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『奴隷姫 』
斎藤・智恵子4567

 攫われたこの心地をなにに例えればよいものか。自分自身を客観的に判断するとしたら、そのとき斎藤智恵子の脳裏に浮かんだ映像は赤いリボンをつけた小さなくまのぬいぐるみだった。
 小さい頃、智恵子はそのぬいぐるみが大好きだった。どこへ行くにも、外を歩くのでも抱いて連れて行くくらいだった。いつだったか家族で旅行へ出かけ、そのときも智恵子はぬいぐるみを抱いていた。両手で抱きしめたり、ときどきは片手同士をつないでぶらぶらさせながら、もう片方の手を親に預け歩いていたものだ。
 人ごみの中で誰かが智恵子の脇を掠めるように走り抜けた。身を避けようとした瞬間、くまのぬいぐるみが走っていく相手の体に当たり弾かれて飛んで行ってしまった。茶色いくまは、群集の中へ紛れどこへ行ったかわからなくなってしまった。飛んだと思われる場所まで行ったのだけれど、人に蹴られ蹴られてわからなくなっていたのである。
「ほんのちょっと、よそ見をしただけなのに」
海賊船に乗っていた智恵子は、食料品や水の補充をするため今朝仲間の海賊たちと港へ下りた。船内の身分は奴隷なので、荷物運びくらいするつもりだったのだが水夫たちは皆優しく、智恵子になにか欲しいものはないかと聞いてくれた。
「えっと、じゃあ・・・」
市場を歩いていたとき、気になった手鏡があった。恥かしそうに切り出すと、じゃあ見ておいでと銀貨を一枚渡されたのだ。だから、そうしただけなのに。
 嵐が過ぎて最初の荷物が港へ入ったばかりだったので、市場は祭のように騒がしかった。所構わず店が立ち、値段交渉の声が飛んでいる。周りの野次馬がさらに煽って、笑いを呼んでいた。一際大きな人垣をよけるように、ぐるりと大回りをしていた智恵子は目の前からやってくる三人組にほとんど気づいていなかった。
誰か来るな、と思いどちらへよけようかと考えていたら突然、大きな手で口を塞がれ麻袋の中へ放り込まれてしまった。もがこうとしたのだが、袋の口から
「騒いだらこのまま海へ放り込むぞ」
と低い声で脅された。港でそんなことを言われると、冗談とは思えない。仕方なく智恵子は胎児のように体を丸め、じっと暗闇に耐えていた。
 袋から放り出されると、そこは薄汚い調理場だった。船は振動から察するにまだ港に停泊しているようだったが、停泊している場所が仲間の船から近いのか遠いのかはわからなかった。でもとにかく、攫われたことだけは間違いないのだと智恵子はぎゅっと我が身を抱きしめた。

