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『雪月の庭 』
槻島・綾2226

 朝方から降り始めた雪は、日暮れを迎える時刻になって漸く止んだ。
 海に臨むこの街は黒潮が運ぶ温かな海風の影響か、冬でも比較的温暖な気候であるのだという。気温がここまで下がることも、雪が降ることも滅多にないんですけれどねえ、と膳を下げにきた顔なじみの女将は困惑混じりの笑みを浮かべた。
「普段は本当に雪雲に嫌われた街なんですよ。その証拠に」
 彼女がすっと視線を投げたその先へ綾も眼差しを向ければ、紺色に塗りつぶされた窓に美しい円を描いた月の姿がある。
 さっきまで空を覆っていた雲はどこへいったのやら、と微苦笑を浮かべるその人に、庭に出ても良いだろうかと申し出ると、少しばかり黙り込んだ後、その唇からふっと溜息が零れる。
「そういう所は大人になっても変わりないですわねえ。……風邪を召さないように温かくしてくださいましよ、綾さん」
 
 鎌倉を訪れる際には定宿としているこの旅館は、高台に位置し、各部屋からは街と海とを一望することが出来た。なかでも庭からの眺望を両親に伴われ訪れていた子供の頃から綾は好んでいたのだが、夜間の、しかも周囲は雪景色という中で眺めるのは初めてのことだった。
 コートを着込み一歩屋外へと踏み出せば、顔に触れる空気は刃のように冷え、眼鏡のレンズは曇り、吐息は白く染まった。地面を覆う白い絨毯を踏みしめれば、きしりと籠もった音が鳴る。
 夜間の立ち入りは禁止されている灯りの乏しい日本庭園へと歩を進め、白熱灯の黄味を帯びた光に照らし出される建物を振り返れば、玄関先から自分が立つこの場所まで、青みを帯びた足跡が雪の中に点々と綺麗に残っているのが見て取れた。
 そのまま常緑樹の多い庭の中を歩けば、庭木は降りかかった白い雪と上空から降り注ぐ月明かりによって、うっすらと闇の中から浮かび上がる。いつもであれば夜陰に埋もれるその輪郭が藍色の闇の中で顕わになり風に震えていた。
 降雪が空気を清めたのだろう、天から降り注ぐ白い光の切っ先は冴えわたる。降り積もった雪は月の助力を得てきらきらと鉱石のように輝き、その姿はまるで光が結晶したもののように見えた。
 視界を遮るような木々の群れが開けると、その先に、深い蒼に染まった空と静まった鎌倉の街、そして紺青の海が見えた。
 昼間の喧噪を覆い隠した家々は息を殺したように静まり、ただ窓に点る光がそこに暮らす人々の存在を主張している。
 海には空から伸びた光の帯が降り注ぎ、その白光が水平線までも淡く浮かび上がらせている。その姿は海さえも雪に覆われたかのような、そんな錯覚を綾に覚えさせた。
 月は雪を輝かせ、雪は月の光のように煌めき、夜の古都を彩る。美しく、儚げなその光景を綾は息を詰めて見つめる。
 ──むばたまの夜のみ降れる白雪は照る月影の積もるなりけり
 ふと脳裏をかすめた後撰集の歌に綾は目を細める。
 古の昔にも同じような景色を見、また同じように感じた人がいたのだということに、改めて気づく。
 それはとても不思議な感覚であると共に、懐かしみに似た感情をも思い起こさせた。
 街は姿を変え、人の在りようさえも大きく変わってしまったというのに、それでも心には共通するものがある。名は残らなくとも言の葉に思いは宿り、歴史の彼方に在った人の心を今に伝える。それとともに自分の中にも、かの人と同じように感じることの出来る部分が在るのだということに安堵する。
 世は無常。ゆく川の流れは絶えずしてもとの水にはあらず。
 確かにそうなのだろう。それを否定することは出来ない。けれども全てが全て、変わり果て、失われてしまうわけではないのだとそう思う。遠い昔と今を結ぶものは、目には見えなくともあるのだ。
 綾は息を吐き出す。白く染まったそれは月光に煌めき瞬く間に夜の中に溶けてしまった。
 雪をも陽の光を浴びれば姿を消すだろう。
 けれども自分はこの光景を忘れはしない。
 肺を冷えた清冽な空気が満たしていくというのに、綾の心は仄かに温かかった。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
津島ちひろ クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年02月13日

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