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『 お宅訪問 』
CASLL・TO3453)&シオン・レ・ハイ(3356)



【外観は刑務所のように見えなくもない】

 どこまでも連なるそれは、万里の長城を思わせた。実際に見た事があるわけでもないが、草間興信所でよく見せてもらうテレビに映ってたのは、たぶんこんな感じに石造りの壁が、どこまでもどこまでもまるで永遠みたいに続いていたような気がする。
 人通りの少ない土曜日の早朝。
 もうすぐ白い日という事もありバレンタイン・デーに頂いたプレゼントのお礼に手作りクッキーをお返ししようと考えたシオン・レ・ハイは、しかし共同かつ天然の台所ならともかく、普通の台所の付いた家に住んでいなかったので、CASLL・TOの家の台所を借りる事にした。とはいえ実は彼の家に行くのは初めてのシオンである。事前に地図は貰ったが、明日の当日。道に迷って約束の時間に遅れてしまっては申し訳ないと、暇を持て余していた事も手伝って場所の確認に訪れたのだった。
 しかし、一向にそれらしい家が見つからない。そこで通りすがりの人に聞いてみた。
「あの……すみません。CASLLさんのお宅はご存知ないですか?」
 すると通りすがりの男は、毎朝日課にしている早朝ランニングを邪魔され不機嫌そうに顔をゆがめると、おもむろに傍らの壁を指差した。
 どうやら、この壁がCASLLの家らしい。
 とすれば、この壁を辿っていけば入口にたどり着ける筈である。
 シオンは通りすがりの男に深々と頭を下げると、早速右手を壁に当て、壁伝いに歩き始めたのだった。
 だったが……。
 一時間経過。
 二時間経過。
 三時間経過。
「はぁ…はぁ…はぁ…一体この壁はどこまで続いているんでしょう……」
 壁の終わりは遠く霞んでいるようにさえ見えた。
 五時間あまり。太陽は既に中天にさしかかっている。途中何度も道草などして時間の割りにあまり進んではいなかったがそれでも距離にして約10km足らずの距離を歩いて、やっとその壁は終わった。
 残念ながらというべきか粗方の予想通りというべきか、結局その面に門はなかった。
 仕方なくシオンは壁伝いに右へ曲がった。
 相変わらず行けども行けども門扉らしいものは、勝手口や裏口1つない。壁の終わりもない。
 いつしか太陽が西に傾き夕日に変わった。
 シオンはそこはかとない溜息を吐き出して、壁の終わりを更に右へと曲がった。
 今度こそ、門扉があると信じて。
 とりあえず視覚領域にそれらしいものは見当たらなかったが。
 夜も更け、歩くスピードも格段に落ちていく。今日はここで一夜を明かそう、なんて途中寝こけたりもして、かくてその壁にも門扉を見つけられないまま、次の角を曲がったのは、結局日曜日の朝だった。
 思えば、逆から回っていれば、すぐだったのに……とはあまり考えたくない事実なので、自動消去する。

 前日から確認に来ていた事が功を奏したのか、シオンは約束の時間かっきりにその門の前に立っていた。
 両手を伸ばしたシオンの、横にも縦にも2倍以上はあると思われる巨大な門扉である。そんな巨大な門扉を支える門柱も巨大であった。しかしその門柱に申し訳程度にちょこんとある表札が何とも可愛らしい。
 ポストもいたって普通サイズだ。
 それだけにこの門扉の無意味は巨大さが異様に際立っている。
 扉はまるで鋼鉄製のように見えて、見るからに重厚そうだ。
 試みに押してみたら全力でもビクともしない。
 鍵でもかかっているのだろうか、表札の上にドアフォンらしきものがあったが、シオンの身長ではハイジャンプしてぎりぎり届くか届かないかといった高さである。
 CASLLの身長に合わせて作られているのだろうか。何だかいろいろ不安になってきた。
 とりあえずドアフォンは押せそうにないし、門は開けられそうにないし。この分ではCASLL宅へのお宅訪問は断念するしかなさそうだ。たぶん。きっと。でも約束がある。とはいえ無理なものは無理。しかしクッキーが……門の前でくるくる踵を返すこと都合6回。1080度回れ右をして、やっぱり無理だと断念した時、バイクの音が聞こえてきた。
 CASLLが荷物を手に帰ってきたのである。
「すみません。頼まれていた材料を買いだしに出たら、少し手間取ってしまいました」
 そう言って、彼は誰もが避けて通るほど凶悪な顔を屈託なく破顔一笑させ、片手で軽々とその門を押し開けた。どうやら鍵はかかっていなかったらしい。
「…………」
 呆気に取られて見ているシオンをCASLLはどうぞと招き入れる。
 こうなっては、帰りたいと言い出しにくいシオンは不安で胸をいっぱいにして門の中へ入ったのだった。