 隣の部屋で、なにか言い争いをしている怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら、この港で奴隷を買うつもりだった金をどう山分けするかで口論しているらしい。自分を攫ってきたおかげでその金が浮いたのだと智恵子が気づくのにそう時間はかからなかった。
「ふざけんな!」
テーブルをひっくりかえす音と同時に、雷のような声。智恵子は反射的にびくっと身をすくませる。ただでさえ大きな音は苦手なのだ、続けざまに聞こえた食器の割れる音には耳を塞いでしまう。まるで親の喧嘩に耳を塞ぐ子供のように、智恵子は部屋の隅にしゃがみこんで争いが終わるのを待った。長い間掃除の手が入っていないらしい調理場の床は、黒ずんで汚れておりところどころ腐食の穴が空いていた。
「・・・・・・」
どれくらい経っただろう。分厚い扉が開いて、ひびの入ったランプを片手にいかつい体つきの男が智恵子の船室に入ってきた。シャツの首がだらりと伸びており、顔には痣が浮かんでいる。どうやら、争いに負けたほうらしい。
「運んだのは、俺なのに」
ぼそりと呟いた声を聞いて、智恵子はぞっとした。あのとき海へ放り込むと言った男の声だった。がさがさの大きな手で腕を掴まれたときは、本当に放り込まれるのかと思わず目を閉じてしまったのだが、奴隷として攫ってきたのだから働かせずに殺すのは無駄でしかないわけで、ただ部屋の逆の隅へ引っ張ってゆかれただけだった。
「お前、金持ってないか」
智恵子の足に鉄球のついた枷をはめながら、男は乱暴に智恵子の腰から下がった袋をちぎりとった。その中には水夫からもらった手鏡用の銀貨が、と智恵子は声を出そうとしたが恐ろしくてできなかった。放り込むぞ、という男に口答えしたらどうなるものかとぞっとした。
 言うまでもなく銀貨は、男の懐へ渡った。他にもないか、と体を触られそうになったので智恵子は反射的に身を引いた。だがほとんど動くことはできなかった。足にはめられた枷、枷から伸びた鎖、その先についた鉄球が重く、左足がほとんど使いものにならなかったのだ。
 それでも、長い間使われていなかった鎖がじゃらりと錆びた音をたてたおかげで、残りの人攫いたちが扉の中を覗き込んだ。奴隷から金を奪おうとしていたことがわかってはまずい、と男はなにもなかった振りで智恵子に太い指をつきつける。
「いいか。お前は明日からこの船で働くんだ。逃げようなんて思ったら、海へ放り込むぞ」
他にないのか、という脅し文句が繰り返された。
足枷と同時に智恵子の自由は奪われ、次の日からは名実ともに奴隷としての過酷な労働が続いた。働かされながら智恵子が思ったのは仲間の海賊たちと、そしてやはりなくしてしまったくまのことだった。

 どれくらいこの船には奴隷がいなかったのか。甲板、船室、調理場、ありとあらゆるところにある校則の鉄鎖はどれも錆びついていた。智恵子はいちいち仕事を変わるたびに、その足枷をはめられるのである。逃げないので外してください、と頼みかけたら人攫いは頭から疑ってかかる目で睨んできた。奴隷に人権はないのだ、と智恵子はこれまでの海賊船で過ごした日々と雲泥の差を感じた。
「朝起きたらまず朝飯の準備だ。それから洗濯、掃除、武器の手入れ、仕事はいくらだってある。さぼったりしたら、ただじゃすまないぞ」
実質の仕事は、さぼるどころか休憩の暇さえ与えられなかった。
 足枷をつけたまま働くおかげで、智恵子の左足首には枷で擦れた赤い傷が浮かんだ。逆の足につけてもらい働きつづけたが、左足が治りかけた頃には今度は右足が傷ついてしまう。ほどなく、智恵子の両足には真っ赤な輪が刻まれてしまった。
 その傷に薬もつけず包帯も巻かず掃除をしていると、床を濡らす潮水がひどくしみた。その上汚れた洗い流す水は真っ黒に染まっていたので、これが雑菌の元にならないかと恐ろしかった。
「あのくまさんもきっと、私がなくしてしまったせいで人に蹴られたり、踏まれたりしたんだわ」
 智恵子は船室の掃除を終えて汚水を海から捨てるため、重い桶を危なっかしい足取りで運んでいた。すると狭い廊下の角で人攫いの一人と突き当たり、よろめいた拍子に桶の水をすべて自分にかぶってしまった。
「いい身分だな、水浴びか」
人攫いの皮肉は痛烈であった。
「・・・す、すいません。なにか着替えるものはありませんか?」
水をかぶっただけではない、もう何日も着替えていなかったので洗濯もしたかったのだ。だが人攫いはなに馬鹿なことを、と片眉を吊り上げ
「服がないなら、裸でいろ」
と言い放った。現代なら発言だけで虐待だが、過去の時代に現代をあてはめたところでどうしようもない。目を伏せて智恵子は薄い服のまま震えるしかなかった。
 智恵子に残された唯一の希望は、自分が乗せられている船がまだ港に停泊したままだということだった。人攫いたちはこの港で商談を持っているらしく、それが思うように進まないせいで苛々していた。
「このまま、出港が長引けば」
今は船内に閉じ込められているばかりだが、いつかは甲板に出られるかもしれない。出れば、水夫の誰かが自分を見つけ出してくれるのではないだろうか。
 鎖に縛られた智恵子は、ただただそれだけを信じていた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年11月17日

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