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『Ricordo del giorno di primo gelo 』
伏見・夜刀5653



 夢を見た。

 あたたかなベッドから上体を起こし、傍らにある窓から外を見る。
 少しばかり霜の張った窓ガラスの向こう、薄っすらと広がる白が地表を覆い隠していた。
 まだぼんやりとモヤのかかった頭を動かして、夜刀は軽く前髪をかきあげた。
 ――――今年の初霜は、往年に比べ、少しばかり気の早い性質であったらしい。
 時計を見れば、針はセットしておいた時刻よりも一時間ほど早い場所でゆっくりと動き、時を知らせている。
 ……もう一度、ベッドに潜りこんでみようか。そう思い、羽毛布団に手をかける。が、ふと思い立って、結局はそこから抜け出すことにした。
 パジャマ越しに触れる空気の冷たさが、直に訪れるであろう冬のそれを思わせた。
 
 洗面所へと向かう途中、リビングの前を通りかかり、夜刀はふいにその中を確かめた。
 
 夜刀の家の朝は比較的早い。それは夜刀の両親――養父母である――が、少しばかり妙齢であるという事も影響しているのだろうが。
 
 リビングを覗きこみ、その中が未だ朝の気配を漂わせていない事に気がついて、夜刀はふと足をそちらに向けて動かした。
 母が朝餉の準備を整えているはずの台所も、新聞を読みつつコーヒーを嗜んでいるはずの父も、どちらの姿も見当たらない。夜刀はふと首を傾げた後に、「……ああ、そういえば」と独りごちてうなずいた。
 そう。昨日の午後から今日の夜まで、両親は共に外出をしているのだ。魔術師としての叡智を必要とされた、仕事を兼ねた小旅行のようなものだと云えば適当だろうか。向かう先がちょうど温泉街の近場であった事から、夜刀自身がそれを薦めていたのだった。
 思い出した後、夜刀は台所に立って湯を沸かし、その間に手早く洗顔を済ませた。
 閉められていたままの雨戸を開け、初霜の降りた外界の空気を一杯に吸い込む。早朝の風は霜のせいもあってか、背筋がぴんと正されるような感覚を思える。初冬を感じさせる肌寒さながら、夜刀はその空気の清廉さは好ましく感じていた。
 雨戸を開ける作業ついでに、霜の降りた庭先をしばし散策する。土の中に根付いたそれらは、軽く踏むと確かな音を立てて砕けていく。その感触の面白さに、夜刀は、ふと、先ほどまで見ていた夢を思い出した。

 ――――何歳ぐらいの年だったか。
 やはり、初霜の――あるいは初雪だったのかもしれないけれど、とにかく、地が薄っすらと白一色で覆われた日の事だった。
 てぶくろもつけずに外の散策をし、結果的に冷え切った体で家の中に戻った夜刀に、父はあたたかなミルクティーを淹れてよこし、暖炉の前へと手を引いてくれた。
 台所からは、母が作っている料理の匂いが漂ってきていた。決して派手ではないが、心がほっとするような匂い。

 その夢の光景を思い出し、夜刀はふと目を細ませて空を仰いだ。
 
 ――――そう。夢の中で見たあの庭は、今こうして立っているこの庭とは異なる場所なのだ。
 あの家も、暖炉も、あたたかな紅茶を飲んだあのマグカップも、父母のあの笑顔も、何もかもが、過ぎ去った過去の記憶。思い出せば胸が抉られそうな感覚をも伴うが、しかしそこには確かな懐かしさと愛情とがあった。

 今にも雪が舞い落ちてきそうな灰色の空を見上げながら、夜刀は白く染まった息を吐き、夢の中で見たあの料理を思った。
「……父さんと母さんに、作ってみようかな……」 
 冷えた体で帰ってくるであろう両親を思い、夜刀はそう小さく呟いた。呟いた後もしばし空の色を眺め、風が頬を撫でていったのをきっかけに、ようやく踵を返して家の中へと戻る。
 
 じゃがいも、にんじん、たまねぎを冷蔵庫から取り出して、食品をしまってある棚から固形のコンソメを三つ掴み取る。
 冷蔵庫の中には、ウィンナーや肉といったものの姿が見当たらなかった。夜刀はしばし思案した後に、足りない食材の買いだしに行く事にした。
 足りないものはメモ書きにしたためる。牛すね肉、大根、セロリ、長ねぎ。ベイリーフやタイムといったハーブ類は、確か庭にあったはずだ。
 書きまとめたメモを持ってスーパーへ。
 街並は一足早いクリスマスの色をちらほらと見せ始め、すれ違う親子連れはマフラーやらてぶくろやらで身を固めて、あたたかそうに頬をゆるめて歩いていく。
 夜刀はそういった街の風景を見遣り、ふと小さな笑みを浮かべた。
 ……あの頃の僕も、ああいう風に歩いていたのだろうか。
 そう思いながら親子連れを見送る。
 すれ違った子供が、「うわあ」と歓声をあげた。
 灰色の空から、小さな冬の使者が舞い降りてきたのだった。

