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『snobbery 』
篠宮・夜宵1005)&上総・辰巳(2681)

 金属製の非常階段は、どれだけ注意を払っても、体重を受け止める度に音を立ててしまう。
 建物を一つ隔てれば明るく広い表通りの喧噪も届くが、裏路地は街灯の光も薄く、それが却って闇の濃さを意識させる。
 篠宮夜宵はしかし闇の暗さにではなく、その内に人の姿がないかそればかりに気を払ってていた。
 地上より距離を置き、自分も……そして続く上総辰巳も彩度の低い色合いの制服と背広の為、そう見咎められる事はないと理解しながらも、警戒は解けない。
「足下、お気を付けて」
肩越しに振り返り、幾段か下から上ってくる辰巳にそう声をかければ、つっけんどんに案じる言葉を弾く答えが返る。
「其処まで耄碌していない」
力がある、とは言えない声だがその切り返しの速さに呆れ、夜宵はつん、と首から前に向き直った。
「お元気そうでよろしかったこと」
態とつんけんした口調で応酬する……案ずる気持ちに対して無礼なほどぶっきらぼうな辰巳だが、その反応に僅かな安堵を覚えたのも確かだ。
 先を行く夜宵の鼻にも、色濃い血の香が届く。
 人に害為す異形と相対し、辰巳が肩に負った傷は思ったより深いようで、未だ鮮やかな程の生々しさを失わぬ香りに、夜宵は眉を顰めた。
 その場で直ぐ治療出来ればよかったのだが、度重なる通り魔事件……と、騒がれているがその実は人ならぬ存在によってもたらされた凶事に、恐れを知らぬ周辺住民が自警団めいたパトロールを行っていたのがこの場合の難である。
 この世の理の外に在った異形の存在は夜宵の闇に絡め取られ、辰巳の練気に撃ち抜かれて灰と散ったものの、騒ぎを聞きつけた人々が駆け付けようとする気配、そしてパトカーのサイレンに急かされて止血どころか傷を確かめる間もなく、急ぎその場を離れなければならなかった。
 通行人に見咎められぬよう街灯のない道を選びながら……そして病院に行こうにも、爪で深く抉られ、説明に難を覚える傷に救急病院に担ぎ込む訳には行かず、頭を悩ませる夜宵に、辰巳は医者に行く程でもないと嘯くあまりか、いざとなれば病院という名称では電話帳に決して掲載されることのない、所謂無認可医の所に行けばいい、とそのままあっさり別れようとするのを、無理矢理ここまで引っ張ってきた夜宵である。
 彼女の住むマンションが近くにあったのを、幸い、と言うべきか。
 しかし管理人付きのマンションの表から入るわけには行かず、自分の部屋のある階の非常扉の合い鍵を作って置いた先見を自分で感心しつつ、夜宵は平素使われる事のないせいか、重い扉を全体重かけてどうにか開き、中の様子を伺った。
 元より、一階に四部屋しかない高級マンションである上に夜宵の部屋は角部屋、唯一無二のお隣さんは長期の欧州旅行に出掛けている。
 しかし念には念を入れる用心深さで廊下に人の気配がないのを探ると、夜宵は肩を押さえたままの辰巳に頷いて見せた。
「……大丈夫みたいです、どうぞ」
招きに歩を進める辰巳を先に促し、夜宵は用心深く防災扉を中から施錠すると、傷を庇ってか、ゆっくりと歩く辰巳を小走りに追い抜いて自宅の鍵を開く。
 先に中に入り、玄関、廊下、リビングへ抜ける道すがら、灯りを点けながら辰巳にクッションを示して自分は足早にバスルームへ向かう。
 バスタオルとフェイスタオル、そして湯を張った洗面器を手に取って返せば、示したソファを背もたれに直接床に落ち着いて……煙草を取り出そうとしている辰巳の姿があった。
「怪我人が煙草なんて以ての他です!」
口元に一本を銜えて引き出そうとしていた辰巳の手から、箱ごと奪い取る。
「……怪我と煙草の因果関係が掴めないが」
取り上げられた不満に、それでも口元に残された一本を揺らす辰巳に、夜宵は当然とばかりに腰に手をあて胸を張った。
「身体に悪いからです!」
煙草の害が謳われて久しい昨今、夜宵には自らを痛めつけるような喫煙を奨励するつもりには到底なれない。
 ましてや辰巳は今は手負いの身である……と、其処で本来の目的を思い出し、夜宵は慌ててタオルを湯に浸すと強く絞って水気を切る。
「しかしこの場合の喫煙は、有用性が高いんだけどね」
口に銜えたままの煙草が落ちないよう、軽く歯で噛みながら、傷の手当てをしようという夜宵の意図を察して辰巳は背広を脱ぎかける、が如何せん脱ぎ着に否応無い肩をやられている為動きが鈍い。
 察して袖を抜くのに手を貸しながら、百害在って一利無し、の代名詞である煙草の益など思いつかずに夜宵は首を傾げる。
「有用性……?」
存外素直に夜宵の手を借りた辰巳は、しらっと続けた。
「ニコチンを摂取すれば、毛細血管を収縮するだろう。この際は止血に有効だ」
言いながら濃色の上着から腕を抜けば、下に着ていた白いシャツが大きく裂けて、ぐっしょりと赤い色に染まっている様が灯りの下に顕わになり、夜宵は息を呑む。
「馬鹿なことを言ってないで!」
夜宵は立ち上がり様に辰巳の口元から煙草を取り上げると、リビングに置いてあった裁縫箱から裁ち鋏を取り出し、迷わずシャツの袖口に鋏を入れた。
 傷に触らぬよう生地を浮かせて袖を縦に断ち、肩口までを切り広げる迷いのない行動に、辰巳は瞬く間に左半身の肌を空気に晒す羽目になる。
「……おい」
制止とも問いともつかない呼びかけを完全に無視し、時間の経過に固まりかけた血を溶かしながら、暖かなタオルが肌にこびり付く赤を丁寧に拭っていく。
「縫合しないと……止血は難しいかも知れませんね」
「おい」
傷口に集中する夜宵の傍ら、裁縫箱を置いてはいやに説得力のある呟きに、辰巳が思わず抑止の意味で声をかけても罪はない。
 その声に、ふと夜宵は顔を上げて辰巳の視線に眼を据える。
「上総さん、少し眠っていて下さいますか?」
それこそ冗談ではないと。声にせずとも不満の顕わな辰巳は、けれど夜宵の要請に異論を唱える暇を与えず……夜宵は眠りの闇に、その意識を絡め取った。


