屋敷の中へと入って行った。
 廊下を抜け、突き当りの部屋に入る。
 「何か困った事でも・・・」
 「メグルさぁ、葡萄園の小父様覚えてるか?」
 「・・・えぇ。覚えてますよ。綺麗な葡萄園の中に建っている小さな丸太小屋に住んでいる・・・」
 「その小父様がさ、今度レストランを開くそうなんだ。あの丸太小屋を改装して。」
 「そうなんですか?良いじゃないですか。葡萄園の奥には、確か小さな噴水なんかもありましたよね。花畑とか・・・」
 「そうそう。んで、ホワイトデーにってチケット貰ったんだよ。」
 詠二がそう言って、淡いピンク色の紙をペラリとメグルに差し出した。
 「特別御招待券・・・料理もタダなんですか・・・?」
 「あぁ。そうみたいだ。前に俺らに世話になったからってくれたんだけど・・・」
 「ホワイトデーは、予定が入ってますね、確か。」
 メグルはそう言うと、小さく溜息をついた。
 何でも屋をやっている詠二とメグルには、基本的に休みは無い。特に行事の時は・・・・・。
 「お断りするのも、アレですし・・・どうするんです?お兄さん?」
 「んー・・・しょうがないから、誰かにあげよう。」
 詠二はそう言うと、よいしょと勢いをつけて立ち上がった。
 「あげるって言ったって、誰にあげるんです・・・?」
 「さぁ。ま・・・誰か適当に声でもかけるよ。」
 「適当ってお兄さん・・・!!」
 「折角のホワイトデー、素敵な場所での夕食・・・最高じゃん!」
 詠二はそう言うと、ソファーの上からポンと飛び下り、パタパタと部屋を後にした。
 「最高じゃんって・・・!お兄さんっ!!いきなりそんなの手渡されても、迷惑じゃ・・・って、もういないんですよね・・・」
 はぁぁぁっと、盛大な溜息をつくと、メグルは天井を仰いだ。
 こうも無鉄砲な兄を持つと、とても苦労する・・・・・・・。


◆☆◆


 チリリンと、高い鈴の音が鳴り響き・・・オーマ シュヴァルツは思わずその場で喜びの舞を披露したくなった・・・が、すぐに鈴を鳴らした張本人であるこの福引の主催者の男性がオーマの前にズイっと1人の少年を差し出した。
 紫色の妖しいまでに澄んだ瞳を覗かせながら、少年がにっこりと微笑んで淡いピンク色の紙を2枚オーマに差し出した。
 その中央にはデカデカと『御招待券』と書かれており―――――話を聞けば、14日のホワイトデーにレストランが貸切になる券なのだそうだ。葡萄園の中にある丸太小屋を改造して造ったレストランで、少年はこの券を手に入れた経緯を詳しく語ろうとしないながらも、自分の知り合いの所のレストランなのだと言った。
 少年の名前は鷺染 詠二。
 何でも屋・鷺染の社長なのだと言うが・・・。
