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『『あなたには唇を 私はあなたの言の葉をもらうから』 』
3009)&清芳(3010)


 何をしているのだろう、あの女性(ひと)は?
 家の縁側、足元にどこからか忍び込んできた野良猫を置いて、馨は双眸を細めた。
 とは言え、それは決して小ばかにするとか、呆れかえるとか、何か奇異な物を見るとか、そういう嫌な感じのする見方ではなく、優しい父親が自分なりの考えで幼い娘にとっては何か重大な用件を彼女なりに解決しようとする様を温かく見届けようとしているような、そんな優しい眼差しで彼は、彼女、清芳を見守っている。
 縁側。猫は夏には涼しい場所、冬には温かな場所を見つけるのが得意。その快適な場所探しの名人の技に惹かれて縁側にやって来れば、何やら物珍しい物が見えた。
 と、言っても、清芳が何をしたいのかは無論馨は気づいている。
 目にも鮮やかな緋の色の葉で枝を飾り、同じく自分の周りの大地をも緋で染める紅葉の木の下、そこで彼女は何かを必死に探しているようなのだ。
「ふむ。何を、探して、おられるのかな?」
 馨は形の良い顎に手を当てて、双眸を細めた。
 何やら、秘密の匂いがした。
 だけど別にそれを詮索しようとは想わない。不器用で、すぐに反応を示す彼女には所詮は何かを隠し通す、などとは無理な事。いずれ日常の生活の些細な切欠で彼女が墓穴を掘るに決まっているのだ。
 だったらそれを今ここで詮索して聞きだしたり、見つけ出したりするよりも、そちらの方が楽しいという物。もとい、これは大切な同居人への配慮。愛。思いやり。お互いのプライバシーは大事。
 それでも数秒、彼がそのままそこを通り過ぎようか、声をかけようか、逡巡したのは、彼の性格ゆえ。探し物ならば、二人で探した方が効率が良いのは確かだから。
 普段なら、これだけ近くに居れば自分の気配に気づくであろうに、余程大切な何かを探しているのだろう。清芳は気配に気づけないでいる。
 いつもヴェールをかぶり、頬にかかる横髪を残して後ろ髪は髪留めでまとめているのに、今日の彼女は髪を下ろしている。
 その髪型が、清芳の美しさに華を添えて、そしてそれは風に揺らぎ、枝から落ちた緋が染める空間にはぞっとするほどに似合っていた。
 確か先ほど一緒に紙飛行機を飛ばした時は、いつものように横髪は残して後ろの髪は髪留めでまとめていた。
 さらさらの艶やかな黒髪は、空間に流れるように紅葉と共に風に踊る。
 その髪を掻きあげて、耳の後ろに流す、その仕草が艶やかで、馨はかすかな胸のつまりのような、そんな切ないほどに息苦しい、あの少年の時に感じた何かを、そんな懐かしみをわずか数秒の白昼夢として見た様な気がした。
 くっしゃと、髪を掻きあげながら渋面で辺りを見回していた清芳の顔に何か天の啓示でも受けたかのような表情が浮かぶ。
 そして彼女は空を、正確には頭の上に広がる緋、紅葉の木の枝を見上げた。
 その顔にほっと安心したかのような表情が浮かんだのは、きっと枝に引っかかっていた橙色の紙飛行機が探し物だったからだろう。
 縁側から見てもその紙飛行機を見つけるのは中々に難しかったので、真下に居る清芳にはそれは尚の事、緋の中に埋もれた橙を見つけるのは難しかっただろう。
 探し物を見つけた彼女は今度はそれを手にするべく背伸びを始めた。
 しかし彼女は長身ではあるけれども、その彼女よりもさらに紅葉の木の枝は高い場所にあった。
 馨は縁側から降りようとして、
 でもそれよりも清芳がその場で跳躍する方が先で、
 跳躍した彼女のすらりとした指が紙飛行機を取って、
 そこでそれまでずっと日向ぼっこをしていた野良猫が「なぁ〜」、と鳴いて、
 それは渡る風が奏者となって、木の枝や葉、草、といった庭にある楽器を使い奏でる途切れる事の無い音楽の中でも充分に響き渡って、そのスターカットは清芳のそれまで紙飛行機を手にする、という事のみに使われていた気をようやく辺りにも向ける、という事を思い出させ、そして重力に引かれて落ちていく中で、彼女は縁側へと目を向けて、
「いぃ」
 そこでようやっと清芳は縁側に馨が居る事に気づいた。
 顔が、赤くなる。紅葉のように。
 そして彼女は………
 あっ、と想った時にはどうしようもなかった。
 別に平然としていれば良かったのだ。
 昼間に飛ばした紙飛行機、それを掃除のために片付けていた、それで事は済ませられたのだから。
