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『初詣と夫婦善哉 』
藤井・せりな3332)&藤井・雄一郎(2072)

 正月である。
 仕事が休みだからだろうか。正月のあいだは、時間がゆっくりと流れている気がする。
 空気は冷たく、ぴんと張り詰めていたけれど、家の中にいるぶんには枝をふるわせる木枯らしも情緒というもの。
 多くの人々が帰郷するため、東京の街からは車が消えて、ひどく静かだ。
 のんびりと過ぎていく時間は、とろけるような微睡みを誘う。
 藤井家の居間では――、果たして、藤井雄一郎が、コタツに半身をつっこんだ大の字の姿勢で、日も高いというのに、とろとろと眠りこけていた。
 すなわち、これ、寝正月。
 いつも、きわめて精力的に店を切り盛りし、それ以外にも年齢不相応なテンションの高さで活動している雄一郎が、これほど弛緩しているのは正月くらいのものだろう。
 いや、正月であれば、正月なりに、やれ挨拶回りだ、凧上げだ、羽つきだと、庭駆け回る犬のように張り切っていそうな気もするのだが、そして実際にそうであった年もあるのだが、今年の雄一郎は寝正月なのである。
 それというのも、娘たちが、いろいろな理由で、元旦だというのに帰ってこないからだ。
 三が日くらいは……いやせめて一日くらいは家にいたらいいのに、という雄一郎の申し出は聞き入れられなかった。
 父は見捨てられたような気持ちになり、思い描いていた「家族で楽しいお正月」イメージの、無残にも崩れ落ちた残骸にうちひしがれるよりない。ああ、いつかの年の正月は、ふたりの娘とひとりの居候を加えての、雄一郎杯争奪カルタ大会で盛り上がったよな、とか、あの年に庭でモチつきをしたのは楽しかったなあ、とか、○年前は一家で明治神宮に行ったのだ、いやそれとも靖国神社だったかな、とか、走馬灯のごとく甦る思い出は、それが楽しければ楽しいものであっただけ、今年は静かな家の中をいっそう寂しく思わせるばかりだ。
 コタツの上のミカンと、年賀状の束。
 しゅんしゅんと、やかんが立てる音。
 赤い字で大きく「1日」と書かれた日めくり。
 娘たちは、正月休みを、実家で過ごさずにどこで――そして誰と――過ごすというのだろう。
「あらあら、寝ちゃってる。寝正月なの」
 妻の声が、雄一郎を眠りから引き戻した。
「んあ?」
「あなた、よだれ、よだれ」
「ああ……寝ちまってた…………ぬお!」
「そろそろ仕度してよ」
「…………え」
「初詣に行くって言ったじゃない」
「あ、そうか。……それでか。ああ、驚いた」
「まァ」
 ちょっと心外そうな声を、せりなは出した。
 雄一郎が、目を見開いたのは、せりなが、和服だったからである。
 鶯色――というのだろうか、いや、それよりはもうすこし、落ち着いた色あいか、ともかく、くすんだ緑色の小紋を、すっきりと着こなしたせりなの姿に、雄一郎は息をつく。
 次に出そうになった言葉は、「そんな着物持ってたか」だったが、これはとっさに呑み込んだ。自慢の着物を雄一郎が覚えていないということになったら気分を害させてしまいそうだし、そうではなくて、彼女がひそかに買ったというのなら、それはそれで(値段によっては)一悶着起こりそうだったからである。カンペキに家計を掌握し、なおかつ、しっかりと締めているせりなのこと、決して無駄遣いをしているとは思えないが……。
「さあ、立って。はやくはやく」
 追い立てられて、雄一郎はのろのろと起き上がる。そして――。

「ん、いいわね。最近ちょっと太ったんじゃないかと思ってたけど、そうでもないみたい」
 鏡の中の夫を。せりなは満足そうに眺めた。
 角帯を締め、羽織を着せかけてみると、雄一郎もなかなかの男ぶりだった。
 体型が崩れていないのは、日々、力仕事に精を出しているからか(花屋の仕事はわりに重労働だ)、それに加えて、草間興信所やアトラス編集部経由の仕事に飛び回っているからか。もっとも、男の和服は、もうすこし胴回りがあっても映えるものだけど、と、せりなは思う。
「正月だからってなぁ」
 雄一郎は言った。
「お正月くらいはね」
 せりなが応える。
 そして夫妻は、連れ立って、初詣に出掛けたのである。