 どうして詠二がソーンの商店街の福引に、貰った券を差し出したのか。
 答えは簡単だ。
 ・・・誰も貰う相手が居なかったからだ・・・。
 ちょっと考えてみれば分かるのと思うのだが、いきなり街で知らない人に声をかけて怪しげな淡いピンク色の券を差し出されても、それを貰おうと言う気になれるものは中々居ない。
 そもそも、デカデカと『御招待券』と書かれてはいるものの、詳細は凄く細かい字でポツポツと書いてあるだけだ。
 ――― 一見すると、どこに招待されるのか分かったものではない。
 こんな怪しい淡いピンク色のペライ券1枚で、大冥界へ御招待なんて事になった場合、洒落にならない。
 そこで詠二が考えたのは、丁度ソーンでやっていた福引の商品にする事だった。
 コネで特別賞の他に“特別詠二賞”と言う、不可解極まりない賞を作ってもらい、元々白かった玉を無理矢理紫色に塗って、更には芸の細かい事に自分の似顔絵まで描いて福引のガラガラの中に入れてしまったのだ。
 オーマが感謝を伝えるかのごとく、詠二と招待券を一緒くたに持ち、お礼を言いつつ腹黒同盟ラブ筋パンフを贈呈する。
 「あは、有難う御座いますー!」
 詠二はそう言ってウケまくってパンフを見詰めているが、通常の感覚を持つ人ならばただのイヤガラセだ。
 そもそも、通常の感覚を持つ人ならば“特別詠二賞”なんて明らかに今さっき大急ぎで作りました!な賞なんて貰っても顔に縦線が幾つかつき、ドロドロとした不快な雰囲気が全身にねっとりと絡みつくだけで、決して喜べるような清々しい精神状態ではいられないだろう。
 それを考えると、オーマと詠二の取り合わせは言ってしまえば最強だった。
 「それじゃぁ、俺はラブ☆ゲッチュでGo!」
 「はーい、楽しんできてくださいね〜!」
 会話になっているのかなっていないのかさっぱり分からない2人の言葉を前に、周囲はポカンとした顔をしており・・・間抜けに口を開けてその光景を見詰める群衆の顔は、まさに目が点状態だ。
 ウキウキ気分MAXのオーマはそれに気付かずに帰路を急ぎ・・・詠二は元より猪突猛進型で周囲に目を向ける事はあまりないため、そんな群衆の無言の訴えは『無言であるが故に』無視された。
 オーマの背中を見詰めながら、詠二はふっと“ある事”に気付き、視線を落とした。
 「・・・あれ・・・??」
 ふわりと心に感じる違和感を前に、首を傾げる。
 けれどその違和感はあまりにも曖昧で・・・そう、言ってしまえば“勘違い”として処理してしまえるほどのものだった。
 「でも、一応・・・気をつけよう・・・。」
 詠二の何でも屋としての勘が、警笛を鳴らしているような気がして・・・そう呟くと、詠二はそっとその場を後にした。