 しかしそう言い訳を思いついたのは足の怪我の手当てを済まされ、部屋にひとりにされた、その時であった。
 だから、落ちている最中に猫の声で縁側に居る馨に気づいた時は、頭が真っ白になって、顔がものすごく熱くって。
 耳まで赤くなっているのが自分でもその顔に帯びた熱でわかった。
 わずか少しの跳躍。着地はいとも簡単にできたはずだった。当たり前のように。小枝を折るのりよりも簡単に。
 それでもうろたえた今の精神状態では、それは想う以上に難しく、着地に失敗して、足首が嫌な音をあげて、変な方向に捻じ曲がった。
「痛ぅ」
 喉の奥で出したような声が、自然に零れ出た。足首が、熱い。
「清芳さん」
 縁側の方で、これまで聞いた事の無い声がした。
 にゃぁー。猫が逃げ去る気配が痛みと熱さが溶け込み、広がっていく意識の端でわかった。
 足が痛い。
 でもこの熱さや、動揺は着地に失敗した恥ずかしさやショックよりも、いつも感情をどこかはぐらかすように飄々としている馨がストレートに感情を見せたから。
 裸足のまま縁側から庭に飛び降りて、そして足首を押さえる方の側に回って、清芳の手に自分の手を重ねてきた。
「清芳さん、手を」
「いや、大丈夫。大丈夫だ、馨さん」
「駄目です。ほんの些細な怪我が命取りとなる事だってあるのです。身体に関する自己判断ほど当てにならない物は無い。それにあなたは、嘘を吐くでしょう? 痛くとも痛くない、と。それは優しさではありませんよ。私を、余計に心配させるだけだ。だから私にあなたの傷を、診させてください」
 その真剣な申し出に清芳は腫れてきた足首から手をどかした。
「………痛い。足が。馨さん」
 真正面から自分の顔を見る馨から、恥ずかしげに目をそらして、清芳はそう口にした。
 足首には力を入れようとしても入らない。
 馨は真剣な面持ちで手を、清芳の腫れた足に当てた。
 熱く、じんじんと痛い足に、馨の触れた手の冷たさは、ひどく心地よい。
「冷たい、手だ。馨さん」
 そう呟いたのは馨と自分との間にある無言の空間を埋めたかったから。
 想えば、沈黙は、自分たちの間では珍しくはなかっただろうか?
 普段なら、だけど決してそれは気詰まりな感じは心に抱かなかっただろう。
 なら、どうして今は、その空間を自分の言葉で埋めたいと想ったのか。
「怒っているか、馨さん?」
 恐る恐る、そんな感じで、まるで悪戯をするのを母親に見られ、無言の母親にそう訊く幼い子どものように、清芳はそう訊ねた。
 腫れた足の痛みは引く事は無い。じんじんと痛い。その熱が全身を痛みと共に駆け回る。
 修行で痛みを無視する心の強さなどは手に入れたはずだったのに、馨の手が当てられているその足首の腫れの痛みは、素直に痛い、と、そう感じられた。
「すまない、馨さん」
 またそう呟く。
 くすり、と笑う、馨の身体の揺れが、伝わってきた。
 それは足首から全身に伝わって、そして心がその心地よい揺れの終着駅。
「怒っていませんよ、清芳さん。ただ、心配しているだけです。あなたを」
 思わず出掛かった言葉は、喉の奥で止めた。
 顔がまたかぁ、っと熱くなる。
「痛いですか?」
 幼い子どものようにこくり頷く。
「でも…」
「はい?」
「馨さんの手の冷たさが、心地よい」
 そう清芳が告げると、馨がほやりと微笑んだ。
「ずっと縁側に居ましたからね。それで冷えてしまったのでしょう」
 うぅ、っと清芳は戸惑う。そんなにも長い間、自分が紙飛行機を探していた姿を見られていたのだろうか?
 ―――そう狼狽し、それから紙飛行機に彼の意識が向かないか、心配する。だってその紙飛行機を折った千代紙の裏には………
「物好きだな、馨さんは」
 そう憎まれ口を叩いたのは自分の動揺を隠すため。話題のリードを自分が握って、話をそらす為。
 くすり、と伝わる振動。
 横目でちらりと馨を見る。
 自分を見る馨の悪戯っぽい青碧がかった黒の瞳に清芳はわずかに身をそらす。
「その笑いは、何なのかな?」
「いえ、清芳さんだな、と想いまして」
「私は、私だ」
「ええ、そうですね。私が好きな清芳さんです」
「なぁ」
 言葉に詰まる。
 それに満足げに微笑む馨に清芳は、困ったような表情をする。
「大丈夫」
「へぇ?」
 おもむろに紡がれた馨の言葉に清芳は小首を傾げる。
「怪我。捻挫です」
「え、ああ、うん」
 清芳は上ずった声でそう返事をする。それからその場から立ち上がろうとして、でも当然の如く捻挫した足には力が入らず、尻餅をつきそうになって、しかし彼女の身体がふわり、と宙に浮く。
