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『Don't touch me 』
兵頭・雅彦4960)&浅海・紅珠(4958)



 けたたましい音で、雅彦はのろのろと目を開けた。
 閉めきられたカーテンの働きもあってか、部屋の中は未だ薄暗い影で包まれている。たった今まで漂っていた夢の世界の名残は、安穏とした空気として、今もなお雅彦の隣に佇んでいる。
 時計に手を伸ばして時刻を確認する。――針は朝の8時過ぎをさしていた。
 うっそりとした所作で頭を掻きまわし、寝返りをうって、再び瞼を閉じる。が、その次の時には再びけたたましい音が部屋中に鳴り響いた。
 ドンドン、ドンドンドン
「ねえ、まーさぁーひーこー。起きてー」
 ドンドンドン、ドンドンドンドン、ド
「……うるせえな」
 ガチャリ。ドアを開けて顔を覗かせると、たった今しがたまでドアをノックし続けていた張本人である少女が満面の笑みをもって雅彦を迎えた。
「おはよ、雅彦! ねえ、今日、すっごい天気良いよ」
「あぁ? ……ああ、そうか」
「風もあんまり吹いてないし、さっき見た天気予報で、今日は一日ずっとお天気だって」
「……あぁ、そうか」
 それじゃあどこか遊びにでも行け。そう続けようとした矢先、少女は雅彦の腕にぶらさがるようにつかまって、緋の双眸をふわりと細ませた。
「動物園に行こうよ、雅彦っ!」
「……はぁ?」
 突拍子もないその提案に、雅彦は片眉を跳ね上げて少女を確かめた。
 未だ眠りの世界から醒めきれていなかった頭の片隅が、少女――紅珠によって一気に現実へと引き戻される。
 紅珠は自分を見下ろし、不機嫌を露わにしている青年――雅彦が浮かべている怪訝そうな面持ちにも構わずに、ただひたすらににこにことした満面の笑みを浮かべているのだった。

 日曜日。
 日頃気忙しい時間を過ごしている身であるから、日曜日という休暇は雅彦にとり、とても貴重な安息日なのである。
 昼近くまで惰眠をむさぼり、簡単な食事を済ませ、夕方も間近になってからようやく買い物を兼ねた散歩へと足を向ける。――それがいつもの休暇の過ごし方だ。
 が、しかし。
 雅彦は今、都内の動物園にいる。
 家族連れや恋人同士。友人グループで来ている者もいれば、中にはひとりであてどもなくぶらついている者もいる。
 空を仰げばそこには紅珠の言葉通りの晴れ渡った青空が顔を覗かせていて、雅彦は意味もなくその蒼を睨みやった。
 数メートル離れた先には浮き足立った歩き方ではしゃぐ紅珠の姿がある。彼女はパンフレットに記されてあるコースに従うでもなしに、まさに好き放題あちらこちらと走りまわっているのだ。
「わ、雅彦、見てみて! これ孔雀だよね。羽広げないのかな、羽。……わ、広げた! 見てみてっ、雅彦!」
 大きく手招きをしながら満面の笑みでこちらと孔雀の檻とを眺め、紅珠は歓喜に頬を紅潮させている。
 雅彦は木の下のベンチに陣取って「はいはい」などと適当な相槌をうち、何度目になるか知れないため息をひとつ吐いた。
 おそらくは、今のふたりを周りの人間が見れば、年の離れた妹を動物園まで連れてきている面倒見の良い兄にでも思えるのかもしれない。が、実際は、雅彦と紅珠には血の繋がりなどはただの一筋でさえも存在しない。
「ほら、雅彦、こっちに来なよってばあ」
 飽きもせずに手招いている紅珠を見やり、その遠くに広がっている蒼穹を確かめる。
 ――――あの日、ツーリングで出向いた先の海で、雅彦は偶然にもひとりの少女との出会いを果たした。否、それは少女ではなく、打ち上げられたひとりの人魚だったのだ。
「うわ、こっち! ダチョウがいるよ、ダチョウ! 卵うむかなあ?!」
 見れば、紅珠は既に次の檻へと移動していた。
 そうホイホイと産んでいるわけでもないだろう。
 そう呟いてからため息を漏らし、雅彦はようやくのろのろと腰を持ち上げた。
 刹那。
 視界が揺らいだのを覚え、雅彦はこめかみに指をそえて眉根をしかめた。頭のずっと奥の方がちくりとざわめき始めているのが判る。
 ――――ちくり、ちくり
 頭が鈍い痛みを訴え始める、その予兆。
「雅彦、こっちこっち! 虎とかいるって!」
 雅彦の中で頭をもたげ始めている痛みの予兆に気付くこともなく、紅珠はぱたぱたと駆けていく。
 かぶりを振り、予兆めいたその疼きを振り払う。
「走り回るのはいいが、転ぶなよ」
 そう呼びかけて紅珠の後を追った。
 
