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『Jacob's ladder 』
ルーカ・バルトロメオ5951

 冬枯れたアザミが、自身の棘を持て余すように所在無く風に吹かれている。
 手折る指から身を守った棘は、艶やかさを失った今では身に余る名残だった。
 丘を覆う雪と、砂色の墓石と、季節から取り残され枯れるままの花。
 それらが連なる場所を歩む、コート姿の青年が手にした花束だけが生を感じさせる色彩を留めていた。
 丁寧に束ねられた黄薔薇、サニープロフィッタからこぼれる――光。


 ローマより車で半日ほど北へ向かった先に、古びた教会と塔が建っていた。
 まわりは墓地が囲む、静かで人気のない丘だ。
 休日が二日続けば必ず訪れている。
 けれどカラビニエリとして美術品の行方を追い、また魔術ソサエティ『矢車菊の守り手』に属して事件の度に駆りだされる身としては、年末年始やクリスマス以外で数日の休日を取れる事など稀で、年に一度訪れればいい方というのが数年続いている。
 ルーカ・バルトロメオにとってその場所は『分水嶺』だった。
 高い頂に降った雨水が別れ、裾野へと流れてゆく場所。
 魔術ソサエティという世界に身を置いたルーカが、己の意思で生き方とその先を決めた場所。
 初めてこの丘を訪れたルーカは子供と呼ばれる年齢だったが、今では大人として通じる年齢、庇護する側の立場へと変わっていた。
 あの時手を引き、庇護してくれた女は亡くなった。
 前代の『白の第二鍵』、ルーカを導いてくれた女はアレクシエルを召喚中に絶命し、発動した『サクリファイス』によって全ての魔力と引き換えに蘇生した。
 魔力を失う事は魔術師の死と同じ意味を持つ。
 魔術師としての彼女はやはりあの時死んだのだ、とルーカは思う。
 どこか魔術とは無関係の場所でひっそりと息を紡ぐ彼女の背を、もうルーカは追わなくなった。
 母とも姉とも、恋人とも違う、思慕と情。
 それを断ち切った痛みが胸を焼くのにも慣れ、麻痺する程に、歳月は流れていた。
 師が死に、そして生まれ変わったこの場所は彼女の墓所でもあり、迷いが生じたルーカが自分を見つめ、立ち返る場所でもあった。
 ――まだこうしてここに来る俺を、女々しいと笑いますか?
 ルーカは思い出の中の女にそう問いかける。
 風が薔薇の花弁を散らさないように腕で庇いながら歩み、ルーカは教会の扉を押し開いた。


 ルーカが初めて訪れた頃から変わらずこの地で墓守をしている老人が、節くれだった手で教会の塔に続く通路の鍵を渡す。
 この集落に住む人間は減っていた。
 老いて亡くなる者の他に、退屈で不便な暮らしを嫌って他所へと移った者もいる。
 それはつまり、信仰による寄進だけで牧師が生きていけないという事に他ならない。
 教会から牧師がいなくなってからも、数年がたっている。
 葬儀などがあれば、遠方の他の教会から呼ぶといった有様だ。
 歳月が記憶を薄らげていくのか、それとも記憶する者がいなくなるから、物事の輪郭が薄らいでゆくのか。
 普段は思いもしない思考に囚われる自分に苦く笑い、ルーカは慣れ親しんだ階段を上る。
 墓守の老人は訪れる人間がいなくても小まめに雪を払っていてくれたらしく、ガラスの嵌っていない、岩壁をくりぬかれた窓から階段に積もった雪は僅かだった。
 ――前に来たのは春先だったか。
 ここでの一番新しい記憶は、窓から霞む春先の風景だった。
 一番古い記憶は生まれて十年も数えない頃。
 階段を上りながら、ルーカは子供の頃に比べて何を失い、何が満たされたのか考えた。
 魔術への知識と、幾つかの器用に生きる手段、迷い悩む時間を短くする方法。
失った物に感慨はない。
 両手に持てるものは限られているのだから。
 一段上る毎に空への距離が縮まってゆく。
 地上から離れてゆく不安の向こうに、かつての信仰者たちは神に近付けるように感じたのだろうか。
 螺旋を描くように階段を上れば、窓の外の風景がなだらかな丘から、塔の裏手に広がった、波濤の打ち付ける断崖へと変化する。
 それを横目で見ながらルーカは塔を上り続けた。
 路上に車を止めた時にちらついていた雪は止み、寂しい灰藍色の海にかかる雲も薄らぎ始めていた。
 重なり合った雲の合間から、海の上に光の束が伸びている。
 光の梯子。
 ヤコブの梯子。
 天使と呼ばれるものが地上へと伝い降りるものなのか、それとも天界を夢見た人間が駆け上がるものなのか。
 ――先生は神の世界を見る事ができたんですか?
 言葉に出して聞く事はなかったが、蘇生の際に師は天界を覗いたはずだった。
 魔術による知覚で、ルーカも高位の存在を感じ取る事はできる。
 今も、自分を取り巻く存在がもたらす意志力を肌で感じている。
 魔力を抑制するためにかけた眼鏡を外せば、その意志の洪水に飲まれてしまうだろう。
 天上の音楽。
 人がその奏でを聞く時は死出の旅立ちの時。
 ――真の天上曲を、俺は聞く事ができるのかな……。
 かつて師の傍に仕えていた天使は、今は自分の元に繋がれている。
 『白の第二鍵』を継いだ者であるルーカに。
 この塔で天使を召喚し契約したルーカに、人づてにそれを聞いた師から短い手紙が届けられた。
 手紙を読んだ時涙が流れたのを覚えている。
 労わりと励ましと、それから別れを告げる言葉。
 あの時感じたのは孤独だった。
 師の背を追い越してしまってルーカが得たものは、自由とそれに見合った孤独だった。


 俯いて歩いていたルーカは吹き付ける風に潮の香りを強く感じ、階段が途切れ、塔の頂上に着いた事を知った。
 古びた鐘が下がる向こうに、光の降り注ぐ海が見える。
 塔の上から見る海は不思議と温かに思えた。
 海に向かって、墓標の無い師の弔いのため花を投げるのがこの教会に来たルーカのもう一つの目的だった。
 そして薄らいでゆく記憶を、あの頃の自分が感じた感情の輪郭を、強くなぞり忘れないために。
 花束を海に放り投げて、すぐに踵を返すのがいつもの慣わしだった。
 しかしルーカはふと思いついて、花弁を丁寧にがくから外し、それを空へと放った。
 黄色い花弁は風に乗り、空と海の合間に漂う。
 葬送の悲哀、誕生の祝福。
 どちらも同じ相手の元へ。
 ――さよなら、先生。
 春を予感させる薔薇の色彩が視界から消え去ったのを見届け、ルーカは光の梯子に背を向け歩き出した。
 塔を下り、再び人の世界へと戻るために。
 

(終)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
追軌真弓 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年02月21日

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