 優しく微笑む馨の顔が近い。
 肩と膝の裏に感じるのは、意外とたくましい馨の二本の腕の存在感。
 そう、清芳は馨に姫抱っこされたのだ。
 浮遊感に包まれた身体に帯びた熱は、またさらに上昇したのは言うまでも無い。
「こ、こら、放せ」
「話す? 私の子どもの時代の思い出を?」
「そっちじゃない! 私を、放せ、と」
「落ちちゃいますよ?」
「うぅ」
 笑顔で冗談を言う馨を清芳は恨めしげな目で見た。
「怪我人を歩かせる訳が無いでしょう?」
「だからって、これは、恥ずかしすぎる」
「私は、嬉しいです。心地よいあなたの体温と体重を腕に感じられるから。それとも背中と手に………」
「わぁ――――」
 何故だか清芳にも手に取るように言葉の続きがわかった。だから清芳は馨の言葉の続きを叫び声で掻き消した。
 それは清芳の降参の証。
 渋面が浮かんだ熱い顔を、無言の抗議を込めて、馨に押し付けた。彼の身体に両腕をまわして、ぎゅっと力を込めて、抱きしめながら。
 それは未だ言葉にするには彼女自身は気づけぬ茫洋な感情ゆえ、と説明した方がきっと良い、温かな感情の方が本当は強かった。
「どうだ、馨さん。苦しいだろう?」
「ええ。苦しい。苦しいですよ、清芳さん」
「当然だ。苛めているんだからな」
 お互いが両腕に感じたのは、優しい体温と、心地よい振動と。
 紅葉が降るように空間に舞う庭を渡り、移動して、縁側に清芳を座らせて、馨は庭の片隅にある井戸の水で足の裏についた汚れを荒い落とし、タオルでよく拭いて、今度はきちんとぞうりを履いて縁側に戻り、ぞうりを脱いで縁側に上がって、居間から薬箱を持ってきた。
 薬箱から湿布薬を取り出し、それを清芳の腫れた部位に丁寧に貼る。
 清芳はわずかに身を動かした。
「痛かったですか?」
 またこくり、と清芳は頷く。
 馨はにこりと微笑み、湿布薬の上から手を当てて、
「痛いの痛いの消えろ」
 と、魔法の言の葉を口に紡ぐ。
 清芳はずっと自分の腫れた足首にあてられた馨の手を見ながら首を傾げた。
「痛いの痛いの飛んでいけ、では?」
 そう問うと、馨は穏やかに微笑んだ顔を横に振る。
「それでは手が、離れてしまうでしょう? これは、手当てだから。だからこうして手を当てて、手当て。温もりで痛みを溶かすように」
「そうか」
「ええ、そうです」
 二人でくすりと笑いあう。
「良い事を聞いた。では今度は、馨さんが怪我をしたら、私がそうさせてもらうから。手当て」
「はい」
 馨は頷く。
「手当ては、どうですか?」
「ああ、気持ち良いよ、馨さん。冗談抜きで、痛みがやわらいできた」
「それは良かった。では、後は、安静にしていましょうか?」
 そう言葉を紡いで、馨は手を放す。手当て終了。足首に感じていた馨の手の平の感触が消えた心許の無さが、わずかに、心に痛い。
 ―――そう表情は物語っていたのだろうか?
 とても残念そうな、寂しげな、でもそれが言えずに困るような、しょげかえった幼い子どもの顔。
 馨はくすっと笑って、肩を揺らす。
 それから両手を清芳の両足の膝の辺りの横、床について、身を前に出し、思いがけず近くに来た馨の顔に、赤くなった顔を強張らせた清芳の額に、馨は自分の額をこつん、と当てる。
「やっぱり熱も少し出てきている。だから大人しく布団で寝ていてください。布団の用意はこれからしますから。ね? 清芳さん」
 吐息が顔をくすぐる。
 すぐ近くにある睫は長く、忙しなくそれが瞬く。
 額に伝染してくる清芳の体温が水にそっと砂糖菓子が溶け込むように馨の中に溶け込んでくる。
 視界の端で清芳の薄く形のいい唇が、きゅっと引き結ばれた。
 そしてそれは当然のように、唇と唇とが、重なり合う。
 しばし数秒、そのまま。庭を渡る風の音が、ただ静かに、流れる。
 清芳の薄く形の良い上唇を馨の唇で優しくはさみ、一度重ねた唇をわずか数秒離して(それだけで身を引き裂かれるような不安を覚えた)、また唇と唇を重ね合わせる。
 重ねた唇の柔らか味、弾力が、清芳の存在を馨の唇に告げる。
 唇を離し、またこつん、と、額を合わせた。
「布団を敷いてきます。続きは、また夜にでも」
 睫がまた忙しなく。
 馨はそれを楽しむように穏やかに双眸を細めて微笑む。
「手当て。すぐに足の捻挫が良くなるように」
「はぁ。え、あ、ああ。うん。手当て」
 前に乗り出させていた身を後ろに引いて、立ち上がり、馨は先に布団を敷くために寝室へと、歩いていった。



