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『『ゆったりと、ゆっくりと。〜鳥籠から空を想う小鳥たち〜』 』
門屋・将太郎1522

 ある日、体重計に乗った俺は天を仰いだ。
「なんてこった」
 食欲の秋ということで暴飲暴食をくり返した結果、体重計には見るも無惨な数字が並んでいる。
「こら、まじでダイエットしないと、今年の年末もまた独りだな」
 クリスマスからは正月にかけては、一緒にいてくれる相手がほしいものだ。もちろん、野郎なんてお断りだ。なんとか魅力的な女と一緒に過ごしたいものだが、この体型ではさすがの俺も口説き落とせる自信がない。
「一気に痩せる方法はねえかな」
 俺はさっそく書庫からダイエット本を取り出し、診療所の待合室のソファに寝転がった。
『わたしは人形なんかじゃない!』
 本を眺めている俺の耳に、ふと懐かしい声が過ぎっていった。
 その少女と初めて会ったとき、彼女は心も体もぼろぼろだった。両親からの愛情にも恵まれ、学校でも秀才ともてはやされた彼女がなぜあんな状態になったのか、俺にはどうしても原因がわからなかった。
「懐かしいな。あの子いまごろ何してんだろうな」
 そうして俺の意識は、急速に過去へさかのぼっていった。

       ***

 開業したばかりの頃、ひとりの少女が母親に連れてこられた。
「摂食障害?」
 患者の少女は腕や足は筋張っているうえに、頬もだいぶこけている。かなり厄介な病気であることは確かだった。
「ええ。最近この子おかしいんです。急に暴飲暴食を始めたと思ったら、トイレで食べたものを無理やり吐き出すんです。吐き出したら、また食べ物を口に詰め込むんです。いくら言ってもやめてくれなくて、昨夜も冷蔵庫の中を食い散らかすこの子を主人が引きはがそうとしたんですが、逆に突き飛ばされて腰を強く打ってしまいましたわ」
 少女は昔から親の言うことをよく聞くおとなしい子だったらしい。ところが、突如別人のように奇行に走るようになった。その理由を両親もわからないとのことだった。
「精神科医に通ってるだなんて知られたら、この子の将来にかかわります。どうか一刻もはやく治してください」
「誤解なさっているようですが、現在精神病というものは大半の人が持っているものです。そして、心の病は体の病とは違って治療には時間がかかるものなんですよ」
 はあ、母親は渋い顔で返事をする。精神病に偏見を持っているようだが、いつものことなので、俺は気にもとめずに少女に話しかけた。
「君はどうして食べ物を食べることが義務になってるんだい? 恋人に体について悪く言われた?」
 少女はうつむいたまま答えない。代わりに、母親の方が、
「この子に恋人なんていませんわ。この子の生活はいつも確認してるんですから」
「じゃあ、クラスメイトにでもからかわれた?」
「先生。この子は立派に他の子と仲良くしています。わたしもPTAの役員として、この子の学校生活についてご父兄や教職員の方と連絡をしていますわ」
 結局、俺が何を聞いても、少女ではなく母親の方が答える始末だった。
「お母さん。申し訳ありませんが、次回からは娘さんひとりで診察室に入ってください」
 帰り際にそう申し出たのだが、その途端母親の顔色が変わった。
「先生。何を言ってますの? この子はわたしがいつも側にいないとだめなんです」
「しかし、誰かの目があると話しにくいこともあるんです」
「先生はこの子が親に言えないような隠し事があるとおっしゃりたいの? わたしはこの子のことは何でも知っています。何か質問があるのならわたしに聞いてください」
「失礼ですが、わたしはプロです。精神科医として娘さんと一対一で対話をすることが娘さんの病気を治すために必要だと判断したんです。あなたは娘さんの病気を治したくはないのですか」
 俺の強い口調に、母親は渋々、わかりましたわ、と返事をした。

 次の診察から、俺と少女のふたりだけで始めた。
 だが、彼女は俺の質問に答えようとはしなかった。何を質問しても、彫像のようにかたまり、膝の上の手を眺めているだけ。
 少女は学校生活のことにも恋愛のことにも反応を示さなかった。まして、彼女の両親は近所でも評判のおしどり夫婦だというから、家庭が荒れているとも考えられない。
 では、何が過食症を引き起こすほどのストレスになっているのか。
 その原因がどうしても俺には突きとめることができなかった。
 だが、そんなある日、ふと母親と娘のやりとりが目にとまった。
「大丈夫? 疲れたでしょう? はやく家に帰ってあたたかいお茶でも飲みましょうね」
 母親は少女の靴を履かせたり服を着せたりとせっせと世話をしていた。
 雛に餌をあげる親鳥のような母親を見た瞬間、
「まさか……」
 俺はひとつの結論にたどり着いた。

「もしかして君はお母さんから逃げたがってるんじゃないかい?」
 その質問をしたとき、初めて少女は反応を示した。膝に乗せていた手が小刻みに震え、落ち着きなくあたりを見回す。
「心理学に太母という言葉があるのを知ってるかい? 太母は人間の心の母親だ。俺たちは太母を支えとして生きている。けれど、時に太母の存在が強すぎると、心は成長することができない。親鳥がいつまでも面倒を見ては、決して雛は空を飛ぶことはできないようにね」
 俺が話をしている間にも、少女の震えはどんどんひどくなる。
「だから、君が食事をするのは、はやく大人になって、過保護なお母さんから逃げ出したいという気持ちの表れなんじゃないかい?」
 ふいに少女の両目からぽろぽろと涙が零れた。
「先生。わたしは人形なんかじゃない!」
 人形だった少女が初めて俺に生きた感情をぶつけた。
「ママはわたしのこと『だめな子』っていつも言うの。ママが全部決めないと何もできないって思い込んでる。進路も服も恋愛も全部。でも、わたしはもう赤ちゃんじゃない。ひとりで将来も進路も決められるわ!」
 少女の母親は元々教師であったが、少女の出産を機に辞めたらしい。おそらく家庭に入ってからも、教育への熱情は消えることはなく、娘にすべてぶつけてきたのだろう。それがどれほど娘の重荷になっているのかも知らずに。
 愛情というものは厄介だ。度が過ぎると相手の負担になる。母親も悪意があって娘の心を縛り付けたわけじゃない。大切だからこそだろう。
 だが、雛はいつか巣を飛び出す。それを鳥籠の中に閉じ込めて守ろうとするのはただのエゴだ。
 声をあげて泣く少女は、もう人形などではなかった。

       ***

 その後、少女の治療は順調に進んだ。カウンセリングの様子を録画したテープを見せると、母親は最初困惑して泣いたほどだが、俺が立ち会いの下で母と娘の対話をくり返すことで、少女の病気は快方へと向かい、母親と娘の関係も良くなった。
「さて、俺も年末までにはなんとかしなくちゃな」
 我に返った俺はダイエット本を見ながら、どうやって痩せようか考えていると、
「んっ?」
 付けっぱなしのテレビからどこかで聞いたような声がした。振り向くと、テレビの中から若手の女優がまばゆい笑顔をこちらに向けている。
「ああっ!」
 思わず俺は叫ばずにはいられなかった。その女優は、まぎれもなく今思い出していた少女だったからだ。
「そういや、あの子、女優になりたいって言ってたっけ」
 どうやら彼女は自分の意志で自らの道を切り開いたようだ。
 ふと外を見ると、冬の透きとおった空を鳥たちが高く高く飛んでいた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
大河渡 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年12月05日

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