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『『夢惑い』 』
芳賀・百合子5976)&朝深・拓斗(5977)

 日が昇る。
 紫紺に染めあがった空が、山の稜線からゆっくりと金色に変わっていく姿を、百合子はずっと縁側に立ったまま見守っていた。
 夜が更けてから、どのくらいこうしていただろう。
 夏の名残りの、湿った風が縁側を吹きぬけていく。風に煽られ、軒先に吊るされた風鈴がリーンリーンと、夢幻的な音を鳴らしている。
 稜線から、空に向かい地に向かい、眩いばかりの光が差し込み始めた。目の前にある黒い山は、なだらかな面持ちをしている半面、威光を放ち、人間にその威厳を誇示するかのように、聳え立っていた。 
 百合子は真っ直ぐに差し込んでくる日の光に、目を細めた。
 幼馴染の拓斗は剣舞の稽古をしている頃だろう。こうしてぼんやりしていても仕方がない。稽古の様子を見に行ってみようか、と百合子は考えた。
 眠くはあった。だが、予感がする。今日は眠ってしまうといつもの夢を見てしまいそうな気がした。湿った風に妙な気配を感じるのだ。
 風がまた、縁側を吹きぬけていく。その拍子に百合子は夢の内容を思い出してしまった。
 幼い時から繰り返し見てきた夢はいつも、大禍時から始まる。忌々しい、と百合子は目覚めた後に度々思う。 
 夢の中で、赤く染まった太陽は沈みかけていた。鮮血の如く毒々しい朱に濡れた空から、霧雨が降っている。雨は生ぬるい感触を伴って、百合子の肌にまとわりついてくる。
 何か得体の知れないものが百合子を目指して追いかけてくる。「何か」の正体はまるでわからない。だが、背後におどろおどろしい気配を感じる。百合子は霧雨の中をその「何か」から逃れるように走っている。
 怖いのだ、とても。
 逃げろ、走れ。
 心臓はどくどくと脈打っていた。どこを走っているのかわからない。走っていると、時々己の中に封印した過去の記憶が蘇えりそうになる。
 いけない、いけない。思い出しては。
 百合子はひたすらそう思う。必死に走り続けている場所は、苔むした石灯籠が延々と立ち並ぶ、真っ直ぐに伸びた山道だった。 
 そんな場所は実際、見たことも聞いたこともなかった。だが時折、目覚めた後にどこかで見たような景色だ、と思うことがある。
 逃げろ。
 夢の中で、百合子の頭は命令を下す。身の危険を感じる。
 追いかけてくるものは、留まることを知らない。どこまで逃げ続ければいいのか、百合子の鼓動はより一層速くなる。
 息を切らせ始めた頃、やがて遠くに、神社のような屋根が見えた。一縷の望みを託す。そこを目指して、百合子は走り続ける。
 あそこまで行けば、なんとかなるから。
 もろい確信だった。そこへ行った後、「何か」が追いかけて来なくなるという確証はまるでなかった。
 途中、暗い趣の、古びた鳥居を潜る。真っ直ぐに突き進むと、明かりのついた灯篭があった。その先の階段を下る。「何か」もその階段を下ってくる。見え辛い足元に、途中で転げ落ちそうになるのを百合子はなんとか踏みとどめる。
 階段を下り終えると、大きな神社が構えていた。百合子は神殿の中に足をそっと踏み入れる。
 すると、「何か」の気配がすっと消えた。
 百合子は安堵した。後ろは決して振り返らなかった。「何か」の正体を知りたくはなかったし、振り返ってはいけないような気がしたからだ。
 百合子は額から滴り落ちる汗を拭い、神殿の中を音を立てずに数歩歩いた。中は静まり返っている。神殿の中央に狩衣を着た、人の背中が見えた。
「誰?」
 問いかけてみる。百合子よりも背が高い。男の子のようだが、後ろを向いているから顔は見えない。
「あなたは、誰なの」 
 その声に反応して、男の子は振り返った。女の面を被っている。誰だかわからない。 突然男の子はごとりとその場に倒れる。百合子はその子の腹回りに視線をやり、そして悲鳴と同時に目覚める。
 目覚めた後にふと過ぎるのは、赤、という単語だった。悲鳴をあげる理由は、自分でもよくわからない。
 赤。何を指すのだろう。大体の見当はつく。それを言葉にはしたくはない。
 そんな恐ろしいものを毎度見ないで済むのが、不幸中の幸いだと百合子は思う。
「夢なんか見たくないな」
 気がつくと百合子は呟いていた。今眺めている山も日の光も、夢とは大きく違い、穏やかだ。
 なぜ、あんな怖い夢を幾度も見てしまうのだろう。日々の生活は単調に、だが平和に過ぎていくのに。
 やっぱり拓斗の稽古を覗きに行こう。そう思って体の向きを変えた時、不意に風に乗って甲高い笑い声が聞こえてきた。
 風鈴の音よりも遥かに高く、けたたましい笑い声が。
 母の笑い声だ。母は、この芳賀家の離れに住んでいる。気触れの病にかかり、隔離されているのだ。風鈴の音と共に、また、笑い声が聞こえてきた。百合子は思わず耳を塞いだ。心の奥底に封印した記憶が、思わず溢れ出しそうになる。
 怖い、と思った。
 突如、首に圧迫感が押し寄せてきた。今、ここには、百合子以外に誰もいない。首を絞める人間も、百合子を虐げる者も。けれど、苦い記憶が溢れ返って、百合子は苦しい思いでもがいていた。
 百合子は自分の首を押さえ、よろめいた。助けてと絞り出そうとした声は、音にならずに宙に溶けた。 
 首が痛い。首中の動脈が、押さえつけられているような気がする。
――やめて。やめて、お母さん!