 +++


 縁側にひとり、残された清芳は顔を真っ赤にさせて、仰向けに床板の上に転がった。衣服を通して素肌に伝わる床板の冷たさが、火照った身体に心地よい。
 顔をくすぐった馨の吐息の感触を、細胞の一つ一つがまだ覚えている。
 穏やかに紡がれる声と連動するかのように静かに動く馨の睫の長さも、瞬きした瞬間の馨の瞳も、そこに映る自分の顔も、瞼の裏がちゃんと覚えていた。
 額から伝染してきた馨の温もりは、華奢な清芳の身体が内包できる温度を凄まじくあげてくれたが、砂糖菓子が水に優しく溶け込むように、自分の中で、自分の体温とひとつとなって結びつくような馨の体温が嫌ではなかった。
 いや、寧ろそれは嬉しかったのかもしれない。
 その嬉しいと感じる心の名前はやはり、清芳にはわからないのだけど。
 空に広がる青を瞳に映しながら指で触れた唇は、どこか寂しがっているような気がした。
 重ねあった唇の感触と温もりと、離れたために。
 瞼を閉じれば、唇を重ねあう時にずっと見続けていた馨の顔が思い浮かぶ。
 もしも今が夏であるのなら、この身体に宿る熱も、動悸の激しささえも、暑気あたりという事で説明ができたのに。



 ああ、この熱は、激しい動悸は何なのであろう?



 唇に手を触れたまま、清芳の目の端からつぅーと一滴の涙が伝い落ち、どこかであの野良猫の鳴き声がして、清芳は苦笑した。
 でもあのタイミングで鳴いて、清芳を戸惑わせる切欠を作ったその猫を、責めるつもりは微塵も無かった。
 気づけば耳のすぐそこで奏でられているようなごぉー、という音にそれまでは掻き消されていた風が庭を渡る音色が緩やかに聴こえ始めていた。
 その音色に清芳は耳を傾ける。
 涼やかな秋の風の音色。かすかな虫の鳴き声。
 それは心を落ち着かせる効用のある薔薇の香りのように、清芳の心を落ち着かせてくれる。
 そしてその音色が感情の澱をろ過してくれたように、ただ戸惑いは消えて、清芳の心は、唇から彼女の中に伝染してきて、優しく溶け込んだ馨の体温がもたらした優しい幸福感に沈んでいった。
 その感情がもたらす安らぎの名前をやはり、清芳は知らない。



 +++


 寝室に布団を敷いて戻ってくると、清芳は気持ちよさそうに眠っていた。
 その無防備な寝顔を見て馨はくすり、と、とても純粋無垢なかわいらしい仔犬を見た時かのように微笑んだ。
 彼女を起こしてしまわないようにそっと、お姫様抱っこで抱き上げようとし、そこで緩んだ彼女の指から紙飛行機が離れてしまっている事に気づく。
 馨はその紙飛行機を服の胸元に忍ばせて、そうして清芳を抱き上げた。
 寝室に移動し、布団に寝かせ、包帯を巻いた捻挫した足は、座布団を丸めた上に丁寧に置いた。
 そっと上布団を被せ、それから清芳の額に手をあてる。形の良い馨の眉根が真ん中に寄った。
 それから彼は記憶にある何かを思い起こすように双眸を細め、数秒そうして、立ち上がり、寝室から出ようとした所で、足を止めて、引き戻し、彼女の手に、橙色の紙飛行機を握らせた。



