▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『続 奴隷姫 』
斎藤・智恵子4567

海の端に朝日が昇り、水平線が白みはじめた。しかし真夜中から働いていた斎藤智恵子にとって、それは夕日に等しい光景だった。居眠りから覚めた男は眩しさに目を細めつつ、智恵子を厳しく怒鳴りつける。
「なにぼうっとしてんだ!甲板の荷物整理に何時間かかってやがる!」
「今・・・終わったところです」
智恵子が答えるや否や男はその細い腕を掴み、船内へ引きずり込む。船乗りたちの朝は早い、不当に攫ってきた智恵子を決して他人の目に触れさせてはならないのだった。
 毎晩甲板へ出るときにだけ、鉄球のついた枷は外される。だが智恵子の居場所となっている生臭さの染みついた調理場では、その右足は重い鎖の道連れとなる。錆びた軋み音をたてて金具が噛みつく瞬間、真っ赤に晴れ上がった足首が痛んだ。
 元々智恵子の肌は敏感で金属に弱い。その上にきて一日中鎖につながれ枷に締めつけられていては、肌が焼け痺れが骨まで達しても無理はなかった。
「痛むか」
男が声に出して具合を尋ねたのは心配しているからではなく、もっと苦しめと嘲るためであった。ぶ厚いことしかとりえのないその胸には、人への労りなど皆無であった。
 悪質な男の思考を知っていたから、智恵子は黙って首を振る。すると男はつまらなそうに舌打ちをして、調理場を出て行った。残された智恵子は一人、朝食代わりの固くなったパンをゆっくりとかじる。
 自分が弱い人間であることを智恵子はよくわかっている。だから、意識して気を強く保とうとしていた。一度でも泣いてしまえば負けだから、後ろへ一歩でも引いてしまうと後は逃げ出すばかりだからと己に言い聞かせていた。
「大丈夫だから。こんな傷じゃ泣かないから」
事実だった。痛みでは、智恵子の瞳は最早潤まない。今、唯一智恵子が泣きたいと思っていることは、泣かずにいられないこととは、自分が孤独だという事実のみだった。
 この人攫い船の出港準備は着々と進んでいるのに、助けが現われる気配はまったくない。日が迫るにつれ、誰も自分のことなど心配していないのではないかと考える時間が増えた。見捨てられたのではないかという不安が心を浸食しはじめた。
「私、やっぱり足手まといだったんですね」
調理場の丸い窓から見る海は果てしない青。だがそれを見つめているうち、智恵子は意に添わぬ飼い主に鎖でつながれてしまった捨て犬の心地が湧いてくるのだった。
 肩を落とす智恵子の目には、滑るように近づいてくるものの存在が映っていなかった。

 智恵子がボートに気づいたのは、そこから送られてくる光によってであった。突然、窓から光が智恵子の顔を襲ったのだ。
「あっ」
視界が眩み、咄嗟に右手をかざして目を守る。最初は波に反射した朝日がまっすぐ飛び込んできただけと思ったのだが、間を置いて光は再び智恵子に注がれた。
「なにかしら・・・?」
智恵子は深く窓を覗き込み、ようやくにボートを見つける。小さな、どこの港にでもあるオールつきの小舟であった。だがそこに乗っていたのは他の誰でもない、智恵子が共に航海をしていた二人の水夫。一人がオールを漕ぎ、もう一人が手の中のものをきらめかせて合図を送っている。智恵子も、なにか返さなければと手を振った。
 ボートが近づいてきた。漕ぎ手の腕がよいので、波はほとんど立たない。そのために智恵子の乗っている船も揺れることがなく、船内の人攫いたちは近づいてくる奪還者たちに気づく気配もなかった。
 ある程度のところまでボートが近づくと信号を送っていた水夫が、いつも智恵子の面倒を見てくれる長身の水夫だ、鍵縄のついたロープを船へ向かって投じる。鍵縄は見えないものに手繰られるようにするすると昇り、船縁へとがっちり噛みついた。
「窓から離れていろ」
水夫の口が、そう動いたように見えた。言われたとおりに智恵子は鎖を引きずりながら、調理場の扉の陰にうずくまる。諦めかけていたところへ再び射しこんできた希望に胸を高鳴らせながら待っていると、ロープを伝い外壁を登ってきた水夫がナイフの柄を使って窓にはめられていたガラスを叩き割って入ってきた。
「元気か」
「・・・・・・!」
言いたいことは山ほどあったが、声にならない。智恵子は溢れ出す涙を拭いつつ嗚咽を堪えるので精一杯だった。
「おい、そんなことしている暇はないぞ」
ボートの接近は気づかれなかっただろうが、ガラスを割った音で誰かが調理場を覗きに来るとも限らない。早く逃げるぞと水夫は智恵子の腰帯を捕まえ持ち上げようとした。
「ん?」
そこで智恵子にあるまじき重さに気づいて首を傾げた。右足から伸びる鎖と、その先の鉄球に表情を歪める。