 百合子は心の中で叫んでいた。それは昔、まだ百合子が小さかった頃に母に懸命に叫んだ言葉だった。
 母はあの時、笑っていた。気の触れた母に、笑われながら首を絞められ、殺されそうになった自分。母には母なりの、理由があったのかもしれない。だが、「怖い」という恐怖感だけが、今もまだ思い出したくない記憶として胸のうちに残っている。
 私は母を愛しているのだろうか。百合子は時々考える。答えは出てこない。
 母へは畏怖の感情しか持っていないような気がする。だからどうしてあの時母が百合子を殺そうとしたのか、今もまだ誰にも聞けずにいる。
 苦しい。誰か助けて。
 首に感覚がなくなっていく。首の下を流れる血が、脈打っていた。記憶が呼び覚まされる。母が百合子の首めがけて伸ばした、白い両腕を思い出す。
 百合子は呻いた。助けを求めるように、右手を伸ばした。そこには空気しかつかめなかった。立ちくらみがして、思わず屈みこんだ。貧血だろうか。視界が揺れていた。体温が低くなり、体中の血が下がっていくのがわかる。
 百合子は、自分が真っ暗闇の中に放り出されたような感覚に陥った。
「おい、どうかしたのか」
 聞き覚えのある声がして、百合子ははっと顔をあげた。拓斗が袴姿で立っていた。首にはタオルをかけている。百合子は妙にほっとした。拓斗の声を聞くと、安心するのだ。夢への不安も、母への畏怖の感情も、全て溶けていく。
「稽古、終わったの?」
 訊くと、拓斗は頷いた。
「貧血か? 顔が真っ青だぞ」
「立ちくらみがして……」
「寝ていないのか。ちゃんと寝とけよ」
 百合子は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「寝ると、怖い夢を見るんだもの」
 拓斗はなにも答えなかった。百合子は拓斗の袴をぎゅっと握り締めた。
 百合子の頭上から、拓斗の視線を感じる。百合子の胸に刻まれた蛇巫の印を気にしているのが、なんとなくわかる。なにも言わないが、時々、拓斗は百合子の印を気にしているようだ。百合子にとっては、物心ついた時からあるものだから、普通の痣と変わらないのに。
「ねえ見て」
 百合子はまばゆい山を指差した。
「ここは穏やかに時間が流れて、景色も綺麗なのに。恐ろしいものなんて、現実には一つもないのに。どうして私は、繰り返し、怖い夢を見るのかな」
 沈黙が流れた。
「さあ……なんでだろうな」
 そう言う拓斗は、山からふと視線を逸らした。かといって、百合子を見るようなこともしない。 
 時々、拓斗が何を考えているのかわからなくなる時がある。そして、拓斗は百合子の知らない何かを知っているのではと感じることがある。だが、言葉に出して聞けるような度胸は、百合子にはなかった。
 再び立ちくらみがした。よろめいて、百合子は拓斗の腕の中にもたれかかった。拓斗はぎこちなく、百合子を支える。その手は力強く、温かかった。
「汗臭い」
「……悪かったな」
 不機嫌そうな返事が返って来た。それでも百合子は安心していた。
「なんか、一人でいると不安で、怖くて……でも拓斗が傍にいると、不安が溶けていくみたい」 
 拓斗の大きな手が、百合子の頭をそっと撫でた。ごつごつしているけれど優しくて、とても気持ちがよかった。このままこの腕の中で眠ることができれば、いい夢を見られるかもしれない。
「なにか、歌でも歌って」
「う、歌?」
 拓斗はどもった。抱かれている間、吹きつけてくる風は気持ちがよかった。
「そう。安心して眠れるような歌」
「俺、そんなの歌ったことない……」
「なんでもいいから」
 拓斗は黙っていた。そういえば、拓斗が歌っている姿を、百合子は見たことがなかった。拓斗は本気で、何を歌えばいいのか戸惑っている様子だ。やがて拓斗は俯き、恥ずかしそうにぼそぼそと歌い始めた。
「か、かえるの うたが きこえて くるよ ぐわっ ぐわっ ぐわっ……」
「なにその歌。そんなんじゃ眠れない!」
 百合子は「もっといい歌うたってよ」という風に、拓斗の袖を揺さぶった。
「じゃ、じゃあ、ねんねん……おほろり……おほろりよ……」
「『おほろり』じゃなくて、『おころり』!」
 拓斗は剣舞は上手く、反射神経もいいが、歌は驚くほど下手だ。音程を外している。
「歌なんか歌えねえよ。わがまま言うな」
 ぶっきらぼうに、拓斗は呟いた。
「じゃあ、もういい。しばらくこのままでいさせて」
 百合子は拓斗の腕の中に、さらに深く埋もれた。温かい。今ならいい夢を見られるだろうか。百合子は目を閉じた。頭を撫でてくれる腕が、ありがたかった。こんな幸せな日がずっと続けばいいのに、と百合子はまどろみの中で思った。
「百合子……? 寝たのか?」
 百合子は静かに寝息を立てていた。幸せそうな顔で眠っている。
 拓斗は参ったな、というように首を回し、なだらかな山を見つめた。
 風が吹く。リーンリーン。風鈴の音が、綺麗な音を奏でていた。今日もよく晴れそうだ。見上げた山は眩しく、紫紺の空が清々しかった。 
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東京怪談
2006年02月23日

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