 +++


 夢に見たのは、怪我する前までの事。
 添い寝はいつの間にか当たり前に。
 自分から唇を当てた額へのキスも、いつの間にかおやすみとおはようの挨拶になっていた。
 それでも毎晩馨の腕に抱かれて眠るのも、近くにある馨の顔を彼の温もりを感じながら一番に見る毎朝も、嫌ではなかったし、彼の額から離す唇を、自分の額から離れる彼の唇を、寂しい、と想うのだから、唇の感触に喜びを得ているのだとは想う。果たしてその喜びとはどのような部類に入る感情なのかはわからないけれども。
 添い寝から始まって、額へのキス(は、自分からだけど)。
 進んでいく二人のスキンシップ。
 感情が求めているその道の先。
 だけど、その感情に清芳の理性が追いついてはいない。
 きっとそれは本当なら当然の想い。
 その道の終着点にある事が人間だけがその行為に見る最大限の愛しあう二人の喜び、愛の確認作業なのだけど。
 でもそれは感情の、心が欲する想い。それに喜びを見るのは、心と理性が重なった時だけ。
 決して人の理性と心とは、同一ではない。
 だから次は? そう考えた清芳の目が自然に馨の唇に吸い寄せられたのは当然の心の、身体の求め。体温を感じあうことで安心できる二人が自然に喜びを感じながらし合う事なのだが、如何せん………
「わぁ。私の馬鹿。何を考えているんだぁ!」
 清芳の理性は心に追いついてはいない。
 だから彼女は顔を真っ赤にしながら馨の腕の中で可能な限り身体を丸めた。
 それでも気づいてしまった次、を、心はそれを無意識という形で欲しがる。
「わ、私は、どうしたんだ………」
 気づけば清芳の目は朝から馨の唇ばかりを追っていた。
 そしてお昼近く、馨は台所で昼食の準備をしているので、居間にひとりとなった彼女は気づけば近所の開店したばかりのレンタルビデオショップでもらった記念品である千代紙の裏にキスについてのポエムを描いていた。
 それを見て清芳は頬を紅く染める。
 顔を片手で覆った。
 そしてそこへやって来た馨。
「清芳さん、昼食の準備、できましたよ」
 慌てたのは清芳。
 橙色の千代紙を、飛行機にする。
 そして次の千代紙も手早く折って、飛行機に。
 馨はほやりと笑う。
 あまりにも不自然であっただろうか?
 清芳は部屋の出入り口に立って、自分を見る馨を上目遣いで見る。
「紙飛行機ですか? 懐かしいですね。でも清芳さん、その折り方よりもこちらの方が遠くまで飛ばせるんですよ」
 馨は部屋に入ってきて、掘り炬燵の上に置かれた千代紙を一枚手に取って、折り始めて、その馨に無意味に清芳は微笑んで、どこかわざとらしいような、ぎこちない声で馨に話しかけるのだ。
「どうやって作るんだ?」
 と、話題を一生懸命変えようとして。
 そうして出来た紙飛行機は、青い空に飛んだ。
「ああ、やっぱり青い空に橙はよく映えますね」
 そう隣で紡がれた馨の言葉。だけど清芳の方は気が気ではない。だってその橙色の紙飛行機のどれかが自分が書いたポエムの紙飛行機なのだから。
 そして気が気でないまま、後で掃除をすればいいから、紙飛行機は全て自分が後で片付けるから、そう馨を必死に説得して、昼食を食べて、馨が食器を洗っている内に、と庭に降りて、
 それで………
 なのに自分よりも先に馨にあの紙飛行機を見つけられてしまって、
 それで………
 なぜか波打ち際で馨が、
「キスがしたいんですか、清芳さん。そうならそうと仰ってくだされば、いつでもしてさしあげたのに。キスの時は、瞼を閉じてくださいね、清芳さん」
 清芳の後頭部と頬に手を添えて、顔を近づけて、唇が………