◇★◇


 葡萄園の中心に位置していたレストランは、まるで御伽噺の中から抜け出してきたかのように可愛らしい丸太小屋の造りをしていた。更には、中から出てきた初老の紳士風の男性は、いかにもと言った格好をしており・・・けれど、ここで笑ってはいけないと、妻であるシェラ シュヴァルツと共になんとか笑いを噛み殺して挨拶をした次第だった。
 杖の手元の部分はグニャリと曲がっており、不思議な模様が散りばめられた杖は、視線を釘付けにする。
 それよりも何よりも、どう考えてもおかしなタキシード姿。
 別に、男性に似合っていないとかそう言う話ではない。
 ただ・・・色合いが少々奇抜だった。
 何故ピンクなんてチョイスしたのだろうか?・・・いや、もしかしたらオーダーしたのだろうか・・・?
 考え出したら止まらなくなってしまう。
 そしてその考えは、最悪な事にドンドンおかしい方向へと進み・・・男性が水をお盆の上に乗せて持って来た時なんて、自分でも笑い出さなかったのが奇跡としか思えないほどに心中は穏やかではなかった。
 見れば前に座っているシェラも同じような考えを脳内で描いているらしく、極力男性の方を見ようとしていない視線は、微かに左右に揺れており、引き締められた唇もワナワナと震えている。
 かみ締めている奥歯がギシリと音を立てる。
 力を入れている腹筋が、段々と痛んでくる・・・。
 それでも今している努力の全てを放棄してしまえば、大爆笑は間違いないわけであって・・・。
 「まったく、オーマもとんでもないところに連れてくるねぇ。」
 苦々しい表情でシェラがそう言って・・・再び先ほどのピンク紳士を思い出したのか、唇をギュっと噛んだ。
 コトンと置かれて行く食材に視線を落とす。
 それは、美味しそうで心惹かれると言う意味合いが半分。ピンク紳士を極力見ないようにすると言う意味合いが半分。
 とは言え、ピンク紳士に一抹の不安を覚えたものの、料理自体は凄くまともなものだった。
 どこかの地獄の番犬様の、地獄に相応しい素敵なお料理よりは全然まともと言うか、そんなものと比べてはいけないと言うか、地獄の番犬様お手製のお料理と並べば天国の料理にも等し・・・・・・・
 「何か余計な事を考えてるんじゃないだろうねぇ、オーマ?」
 にっこりと、ちっとも笑っていない瞳でシェラが微笑み・・・オーマは思い切り首を振った。
 「へぇ・・・」
 凄く冷たい声は、地を這って聞こえて来る。
 ゾクリと寒くなる背筋に、オーマはわざと明るい声を出した。
 「さ・・・た・・・食べるか・・・!」
 いそいそとフォークを握り、ナイフを握り、せこせこと切り分けて口に運ぶ。
 その様子を見詰めるシェラ。どうやら自分はオーマが試食ならぬ毒見をした後で食べようと言う魂胆らしい。
 数度の咀嚼の後に、ゴクリと飲み込む。
 ・・・これはもう、声を大にして叫びたい味だった。
 「美味い・・・!!」
 「そうかい。そりゃ良かったねぇ。」
 いたって人事のようにシェラはそう言うと、自分も目の前の肉を切り分けで口に放り込んだ。
 赤い瞳が驚きに染まり、そして・・・ふわりと柔らかく細められる。
 どうやらシェラの口にも合ったようだ。
 会話の少ない食事は、それだけ料理が美味しいと言う証拠。
 オーマとシェラは食事を終えると、黒以外に形容のし難い色をしたぶどうジュースをコクリと飲み干した。
 随分と良い葡萄の種類らしく、喉越しが爽やかで・・・先ほどまではちょっと一悶着ありそうだったシェラの雰囲気も随分と落ち着いたものになっていた。美味しそうにグラスを傾けながら、窓の外に広がる葡萄園を眺めるシェラの横顔を、じっと見詰める。
 見れば空には滲むような淡い月が浮かんでおり、光のヴェールは葡萄園の上に柔らかくかけられている。
 「もし良ければ、散歩でもしねぇか?」
 「そうだねぇ・・・それも良いかも知れないね。」
 オーマの言葉にシェラが頷き、2人は席を立った。
 ピンク紳士に2,3言葉をかけ―――2人は葡萄園をゆっくりと歩いた。
 葉のついたもの、実の生っているもの、花のついているもの・・・まるで時の移り変わりを刻一刻と示しているかのように、葡萄園の木々は様々な顔を見せてくれていた。
 それにしても・・・
 「なんだかここは妙な雰囲気がするね・・・でも、別に不快なモノじゃぁないし・・・」
 「あぁ。確かにな・・・。」
 葡萄園を過ぎると、今度は花畑に差し掛かった。
 色取り取りに咲く花は、まるで美を競い合っているかのように咲き誇っており・・・シェラが何を思ったのか、そっとその場にしゃがみ込むと埋もれていたうすピンク色の花をクイっと手前に覗かせた。
 「少ししか見えないんじゃぁ、フェアじゃないからねぇ・・・。」
 そう言って微笑む妻の顔があまりにも可愛らしくて―――オーマは、そっとシェラの細い手を取った。
 照れたように微笑むと、シェラがオーマの手を引くようにして歩き始めた。
 花畑を通り過ぎ、噴水の傍まで来ると、その縁に腰を下ろした。
 噴水の中央には、羽の生えた女性の像が1つ立っており、右手に持った鏡には水が薄っすらとはっており、左手に持たれた瓶からは水が止め処もなく溢れ出している。
 とても穏やかな表情で佇む女性の像。
 「これは・・・」
 シェラが不意に何かに気付いたらしく、立ち上がると女性の左手の薬指にある指輪に触れた。
 真っ赤な色をした石の嵌めこまれた指輪に、指先が触れた瞬間―――――


