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『屋上のこいびと 』
光月・羽澄1282)&葛城・伊織(1779)

 月を背に、虎が咆えた。
 だが、そこは、中国の深山でもなければ、熱帯の密林でもない。真冬の東京――新宿の摩天楼を近くに臨むビル街だ。
 新年を迎えて華やぐ街を、人々は白い息を吐いて行き交う。
 誰が気づくだろう、そのはるか頭上の追跡劇に。
 たまたまふと上を見上げたものがいて、ビルの屋上から屋上へ、ビルの谷間を虎が飛び移っていくさまを目にしたところで、正月の酒がまだ残っているのか、としか思わなかっただろう。
 むろん、その虎の後を追って、ひとつの人影が、ビルの屋上を八艘飛びのごとくに駆けていくという光景についても、だ。
 虎の毛並みは、月光に白く輝く。それは白虎であった。そしてその縞模様をよくよく見れば、縞と見えるものが、あやしい経文を書き連ねたものであることがわかる。今、給水塔の上で獰猛な牙を剥くその獣は、とある骨董品より出現した、いにしえの呪術の産物であった。その出現に至る経緯については省いておこう。
 ともかく、ある一月の夜、東京のビル街を一匹の虎が逃げ、葛城伊織がそれを追っていたのである。
 虎がいる給水塔のあるビルの、屋上の手すりの上に、伊織は、すっくと立つ。常人ならば、到底かなわぬことだったが、彼は恐れるでもなくそこに立ち、虎と相対しているのだ。
 たん、と、手すりを蹴って、その身体が軽業のように宙を舞った。
 手の中には、細長い《鍼》が閃く。
 カン、と硬い金属音を響かせて、鍼は給水塔の表面に突き立った。虎は――、まるで翼があるかのような身軽さで跳躍し、彼の攻撃を避けたようだった。ちっ、と、舌打ちを、伊織は漏らす。
「逃がさんぞ」
 低く呟いて、彼もまた跳んだ。
 張り詰めた睦月の空に架かる月に、虎と青年のシルエットが横切ったとき――
 冬空の空気のなかに溶けてゆく、鈴の音のような笑い声を、伊織は聞いた。
「!」
 あるいはそれは、本当に鈴の音だったのかもしれない。それとも、その両方か。
「……ちょっ――」
 いかなる不測の事態にも、動じることのないよう鍛えられている伊織ではあったけれど、着地点がいささか前後してしまったようだ。見るからに不安定な様子で、どこかのビルの屋上に、側転の要領で手をつく。180度回転しか視界の中にとらえたのは、向かい側のビルの鉄柵に腰を下ろした――そんな場所に人がいるはずがないので、一見すると、まるでまぼろしのように見える――銀の髪の少女であった。
「なにしてんだ!」
 思わず声を荒げてしまった。
 だが、相手は動じたふうもなく、すべて心得ているといわんばかりの表情で、ふわり、と空へと一歩を踏み出した。
 妖精めいたガラスの羽が震動すると、不思議な風鈴のような音が、かすかに鳴るようだ。
「羽澄!」
 伊織は、腕の力だけで、方向を変えて跳躍すると、彼女の名を呼びながら、手を差し伸べた。
 再び月の銀幕に浮かび上がったシルエットは、ひと組の男女の、宙で手を取り合う姿だ。
「この!」
「きゃっ」
 羽澄が小さく声をあげた。
 伊織が、空中で、彼女の身体をぐい、と引き寄せたからだった。
 無重力の世界で、何年かぶりの再会を果たした恋人ででもあるかのように(あながちただの比喩でもない。ただ何年も生き分かれだったというわけではないというだけで)、ふたつのシルエットはひとつになって、夜空を舞った。
「もう」
 羽澄がわずかに頬を染めているのは、寒空にはげしく運動したせいなのか。
 伊織は、彼女が、「仕事着」であるのをみとめる。場所からして、たぶん胡弓堂に帰る道だったのだろう。
 それにしたって、この広い東京で、偶然にもふたりは会ったのだ。
 その偶然を、運命と読み替えて、伊織はうっすらと微笑を浮かべる。
 ガルルルル――、と、恋人たちの一幕を邪魔するように、白虎が唸った。
「予期せぬトラブルに巻き込まれているんだったらサポートするわ。もともとこういう仕事だったんなら終わるまで待ってる」
 呪術の獣に一瞥をくれて、羽澄は言った。
「じゃあ、待ってろ――」
 ひょい、と体勢を立て直し、駆けてゆく伊織の背中。
 両の手に鍼を構え、彼が跳躍したとき、きらりと残像を残したものに、羽澄は目をしばたいた。
(あ……)
 繰り出される凶悪な爪の攻撃をかいくぐり、伊織の鍼が虎を仕留めるのに、そう長い時間はかからなかった。そう、ちょうど……、羽澄がlirvaの新曲のひとつを、鼻唄で歌いおわるくらいの時間だったろうか。