【日本庭園は一部和洋折衷だったらしい】

 ポカーン。
 思えば、この家の塀をぐるりとほぼ一周した時から、気づいてはいたが広かった。
 無駄に広い。
 意味もなく広い。
 門を入ってすぐのところには、樹齢何千年みたいな松の木が一本立っていた。
 そこから暫く松林が続いているらしい。どれも丁寧に刈り込まれいる。無造作に置かれた岩肌には勿論わざとなのだろう苔が生えていて、日本庭園のわびさびな雰囲気を十二分にかもし出していた。その内、枯れ山水とか出てきそうである。
 CASLLがバイクをかたずけるのに気づいたシオンが慌ててCASLLを呼び止めた。
「バイクで行かないんですか?」
 はっきり言ってここから建物らしきものは全く見えない。てっきりこの広大な庭はバイクで抜けるのだと信じて疑わなかったシオンである。
「庭をバイクで走ったりしませんよ? さぁ、行きましょう」
 CASLLは荷物をひょいと肩に担いで庭へとシオンを促したのだった。

 松林を抜けるとそこは竹林になっていた。京都嵯峨竹林にも引け劣らぬ見事な竹林である。しかし、昨日から殆ど飲まず喰わずのシオンには見事な竹などどうでも良かった。
 彼の脳裏を過ぎっていくのはただ一つ。
 筍である。
「たけのこご飯が食べたいです」
 そんな事を呟きながら竹林を眺めていた彼が、竹の根元に芽吹いているであろう筍を求めて、うっかり道を踏み外すのには多くの時間を必要としなかったであろう。
 シオンが道を踏みそれてしまった事など全く気づいた風もなく先を歩いていたCASLLが、怪訝に後ろを振り返ったのは、シオンの絶叫を聞いた後、もう少し先の事であった。
 とにもかくにも、筍ちゃんを求めて竹林を彷徨うシオンである。
 筍は土に埋もれているものだ。故になかなかに見つけにくいものである。かくて四つん這いになり、丁寧に手の平で地面をさらいながら進んでいると、竹やぶの暗がりに二つの光るものが目に入った。
 何だろうと訝しみつつそれを凝視したシオンの体がふと硬直する。
 それが目だと気づいた時には、白い巨大な猫が竹やぶの中から飛び出してきた後だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 白い巨大な猫。多くの人はそれをこう分類する。食肉目ネコ科ヒョウ属トラ――それは巨大なホワイト・タイガーであった。

 シオンは白い巨大な猫と戯れて…もとい、巨大な猫に戯れられていた。
 シオンの上に馬乗りになってその顔をぺろぺろと舐めている。
 明らかに遊ばれていた。
 猫の玩具である。
 さすがに離し飼いされているだけあって、腹をすかしたりなどはしていないらしい。
 しかし、食料と紙一重である事になんら変わりはない。
 そんな猫から這う這うの態で逃げ出してシオンが次に訪れたのは滝のある池だった。
 池を覗くと魚が泳いでいるのが見える。
 腹が減っていた。
 鯉のあらいでも鯉こくでも……などと不穏な事を考えながら手を伸ばす。
 ふと、そいつと目があった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 日本庭園にワニがいた。



【いよいよ家の中】

 もしかしたらCASLLが探しに来てくれなかったら今頃自分はワニの餌になっていたかもしれない。9割以上魂の抜けたような顔付きでシオンはCASLLの家の前に立っていた。
 さすがは日本庭園にもまけず劣らずの純日本家屋である。
 シオンの腕ではびくともしなさそうな引き戸をCASLLは無造作に開けて、どうぞ、とシオンを中へ促した。
 お邪魔しますと会釈をして入った玄関は旅館のように広い。そこはかとなく漂う木の香りが心地よかった。
 CASLLがスリッパを取り出しシオンの前に並べておいてくれたので、シオンは靴を脱いでスリッパを履く。
 それから一歩を踏み出そうとして廊下と接吻した。
 スリッパがちょっぴり重すぎて、足が踏み出せなかったのである。前に大の字で倒れたシオンをCASLLが慌てて助け起こした。
「大丈夫ですか?」
 と大真面目に聞いてくるところを見るとわざとではないらしい。シオンは床にぶつけて真っ赤にすりむいた顔をCALLに向け、ははは、と気の抜けたような笑みを返した。それから懇切丁寧にスリッパを辞退した。
「台所はこちらです」
 CASLLが先導する。
 長い廊下が続いていた。
 台所は奥にあるらしい。
 長い廊下が続いていた。
 壁伝いに歩いていたあの距離から考えて、一番奥に台所があるなら、この廊下は軽く1kmはあるように思われた。
 既に空腹はピークに達しているシオンである。
 変わり映えのしない廊下を、ただ延々と歩いているとちゃんと進んでいるのかさえ、自分で怪しく思われてきた。
 ただ、自信満々に歩くCASLLの肩に担がれているクッキーの材料の、更にその中にあるアーモンドの香ばしい薫だけを頼りにシオンはふらふらと着いて歩くのだった。