   どこからともなく、か細い歌声が聞こえて来た・・・・・


 どこか聞き覚えのあるその声は、まだ幼い。
 「ちょっと気になるねぇ。」
 どうやらシェラもその歌声から何かを感じ取ったらしく、オーマの後に続いて走り出した。
 先ほど通った花畑の方から聞こえて来る気がする・・・。
 それほど遠くなかったはずの花畑。それなのに、今は酷く遠く感じる。・・・こんなに長い距離だっただろうか・・・?
 遠くに見えていた花畑が、近づく―――と、先ほどまで咲き誇っていた色取り取りの花達は、全てルベリアの花へと変化していた。
 風が吹く度に揺れる、偏光色に輝く希少な花・・・。
 ゼノビアに咲く花なのに、どうして此処に・・・?
 オーマはすぐ後ろに居るシェラに助言を求めようと振り返り―――再び閉口した。
 後ろに居るはずの妻の姿はどこにもなく、そこには今通ってきた道が何も語る事無く存在しているだけだった・・・。
 置いて来てしまったのだろうか・・・?いや、そんなはずはない。いくらシェラでも、そんなに遅いはずがない。それどころか、噴水まで続く道の何処にもシェラの姿らしきものはない。
 何時の間にか先ほどの歌声も聞こえなくなっており、ルベリアの花が妖しくも風に揺れているだけだった。
 ・・・気付けば雰囲気も変わっている気がする。
 先ほどまではどこか穏やかでゆったりと流れる雰囲気がしていたのに、今ではどこか殺伐としてモノが漂っている。
 ―――とにかく、シェラを捜さないと・・・!
 オーマはそう思うと、ルベリアの花畑を通り、葡萄園も通り・・・何時の間にか、再び花畑へと戻って来ていた。
 ・・・おかしい・・・。
 先ほどは、葡萄園を真っ直ぐ行けばレストランへと行けた筈だった。それなのに・・・葡萄園の両端は花畑へと繋がっている。
 つまりは・・・レストランへ帰れない。もしくは、レストランが空間から切り離されてしまった・・・?
 どうする事も出来なくて、オーマは噴水の前まで戻って来ていた。
 相変わらず穏やかな表情をたたえる女性の像。
 ―――ふっと、ある事に気付き、手を伸ばそうとした時、水に映る自分の姿が見えた。
 いつもの姿とは違う、青年の姿。
 ・・・・・何故―――――?
 考え込む前に、オーマの身体は光に包まれた。
 あまりの眩しさに目を瞑り・・・その瞬間、ブツリと意識が途絶えた・・・。


◆☆◆


 いつだったか・・・そう、あれは昔の話・・・。
 シェラが逆プロポーズでオーマにルベリアの贈った日の想い出・・・。
 音のない映画のように、映像だけが右から左に流れる。
 コマ送りのそれは、段々とスローになって行き―――――


 ふっと、オーマは目を開けた。
 見慣れない光景・・・いや、違う。ここは先ほどまでいたレストランだ・・・。
 シェラと一緒に座った席で、オーマは突っ伏していた。
 眠ってしまっていたのだろうか?それにしては、シェラの姿はない。
 怒って帰ってしまったのだろうか?・・・いや、それはない・・・。
 グルリとレストランの中を見渡すものの、ピンクのタキシードを着た男性・・・おそらく、ここのオーナーなのだろう・・・の姿もない。姿ばかりではなく、その気配すらもない。
 ・・・何かが起こっている・・・。
 オーマはそう思うと、立ち上がり入り口の方へと歩き出した。
 コツコツ・・・
 ふっと、入り口の脇に掛かっていた鏡に目を向ける。
 ・・・青年姿のオーマ・・・親父姿にはなれない・・・。
 これはいったどう言う事なのだろうか?
 考えていても一向に解決の糸口はつかめない。
 オーマは警戒しつつも外に出た。相変わらず月は朧気で、煌く星はばら撒いたように夜空に細かく散っていて―――
 それにしても、先ほどの歌はなんだったのだろうか・・・?
 どこかで聞いた事がある気がするのだが・・・明確に思い出す事が出来ない。
 それよりも、シェラはどこに行ってしまったのだろうか。
 そもそも、事の起こりはなんだったのだ・・・?シェラが、噴水の女性像の・・・


   ・・・・・・・・・????