「ぁあー」
 ばっと上半身を跳ね起こすと、額から濡れたハンカチが落ちた。
 しばし呆然とする。
 件の紙飛行機はぎゅっと右手が握っていた。
 それに視線を落とし、ほっと一息漏らす。
 それからここが寝室で、自分は布団の上に寝かされていた事に気がついて、唇に手を当てる。
 随分と自分は長い間寝ていたらしい。
 部屋の中は薄暗く、時刻は夕刻に近いと知れる。
 額に張り付く前髪を右手の人差し指で掻きあげて、無意識にまたため息を吐く。
 吐いた憂いのため息は、唇が求める感触とぬくもりへの憧れか、触れられぬ唇への心の嘆きか。
 視界の端に映ったのはカレンダー掛けに掛けられた千羽鶴。
「馨さん」
 千羽鶴を見つめながら清芳は布団の上に身を倒し、熱い顔を枕に埋めた。



 +++


 寝室に清芳を寝かせ、馨は再び庭に戻った。
 やる事は二つ。先ほど飛ばした飛行機の片付けと、庭の隅で前に生えているのを見た芹を摘みに。
 芹は春の七草に数えられる物だが、旬は11月から3月まで。まだわずか数日11月には早いが、芹が身体にもたらす効能は変わらないし、胃にも優しい。彼女は捻挫のために熱を出しているのだから。
 芹は変わらずに生えていた。それを摘んで、庭の掃除。
 青、赤、黄色、白、橙、様々な色の紙飛行機。清芳が何かを隠すために自分が居間へと行った瞬間に千代紙で紙飛行機を折り始めたのは知っていた。
「本当に不器用な人だ」
 あんなにもあからさまな態度を取れば、その千代紙に何か秘密があるとわかろう物。
「しかもご丁寧に橙色の紙飛行機だけ無いですしね」
 本当に、不器用な人。
 だからといってそれを詮索する気も、こっそりとそれを調べるつもりも無いのだけど。
 くすくすと笑いながら馨は転がっている紙飛行機を回収していく。
 最後の一個、それは紅葉の木から舞い落ちた紅葉の中に埋もれていた。風の、悪戯。
 その最後の一個、橙色の紙飛行機を手に取って馨は肩を竦める。
「見逃しましたね、清芳さん」
 それらの紙飛行機、千代紙を捨てるには忍びず、夕食の準備をするまでの暇、眠っている清芳の隣で紙飛行機にした千代紙を広げて、鶴を折り続けた。自分の分の千代紙も合わせて。
 ひとつ、ひとつ、心を込めて折り続ける。
 千羽鶴、には数がだいぶ足りないが、それでもかわいらしい物が出来た。
 それをカレンダー掛けに掛けて、夕飯の下準備をしに台所へと行き、夕刻の薄墨色が濃い中を縁側を歩いて、寝室に戻ると、障子の向こうには仄かな明かりが灯っていた。
「清芳さん。起きられましたか?」
「ああ、馨さん。大丈夫。ありがとう」
「中に、入ってよいですか?」
「あ、ああ、ちょっと待ってくれ」
 しばし待って、
「どうぞ、馨さん」
 と、言われる。
 部屋の障子を開ける。
 枕もとの行灯に照らされる清芳の顔がどこか先ほど見た時と違っているような気がした。
 しばし清芳を見て、髪型が違うのと、唇に紅を塗っているのがわかる。
 わずかに目を見開いて、それからそれを悟られないとするように馨は静かに微笑んで、千羽鶴の方に行く。そうすれば、清芳が見られるのは背中だから。
 千羽鶴のずれ(と言っても、無いのだが)を直していると、その背に声がかけられて。