 ちくり、ちくり
 まるで何事かを告知しているかのように、頭が痛み出す。
 視界が揺らぎ、今、目の前に広がっている光景と、もうひとつ。よく似た光景とが重なり、揺れる。
 ちくりとした痛みは徐々に――そして急激に、その疼きをより大きなものへと姿を変えた。

「ねえ、雅彦?」
 気がつけば、それまでは数メートルは先を小走りしていたはずの紅珠が目の前に立っていた。雅彦の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「具合悪いの? 気持ち悪い?」
 澄んだ緋の双眸を心配そうに細め、紅珠は雅彦の服の袖を弱く引っ張った。
 雅彦はしばし紅珠の顔を見据え、やがて軽くかぶりを振る。
「いや……大丈夫だ。多分久しぶりにこんな場所に来たから……少し疲れたのかもしれん」
「ホントに? じゃあちょっと休む? あ、ほら、ベンチがあるよ。あそこで座っときなよ。俺、飲み物買ってくるからさ」
 そう云って雅彦の腕を引き、道案内するようにベンチの前まで導いていく。
 案内されたそのベンチは、虎の檻の傍にある、大きな木の下にあった。
「じゃあ、俺、ちょっと売店まで行ってくるね。雅彦はちゃんと休んでてよ!」
 そう云い残し、紅珠は少し遠目に見えている売店に向けて走っていった。
 その後姿を見送って、雅彦はベンチの背もたれに身体を預ける。
 葉陰に覗く空は雲ひとつ流れていない、見事なまでの青空だ。どことなく、いっそ恨めしい気持ちさえ浮かんでくるその空を仰ぎ眺めて、再びこめかみをおさえつける。
 ちくりちくりと疼いていた痛みは、今や吐き気さえもよおすほどの頭痛へと姿を変えていた。
 
 20年。
 雅彦が動物園に足を向けたのは、じつに20年振りのことになる。
 決して動物が嫌いなわけではないのだが――――しかし、なぜだろう。忘れている何か悪い思い出が、落ちているような気がするのだ。
 痛みに小さな唸り声をあげ、見上げていた空からゆっくりと視線を下ろしていく。
 と、ほど近い場所で、子供が悲鳴にも近い泣き声をあげた。見れば、母親らしい女が幼稚園ぐらいの子供を懸命に宥め、抱き上げていた。
 ふと、その向こうにある檻に向けて視線を投げやる。
 その檻は虎にあてがわれたものだった。その中で、雄の虎がしきりにうろつき回っている。
「……虎か」
 呟き、その雄虎の眼を真っ直ぐに見据えた。
 視線がかち合う。
 
 ぞわり

 全身が粟立ったのを感じた。痛みさえも一息に消えていくほどの感覚。
 まるで、今まで静止していたフィルムが、今、再びカタカタと動き始めたような。
 頭の中を巡る遠い記憶に、雅彦は両腕で自分を抱え込み、青ざめ、俯いた。

 虎が雅彦に向けて牙を剥いている。檻を引き裂かんと、頑丈な爪をたてている。
 他の客が虎の変貌におののき、あるいは叫び声をあげている。
 いんいんと響く全ての音が、雅彦の頭を引き千切らんばかりに大きく震わせる。

 ――――ひこ
 ――まさひこ
 あんた
 あんた、ば……のだったの?

 いんいんと響く音が、雅彦の脳を震わせる。


 かたん
 小さな音が耳を撫でたのに気付き、雅彦はゆったりと瞼を持ち上げた。
 薄らぼうやりとした視界の中に映りこんだのが見慣れた天井だということを認識すると、ようやく、雅彦はのそりと顔を動かして周りの景色を確かめた。
 飾り気のまるで無い、いってみれば無機質な印象さえ感じられる部屋。それは雅彦の自宅、さらにいえば彼の自室の中なのだ。
 布団の中から片腕を出して頭髪を掻きまぜ、数度目をしばたかせて息を吐く。
 手近にあった時計に手を伸ばし、時間を確かめる。時刻は夜中の12時――すなわち日付変更時刻の辺りをさしていた。
 机の上に、水差しとコップが置かれてある。
『ゆっくり休んでね』
 そう書かれたメモ書きに目を通し、再び小さな息を吐いた。
 ――――ああ、そうだ。思い出し、コップに水を注ぎ込む。
 動物園で疼きだした頭痛に耐え切れなくなった雅彦は、売店から戻ってきた紅珠の手を借りて早々に帰路についたのだった。
 自宅に着く頃には既に痛みは限界を超えていた。
 ベッドに転がりこみ、そのまま意識を失い――――
 コップに注ぎいれた水を一息に飲み干して、額にじっとりと滲んだ汗を手の甲で拭い取る。
「……風呂……」
 あれから何時間、熱にうなされていたのか。
 全身にまとわりつく汗に不快を覚え、雅彦は部屋を後にしてバスルームに向かった。
 途中、紅珠の部屋の前を通りかかる。
「悪いことしちまったな」
 独りごち、前髪をかきあげる。
 楽しげに笑い、転がるように走り回っていた紅珠の姿を思い出してため息をひとつ吐いた。
「……今度、埋め合わせする」
 そうごちて目を伏せ、留めていた足を再び動かした。