 シェラが、噴水の女性像・・・に、何をしたのだ・・・?
 ぼやける記憶。
 それは連鎖する。どんどんと、今日と言う日の記憶がぼやけて行っているような気がする・・・。
 シェラと一緒に此処に来て、食事をして・・・外に出て・・・そもそも、噴水に女性像なんてあっただろうか・・・?噴水に、オーマとシェラは行っただろうか?いや・・・オーマはシェラを連れて此処を訪れていたのだろうか?・・・一人で来たのではなかっただろうか・・・?
 段々と曖昧になって行く記憶に、オーマは頭を振った。
 駄目だ。考えれば考えるほど記憶が遠くなって行っている気がする。
 そう・・・確実に、オーマは此処にシェラと共に来た。そして、噴水にも行った。女性像も、確かにあった。
 1つ1つ、淡くなっていく記憶を留めるかのように、オーマは肯定をして行った。
 けれど・・・どうしても、シェラが女性像に何をしたのかは思い出せなかった。
 そこの記憶だけが曖昧で・・・シェラが女性像に手を伸ばした場面で映像は止まり、次はルベリアの花畑へと映像が飛ぶ。
 そして・・・意識が飛ぶ前、オーマは何を見つけたのだろうか・・・?
 噴水の女性像を見て、オーマは“何か”に気付き手を伸ばそうとした。
 そう・・・丁度、シェラがしていたように・・・手を伸ばし・・・。
 いったん、噴水に行って見よう。そうすれば何か分かるかも知れない。
 オーマはそう思うと、歩き出した。
 葡萄園を抜け・・・花畑へと差し掛かった時、ふと目の前に赤い髪をした金瞳の少女・・・恐らく、10代前半くらいだろう・・・が立っていた。ボンヤリと花畑を見詰める横顔を見て、オーマは直感でこの少女は昔のシェラだと言う事に気付いた。
 とは言え、現在の状況もよく分かっていないオーマにとって、この少女・・・シェラが、何を示しているのかは皆目見当もつかなかった。現在居るシェラが縮んでしまったと言うわけではないだろう。その瞳はあまりにも虚無的で、何も見ていないかのように力なくただ前だけを見詰めている。
 「シ・・・お前さん、こんなところでどうしたんだ?」
 シェラと呼びかけそうになる言葉を飲み込み、オーマはそう言うとしゃがみ込んだ。
 少女のシェラと視線を合わせ―――その時になって初めて、シェラの身体が血に染まっている事に気がついた。
 怪我でもしているのだろうか?・・・いや・・・。
 直ぐにその考えを否定する。
 これはシェラの血ではない。それでは、誰の血なのだろうか・・・?ここには、オーマとシェラ以外にも他に誰か居るのだろうか・・・?
 「・・・たし・・・大切な人を・・・」
 「なんだ・・・?」
 「あたし、大切な人を・・・殺めてしまったの・・・」
 シェラの声が、震えながらも言葉を紡ぐ。
 オーマは言葉を失った。・・・これがもしも幼い時のシェラの姿であったならば・・・これは、真実の言葉・・・。
 けれどシェラからはそんな話を聞いた事はない。
 つまりは、シェラの心の奥底に潜む、柔らかく脆い部分・・・。
 如何するべきか悩むオーマの耳に聞こえてきたのは、シェラの小さな笑い声だった。
 クスクスと、目が虚ろなまま笑い出し・・・それが、感情から来るモノでない事だけは確かだった。
 楽しいから笑うのではない。面白いから、笑うのではない。
 感情が混ざり合い、あまりにも辛い現実に飲み込まれ、自分では如何する事も出来なくなってしまった時・・・全ての感情が白く染まり行く時・・・人は、笑う事しか出来なくなるのだ。
 しばらくそうして笑っていた後で、シェラはピタリと黙った。
 虚ろな瞳をオーマに向け・・・ポロっと、涙が一滴頬に零れたのを最後に、シェラは一切の感情を失ってしまった。
 無表情でオーマに襲い掛かり―――どうやらシェラの心とこの世界は共鳴しているらしく、段々と世界が崩れ行く。
 暴走するシェラに抵抗する術のないオーマは、ただただ繰り出される刃を受けるのみ・・・。
 一体如何すれば良いのか、今・・・如何するべきなのか・・・?
 考えても導き出されない答え。
 段々と崩れて行く世界は、シェラまでも飲み込んで行く。
 徐々に消え行く身体に手を伸ばし―――――


  ――――― 貴方達、此の侭だと二人とも“記憶の狭間の闇”に堕ちちゃうわよ?


