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『out of self protection 』
大矢野・さやか0846

 鈴を握り込んだ手が、汗ばんでいる事ばかりが気になった。
 眼前に居るのは蜘蛛の異形……高みに巣を構えるそれでなく、地中に穴を掘り住処とする、土蜘蛛と呼ばれる種だ。
 その巣穴、蜘蛛が自ら分泌した糸で強固に整えられた地中に引きずり込まれたのは、目的からすれば幸運であったのだろう。
 ぐったりとして意識のない被害者を背で庇い、相手から視線を逸らすことなく見詰める。
 距離は近ければ近いほど良い。大事なのは遠すぎず、近すぎぬ距離を見誤らぬ事。
 巣穴の中は狭く、相手に跳躍が適わないのもまた自分にとっては好都合だ。
 蜘蛛の糸は結界、それならば為せる事はある……瞬きすらも己に禁じて、感情を感じさせない相手の眼を見詰める。
 地中の閉塞感と緊張から、額に生じた汗が頬を伝い、顎先からぽたりと落ちて地面に滲みを作った。


 目の前に、暖かな湯気を上げる紅茶が差し出された。
 所長手ずからの供応に恐縮しながら、大矢野さやかは底を掌で包むようにして、陶器が含む熱に用心しながら受け取る。
「お疲れさん」
そう労いの言葉をかけて草間興信所所長、草間武彦はさやかの向かいのソファにどっかりと腰を下ろした。
 その際、ふう、と大きな溜息が漏れるのに、肩を竦めて小さくなる……さやかの頬には白い絆創膏が貼られている。
 依頼で負ったそれは片頬で大きな存在感を持つが、傷に幅がある為大仰に見える処置に成らざるを得なかっただけで、実際は皮膚一枚を切った程度、痕も残らない傷だ。
 依頼は、行方不明になった少女を捜すこと。
 消えた少女はただ一人、国家権力に捜索を求めても事件性のない物は家出と扱われ、まともな捜査が望めるのは幾人もの犠牲者が、それも最悪最初の少女が死を明らかにして漸く動き始めるのが関の山である。
 昔から神隠しが騒がれていた土地故に、心霊探偵の風聞も高い草間が解決を請われたとしても不思議はない所か、自然な流れとも言えた。
 折良くその依頼の場に居合わせた……とはいえ、弱小ながら依頼にひっきりない事務所に足を向ければ何らかの事件に関わり合う羽目になる。
 それを期待しての訪問ではない、と言えば嘘になってしまうが、奇妙な居心地の良さに足を向けては力を貸すという図式に慣れていたさやかだが、その時ばかりは何故か現場に直ぐ向かえる者がさやかしかなく、それに対する草間の反応の渋さを下調べをするだけだと押し切る形で現場に向かい……そのまま神隠しの原因である、蜘蛛の変化と争うこととなった。
 草間はさやかが語る顛末が進むにつれて難しい顔になり、更に煙草の消費量が増えていく。
 その事件の報告を終えた時には、空だった灰皿には吸い殻が山盛りになり、目の前据えられたカップに湛えられていたコーヒーは手つかずのまま、すっかり冷めきってしまっていた。
 とうに中身はないというのにカップを口元に運ぶふりで、沈黙の重さに圧されぬよう努めていたさやかだが、不自然さに限界はある。
「……大矢野」
「はいっ」
沈黙を破って漸く発された声に、必要以上に背筋を正して返答してしまうさやかに、草間は両手を上下に揺らして落ち着け、と仕草で示した。
「まぁ……お前が思っている通り、ちょっと叱るつもりなんだがな? その前に確認だ」
予想に違わぬ宣告に、はい……と小さく呟いて、さやかは肩を落とすばかりだ。
 本業である勉学は元より、素行、人付き合いに至るまでそつなく可、ばかりで不可のない、優等生の身だけに叱られ方がよく解らない。
 そのさやかの心中を察した訳ではないだろうが……否、観察眼に長けた草間ならば解った上での発言かも知れないが、彼は殊更ゆっくりと、噛んで含めるようにさやかに問いを向ける。
「どうして待てなかった?」
問題の焦点は其処なのだと。明瞭に示した草間の優しい怒りに、さやかは黙秘を貫く気を削がれた。
「……攫われた方を、早く助けなければと」
さやかとて、最初は単身で事件に当たるつもりはなかった……己の得手とする感知能力が役に立てばという思いのみ、後続する調査員の仕事がし易いよう情報収集に止まるつもりだったのだが、結界の存在と、その奥に閉じ込められた被害者の衰弱を知覚するに気が逸った。
 相手が結界を使うのならば、自分にも勝機があると判断し。そして。
「万が一の事があっても、草間さんなら直ぐ、助けてくれると思ったんです……」
信頼を向けたさやかに、草間は苦い顔で冷めきったコーヒーを口に運び、その眉根を益々顰めた。
「あんまり買い被るな。九千九百九十九の確立を担えるほど、俺は器用じゃない」