「馨さん、ありがとう、千羽鶴」
「ええ。千羽、は無いんですけどね」
 くるりと布団の上で座っている清芳に向けた笑みは、飄々とした物。
 馨は足の方に行き、湿布薬を剥がし、足首に触れる。
 びくん、とか細い彼女の足が震えた。
「すみません。痛かったですか?」
「あ、いや。大丈夫だ、馨さん」
 髪型が違うせいか、紅のせいか、それともほの暗い薄墨色の夕刻を照らす行灯の明かりがそうさせるのか、そう笑う清芳の顔に馨は息を呑んだ。
 手を、離す。手の平にじわり、と汗が浮かんだのを敏感に感じたから。
「約束、は?」
 しじまに流れた声には抑揚が無かった。その癖それは何ともいえない寂しげな音色を持っている。迎えに来ると約束していた母が迎えには来ずに、迎えに来てくれた父に、「お母さんは?」、と、そう訊ねるように。
「夕食を食べてからにしましょう。その方が血の巡りも良いですしね。ね、清芳さん」
「うん。あ、馨さん。風呂の湯もお願いできるだろうか? 汗を、だいぶかいてしまった」
 馨はわずかに目を見開く。それからしゃがみこんで、自分が言った事の意味がわかっていない清芳に右手の人差し指を立てて注意した。
「今日はお風呂は駄目ですよ。足を怪我しているんですから」
「うぅー。でも汗を。汚いし。気持ちが、悪い。それに、手当てをしてもらいたいし」
 それは清芳の女心。無碍には、できようはずがない。
 にこりと笑ったのはそんな彼女をかわいいと想ったから。
「では湯を沸かしてきます。でも身体を拭くぐらいでとどめておいてくださいね」
「ああ、ありがとう、馨さん」
「いえ」
 馨は微笑み、清芳の頬にかかる髪に指を伸ばし、それが触れる寸前で止めて、数秒躊躇って、それから髪に触れる。
 わずかに清芳は身体を固くする。
「髪型、分け目を変えられたのですね。いつもと違う髪形だから、新鮮です。よくお似合いになられている。紅の色も」
「あ、ああ、うん。髪も唇も、熱のせいで散々だったから。ごまかそうと想って。だから、良かったら、その…私が元気な時に、また、褒めてくれるか、馨さん? その方が嬉しぃ…」
「ええ。はい。では元気になられたら、またどこかへ行きましょう。その時に清芳さん、お洒落をなさってください。私もそれは嬉しい」
「うん。ああ、でも…」
「はい?」
 小首を傾げる馨。
 目をそらす清芳。
「私が褒めて、と言ったから褒めるのは無しの方向でな?」
 瞬く瞼。
 その後に馨は優しく微笑んで、頷き、髪から、手を清芳の頬に移す。指先に移る彼女の体温は熱い。まだ熱があるのだろうか?
 もう片方の手を優しく清芳の後頭部にまわし、布団の上に倒す。
「湯が沸くまで、もう少し横になっていてください。湯が沸いたらまた、呼びに来ますから」
「ああ」
 頬に触れたままの手に清芳の手が重なる。
 わずかに馨は目を細め、その手と手を絡み合わせて、紅の塗られた唇に自分の唇を重ねあわせた。
 絡み付く手と手は互いに力を込めて、温もりは伝染しあう。
 そうして唇を離し、馨が出て行くと、清芳は真っ赤な顔で布団の中に潜り、
 馨は廊下の角を曲がって、壁に背中を預けて、くしゃっと前髪を掻きあげた。
 そこから見える空は曇っており、風が先ほどよりも冷たく、それが気持ちよかった。