 バスルームのドアを開け、汗で汚れた上着を洗濯カゴに突っ込む。
 風呂の湯をためようと腕を伸ばしたその時、目の端に、自分の姿が映りこんだのが見えた。
 ――――ッ!
 思わず息を飲んだのは、鏡に映っていた自分の姿が”自分の姿”ではなくなっていたからだった。
 
 鍛えられた上半身はヒトとしての骨格とは逸した形を成していた。
 顔を撫でる指の先にあるのは、昼に見た、あの虎の頑丈な爪に酷似したものだった。
 鏡を見据える自分の双眼は、ヒトのそれというよりはむしろ獣のそれに似通っていた。

 おののき、後ずさる。もつれる足は、しかしすぐ後ろの壁にぶつかって制止した。
 昼間聞いたあの音が、今再び雅彦の脳をいんいんと揺らす。
 揺らいだ頭が、突如、なんの前触れもなく、先ほどまで見ていた夢を鮮明な記憶として廻し始めた。
 
 20年前。
 雅彦はまだ4つか5つ。親に手を引かれ、その日生まれて初めての動物園に足を運んだ。
 母が作った弁当を食べるのが楽しみだった。象やキリン、猿に熊。絵本やテレビの中にしか見たことのない動物達との面会を果たせるのが、とても楽しみだった。
 雅彦、ほら、あそこにトラさんがいるよ
 母が指差した方に顔を向け、まだ幼かった雅彦は全力で虎の檻に向かい駆け出した。
 そして、その日も、虎は雅彦に向けて咆哮した。牙を剥き、爪をたてた。
 おののき泣き出した雅彦に、しかし母は、いや、母もまた、おののきを隠すことなく、雅彦の姿を見やっていた。

 鏡の中の自分の姿を食い入るように眺め、映画のフィルムが映すようなその映像を思い出し、雅彦は歪んだ笑みのような表情を浮かべていた。
 ああ、そうだ。そうだった。なぜ今まで忘れていたのだろうか。
 喉がひしゃげたような笑みを漏らし、雅彦は両手で髪を掻きむしる。否。それは果たして頭髪と呼ぶに相応しいものであるのかどうか、今の雅彦には判別もつけ難い。
「――ク、クク――――カ、クカ、カカッ――――カカッ」
 自嘲気味に漏らすその笑みは、蛇口からたちのぼる湯気と湯が噴出されるその音によってかき消されていった。

 ああ、そうだ。なぜ、今まで忘れていたのか。
 あの日を境に、以降、雅彦の家族は彼にとり明らかによそよそしい態度をとるようになったのだ。
 まるで、触れてはいけない腫れ物を扱うかのように。
 まるで、厄介者が家の中にあるかのように。

「――――そうか、――――これが、原因か」


 雅彦の看病の途中で激しい眠気を覚えた紅珠は、仮眠をとるために自室へと戻っていたのだった。
 浅い眠りについていた彼女を現実へと呼び起こしたのは、バスルームから聞こえてきた水音だった。
「……まさひこ?」
 眠い目をこすりながらベッドを抜け出し、バスルームへと向かい、顔を覗かせる。
「起きたのー? もう大丈夫ー?」
 大きなあくびをつきながら、バスルームにいるであろう雅彦に向けて言葉をかけた。が、返事は一向に返ってこない。それどころかバスルームには人の気配さえも感じられない。
「……開けるよ?」
 一応の断りを述べた後にバスルームのドアを押し開ける。やはりそこには雅彦の姿はなかった。湯船から漏れ出した湯とたちのぼる白い湯気とが、そこにあるばかりだったのだ。
「まさひこー?」
 蛇口をひねって湯を止め、紅珠は雅彦の部屋へと足を向けた。
 トントン、トントン。
 控え目にドアをノックしてみるが、やはり、反応はない。
「……もしかして、また具合悪くなった?!」
 思い立った紅珠は急ぎドアノブに手をかけたが、ドアには内側から鍵がかけられているようで、びくりともしない。
「まさひこ? 大丈夫なの? ……ねえ、雅彦ー?」
 トントン、トントン
 トントン、トントン


 窓の外には漆黒の夜が広がっている。
 雅彦はベッドの下で膝を抱え、かたく目を閉じていた。
 夜の闇が、いっそ自分の心の中までをも侵食してしまうのではないかという思いが胸をよぎった。



―― 了 ――
 
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東京怪談
2006年02月27日

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