千手観音だって手が千本しかないのに、と意味の掴めない冗談……と思しき言を発した草間はカップを置くと、立てた親指で自分の頬に一本、線を引いて見せる。
「その証拠が、お前の怪我だろう」
言われてさやかは自分の頬に手をやった。
 負った本人ですら、気に病む必要すらない浅い傷……土蜘蛛の結界を破り、己に注意を引きつける形で巣の中に入り込んださやかは、先の被害者と同じように捉えようとする土蜘蛛の糸、結界を構成するそれが吐き出された際に主導を奪ったのだ。
 その際、術に集中して避け損なった一筋が僅かに頬に触れた傷である。
 まさしく応報なのだと、言い募ろうとするさやかをまた草間は手で制した。
「たとえ大矢野が本当にそう思っているとしても、女の子の顔に怪我をさせてしまった俺のミスが消える訳じゃない」
責任の所在はさやかを向かわせた自分にある、と認めて草間はまた大きく息を吐く。
「確かに、お前なら大丈夫だろうと思ったがな? 冷静で、落ち着きがあって。自分の力に溺れるような真似をせずに人との和まで考えてる……まだ十七なのにな」
草間の主観で捉えたであろうそれは、確かに大人から見て安心であるだろうと……心掛けてきた面である。
 けれど一旦言葉を切った草間の表情は、続く言葉を気乗りしない風に口をへの字に曲げてから、重い口を開いた。
「相手は結界を使う。お前の得意分野だ……はっきり言えば勝機の方が濃い。結局は助けを待つ必要はなかったし、女の子も無事だった。お前の判断が間違ってたとも言い難いが、どんなに冷静な対処も、自分が計算に入ってなければ無謀でしかない」
真っ直ぐに向けられた草間の視線を受け止めて、さやかは一度、大きな青眼を瞬かせた。
「何でも一人で出来る。だから全部一人でやろうとするのは、他人の手を信用していない弱さだと、俺は思うんだがな」
草津の指摘を、さやかは即時に否定しようとした。
 そんな事はない、人を信じていないなどと……けれど思いは胸につかえ、言葉は喉の奥で引っ掛かってまるで、それを認めているような沈黙しか返せない。
 乱れる感情に溢れそうな涙を抑え込む為、さやかは俯くしか出来ずに膝の上で拳を強く握り締めた。
「嫌なことばかり言ってすまんな大矢野。だけどな俺はどうにもお前が自分で自分を守れんのかが不思議なんだ……それこそ、我が身を守れて然るべき力だろう? それは」
草間はさやかが首にかけた金色の鈴を示す。
「本当は、自分に……力に自信がないからじゃないか?」
誰かの為に、存在する自分。
 力も然り、己も然り、頑なにそうであるようにと……努めてきた仮面が見透かされ、己ですら目を背けていた事実を突きつけられ、けれど認める事は出来ずにさやかは項垂れたまま沈黙を守る。
 しかし、決して優しくはない草間を、その言葉を恨む気持ちは沸き上がってこなかった。
 おためごかしな説教ならば、さやかの為に、さやかを思うからこそ……というような自己弁護が混じるものだが、切りつけるような言葉はそれこそ草間を不満に思うことから思考を促させようとするような気遣いと、さやかが自分を責めすぎないようにという配慮が滲む。
 本当の意味で優しい大人であるのだと、さやかは草間の分り難い思い遣りに項垂れたまま深く、頭を下げた。
「……心配かけて、ごめんなさい」
心配、してくれていたのだ。心から。
 真っ直ぐな謝罪に、草間は手を伸ばしてさやかの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「先ずは誰よりもお前がお前を守れたら、良いのにな」
言って苦い顔でもう一度……まるで自分への罰のように冷めきって不味いコーヒーを口に運んだ草間に、さやかは顔を上げた。
「今度からは、怪我しないように頑張ります!」
決意を込めて軽いファイティングポーズを取るさやかに、草間が片方の肩を落とす、ついでにサングラスまでずり落ちて今までの空気を台無しにする。
「……違う! そうじゃなくてな大矢野!」
言わんとした事が伝わっていないと、慌てる草間にさやかは笑い声を立てた。
 保身の為に、出来ることをやらない程大人にはまだなれない。
 今は自分で出来る精一杯を……案じてくれる大人の存在がある子供だからこそ、やってのけて見せることがさやかの誠意であると。
 胸に秘めた静かな誓いを、大人の理屈の通らない子供の振りに隠して、さやかは草間のカップを取り上げた。
「コーヒー、淹れ直します」
軽やかに席を立つさやかに、草間がこっそり安堵の息を吐くであろう事を予測しながら。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年11月04日

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