 
「……さて」
 買い物を済ませて帰宅した夜刀は、そう呟き、目の前に広げた材料を見渡した。
 ハーブ類は確かに庭に確認出来た。思っていたよりも多種が揃えられたハーブの庭は、舞い降りた雪の中にあっても逞しく揺れていた。
「……これで、足りるのかな」
 続けてそう呟くと、アゴに片手を添えてしばし思案する。
 料理は、嫌いではない。食事を作るのは夜刀の役目のひとつでもあるし、三食きちんと作っている身であれば、腕前もそこそこのものだと自負していたりもする。
 なにより、多様な材料を用いてひとつのメニューを作り出していくという行程は、どこか魔術のそれに通じているような感覚もあり、面白いものだとも感じられるのだ。 
 ――いや。それ以上に、作り上げたそのメニューが、両親の心を幸せな気持ちで充たしていく事が出来るならば、それは魔術に対する心よりも重要なポイントなのだとも思える。
 ……思えるのだが。
「……どうやって作るんだっけ」
 そうごちると、夜刀はリビングの本棚から料理のレシピ本を一冊掴みとってソファに腰かけた。
 
 考えてみれば、ポトフというものをきちんと作った事はなかったような気がする。
 シンプルなメニューほど、案外手がかかり難しいというのは、よく云われる事でもあるのだが――――。
 夜刀はレシピを頭にいれ終えると、再び台所へと立って材料を見遣り、小さな唸り声をあげた。
 確かに、レシピ通りに作っていく事は可能だ。だが、作りたいのは恐らくレシピ通りのものではなくて、多少オリジナル性の織りこまれたものであるはずなのだ。

 唸りながら、ひとまず牛すね肉の下準備を始める。流水ですすぎ、鍋にいれて煮こんでいく。コショウ、クローブ、ニンニクをいれて再び煮込む。
 その間、手が空いた隙にパンの用意を始める。粉を練り合わせ、醗酵させて、生地が膨らんでいくのを飽きもせずに見つめた。

 材料が煮えていく匂いと鍋が立てる小さな音。今、ひとりきりの家の中、聞こえてくるのはそういった幽かな音だけだ。
 いつしか雪は止んでいた。積もる事もなく止んでしまった冬の使いは、しかし底冷えするような寒さをそこかしこに押し広げて漂っている。
 夜刀は外界のその景色を見遣りつつ、知らず、両手に息を吐きかけていた。

 ――――あの頃、こういう寒い日には、父か母が決まってこうして手を温めてくれていた。
 正直、実の両親に関する記憶は大分薄れていたりもする。――いや、多分それは、”思い出してはいけない”部分に含まれているのかもしれない、とも思う。思いだそうとすると胸が抉られるような痛みを覚える。頭のどこかを鈍く叩かれているような感覚を覚える。
 だが、それでも。
 それでも覚えているのは、両親のあの深い優しさと、温もり。
 冬の日に食べたポトフの味と、暖炉の炎。
 ああ、きっと間違いなく幸せな時代であったのだと、そう思える記憶。

 ことことと煮える鍋の音と、窓を揺らす風の音。
 夜刀は、そうやってしばし外界を眺め見ていた後に、野菜の下準備に取りかかり、小さくかぶりを振った。
 記憶の中のあの味を再現することは、高等魔術を駆使することと同じぐらいに難しいことなのかもしれない。
 だが、魔術は基礎をきちんと学び、把握していく事で、いつかはその結果を目の当たりにする事が出来る。ならば、記憶の中のあの味も、こうして目指していく内に再現できるようになるかもしれない。
 
 あの、あたたかくて懐かしい――思い出せば心のどこかが一息安堵するような、夢のような魔法。
 鍋の中にニンジンと大根をいれて煮こみ、夜刀はふと目を細ませた。

 がたり。玄関が開く音がして、早めの帰宅を済ませた養父母が台所に向かい歩いてくる気配がした。
 ああ、そうか。もうそんな時間なのか。
 思い、夜刀はタオルで手を拭きながらリビングを覗きみた。
「……おかえり、父さん、母さん」
 満面の笑顔でそう声をかければ、養父母は寒さで頬を赤くしながらも、やはり満面の笑顔でうなずいた。

 あの頃感じていたあの幸せと、今ここにあるこの幸せと。
 ――――そう。いつか、あのかけがえのない温もりを、自分以外の誰かに向けて返していけるようになれたなら。

 
―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月31日

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