 甲高い女性特有の声が響く。
 それは空気を振動させて伝わる声ではなく、直接脳内に響いてくる声だった。


  ――――― “記憶の狭間の闇”に堕ちたら、一生彷徨う事になるわ。
  ――――― でも・・・そうね、どちらかだけなら助けてあげる。


 キャッキャと、まるで楽しんでいるかのような声・・・。
 どちらが助かるのかしら?貴方は彼女を見捨てるのかしら?それとも、自己犠牲?やーん、馬鹿らしい。たかだ奥さんってだけじゃない。別に血の繋がりもないのに、わざわざ助けてあげるのかしら??それって、ただの自己満よね。なんて言うのかしら?偽善?あーでも、偽ってわけでもないわよねぇ〜。
 胸糞悪くなる言葉だった。
 どちらかだけなら助けてあげる・・・?上等じゃねぇか。
 一緒に堕ちて、それでも帰ってくる。オーマが居て、シェラが居る。
 それが・・・本来の在るべき姿なのだから、どちらが欠けても駄目なのだから・・・。
 未だに暴走を続けるシェラ。
 怪我を負う事も顧みずに、オーマはシェラを抱きしめた。
 消える身体。
 堕ちて行く・・・ずっと・・・深い場所へ・・・どんどんと・・・。
 それでもオーマは、シェラを抱きしめ続けた―――――


◇★◇


   天使は成長し羽人となる
   鏡は映し
   赤は全てを狭間に堕とす

   羽人は歌う
   自身の穢れを祓う人を呼ぶために
   ・・・赤を取れば羽人は天使に戻る


 意味のわからない歌だった。
 けれどもそれは・・・とても美しい歌だった。
 声はか細くて、儚くて―――
 トロリとまどろむ視界。今にも意識が闇に溶けそうになる。
 今まで生きて来た間であった出来事が、次から次へと思い出される。
 そして、気付いた時にはそれは1本の線になろうとしていた。オーマが生きて来た、全ての光景が1本の線になろうとしているが・・・如何せん、オーマの生きて来た時間は長い。段々と構築されて行く線の端は、まだまだ昔の光景・・・。

  『オーマさん!オーマさん駄目だっ!線が出来上がる前に早くそこから出ないとっ!!』

 聞いた事のある声に、オーマは意識をほんの少しだけ浮上させた。
 誰の声だか記憶の中を探るが・・・重い頭ではどうしてもそこまでは思い出せない。ただ、聞いた事のある、知っている者の声だと言うだけで思考はストップしてしまい、そこから先を考える事が出来ない。

  『早くしないと手遅れになっちゃうよっ!!立って・・・赤を探してっ!』

 ―――赤・・・?

  『そうだよっ!赤だよっ!それを取って!早く早くっ!!』

 ―――赤って何だ・・・?

  『赤だよっ!シェラさんは、確かに赤に触れたはずだっ!赤と鏡だよっ!オーマさんは鏡に自分の姿を映したでしょ!?』

 声は少年特有の響きを持っていた。
 シェラが赤に触れ、オーマが鏡に姿を映した・・・?それは一体何だろうか・・・?
 赤い・・・赤・・・鏡・・・
 ふっと、オーマの脳裏に噴水での出来事が思い出された。
 シェラが手を伸ばし、女性像の左薬指に光る赤い石に手を触れた。その瞬間、あの声は聞こえて来たのだ。
 そして、再び噴水の前に戻ったオーマが見たものは、女性像の持った鏡に映った自分の姿。もっと言えば、鏡に水がはっており、そこにオーマの姿が映ったのだ・・・。
 そうだ・・・あの時、指輪の赤が輝いて見えて・・・
 手を伸ばし、触れようとしたその瞬間、女性像の手に持った鏡を見てしまったのだ。
 と言う事は、女性像から指輪を外せばここから出られるのだろうか?けれど、像から指輪を取るなんて・・・どうすれば・・・?
 そう言えば・・・シェラはどうしたのだろうか・・・?
 オーマは起き上がり、初めて周囲に目を向けた。重たい瞼を開け―――ルベリアの花の真ん中で、オーマは倒れ込んでいた。
 風が髪を揺らす。顔を上げれば見える、月・・・・・・。

    天使は成長し羽人となる

 直ぐ近くで聞こえる歌声に、オーマは顔を上げた。
 シェラがルベリアの花の中心に立ち、繊細な歌声を紡いでいた。
 揺れる花と、月光と。甘い香りの風が髪を揺らす。
 幻想的な光景だった。あまりにも美しすぎて、言葉を失う・・・けれど、ずっとそうしているわけには行かない。早く此処から出なくては・・・!オーマはそう思うと、立ち上がり―――

  『伏せてっ!!姿を隠して!行っちゃ駄目だっ!!』

 先ほどの少年の声が聞こえ、オーマは咄嗟に姿勢を低くした。
 シェラが何かに気付き、走って何処かへと行ってしまう。先ほどまで見ていた視線の先を追う・・・そこには、走って来たオーマの姿があった・・・!!!しばらくじっとルベリアの花を見詰めた後に、背後を振り返り・・・こちらに向かって走って来た。
 更に姿勢を低くし、オーマが通り過ぎるのを待つ。

  『彼に見つかってはいけないよ、オーマさん』

 ―――ありゃなんだ・・・?

