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『聖夜の董奉 』
影山・軍司郎1996)&夏目・怜司(1553)

 ――不覚だった。
 軍司郎は、滅多にそんなことは思わない。満州の戦場にいたときでさえ、そうであったのに。
 しかし、今は――
 甘く見ていたつもりはなかった。油断していたわけでもなかった。
 ただ、その異形のものが――禁忌に触れて忌まわしい異形となった、かつてはひとであったらしきものが少し――ほんの少し見せた哀しみが、『番人』を躊躇させたのだ。
 急所を狙って軍刀を振り下ろすまでに、若干の間が開いてしまった。目測は正確であったし、巨大な軟体動物に似た『それ』に、サーベルは冷酷に食い込んだ。だが、『それ』の断末魔は思いのほか長引いた。
 最後のちからを振り絞った異形から、黒き狩人は反撃を受けた。
 槍先を仕込んだ鞭のような足が、しなりながらひゅんと伸びる。漆黒の軍服は、肩から胸にかけて切り裂かれた。
 火傷のような、熱い痛みが走る。
 敵の服を裂き肉をえぐったことに納得したかのように、異形は痙攣して動かなくなった。ざっくりと斜めに受けた傷は、思いのほか深い。
 傷口からしたたる鮮血に、軍司郎は思う。そういえば自分も生身の人間だった、ということと、激痛を感じるのは久しぶりだ、ということを。
 ここは、谷中霊園。明治7年に都が発足した、約10万平方メートルもの広大な公共墓地である。
 きんと冷えた冬の夜空には、下弦の半月。
 戦場で、躊躇は命取りだぞ。顔も名も生々しく覚えている上官の声が、どこからか聞こえてくる。

 谷中霊園は、多数の著名人が眠っていることでも知られる。
 明治初期の歴史画家菊地容斉、実業家渋沢栄一、日本画の巨匠横山大観など。だが何といっても一番の大物は、15代将軍徳川慶喜であろう。
 しかしその墓前は、鍵の掛かった扉で閉鎖されている。したがって慶喜の墓に、一般のものが詣ることはできない。だが今宵、何故か軍司郎は胸騒ぎを覚えてこの墓を訪れたのだ。
 扉の隙間から見てみれば 案の定、あやしく蠢く何かがいる。徳川家には申し訳ないものの、『番人』としては錆びついた鉄の錠を壊さざるを得なかった。そして、一戦交えることになったというわけである。

 押さえても押さえても、開いた傷から溢れる血は止まらない。
 ただこの墓地が、軍司郎の自宅からさほど離れていないことが、僅かな救いだった。
 月光に照らされた歩道に血だまりをつくりながら、軍司郎は歩き始め、しかしすぐに片膝をついた。
(……なんの。こんな傷)
 もっと凄惨な目にあったことがある。もっと、おぞましい攻撃を受けたことも。
 そう鼓舞してはみるものの、身体からは徐々に力が抜けていく。
「危ない!」
 あわや、歩道に倒れかけた軍司郎を、誰かの腕が力強く抱きとめた。

 + + +

「軍司郎さん。影山軍司郎さんでしょう? いったいどうしたんですか、こんな大怪我をして」
「何でもない」
「あーあ、医者泣かせの強情な患者がここにもいるよ。ともかく、止血と消毒をしないと」
「きみは……誰だ?」
 その腕の主は、ほっそりした青年だった。この身体のどこにそんな力があるのかと思うような安定感で、軍司郎を支えている。
 ふちのない眼鏡をかけた、感じ良く整った顔立ちには、見覚えがあるような気もした。
「いやだなあ。夏目怜司ですよ。……うーん。もう今年も終わりだからなぁ。年明け頃のことなんて覚えてないかなぁ」
「夏目……」
 軍司郎は記憶を探る。年明け――正月三箇日あたりか。
 そういえば……たしかに……どこぞで、この青年と邂逅したことがあった。あまり思い出したくない出来事に絡んで……。
「私のことは、忘れてくれ」
「そんな、いきなり別れ話みたいなこと言わないでくださいよ。ちょっと傷口を拝見」
「やめろ。離せ」
 怜司は手際よく、怪我の状態を確かめる。軍司郎の抵抗などおかまいなしだ。
「かなり深いな。救急車を……呼んでしまっては迷惑なんでしょうね」
「何故、ここにいる」
「偶然ですよ。ちょっと気になる患者さんの押しかけ往診をした帰りに、何となく散策してただけです。慶喜公のお墓のあたりに、不穏なものがいるような気もしましたし」
「なに――まさか、きみは」
「別に、軍司郎さんが困るようなものは見てません。ただ、おれは医者で、怪我人を放っておけないんで、ひととおりの手当をしていいですか? というか、します。力ずくでも」
「いらぬ世話だ。家も近い。放っておいてくれ」
「この近所にお住まいなんですね。じゃあ、ご自宅で患部を診させていただきます。……軍司郎さん? しっかり! 失神する前にご住所を教えてください!」