【ここへ訪れた目的はクッキー作りです】

 やがて台所にたどり着いた。
 どこかのレストランみたいな巨大な厨房である。
 CASLLがクッキーの材料を調理台の上に並べているのを横目に、最早腹が減って指一本動かせない感じのシオンは、巨大な冷蔵庫の前に立っていた。
 視線を時折CASLLに向けて『開けてください』とテレパシーを飛ばしているのは、あまりにドアが重すぎて自分で開けられなかったせいである。
 しかし、テレパシーが届いているのかいないのか、たぶん後者なCASLLは割烹着を着込むと最後にもう一度手を洗って言った。
「準備が出来ましたよ」
「……そうですか……」
 残念そうに呟いてシオンも割烹着を着込むと手を洗う。しかし蛇口一つ捻るのにも力を必要とした。手を洗うのにも息を切らすシオンは、デコレーション用のアーモンドをつまみ食いしながら、ボールを取り上げようとして、そのまま落としそうになった。
 重かったのだ。
 泡だて器すら片手で持ち上がらない。
「あの、手伝ってください」
 そう言ってシオンはCASLLにボールと泡だて器を押し付けると、ボールの中へバターを投入する。
「クリーム状になるまで練ってくださいね」
 その間に、シオンは薄力粉をふるいにかける事にした。
 しかし、ふるいがこれまた重い。
 ちょっとやってすぐに断念して、CASLLのボールの中を覗くと砂糖を加えるのを手伝う。
 卵を別の小さなボールに割り、菜箸を手に取ったらやっぱり無駄に重かったので、シオンは懐から『マイお箸』を取り出して卵をほぐした。
「これを入れてください」
 一生懸命掻き混ぜているCASLLにシオンが声をかける。自分で入れないのはボールが持ち上がらないからだ。
 CASLLは言われた通りほぐし卵を加えて掻き混ぜた。
 バニラエッセンスをたらす。
 いい感じに混ざると今度は薄力粉を投入だ。しかしまだふるいが終わっていない。
 シオンはCASLLに粉をふるわせる。その間、やっぱり無駄に重たいヘラを両手で持ってふるった粉を混ぜ合わせていた。
 生地をこねるのは特に道具を使わないので二人でやって、後は6つに分けると、ノーマル、アールグレイ、抹茶、ココア、パルメザンチーズ、レーズン、胡桃、アーモンドをそれぞれに混ぜ込みラップにくるんでひとまず完了。
 後は冷蔵庫の中で生地を寝かせるわけだが、それはとどのつまり必然的に冷蔵庫の扉が開かれる、という事にほかならない。
 空腹のシオンは意気揚々とその時を待った。
 しかし開かれた冷蔵庫の中は殆ど空に等しかった。
 最近仕事で家をあけロケ弁ばかりのお世話になっていたCASLLなのである。
「…………」
 意気消沈しているシオンにその理由もわからないままCASLLが声をかけた。
「生地を寝かせている間、お茶でもしましょうか」
 それにシオンは目を輝かせて大いに喜んだ。
「はい!」
 お茶と聞いて紅茶にケーキや緑茶に羊羹などを連想した彼である。
 しかしCASLLが彼を案内したのは、無駄に巨大なものが多い中にあって、その部屋だけ妙に入口の狭い茶室であった。
 入口は狭いが中は広い。
「…………」
 畳、一体何十畳――いや何百かもしれない――あるのかもわからないほど広大な茶室の真ん中にポツネンと2人きり。
 CASLLが茶筅でお茶をたてているのを見ながら、何だかシオンは落ち着かなくなった。
 あまりに広すぎる。
 自分が根っからの庶民であるが故なのか、単なる貧乏性だからなのか、体育館二つ分くらいはありそうなだだっ広い部屋に、2人で正座して向かい合って座っているのが、何とも心もとない。
 シオンはおもむろに立ち上がった。
「トイレに行ってきます」
 そう言って踵を返すと、さっさと茶室を出てしまった。
 勿論、懐紙にしっかりとお茶菓子は包んで来ている。この辺りにぬかりはない。そう。別段もよおしているわけでもない彼はただ、あの場所から立ち去る口実が欲しかっただけなのである。