  『過去の貴方だよ。彼に見つかってしまったら、オーマさんは永遠に記憶の狭間に閉じ込められる。』
  『過去とこの世界・・・記憶の狭間が重なり合ってしまったら・・・』
  『全ては闇に飲み込まれ、オーマさんの身体は永遠に記憶の狭間の闇の中で漂う事になる。』

 ―――記憶の狭間だって・・・?

  『そうだよ。ここはオーマさんの過去の世界。記憶と現実の狭間の世界・・・。』

 ―――とにかく、俺に見つからなきゃ良いんだな?それで、シェラは・・・

  『シェラさんは大丈夫。オーマさんが助けてあげて。』

 ―――赤い石を取れば良いんだろ?

  『そうだよ。女性像は・・・羽人は、赤を外せば天使に変わるから。』

 その言葉を聞くや否や、オーマは走り出した。
 直ぐ目の前に見える噴水まで走り―――

  『女性像は羽人なんだ。羽人はね、天使が成長した形なんだ。』
  『でもね、羽人は天使に成長する事も出来るんだ。』
  『穢れなき天使は、多くを知って羽人になる』
  『羽人の穢れを取れば、羽人は天使になるんだ・・・』

 羽の生えた女性像の左手には赤い石のついた指輪が嵌っていた。
 赤い指輪を覗き込むと、そこには眠るシェラの顔が映っていた・・・。
 オーマは指輪を掴み・・・ビクともしないそれに、焦りの色を滲ませる。
 指輪はしっかりと女性像の指に嵌められており、指輪を外すなんて不可能だ。
 シェラは直ぐ目の前に居るのに・・・助けてあげる事が出来ない、自分の無力さ加減を思い知らされる。
 女性像を壊せば・・・ふっと浮かんだその思いを打ち消したのは少年の声だった。

  『女性像を壊してはいけないよ、全てが無に還ってしまうから・・・』

 ―――どうすれば・・・

  『あのね、俺は“赤”を取ってって言ったんだよ?誰も“指輪”を取れとは言ってない・・・』

 赤を取れ・・・?指輪から石を取れと言う事なのだろうか?・・・そんなの、指輪を外す事以上に無理だ。
 そう言おうとしたオーマの耳元で、少年が優しく言葉を紡ぐ。

  『力ではなく、想いで・・・』
  『オーマさん。本質を見失っちゃ駄目だよ・・・。』

 必死になるあまり忘れていた、オーマがオーマであるための想い。
 力ではなく、想いで・・・。
 力は全てを壊すが、想いは・・・力に勝つ場合がある。
 想いはバラバラになり、例え砕け、欠片になっても・・・存在する限り、光続けるものだから・・・。
 そっと、石に触れる。
 それは石に触れると言うより、シェラに触れると言った方が正しかった。
 全ての愛しさや、感謝や、温かい気持ちの全てを―――
 コロンと石が取れ、その瞬間・・・女性像が音を立てて崩れた。
 中から出て来たものは、羽の生えた―――天使・・・・・・・