  #

「ねえ、もしかして左腕を怪我した?」
「あ? なんで?」
 呪術の虎がかりそめの生命を失い、さらさらと風化して消えたあと、遠慮がちに発せられた羽澄の問いに、伊織は不思議そうに返した。
「え。だって……すこし、左側を庇っているように見えたから」
「そ――」
 その一瞬の間を、羽澄は見逃さない。だが、伊織は、
「そんなことねぇって」
 ぶっきらぼうに否定して、ぐいと左袖をまくりあげ、力こぶさえつくってみせた。
 だが、それは失敗だった。その手首に巻かれたブレスレットに、羽澄が気づいてしまったから。
「……」
「おまえの仕事は終わったのか」
 伊織は訊ねた。
「……え。あ、うん」
「飯食ったか。どっか行くんなら付き合うぞ」
「店に戻ろうかな、って。お腹空いてるなら、戻ったら何かできると思うけど」
「ありがたい。俺はいつだって腹ぺこだ」
「そうよね……ふふ……ふふふっ」
 こらえきれずに、羽澄は噴き出す。
「な、なんだよ!」
「だって!」
 ガラスの羽がふるえて、羽澄の身体が、再び夜空へと舞い上がった。
「あ、おい!」
 伊織がそのあとを追って、ビルの谷間を飛んだ。
 くすくす。くすくすくす。
 まるで悪戯な天使の笑い声だ。
 月だけが見ている、空中のおいかけっこが、しばらく続いた。
「捕まえた!」
 伊織の腕が、銀色の小鳥の籠になったのは、もう歌舞伎町の灯りが眼下に見えるあたりだった。
「白状しろ。なにが可笑しい」
「左手、気にしてたんでしょ。ずっと」
 羽澄は言った。
「え――」
「慣れないものを嵌めてるから」
 ブレスレットは羽澄の贈り物だ。
 だが、伊織は、ブレスレットなぞ身につける習慣のない男だったのだ。いかに熟達の技をもつとはいえ……否、熟達の技だからこそ、表の稼業でも裏の仕事でも鍼を得物に扱う彼にとって、腕に感じるわずかの、いつもはない違和感は、大きなものだったろう。
「ばっ――、すぐに慣れるさ」
 とりつくろうように言った伊織の鼻先に、羽澄は小さな金具を摘まみ上げてみせた。
「これなぁんだ」
「…………なんだよ」
 予告状通りに犯行を果たしてみせた怪盗のように、羽澄は微笑む。
「貸して」
 伊織の腕からブレスレットを取り外すと、手持ちの金具をはめ込んだ。
「ほら、こうすると、携帯のストラップになるの」
「なに!?」
「ごめんね。このあいだ、これのこと言いそびれちゃって、このパーツも渡せなかったの。どうせ仕事のときはブレスレットは邪魔だろうと思ったし……最初からそのつもりだったのよ」
 伊織に携帯を出させると、器用な手付きでそれを取り付ける。ちいさな緑の石が、きらりと輝いた。 
「なんだって」
 そりゃねェよ、と、言葉にせずとも、伊織の顔が言っていた。
「これで気にせず仕事できるでしょ」
「あー、ん……そう……だな」
 じゃあ行こう、と促しかけた羽澄に、伊織は、
「この金具、ずっと持ち歩いてたのか」
「だって、いつ会えるかわからないじゃない。いつ会ってもいいように」
 銀の小鳥は籠をすりぬけ、またもや夜の空へ。
「俺は!」 
 伊織は声をあげた。
「会えると思ってた。……これをずっとつけてたら」
「……」
 緑の瞳が、ちょっと驚いたように彼を振り向いて、そして細められた。
 そう――
 葛城伊織は、ずっとブレスレットをつけていたのだ。
 大晦日も、三箇日も。
 誰かに「珍しいねぇ。プレゼント?」とひやかされても。
 彼女の瞳と同じ色のこれが、運命を繋げてくれるような気がして。
 だからそれが、肌から離れてしまうのは、すこしだけ残念でもあった。
 毎度、つけたりはずしたりするのにも時間がかかってしまう(不器用なのではなく、慣れていないだけだ!と彼は主張――誰に? 自分に、だ――していた)伊織だったが、そんなことを羽澄に言うつもりはなかった。なかったけれど、結局、完全にお見通しだったのだと知らされて、泣き笑いのような表情になってしまう彼だった。
「おい、待てよ。待てったら!」
 せめてもの意趣返しに、胡弓堂の今夜の飯櫃を空っぽにしてやるぞ、と心に決めて、伊織は新宿の夜空へと身を躍らせた。

(了)
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
リッキー2号 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年01月10日

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