 眠りに落ちた自覚に欠ける、その為に辰巳にしては珍しく、眠りと目覚めとの認識の深い齟齬に、現状を把握するのに時間を要した。
 体重を預けたソファの白が、先ず彼の私室でない事を教え、バランス良く配された黒の調度は柔らかに重さを和らげる白の小物と相俟って、互いに影響しあいながら落ち着いた色合いとして統一されている。
 女性らしさの漂うその部屋の主……夜宵がカップを手にキッチンから顔を覗かせて辰巳の覚醒に気付くとほっと安堵の表情浮かべた。
「傷、塞ぐのに少し強引な治療をしましたから、しばらく無理はなさらないで下さいね」
強引、と言われてまさか木綿糸でちくちく縫われていやしまいか、と思わず肩口に目をやるが、人体で捲くのが難しい関節の位置が見本にしたいような見事さで包帯に覆われている。
 軽くならば、動かしても傷に響かないあたり、断たれた筋を圧迫する一助にもなっているようだ。
 そして無惨に切り裂かれたシャツは、袖は諦めたのかそのまま落とされ、肩の位置でいくつかの安全ピンが生地を止めてなんとか服の体裁を保っている。
 このまま上着を着れば傍目には袖無しと判断は付かないだろう……少なくとも自宅に帰り着くまでの誤魔化しとしては上等だ。
「缶詰のスープを温めただけですが、どうぞ」
目の前に白い磁器が据えられる。
 とろりと甘い匂いを放つコーンスープは血を失った身に思わぬ空腹感をもたらし、辰巳は無言でカップに手を伸ばした。
「お召し上がりになったら、もうお引き取り下さってよろしいですよ」
これで自分の用は済んだとばかりに退出を指図する夜宵に、辰巳はカップを傍らに置いて床に座った位置から見上げる。
「この時間に」
眠りから醒めたばかりでも、暖かな飲み物を通した喉は呟きを容易に音にする。が、意図して小さく発した声に夜宵が集中する瞬間に、辰巳はその細い手首を取った。
「男を部屋に引き上げて……」
 そしてそのまま強く引く。崩した夜宵の均衡を利用して腰を浮かせ、背に手を添えるようにソファに押し倒す。
「そのまま、はいさようならが通用すると思うのか?」
急な動きに痛みを訴える肩を無視し、辰巳は容易に組み伏せられた夜宵に微笑んだ。
「な……にをするんですか!」
ゆうに5秒。
 思考と行動を止めた夜宵が、漸く事態に驚愕の声を上げるのに、辰巳はソファを背景に散る彼女の髪の一房を摘み上げた。
「反応が遅い。こういう場合は相手の行動を問うより先に、身を護る行動を取るべきだ」
言って手にした髪に口付け、離す。
 辰巳自らの言で、抵抗の選択肢を得た夜宵が行動に出る前に束縛を解いて立ち上がり、髪に触れた指を名残を惜しむように最後まで夜宵に伸べて、辰巳は不遜としか言い様のない笑みを浮かべた。
「僕のような紳士的な男はそうは居ないからな。少しは学習しておけ」
そう、手の形はそのままにリビングから真っ直ぐに伸びる廊下を抜けて玄関を示す……戸口は、框の間に薄く黒々とした夜を切るように、開かれている。
 女性の部屋に入る際、その誇りを守る為に扉を完全に閉める事をしない、紳士の国の礼である。
 それを一連の行動が本気ではない裏付けとし、辰巳は上着を羽織ると出口に足を向けた。
 深夜に男を招き入れるなど、無防備にも程がある……怪我が理由とはいえ、自分の性別を意識しない行動は奇妙なまでに清しい印象を辰巳に与える。
 押しつけがましい母性でなく、好意の期待を覗かせるでない。
 女の香を感じさせないのは、まだ年若いからという理由だけではないだろう。
 問いはまだ求めたばかり、解を得れば興醒めするかも知れない……けれどもそれまでは楽しめそうだと考えながら靴に足を入れ、振り返った。
 ソファの上にへたり込むように、座り直した夜宵は未だ理解に至っていないのか呆然とした様子である。
 それに余裕の、そして無自覚の笑みを向けて辰巳は部屋から出て今度こそ、音を立ててきちんと扉を閉めた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年11月16日

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