  *

 出掛けた先は、人でごった返す名の知れた場所ではなく、近所のそう大きくない神社だった。
 近いので、歩いて向かう。
 外は寒風。せりなは和装用のコートを羽織った。
(結局、隠れちまうのに……)
 コートは簡素な灰色で、それを着たら、雲雀の刺繍があでやかな帯も、その上にアクセントをなす福寿草の帯留も見られなくなってしまう。せっかく滅多に着ない着物だというのに、家の中で、誰に見せるでもなく終わるのでは勿体ないではないか、と雄一郎は思うのだ。銀行なら女性行員が晴れ着で客を迎えることもあるが、花屋ではそういうわけにもいかないし。
 小さな地元の神社とはいえ、さすがに正月ともなれば、夫妻の他にも初詣の姿が見られる。日頃は猫が昼寝をしているだけの境内の砂利道を、草履の足音が行き交っていた。
 がらんがらん、と鈴が鳴る。
 新年の音だ。
 その音自体は、別にいつもと変わらないはずなのに――。
 賽銭を放り込み、ふたりは並んで、神前に立つ。
 ふたつの柏手。
「…………」
 しばし目を閉じ、心中に願いを呟いたあと、目を開けて隣を見れば、せりなはまだ目を閉じていたので、あわてて、雄一郎は再び手を合わせて目を閉じた。思いが浅い、と言われたような気がしたからだった。
(何を熱心に念じているんだ?)
「……」
「……」
 横目で、うっすら瞼を開けてみて、確認してから目を開く。
 願いを終えても、せりなはそこにたたずんだままだった。
「……いきましょうか」
「あ、ああ」
 混雑する有名神社でないので、うしろに並んでいる人がいないのがさいわいだった。 
「なにをお願いしたの?」
「……来年の正月は、皆で過ごせますように……」
「あきれた!」
 せりなは笑った。
「初詣に、そのまた来年のことをお願いしてどうするのよ」
「そ、そういうおまえは――」
「私? 私は……」
 微笑を浮かべて、彼の妻は言うのだった。
「うちの娘たちも、素敵な家庭を持てますように、って」
「そうか。そりゃあな、家族は大切…………………………、家庭を――持つ……って、おい、そりゃどういう意味だーーー!?」
「うふふふふ」
 花がほころぶように、彼女は笑った。
「はあ、やはり、無理にでも元旦くらい召集しておくんだった。こんな張り合いのない正月ははじめてだ……」
「そう言わないの。今のうちに静かなお正月にも慣れておきましょうよ」
「いやなことを言うなあ!」
「だって……いつかは――ねえ?」
「う……」
 雄一郎とて、理解せぬわけではないのだ。
 雛は巣立ってゆくものであることを。
 そして、巣立っていったとしても、家族の絆が消えてしまうわけではないことも。
「あ――」
 せりなが小さく声をあげた。
 ちらちらと舞い散る粉雪を、みとめたからだった。
「冷えると思ったら」
「帰りましょう。あったかい、お汁粉でもつくるわ」
「汁粉か。いいねえ」
 たったそれだけのことで、しょげたような顔になっていた夫が笑顔を取り戻すのを見て、せりなはくすくすと笑った。わざと意地悪をするように、
「ふたりきりだけどね」
 と付け加える。
「それを言うな」
「たまにはいいじゃない? 夫婦善哉ね、ふふふ」
「ぜんざいと汁粉は違うだろ?」
「夫婦善哉は関西でしょ? 関西だと、つぶあんの汁粉をぜんざいっていうの」
「そうなのか。こっちでいう田舎しるこってやつだな」
 甘い匂いを思い浮かべながら、雄一郎とせりなは、寒さのあまり、知らず知らず身を寄せ合うようにして歩く。 
 賽銭箱の前で手を合わせながら――、せりなもそっと盗み見たのだ。だから夫が、口で言ったのとは、すこしだけ違う願いごとを思ったことを知っている。そしてそれが、彼女の願いと同じだったことも、だ。

(今年も、みんなが、無事でいられますように)

 たとえ家族が、離れた場所で、それぞれの新年を迎えたとしても。
 皆がそれぞれに幸福であることだけが自分の願いだと、せりなは思う。
 そして彼女自身は、今年も、また来年も、その次の年も――、かたわらを歩く夫に、寄り添って年を重ねてゆければいい。
 髪が白くなって、しわが増えたとしても……、いつかは、お店だってしまう日がくるかもしれないし、さすがの雄一郎も歳とともに無茶はできなくなっていくだろう。それでも、汁粉を煮てあげれば、彼は穏やかな笑みを彼女に返してくれるはずだ。その胸には、ゆるやかに燃えるあたたかな色の炎をともなって。
(コートの下の晴れ着はね)
 彼女は思った。
(あなたに見てもらえればそれでいいの)
(ううん。むしろ、そのために着たんですもの)

 雪が舞う、静かな正月の日を……
 湯気のたつ汁粉を味わいながら過ごすために、藤井夫妻は家路をたどるのだった。

(了)
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東京怪談
2006年01月05日

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