 + + +

 うっすらと目を開けば、見慣れた天井の木目が視界に入る。
 どうやら軍司郎は気を失い、怜司によって運ばれてきたらしい。
 軍司郎の住まう古い日本家屋は、坂道と墓地と猫の多い、江戸の風情の残る下町のはずれにある。社寺の影に隠れるようにして建っているために見つけにくいのだが、伝えた情報がきれぎれだったにも関わらず、怜司はしっかり到着したようだった。
 身を起こして、驚いた。
 血まみれだった軍服は脱がされて、枕元にきちんと畳まれている。代わりに身につけている洗いざらしの夜間着は、怜司が着替えさせてくれたもののようだ。
 傷口は丁寧に清められ、真っ白な包帯で固定されていた。痛み止めを処置したようで、あれほどの激痛がかなり和らいでいるのも有り難い。
 夏目医院の若先生は、なかなか良い腕を持っている。この分なら立って歩くことに支障はなさそうだし、朝まで休めば仕事にも出かけられよう。
(おや……?)
 見回して、気づく。ひとりずまいの殺風景だった部屋が、どこかしらこざっぱりと居心地良くなっている。雑然と置いてあった座布団は綻びが繕われているし、古ぼけた夜具箪笥や刀箪笥は外れていた取っ手が修復され、さらに、磨き込まれて渋い輝きを放っていた。
(……いったい)
 怜司の仕業であろうことはわかったが、軍司郎のみならず座布団や箪笥までも治療してしまうとは、何というお節介な医者であろうか。
 そこまで親切に踏み込まれても、対処に困る。借りが出来てしまったことは認めるとして、あまり関わって欲しくない身の上なのだとはっきり言うべきなのかも知れない。
(……?)
 軍司郎の眉間が、異様なものを捉えたように寄せられた。ついぞ嗅いだことのない暖かな夕餉のかおりが、台所から流れてきたのである。
「だめですよ、まだ歩き回っては」
 立ち上がりかけたところを、怜司に制された。携えた木の盆には、炊きたての白米が盛られた漆器と、油揚げと絹さやの味噌汁が入った椀が乗っている。
「びっくりしました。ここの家財は生活骨董が揃ってますね。いまどき、木の冷蔵庫なんて滅多にお目にかかれませんよ」
「……開けたのか。冷蔵庫を」
「味噌と漬け物と瓶詰めの佃煮が入っているのを確認させていただきました。シンプルライフに徹してらっしゃるのは尊敬しますが、食材はもっと栄養バランスを考えて買い置きすることをお勧めします」
「……夕食まで作るとは」
 明治生まれの元軍人にとって、成人男子が繕い物をしたり厨房に入ったりなどは理解の範疇外である。怜司の場合は、ひとり身で子どもを育てているからという事情もあろうが――それにしても。
「奇跡的に油揚げと絹さやを発見できたので、お味噌汁にしました。ご飯はですね、お粥にしようかなとも思ったんですけど、軍司郎さんは怪我人であって病人ではないですから、普通に炊きました。ところでこの家、炊飯器もないんですね」
「う、む」
「お鍋で炊くのって火加減が難しいけど新鮮でしたよ。さ、食べてみてください」
「む、しかし」
 かいがいしく椀を持たせようとする怜司に、軍司郎は面食らって言葉に詰まる。それを見て怜司は、ああそうか、と手を打つ。
「すみません、気が利かなくて。腕が痛くて箸が動かせないんですね――はい、あーん」
 
 ……………。

 医者という人種は、患者の年齢がどうであれ、子どものように扱う傾向があるのは知っていた。
 しかし。まさか。
 我が身が、ひとさまに手ずから食べさせてもらう状況になろうとは。
 
 さすがに、軍司郎は頑として抵抗した。
 椀と箸をがしっと持って、勢いよくかき込んだのである。
 怜司の、あまり無理をしちゃいけませんよ、とか、医者にかからずに治した傷の跡がたくさんあるようですが、できればちゃんと病院に行ってくださいね、等々、親身な忠告に形だけ頷きながら。

 + + +

「休まずにお仕事ですか。真面目ですね」
 夜が明け、ためらいもなくタクシーの運転手として出かけようとする軍司郎に、怜司は感嘆する。しかし、止めはしなかった。
「……お気をつけて」
「医院に戻るのなら、送って行ってやろう」
 徒歩で最寄り駅まで行くつもりだった怜司は、軍司郎の言葉に微笑んだ。それが、この無愛想で仏頂面の男の、精一杯の感謝の表れであることがわかったのである。

 夏目医院の駐車場で怜司を降ろし、軍司郎はこうも言った。
「いつかこの医院の裏手に、杏の苗を植えに行かねばなるまい」
「『神仙伝』ですか。それはそれは」
 そのむかし、呉に董奉という名医がいた。彼は貧しい患者からは治療代を取らず、代わりに杏の苗を植えてもらっていた。苗は成長して大木となり、やがて10万余本の杏の木が鬱然たる林をなした――そんな故事に基づいての、かしこまった礼である。
 医者にとって最大級の賛辞に、怜司は頭を下げた。
「何かあれば、いつでも呼んでください」
「うむ。きみも、車が必要なときはいつでも呼べ」

 それは、平成の董奉と通りすがりの患者の、あまりにもささやかな一幕であった。
 世間的には本日はクリスマスであったのだが、結局そんなことにはひとことも触れず、ふたりは右と左に分かれたのだった。

 再会の刻は、神のみが知っていよう。

 
 ――Fin.
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
神無月まりばな クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年12月27日

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