 +++


 汗ばんだ肌は馨が沸かしてくれた湯に浸したタオルで拭いた。
 本当は熱い湯を頭からかけて、長風呂でも楽しみたいのだが、それをすると馨が心配するから、我慢。
 捻挫した方の足には力が入るようにはなったが、しかしまだ腫れは引かない。
 清芳はその足首に手を触れる。馨がそうしてくれたように。
 でもその効用はやはり、馨でなければならないようだ。
 彼女は桶に汲んだ湯を流し、また桶に張った湯でタオルを洗い、絞ると、浴室を後にした。
 姿見に映る自分の身体を見て、清芳はそれがどこか昨日までの自分の身体とは違うような気がしてならなかった。それは感情が、行為が女の身体を変える、という俗説を知らぬが故に、清芳にはただ足首を怪我したその心許無さがそう自分に見せているのだと想った。
 もしも馨が居なかったら、その心許無さが自分を弱くするのだろうか?
 気が詰まるような不安はだけど、感じなかった。
 素肌に清潔な下着を身につけ、寝巻きを羽織る。
 髪を整えて、鈴を鳴らすと、扉がこんこんと叩かれて、
「ありがとう、馨さん。開けてもいいよ」
 開かれた扉。
 捻挫した足を使うのはいけないから、何かあったら大変だから、少し過保護に思えるぐらいに優しくしてくれる馨の好意に、だけど今は清芳は甘える事にする。
 肩を貸してもらい、それで寝室に………と、清芳は想うのだけど、
 でも、やはりふわりと浮く身体。
 今日でもう何度目かのお姫様抱っこ。
「馨さん」
「怪我人、ですからね、清芳さんは」
「うぅ」
 そして寝室に運ばれる。
 恥ずかしい。そう、お姫様抱っこは恥ずかしい。ただそれだけ。恥ずかしいだけで、でもそれは決して嫌ではない。
 とん、と清芳は馨の胸に額を当てた。伝わるのは馨の心地よい心臓の音。
 その音はずっと耳に残って、夕食を食べて、馨の手が約束通り捻挫した足首に当てられて、その溶け込んでくる体温と耳に残る心臓の音色が結びつきあって、その音色で清芳の心臓がワルツを踊る。
 それはやがて心地よい眠りに清芳を誘い、うつらうつらと舟をこぎ始めた清芳に馨は優しく微笑んだ。
「眠いですか? なら、寝た方が良い」
 そう笑う馨に清芳は布団の隅に寄る。
「ん?」
 小首を傾げる馨に清芳は恥ずかしそうに顔をそらす。
「枕が変わると寝られないように、きっと深くは寝られないから。だから馨さんは、こっち」
 甘えたがっている仔猫が、だけどつーんとお澄まししているように、不器用に言う清芳に馨はくすりと笑い、さらっと涼風が流れるようにしなやかに清芳の隣に座り、そっと肩に腕を回し、もう片方の手は布団の上の清芳の手を握る。
「私は抱き枕ですか、清芳さん?」
「そう。馨さんは抱き枕。だからもう、これが無いと寝られないから、だからこれからも一緒に寝ておくれ」
 馨の額の髪の毛をさらりと指で梳き、そこに口付けをする。
 はらりと落ちた前髪の下で馨の顔は優しく微笑み、彼もおやすみのキス―――
 近づいてくる馨の顔。
 清芳は、胸を締め付ける衝動を感じながら、いや、決してそれを拒むのではなく、それは心では無く、理性の問題で。
 理性は心が目覚め始めている感情を未だに知らないから、だからその衝動もわからなくって、だから、その言葉。
「額ではなく?」
 そうする事の理由を理性が求めている。
「嫌、ですか? 私は、唇の方が嬉しいのですが」



 それは私も一緒。
 一緒だから、あなたも、こっち、って………



 瞼を閉じる。

 わずかに唇を上に向けて。

 重なる唇。

 感じる柔らかみ、弾力、

 移る体温。

 大きくなる喜び。

 もっと欲しくなる、感情。

 それが幸せ。

 幸せ。

 二人、唇を重ねたまま布団に横になって、
 灯りを消した。
 闇の中で響く、わずかな衣擦れの音。布団の音。
 布団の中で寄り添わせた身体と身体。
 移りあう体温。
「おやすみ、清芳さん」
 もう一度キス。
「ああ、おやすみ、馨さん。今日はありがとう」
 紡がれる言の葉。
 二人ひとつの布団の中で寄り添いながら眠るその幸福は二つの命がひとつの温もりとなって、感じる幸せ。
 夜の寝室の静謐な夜気は温かな感情に、満ちていた。



 【あなたには唇を 私はあなたの言の葉をもらうから 了】



 ++ライターより++


 こんにちは、馨さま。
 こんにちは、清芳さま。
 はじめまして。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。


 今回はご依頼ありがとうございました。^^


 やや。プレイングのお言葉に甘えまして、本気を出したのですが、いかがでしたか?
 読みながらわぁー、わぁー、と顔を赤くしていただけましたら嬉しいのですが。^^


 本当にもうすごく楽しんで書けました。^^
 お二人の仲、本当に楽しく、歯がゆく、そういうのが感じていただけますように、と。
 清芳さんの方があともうワンステップぐらいでしょうか?^^



 馨さん。
 温かで余裕のある、優しい大人の男性、そんな感じをイメージいたしました。^^
 清芳さんをとても愛おしく想い、見守るようなその関係がとても書いていて楽しかったです。それでいてさらりとキスできたりするシーンはやはり大人の男という事で、リードするその姿がまた楽しかったです。^^



 清芳さん。
 その心理描写、紅葉の風景に重なる想い、そういう綺麗さを演出したシーンがすごく楽しく、そして私てきにはそこがポイントだったりします。^^
 ポエムを書いたり、紙飛行機を探したり、感情の動きに戸惑ったりする清芳さんは書きながら本当にかわいいなーと思いました。^^
 


 それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
 ご依頼、本当にありがとうございました。
 失礼します。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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聖獣界ソーン
2005年11月08日

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