「なんだ、これ」
「この足枷のせいで、逃げられないんです」
「お前のことだから、足枷がなくたって逃げられなかっただろ」
悪態をつきながら水夫は智恵子の足元にひざまずき、具合を確かめる。真っ赤にただれた傷を見て、
「痛むか?」
訊ねる言葉は人攫いの男と同じなのに、どうしてこうも違うのか。智恵子はとうとう我慢ができずに頷いた。そう、本当は痛くて痛くてたまらなかったのだ。
「そうか」
しかし水夫は可哀想にと慰めたりはせず、なんと細いナイフを逆手に構え
「もっと痛いが、我慢しろ」
その先端を智恵子のはれ上がった足へと突き刺したのだった。
 鋭い痛みに智恵子は全身をひきつらせた。次の瞬間、その右足からどす黒い血が飛沫を上げて噴出した。
「悪い血が溜まって、腫れていたんだ。この血を抜かなけりゃ手当てもできない」
それにだ、と水夫は血の勢いが弱まるのを待って智恵子の右足を枷から引き抜く。
「この腫れさえなけりゃお前の細っこい足なんてすぐ外れるんだ」
ただでさえ華奢な智恵子だったが、この人攫い船の中で与えられる食事の貧しさにますます痩せてしまっていたのだ。
「よし、逃げるぞ」
「はい」
「・・・と、その前に」
水夫は長い足を思い切り振りかぶり、調理場の扉を思い切り蹴飛ばした。するとその真裏には今まさに扉を開け中へ踏み込もうとしていた男がいて、いきなり外へ向かって開いてきた扉に顔面をぶつけてのびてしまった。
「あらためて、行くぞ」
「・・・はい」
普段はこんな乱暴をしない水夫なのに、珍しいと智恵子は首をすくめた。自分のせいで水夫がこんな振る舞いをしたとは、思ってもいなかった。

 救出され、小さなボートの上で久しぶりに太陽の光を真っ直ぐに浴びた智恵子は大きく伸びをした。心地よい潮風が、純粋な匂いが胸に広がる。体中に染みついた、あの船の薄汚れた空気を吐き出すつもりで深呼吸を繰り返す。
「平気そうだな」
水夫は、漕ぎ手にボートを出すよう指示を出すと大きな欠伸を一つした。まるで、自分はちっとも心配していなかったという態である。やる気のないふりばかりしたがるのだ。
「ありがとうございます」
「別に、なにもしてないだろ」
もう一度欠伸。この男が欠伸ばかりしているときは照れているのをごまかしている証拠だった。
「・・・それにしても、どうして私があの船にいるってわかったんですか?」
「甲板だよ」
漕ぎ手が、船の上のほうを指差した。
 船の積荷というのは、その目的毎に異なっている。なんの荷物を甲板に置くかは船長の判断で違ってくるし、その配置も船によってさまざまだった。無関係同士の船の甲板が、まったく同じ荷物配置というのはほぼありえない。
「それなのにこの船、俺たちのところと同じ荷物の並べかたしてるもんだから」
これはと思いボートを寄せて探ってみたところ、窓から海を見つめている智恵子を発見したのだった。
 そういえば、と智恵子は思った。甲板の荷物整理を任されたとき、ついついいつもと同じように並べていた。後尾にあった樽を右舷へ寄せたり、ロープを集めて帆柱にひっかけたりと手間がかかったのは、本来と違う場所へ片付けていたからなのだ。
「遅いって、叱られるわけだわ・・・」
心の中で独り言を呟く。なにを考えてやがる、という風に水夫が智恵子を呼んだ。
「おい」
「は、はい」
顔を上げると、その目の前に銀色の丸いものが飛んできた。慌てて手を出し受け止めると、それは智恵子が市場で見つけ憧れた手鏡だった。
「お前に合図を送るのに使ったんだ。もういらないから、やる」
「・・・・・・」
なんて下手な言い訳だろうか。智恵子はまた泣けてきた。
「ったく・・・また泣くのか。すぐに泣くその癖、なんとかしろよな」
ため息をつく水夫は知らない。智恵子があの船で一人きり助けを待っていたとき、どれだけ心強かったか。智恵子が今ことあるたびに泣いてしまうのは、仲間たちに守られ安心しているからなのだ。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年12月02日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.