【シオン・レ・ハイ探検隊】

 長い廊下を歩きながら、シオンはこの家を探検してみる事にした。
 一番手近の襖は、もしかしたら茶室に繋がっているかもしれないので、あの茶室の広さ分くらい歩いてから一番最初の木戸を開けた。
 薄暗い部屋に足を踏み入れる。
 窓がないせいか灯りが殆どない。
 部屋の電気スイッチを探すように手探りで壁を触っていたら、何かにつまづいた。派手に転ぶと頭上から何やら降ってくる。
 薄暗い部屋で、それは異様な底光りをしていた。
 CASLL自慢の凶器。チェーンソー。
 それが自分と紙一重のところに突き刺さっている。
 いや、もしかしたら、髪の毛の数本は切られたかもしれない。
「…………」
 冷たい汗がじわりとシオンの背を伝った。
 立ち上がり、暗がりに慣れた目で改めてスイッチを探して電気を点ける。
 十六畳分くらいあるだろうか板張りの部屋に、ぎっしりと並んだありとあらゆる種類のチェーンソー。特注品なのだろう名前が掘ってあるものも多数ある。
 どうやらここはCASLLのコレクションルームらしい。
 よく見たら、シオンが床に落としたチェーンソーは床にぶつかった衝撃からか、チェーンがバーからはずれてしまっていた。勿論、床はそれ以上のダメージを受けているが。
 シオンは慌ててそれをこっそり戻そうとした。
 だが、既に筋肉疲労がピークに達していたのかチェーンソーの重さを支えきれずにシオンは再び落としてしまう。
 別の、チェーンソーの上に。
「あぁ!?」
 チェーンソーのバー・チェーン部分が根元からぽっきり折れた。ついでに、チェーンソーの並べられていた棚も倒れた。後は将棋かドミノを倒すような勢いである。
 シオンは恐る恐る後退ってその部屋を出た。
 胸の中で何度も、ごめんなさい、と呟きながら。
 ドアの前で手を合わせる。
「不可抗力です」
 続いて彼が訪れたのはシアタールームであった。
 ソファーに腰掛け手元のリモコンで操作するとスクリーンが下りてきて映画鑑賞が出来るのだ。
 どれどれと、さっそくシオンは映画鑑賞に入ったが、いきなり血みどろのシーンから始まるスプラッタムービーに気分が悪くなってすぐに退散した。
 どうやら、CASLLの仕事用ムービーがセットされていたらしい。
 とにもかくにも、シオンは次の部屋へと廊下を進む。
 そこで、彼は先ほどから全く進まなくなった自分に気づいた。
「おや?」
 前に進んでいるはずなのに、進まないどころか下手をすると後ろに下がっているような気がする。
 どうやらそこが廊下ランナーになっているらしいと気づいたのは、後ろに流され壁に激突して止まった時だった。廊下ランナー……但し、進みたい方向と逆方向に作動する。
 なんで無駄なものを、とシオンは心底思った。
 この場にCASLLがいたなら、日々の運動不足を解消する為と、日々体を鍛えるためです、と説明したであろう。しかし、たとえそうであったとしても、シオンからすれば無駄かつ無意味なものである事に変わりはなかったが。
 走る以外に進む道はない。
 逆戻りしたくとも、今度は廊下が逆に動くだけである。
 この廊下を抜けるには、走る以外に術はないのだ。
 こんなにも腹が減っているのに。
 シオンは、さっそく懐の懐紙に包まれている干菓子を取り出し一つ口の中へ放り込んだ。
 糖分は最も早くエネルギーに変換される。
 シオンはがむしゃらに走った。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
 荒い息を吐きながら、走って走って走りまくって干菓子一個分3000m。それを走りきるとそのまま燃え尽きたように彼は息絶えた。
 殆ど半死半生で彼がたどり着いた次の部屋は風呂場である。
 全面ヒノキのこれまた無駄に広い風呂であった。50mプール二つ分くらいありそうな広さがある。
 だが温泉を汲み入れてるらしく、どうやら24時間、丁度いい感じの湯加減になっているらしい。
 シオンはここで疲れを癒そうと、服を脱ぎ捨てさっそく温泉につかる事にした。
 露天っぽく、遠くに庭が見える。
 竹林という事は、またあの巨大な白い猫が現れるかも、とも思ったが、これだけ無駄に広い風呂なら、泳いでくる事もあるまい、とも思われた。
 その内、ただつかっているのにも飽きてきて温泉を泳ぎ始める。
 疲れたのでそろそろ引き返そうと振り返ったら、向こう岸は随分遠くなっていた。
 戻る分の距離を考えていなかったのが敗因か。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
 シオンは半ば茹蛸になりながら、湯船からあがったのだった。
 しかし冷水を浴びて人心地吐くと、今度はジャグジーに挑戦するあたり、懲りるという言葉は知らないらしい。


