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『重なる面影、見えない涙 』
ルーレン・ゲシュヴィント4044)&四宮・杞槙(0294)


 冷えて澄んだ空気が漂う朝。
 四宮家に一人の赤子が生まれた。
 それはこの上ない喜びであり、また同時に――罪悪感を感じる日々の始まりでもあった。
 …杞槙と名付けられたこの赤子に対する、己の役割を自覚すればする程。

 ルーレン・ゲシュヴィント。
 祖国はドイツ。杞槙の母と共に来日。それ以来四宮家の専属として付き従い、今に至る。
 専属の家庭教師として――そして、『カゴを預りしもの』として。
 杞槙の前に居る。
 肩書きを並べるならばまだある。
 …彼女の、主治医でもある。
 …オーボエの師でもある。

 そして杞槙にとって自分は、生来の友人であるとも言える。
 だがそれは、杞槙が外の世界を知らないが故、自然、なってしまうだけの事でもあり。
 無論、望まなかった訳では無い。
 杞槙の事は生まれてから――否、遡れば生まれる前からと言った方が正しいか。ずっと己の妹のように子供のように思っている。とても大切なひとの娘。家族同然で居られる事は喜ばしい事。友人で居る事も確かに望んだ。
 望んだが。

 ――それで、それだけでいいのかと。
 外の世界を知らないままで居るのが、彼女にとって本当に幸せか?

 時折思う事がある。
 過ぎっては消え、消えては再び浮かび。…心の中から決して消えない、迷い。

 籠から飛び立たせてはならぬ。
 これが自分の役目。
 決して抗えないもの。
 抗ってはいけないもの。
 …否、抗う気など初めから微塵も無いもの。

 けれど。

 杞槙自身、それを望んだだろうか。
 それで杞槙は幸せだろうか。
 年を重ねる毎に、彼女と――杞槙自身の母と重なっていく杞槙の姿を見ていると…そう考えずにはいられない。
 役目に抗う気は決して無い。
 大切な約束。
 必要な事柄。
 わかっていても。
 消えて、くれない。
 この迷い。





「時々…ね、私を見詰めるルーの顔が、とても寂しそうに見えるの」

 私がそうさせているのね。ルーにだけ、辛い思いをさせて、ごめんなさい。

 ふとした時に告げて来た、杞槙の言葉。
 …違う。
 そんな顔をさせたいんじゃない。
 そんな事を言わせたいんじゃない。
 傷付けたくないだけ。
 幸せになってもらいたいだけ。
 ごめんなさいなどと、言わせたくはなかった。
 それも、僕になど。
 本当は杞槙、キミじゃなく、僕こそが。
 謝らなければならない、のに。
 …辛い思いをさせてと言うのなら。ごめんと言うのならば――それは、余程。
 僕の、方こそが。

「杞槙…そんな事は無いよ。杞槙が悪い訳じゃない。
 ただ杞槙を見ていると、彼女を思い出してね。少し昔を思い出すだけだよ」

 随分と母君に似て来たから。

 それは、事実。
 年を重ねる毎に、面影が重なる。
 杞槙の、母親と。
 …心密かに想いを寄せていた、彼女に。
 それもまた、迷う理由の一つなのかも知れない。
 …できなかった、から。
 貴女は幸せだったのだ、と。
 今の自分は彼女の過ごした時について、そう言い切る事ができないから。無論、不幸だったとは絶対に言わない。そうは思わない。それだけは否定できる。だがそれでも、本当にそれで彼女は幸せだったのかと問われれば――自分は、自信を持って答えられない。
 だから今、再び迷う。

 杞槙は全部わかっている。僕自身の役目を知っていて、気付いていてもなお…慕ってくれる。
 師だと。友だと。…家族のようなものだと。
 受け入れてくれる。
 だからこそ、余計に。
 籠の中に在らねばならぬ事。杞槙にとって、それは望まぬ枷なのではないかと。
 そのままで、いいのかと。

 …問い掛けが自分の中で日々大きくなっていく。

 杞槙も母親のように、籠の中で短い時を過ごすのだろうか。
 それでいいのか。

 自分自身に何度も何度も問い掛ける。
 姿を見る度、思う。
 亜麻色の髪、若緑の瞳。
 疑いを持たぬ無垢な魂。
 彼女は素直に籠の中に甘んじる。





 罪悪感の始まり。
 初めて悩んだあの日から――もう十数年が経ち。
 ルーレンはまだ、迷い悩み続けている。
 杞槙は、変わらない。
 人懐っこい笑みも、その無垢な瞳も。
 ルーレンを慕う姿も、何もかも。
 それだけでも、堪らなくなる時がある。

 …そんな、ある朝。
 目覚めれば窓の外、朝の冴えた空気が感じられ。
 偶然ながらも杞槙が生まれたあの日と同じような、澄んだ空気と青空が広がる日、だった。
 悩みも迷いも吹っ切れるような。
 心を決めるには、いいような。

 いつも通りの杞槙と過ごす時間。机を挟み。学習の合間。
 無垢な瞳に、思い切って、訊いてみた。

「杞槙。
 ここから飛び立ちたいと思うかい?」

 極力、さりげなく聞こえるように杞槙に問う。
 突然のその問いに、杞槙は少し、止まって考える。
 ふるふると頭を振る。
 …殆ど時を置かずに、否定した。
 可憐な花が咲くような淡い微笑みと共に。
 告げる。

「思わないわ。
 …だって、私には皆が居るから」

 ルーが気にしている程、ここは悲しい場所じゃないわ。
 ――だから、もう、泣かないで。

 言われた途端、思わず――目を見張った。
 ルーレンは、泣いてはいない。
 その筈だった。
 事実、涙を流してはいない。
 思わず確かめた。目元に指先をやる。
 …泣いてはいない。
 けれど。
 杞槙に言われて、気付いた。
 素直に自覚する事が出来た。
 …心では、確かに泣いていた。
 杞槙には、それがわかっていた。
 本当に…驚いた。

 嘘じゃない。本当の事。杞槙の発言。…飛び立ちたいとは思わない。本心だとわかる。けれどだからと言って――その発言に、僕を気遣っての部分が無いとは言い切れない。
 …否、僕を気遣うと言うその部分もすべて合わせて、彼女の本心である事。
 それも、わかってしまう。

 だからこそ、今こうやって――『泣く』のを止めて、杞槙に優しく微笑み返す事が、できても。
 今まで通りこれからもずっと、いつまででも――僕は迷い続けるのだろうと、確信してしまう。

 …すまない、杞槙。
 それから――ありがとう。


【了】
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東京怪談
2006年01月31日

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