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『The hidden bar 』
ラッテ・リ・ソッチラ5980

 磨きこまれたカウンターテーブルの上、赤みがかった琥珀色の液体がグラスに注がれている。
 控えめに落とされた照明の元、オールドファッショングラスから立ち上る香りが、喉を滑り落ちる華やかな甘苦さを予感させる。
 長い年月を樽の中で経たものだけが持つ深い木の香が漂い、誘う。
「どうぞ。
先程申しました通り、こちらの一杯はサービスとさせて頂きますので」
 カウンターの向こうからマスターが声を掛けてくる。
 ああ、この女の瞳も琥珀色だ――。


 静かな夜だった。
 冷えたブーツのつま先が踏みしめる僅かな軋み、それすらも覆い隠す雪が静寂を支配する夜。
 俺――草間武彦は……ここは名前なんてどうとでも名乗れる街だったな。
 名前の意味なんて先延ばしにした督促状ぐらい薄っぺらだ。
 俺の財布より薄い物なんて、なかなか見れたもんじゃないがな。
 昼も夜もどこかで何かが物音を立てているこの街で、その夜は酷く静かだった。
「雪の降る街よ……か」
 わざと大昔のメロディにのせて言葉を呟けば、街灯の明かりに息が白くけぶる。
 猥雑なテナントビルの合間には、いつもの夜なら酔った客ともめるホステス、少しでも多く客を引こうと擦り寄るポン引きがあふれている。
 なのに今、俺のまわりには誰もいなかった。
 降り積もった雪に足元を取られないよう、つま先ばかりを見ていた視線を上げても、足跡の無い道が続くばかり。
 知らない街のようだ。
 おかしな夜だ……それもたまにはいいだろう。
 ふと、ささやかにライトが照らすドアが気になった。
 黒いドアには控えめな金文字が刻印されている。
 ――BAR Amduscias……アムドゥシアス。
 悪魔の名前か?
 まあ、名前なんて意味の無い事だ。
 バーには酒があればそれでいい。
 アルコールで身体を中から燻らせるのもいいかもしれない。こんな夜には。
 バーと名乗るからには、酒はあるんだろう。
 俺は何かに背中を押されるように――または手を引かれるように、そのドアを開けた。 


 一瞬、まだ準備中かと俺は思った。
 ドアの向こうには音楽も流れておらず、客もいなかったからだ。
 幾つかのテーブル席とカウンター席が設けられ、然程広くもないが狭くもない。
 照明は手元のグラスを照らし出す程度。
 隠れ家にはうってつけの店のようだ。
 隠れる? 何からだ?
 いや……何を隠している?
「いらっしゃいませ」
 カウンターの奥からそう声を掛けられて、初めて俺は女の存在に気付いた。
 緩やかに波打つ金髪を僅かに傾げ、こちらに微笑を向けている。
 歳若く見えるが、その女はマスターなのだろう。
 手に持った白いクロスでグラスを包み、磨いていたようだ。
 グラス磨きはマスターの有意義な暇つぶしの一つ。
 バーにいる人間は二種類に分けられると俺は考えている。
 客とマスター。
 消去法により、この女はマスターだろうと俺は思った。
 俺が客から飲んだくれに格上げされるかはわからないが。
 カウンター席に腰を下ろそうと歩みを進め、俺はマスターの背後に並んだボトルの数に息を飲んだ。
 目に見える壁一面、あらゆる種類の酒が整然と隙間なく並べられている。
 さて、何を頼んだものか……。
 バックバーに並ぶボトルに圧倒され思いあぐねていると、
「当店では初めて訪れる方に、一杯サービスしています」
 とマスターが言った。
 最初の一杯、酒はそれが肝心だ。
 初めての店がいつか馴染みの店に変わる分岐点が、その一杯だと言ってもいい。
 俺は端から順にマスターの背後に並んだボトルを眺めながら、思いをめぐらせる。
「そうだな……」
 闇雲に高いだけの酒なら、金を積めば幾らでも飲める。
 ホストクラブのバックに一体何本のドンペリが積まれている事か。
 俺はしばらく考え、一つの銘柄を思いついた。
 一本百万の値段にもかかわらず、限定五十本が即日完売したシングルモルト。
 ここにあるかどうかは別として、飲んでみたいものの一つだ。
 半分は冗談も交えて、俺はマスターに告げた。
「山崎五十年」
「かしこまりました」
 するとマスターは「ご冗談を」と受け流す事もなく、にこりと微笑んでバックバーからボトルを一本選んだ。
 あるのかよ!
 いや、それを客に只で飲ませられるのか?
 たった一杯だって幾らするのか、このマスターわかってるのか?
 呆然と見守る俺の目の前で、マスターは筆文字も流麗な山崎のクリスタルボトルの封を切った。
 ウィスキーはオーク材を使ったシェリー樽で醸造する。
 しかし終戦直後の物資不足の中、やむなくミズナラを樽に用いて作られたウィスキーは醸造当初味が尖りすぎるきらいがあった。
 本来樽に用いられるオークよりも、ミズナラは成分が強く出すぎてしまうらしい。
 だが二十年、三十年と熟成を重ねた原酒からはアクが抜け、伽羅や白檀を思わせる香りをまとうに至った。
 シングルモルト山崎五十年――その名の通り、五十年以上寝かせた老練な一本。
 それをためらいもなくマスターはグラスに注ぐ。
 アールデコ様式の直線的なカッティングが施されたグラスは、半ばまで赤く濃い琥珀色で満たされた。
「お待たせしました」
 す、とマスターがグラスを目の前に置く。
 漂う芳香は独特の香木めいた深遠さに加え、ドライフルーツを思わせる甘やかさも含んでいる。
 いい酒だ、と俺は思った。
 これが偽物なんて野暮な勘繰りはしない。
 銘柄が問題なんじゃない。
 名前なんて、呼吸と共に移り変わる常識のように些細な事だ。
 マスターは俺の前にグラスを置くと、また他のグラスを磨きだした。
 その曇りなさに満足したかと思えば、今度はカウンターを拭き始める。
 それを視線の端に捉えながら、俺はグラスを手に取った。
 しかし口元にまでそれを引き上げられないのは――分相応、という言葉があるだろう? それだ。
 せいぜい三十年しか物を味わっていない舌で、どれだけこいつを味わえる?
 人の限界なんて驚く程低いものだ。
 ただそれは巧みに隠され、知らされず、大概は幸福に死を迎える。
 自分の持った限界がこの一杯、いや一口で思い知らされる事に俺は恐怖を感じた。
 ……何て店だ。
 逡巡を続ける俺に、マスターが言葉を掛けた。
「どうぞ。
先程申しました通り……」
 

 ――BAR・アムドゥシアス。
 あれから再び、俺はその店のドアにめぐり会っていない。
 ラッテ・リ・ソッチラと呼ばれるマスターが開くそのバーは、全てが白く――もしくは黒く……塗り込め隠匿された夜にだけ扉を開くのかもしれない。 
 山崎は美味かったよ。
 他に言いようがない。
 美味い、不味い、それぐらいしか語彙がないのが俺の限界だ。
 こっちは一杯の酒より若僧の人間なんだしな。


(終)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
追軌真弓 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年01月05日

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