 ブツンと言う音と共に、オーマの意識は闇に飲まれた―――


◆☆◆


 真っ暗な闇の中で、1つの光の点が見える。
 それは段々とこちらに近づいてきて・・・それは、詠二だった。右手にランプを持ち、左手にはルベリアの花を1輪持っている。その背後からは、銀髪の少女が心配そうにオーマを見詰めていた。
 「詠二・・・」
 「うん。オーマさん、今日は羽人のために・・・ゴメンネ?」
 怪我はないか、大丈夫かと問う詠二の声は、確かに記憶の狭間で聞いた声と同じだった。
 「詠二だったのか・・・?」
 「そう。オーマさんとシェラさんを狭間の世界に連れて行っちゃったのは、羽人の女性・・・。」
 「何故?」
 「穢れを祓って欲しかったんだ。天使は人の穢れに触れているうちに、羽人へと進化する。羽人を天使に戻すためには、穢れを祓うだけの強い想いが必要・・・だっけ?」
 「お兄さん・・・ちゃんとお勉強してください。」
 詠二の背後に居た少女がそう言って盛大に溜息をつき、ペコリと頭を下げる。
 「初めましてオーマさん。詠二の妹の笹貝 メグルと申します。この度は大変な事に巻き込んでしまい・・・」
 少女のか細い声を聞きながら、オーマはふと・・・あの時聞こえた声を思い出していた。
 どちらか1人しか助ける事が出来ないと言っていた、あの声は誰のものなのだろうか?
 勿論メグルのものでないのは確かだ。詠二のものでもない。そうすると・・・
 「羽人の声ですよ・・・オーマさん。」
 まるで全てお見通しだと言うようにメグルがそう言って苦笑する。
 「そうか・・・」
 「それよりオーマさん、そろそろ行かないと・・・時が繋がるから・・・。」
 詠二がそう言って、オーマにルベリアの花を手渡すとにこやかに微笑んだ。その隣では、メグルが丁寧に頭を下げており・・・段々と遠ざかる2人。・・・違う、自分が2人から遠ざかって行っているのだ。
 何かに引っ張られる感じがして―――――
 「オーマ、なぁにボサっとしてんだい。」
 直ぐ隣からそんな声がして、オーマははっと顔を上げた。
 シェラが眉根を寄せてオーマの顔を見詰めており・・・見ればそこは噴水の前だった。
 どうやら戻って来たようだ。ほっと安堵したのも束の間「これは・・・」と言いながらシェラが立ち上がり、噴水の中央に立つ像に手を伸ばし・・・・
 「シェラっ!!!」
 オーマは思わず声を荒げた。
 ビクっ!と、シェラが肩を上下させ、伸ばしていた手を引っ込める。
 「なんだい・・・驚くじゃないか・・・。」
 目を丸くするシェラの向こう―――羽の生えた・・・小さな子供・・・。
 その指には、透き通るような青色の石がついた指輪を嵌めていた。
 羽人が天使へ・・・戻ったのだ・・・。
 長い溜息をついてその場にへたり込むオーマの胸元で揺れる1輪の花を見てシェラが瞬きをした。
 「それ・・・ルベリア・・・どうしたんだい・・・?」
 「あぁ・・・ちょっとした冒険をしてな。まぁ、色々あったんだ。」
 そう言って、オーマは頭を掻き―――そっと、シェラにルベリアの花を差し出した。
 シェラが花に触れるか触れないか、そのギリギリの時に、ザァっと風が花を揺らした。
 揺れる花が色を変え・・・ふっと、まるで煙のように消え去った。消え去る瞬間、花は七色の光を撒き散らしていたようで、シェラとオーマを包み込むようにして暫くの間七色の光がふわふわと風に舞っていた。
 「・・・綺麗だねぇ・・・」
 シェラが吐息交じりの言葉を紡ぎ、オーマはそっと・・・シェラの手を握った―――



              ≪ E N D ≫



 ━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

 登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
 ━┛━┛━┛━┛━┛━┛
 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  1953/オーマ シュヴァルツ/男性/39歳/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り


  2080/シェラ シュヴァルツ/女性/29歳/特務捜査官&地獄の番犬(オーマ談)


 ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
 ━┛━┛━┛━┛━┛━┛

 まずは・・・大変お待たせしてしまい、まことに申し訳ありませんでしたっ!
 この度は『月夜の葡萄園』にご参加いただきましてまことに有難う御座いました。
 そして、いつもいつも有難う御座います。(ペコリ)
 今回は、主にオーマ様の視点で描かせていただきました。
 そのため、かなり長い内容になってしまいましたが・・・。
 お任せの部分は私なりに考えて執筆させていただきました。お気に召されれば嬉しく思います。


  それでは、またどこかでお逢いいたしました時はよろしくお願いいたします。
ホワイトデー・恋人達の物語2006 -
雨音響希 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2006年03月16日

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