 一方その頃、CASLLは冷めた抹茶を啜りながら首を傾げていた。いくらなんでも遅すぎる。大きいのでもこれはちょっとおかしいだろう。かれこれ2時間以上経っているのだ。そろそろクッキーの生地もいい感じに寝れた頃合である。
 迷子にでもなっているのだろうか、と考えてCASLLはそういえばと思い当たった。シオンはトイレの場所を聞いて行っただろうか。自分は説明した記憶がない。
 もしかしたら、トイレが見つけられなくて彷徨っているのかもしれない。
 CASLLは慌てて立ち上がると、飼い犬のハウスドッグ、ぴぃちゃんを連れて、シオンを探しに行く事にした。
 ぴぃちゃん。愛らしい名前が付いてはいるが、実際には強靭にして筋肉質でしなやかなボディーを持つ大型犬ドーベルマン・ピンクシャーである。ピンクシャーのぴぃちゃん。世界広しといえど、かなりの運動量を要するドーベルマンを家の中で飼っている人間はそうはあるまい。
 CASLLはぴぃちゃんにシオンの臭いを覚えこませると早速捜索に出たのだった。



【寝室は寝るところと心得たり】

 その空間だけ、何となく浮いていた。
 別世界である。
 わびさびな純日本風の中にあって、このパステルカラーな空気はなんだというのだ。
 天蓋付きのベッドにピンクのレースのカーテン。
 キングサイズのベッドを埋め尽くす愛らしいぬいぐるみの山。
 ふわふわのパステルグリーンの絨毯に、淡いオレンジピンクの壁紙には、可愛い動物たちのイラストが。
 メルヘンチックである。
 乙女チックである。
 先ほど見た、チェーンソーの部屋は何だったのか、と問いたい感じだ。
 水族館顔負けの熱帯魚が置かれた部屋でさえ、これとは一線を画すだろう。
 CASLLに娘がいるなどという話は、ついぞ聞いた事のないシオンは怪訝に首を傾げながらベッドの端に腰を下ろした。
 可愛いたれ耳兎のぬいぐるみを膝に抱く。
 それだけで心癒される思いがした。
 今まで起こった全ての事が全部ただの悪夢だったようにさえ思われてくる。
 白い巨大な猫とか、ワニとか、逆進行する廊下とか、無駄に広い部屋とか、意味もなく重いドアとか。
 そんなものはまるで嘘のようで。
 シオンは懐から干菓子の残りを取り出し頬張った。
 温泉にもつかった後で、何だか眠くなってくる。
 このまま眠ってしまおうか。
 目が覚めたらきっと、自分はいつもの公園のベンチに座って、陽だまりの中、膝にたれ耳兎を抱いているような気がした。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 シオンの心地よい眠りを妨げる野太い悲鳴が届いたのは、シオンがCASLLの私室に訪れてから間もなくの事であった。
 シオンはそれを夢うつつの中で聞いていた。
 CASLLが悲鳴をあげる理由が一つだけ思い当たる。
 しかし、どうにも睡魔には勝てそうになかった。
 ただ、胸の中で何度も「ごめんなさい」と何度も繰り返しながらメルヘンチックな夢に落ちたのだった。

 夢の中ではCASLLが、愛すべきチェーンソーが死屍累々と横たわるコレクションルームを前に、あまりのショックを受けたのだろう、壊れたようにうさぎとサンバを踊っていた。





 かくして半日以上もねかされた生地が、やっとクッキーになったのは、翌日の事である。


■大団円■
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
斎藤晃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年03月15日

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